Neetel Inside ニートノベル
表紙

突然ですが、世界を救って下さい。
明日って今さ-ページ統括版

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 腹が膨れたくらいで世界の平穏を維持出来るのならば、自衛隊はいらんのである。
 当然のことだが、それに気付いた……というより、その事実から目を逸らすことが出来なくなったのが、自室のベッドに倒れ伏し、一人で考えざるを得ない状況になった時だった。


 結局、あらかた腹を満たした後、僕とポポロカはそれぞれの帰路についた。僕は僕で考えなければならないこともあったし、ポポロカはポポロカでハユマへの処置をしなければならないらしい。
……仮死状態、か。
 実際、そうだったのだろう。梔子高が証人になっている以上、それは疑いようも無い。
 よもや、次の日には自宅の庭を元気良く、とはいくまい。医学的根拠など知ったことではないが、つい先日まで臨終一歩手前だった人間が、次の日には元気一杯とはならないと思う。
 実質、僕一人でどうにかしろ、ってことだ。
 枕に顔面を埋める。とりあえず思案を整理する時は、こうして視覚の機能を停止すれば、効率良く整理が出来るのだ。この意見、学校でも採用出来ないだろうか?
 幾つか、疑問があった。
──最終目的は何なのか?
 多分これは、以前の状態に復元することが理想だ。何も変わることなく、また誰一人欠けることなく事態を解決させるのが、理想の完成形だと思う。ただそのためには、〈ンル=シド〉を何とかしないといけないのだろう。
──時間制限は存在するのか?
 これに関しては、解らない。そもそも、事態は本当に始まっているのか、それとも既に終わっているのか、それすらも不明瞭だ。
──〈ンル=シド〉は今、どこにいるのか?
 一番知りたいのは、これだ。もしも居所が解るのならば、今すぐにでもヤロウの所に飛んで行って、胸倉の一つでも掴んで説教を喰らわせたい。ただ、それが出来るのならば、僕が出張るまでもなく、ハユマやポポロカが何かしらの行動を起こしているのだろう。居所が解らないか、或いは居所は解るが行くことの出来ない場所に居るか。
──何故、今日の話が梔子高には内緒なのか?
 ざっと思い起こしてみても、梔子高が困るような要素は無かった筈だ。それどころか、梔子高の「く」の字も無かったように思う。代わりと言ってはなんだが、僕が大いに困惑したし、今でも困惑しているのだが。
 聞かせなくてもいい情報ではあった。だが聞かせてはならない情報ではなかった。
 まだ僕が気付いていない要素があるか、或いはポポロカがまだ情報をすべて開示していないか、だろう。
 そして、心の隅に引っ掛かっている要素もある。
──ノマウスという人物。
 ポポロカのお祖父さんが「託す」と言っていたものの中にも、確かにこの人物は存在した。
 それはつまり、このノマウスなる人物も、今回の案件に関与しているということだ。
 ハユマ。ポポロカ。〈ンル=シド〉。お祖父さん。トテチトテ。ノマウス。そして認めたくはないが、僕。
 現段階でこの件に関与しているのは、このくらいだろう。梔子高は、ポポロカの仮の保護者ではあるものの、多分直接の関与はしていない。
 ノマウス。〈ンル=シド〉。
 この二人。特に後者の方が、一体何者で、どんな存在なのかを確かめる必要がある。ノマウスの方は……出来ればこのまま影の人でいて欲しい。これ以上登場人物を増やしてややこしくなるのは、遠慮願いたい次第だ。
「足りない……情報が足りないよ」
 完成図、サイズ、ピース数、その他諸々がシークレットになっているジグソーパズルを解いている気分だ。ピースは足りているのか? いつまでに完成させればいいんだ? どんな絵柄なんだよ?
 そもそも、こういう作業は梔子高の専売特許じゃないのか? こういう時こそアイツの出番じゃないか。肝心な時にいなかったら、アイツはただのよく食べよく学びよく遊びよく寝る良い娘に過ぎない。
「相談は……出来ないんだろうなぁ」
 しようと思えば出来るが、それではポポロカとの約束をいきなり反故にする事になる。
 枕を顔面に押し付けたまま、ベッドの上でもんどり打つ。布団のシーツが足に絡まって、そのままバランスを崩して、ベッドの下に落ちた。天井に、電源の入っていない照明がだらしなくぶら下がっている。紐を引っ張って点けるタイプだ。紐の先端に結び付けている、葉っぱを模ったエアフレッシュナーが胡乱に揺れている。
 言わんこっちゃない。
 荷が重いのだ、僕には。
 こんなに頭を使ったのは久々だ。予期せぬ重労働に、脳細胞もさぞかし悲鳴を上げていることだろう。後で甘い物の差し入れでもしてやらねばなるまい。
 そして、これだけ考えたにも拘わらず、結局何一つ明瞭になったものは無い。
 情報が足りないのも、理由の一つだろう。
 だがそれより何より、根本として、僕に向いた役割ではないのだ。
 自分で策を練り、自分で動くのは僕のスタンスではない。指示待ちくらいで丁度良いのだ。蔑みの目で見られようが構わない、人には向き不向きがあるものである。
 というか、考えれば考えるほど、こういうのは梔子高にお誂えなのではないだろうか?
 例え僕がハユマの異空間同位体であり、僕にしか出来ないことであっても、どう動けば良いのかくらいは相談してもいいものだと思う。
……。
「待てよ?」
 エアフレッシュナーが身振りを停止し、それと同時に一つの考えが浮かんだ。
 考え方が、逆なのか?
 僕でなくてはならない理由とは別に、
 梔子高ではいけない理由。
 そういうものが、あるのではないか?
 考えてみれば、それは不自然である。ポポロカとて、梔子高としばらく一つ屋根の下で生活して、梔子高がそれなりに思慮深い人間であることを理解した筈だ。
 僕でなくてはならない理由は解った。理屈は解らないが、とにかく異空間同位体であることが理由である。
 しかし、協力を仰ぐくらいはいいのではないだろうか?
 確かに、明確に拒否はしなかった。だがしかし、前向きな検討とも言えないだろう。
 それは、何故だ?
 多分、その理由は「梔子高には内緒である理由」に起因する。……起因というか、そっくりそのままじゃないか?
「決まり、かな」
 いい加減、頭痛という症状を持ってして脳細胞が反旗を翻し始めたので、頭を使うことは止めにする。
 上出来である。確か戸棚に上等なカステラがあった筈だ。自分へのご褒美に一切れくらいは構わないだろう。
 聞くことは決まった。「梔子高が選ばれなかった理由」だ。
 思えばそれは、いの一番に考えねばならないことだった。勘や洞察力に優れている梔子高ではなく、その対極に位置する僕が選ばれたその時点で、それをいぶかしまねばならなかったのだ。ポポロカに尋ねなければいけなかったのだ。しかし、それはもう過去のことである、どうこうは言うまい。
 
 
 動物園の熊のように、胡乱な動きでベッドによじ登った。そのまま再び、枕に顔面を埋める。
 これだけ、足りない頭で慣れないことをしたのだ。
 ぼちぼち、現実逃避の一つ入れても、罰は当たるまいよ。



************************



《いつかこんな日が来るんじゃないかとは思っていたけれどもね。だからと言って、はいそうですかと見過ごすつもりは無いよ》
 横綱を肩車する方がまだ楽だとも言えるほどに重い責任を、図らずも背負ってしまった翌日。
 耳で飲む睡眠薬とも言える授業が終わり、僕と梔子高は昼食を取るべく、いつものように屋上で肩を並べていた。
 と言っても、食物らしい食物を膝に乗せているのは梔子高だけであり、僕と言えば、購買施設で繰り広げられている食料争奪戦に参戦することなく、直接屋上に向かい、そのまま腰を下ろしたのだ。
 何も食べないつもりだった。食欲も無ければ、食事を取るよりも大事な考え事がある。
 ただ一つ、計算外だったことと言えば、
《少食は認めよう。個々が一度に食せる量は人それぞれだし、君はあれで事足りていたのだろうしね。しかし、食べないというのは認めるわけにはいかないな》
 こうして昼食の何たるかを延々語りながら、僕にしつこく昼食の摂取を要求する小娘だろう。てっきり、いつものように微笑みながら《そうかい》と肯定するかとばかり思っていたのだが。
「食欲が無いんだよ」
《聞く耳持つつもりは無いよ。君の普段の食物の摂取量を見ているからね。食欲云々の主張は即、却下だ》
……どうしてこう、僕の身の回りは、僕の主張を真っ向から否定する人間で固められているのだろうか。
《口を開けたまえ》
「……何、これ?」
《君がそれを言うのは二度目だ。見れば解るだろう? 玉子焼きさ。これならあっさりしているし、そう胃に負荷を与えることなく食べられるだろう?》
 どう見てもオムレツの真ん中辺りである。見ているだけで胃に負荷がかかった。
《だんまりかい? 私は一向に構わないよ。君が黙秘を決め込もうが何をしようが、君にこれを食させるという私の信念は揺るがない。君がどんなに痛烈な言葉を吐こうとも、ね》
 目を瞑り、音の無い溜息を鼻でついた。梔子高がそう言うのであれば、僕が自分の信念を貫き通すことが出来る可能性は、消費税率よりも低いのだろう。
「梔子高」
 だからと言って、抵抗もせずに陥落するつもりは無い。
「ごめん、考え事があるんだ。それに一段落付くまでは、何も食べる気になれないんだよ」
 よほど、僕は真摯な目をしていたか、或いは疲れ果てた目をしていたのだろう。
 てっきり《聞く耳持つつもりは無いと言った筈さ》とでものたまうかと思っていた梔子高の反応は、だがしかし意外なものだった。
《それは、私にも相談が出来ないことなのかい?》
 その目を見て、息を飲んでしまう。
 いつもの、微笑み。
 嘘八百としか思えないような血塗れ甲冑女との馴れ初めに、疑うことなく耳を傾けてくれた時の微笑み。
 どんなに小難しいことでも、少しの時間で理解し、説明してくれる時の微笑み。
「……出来ない」
《どうしても?》
「……どうしても」
 目を、逸らした。目を見れば、縋ってしまいそうだったから。
 相談したいに、決まっている。
 頼りたいに、決まっているじゃないか。相談出来るものなら、梔子高が促すまでもなく、何を置いてもまず梔子高に相談する。それが出来ないから、こうして足りない頭で必死に考えているのだ。
《ポポロカに、何かを聞いたんだね?》
……鋭い、本当に。何故梔子高ではなく僕が選抜されたのだろう? 明らかなキャストミスだ。
《その結果、重い、重い責任の何かを押し付けられた。そして君に、それに対する拒否権は無かった。そうじゃないのかい?》
 僕が語り聞かせるまでもなく、放っておいても真実に辿り着くのではないか、この娘は?
「ごめん、梔子高。どうしても、話せないんだ」
 梔子高は何も言わない。ただ、僕の言葉に耳を傾けている。
「時期に、解決する。近いか遠いかは解らないけど……多分、近い未来に解決することなんだ。僕が何かをしようが何もしまいが、ね。だけど、僕に出来ることはやっておきたいんだ。だから、僕は僕に出来ることを考えないといけない。適当じゃなくて、本気で」
 きっと、僕が何かをしようがしまいが、事態は勝手に進展するのだ。そして何もしなければ、何もしなかった事実に見合う結果が待っているのだろう。
 それは、避けなければならない。避けなければならないから、僕は僕に出来ることを考えなければならない。ベストの結果を導くために、本気で、だ。
「もう少しだけ、一人で頑張らせてもらいたい。一人で、頑張らないといけない」
《解った》
 至極あっさりと、梔子高は肯定した。確かに望んだことではあるが……もう少し渋ってもらいたいという気持ちが無いわけではない。
《交換条件といこうじゃないか》
 再び、オムレツ……もとい、玉子焼きが僕の目の前に突きつけられる。
《私は君に、事の一切を追求しないと約束しよう。その代わり、君はこの玉子焼きを食べるんだ。ギブアンドテイクは基本だよ、ミヤコ》
「……解ったよ、食べる」
 是が非でも食べさせるつもりなのだろう。ここまで確固たる決意である以上、下手な抵抗はやぶへびだ。
 目の前に突きつけられた玉子焼きに齧り付く。例によって例の如く、一口で食べきるに相応しいサイズではない。
「今日も、自分で作ったの?」
《どうして、そう思うんだろう?》
「こんな大きな玉子焼きなんて、梔子高じゃないと作らないよ」
 口からでまかせを言った。
 本当は、美味しかったからだ。


 僕が玉子焼きを食べ終わり、梔子高が弁当の蓋を閉じる。
《ミヤコ》
「何?」と返事を返す前に、手に暖かくて柔らかい感触が伝わった。
 梔子高が、僕の手を握ったのだ。
《私は、心配だよ。君が、私の知らない場所で、危険な目に遭っているんじゃないかって》
「……うん」
 不思議と、狼狽はしなかった。ただ、暖かくて柔らかい手の感触は、本当に心地良くて、優しい。
《追求はしない。ただ》
「うん」
 手の力が、少しだけ強くなった。それでも、優しい。
《君は、私に頼っていいんだ。私もそれを望んでいる。君が私に助けを求めるなら、私は無条件で君の味方になる》
「うん」
《それだけは、絶対に忘れないで欲しい》
「解った」
 言葉は悪いのかもしれない。
 ただ、思う。「都合の良い娘だな」と。
 こっちの条件を飲むだけ飲んで、都合が悪くなれば助け舟を出してくれるとは、何と都合の良い娘だろうか。
 だからこそ、もう少しだけ頑張ろうと思う。
 この都合の良い娘が、これから先も都合の良い娘で在る為に、まだ頑張ろうと思える。
「ねぇ、梔子高」
《うん?》
「僕は、今回の件にケリがついたら、もう少し沢山ご飯を食べようと思うんだ」
《その心は?》
 ある種、「これが終わったら」や「これを最後に」という言葉は、あまり好まれる仮定表現ではない。この仮定表現を使った者の大半は、ロクな結果を迎えていないのだ。
「僕は今の悩みの種に直面してみて、自分は本当に無力で無知なんだなって思った。多分、これが僕じゃなくて梔子高なら、口笛でも吹きながら解決出来たのかもしれない」
 だから、これは手綱だ。
 いつまでもしっかりし切れない自分に対しての、気を緩めまいとする為の喝の手綱である。言ってしまった以上は褌を締めて事に当たらないとロクな事にならないぞという、僕なりの奮起の手段である。
「短絡的かもしれないけど、だったら僕も梔子高みたいに沢山食べれば、梔子高のようになれるのかなって思った。いつまた、こんな風に悩みや困難な事に直面しても、口笛でも吹きながら対処出来るくらいにしっかりしたい。梔子高みたいに」
 本音を言えば、今でもまだ実感は無い。
 だって、それは仕方の無いことだ。こんな風に、日々学徒を満喫するだけだった僕が、突然世界だのなんだのと言われても……もう、何度も何度も反芻した言葉だが、そんなのリアルに受け止められる筈が無い。
 今の僕は、「もし本当だったら困るよなぁ」という、ある種の逃げの一手のような心理を抱えて動いている。是が非でも何とかしなければいけない、とは思わずに、本当とも限らないからとりあえず出来ることはやっておこう、という怠慢な心構えで事に望んでいるのだ。
 結果導き出されたのは、自分の無知と、重い腰を「重い」と弱音を吐いて持ち上げられずにいる、情けない僕。
 梔子高を見て、思う。
 生まれて初めて、本気で馬鹿になってみようと。
 漫画や絵本に影響された子供のように、馬鹿みたいに本気で世界を救ってみようと思う。嘘でも本当でも、自分に出来るベストを尽くしてみようと思う。すべてが大掛かりな嘘でもドッキリでも、それなら一頻り笑い者にされれば済む。
 事後に「あの時もう少し頑張ってみれば」なんてのは、最低だ。それだけは、したくはなかった。
 もう、逃げの一手は打つまい。
 僕が何とかしなければ、世界は無茶苦茶になる。
 だから、僕は右往左往してやる。
 
 
「君は、勘違いをしている」
 意識を、引きずり戻された。振り向けば、梔子高はいつものように斜に構えて無難な笑みを浮かべていた。
「君は、君が思っているよりも、ずっとずっとしっかりしているよ」
 否。
 いつものような、無難な笑みではない。
「君の主観はどうあれ、私はそれを知っている。そしてこの主張は、何があっても揺るぐことは無い。例え、君本人が何を言おうがね」
 長い付き合いを経てはいるが、やはり解らないこともある。
……そんなに綺麗な声で話す事が出来て、そんなに綺麗な微笑を浮かべられるのなら、いつもそうしていればいいのに。
《先に教室に戻っているよ。君は考え事があるようだし、邪魔をするのも気が引ける。君を見て思うに、それほど心配することでも無さそうだしね》
「戻っちゃった」
 今度こそ、いつもの無難な笑みだった。
《出し惜しみってやつだよ。先だって試験投入を試みたんだけれども、効果は絶大だったようだしね。ここ一番で使わせてもらうよ》
 差し支えなければ、その被験者の名をお聞かせ願いたいものだ。きっと、常日頃耳にしている固有名詞が飛び出すことだろう。忌々しい。



************************



 そうしてそのまま、長針が半周する程度の時間が経過した。
 教室では、五限目の授業が展開されていることだろう。ここまで捜索の目が届いていない事を見るに、梔子高が上手く口を聞いてくれたのかもしれない。
 もう、決意したのだ。
 決意した以上は、今は授業の優先順位を下げる必要がある。元々聞いているのか聞いていないのか自分でも解っていなかったのだから、それほど弊害は出ないだろう。
 今は、もっと優先的に進めないといけないことがある。
 とはいえ、だ。
 決意したのは良い。
 ただ、決意をしようがしまいが、解らんものは相変わらず解らんわけで。
「もっと、協力者はいないものかな」
 そもそも、最初に編成されている人数が少な過ぎるのだ。たった二人では軍人将棋も出来やしない。
 しかし、だ。
 実のところ、協力者と成り得る人物には、心当たりがあった。
 ポポロカは言った。異空間同位体は、原則として同じ世界に同時滞在することは出来ない、と。
 でもそれは、裏を返せば、あっちにいないということはこっちにいる、ということである。
 トテチトテの視点を借りた時に目の当たりにした人物、ポポロカのお祖父さんの姿を思い起こす。
 ポポロカのお祖父さんがあっちにいるということは、ポポロカのお祖父さんの異空間同位体はこっちにいる筈だ。
 そして、あの姿形である。
 異空間同位体が誰なのかなど、考えるまでもない。
 屋上と校内を隔てる扉が音を立てた。その音に振り向く。教諭が僕を探しに来たとしたら、随分とのんびり捜索していたものだ。
 しかし、扉の向こうから姿を現した人物は、教員の誰でもなかった。
 凡そ校内で見かける事は無いと思っていた、だがしかし、ある種の「やっぱりな」感が否めない、そんな人物である。
「ここにおられましたか」
「……板垣さん」
 白髪より銀髪と表現する方が適切であるような髪の毛をオールバックにまとめ、綺麗に整えられた髭が物腰の柔らかさを醸し出す、執事服の映える長身の老紳士。
 梔子高が生まれる遥か昔から梔子高邸に住み込み労働し、今では梔子高の第二の保護者と言っても過言ではない、梔子高家切っての名執事。
 板垣さん、その人である。


「梔子高なら教室ですよ、今は五限の最中ですからね。あ、僕がここにいることは内密に……」
 などと、言う筈が無い。
 先日あのようなことがあって、そして今このタイミングで、満を持しての登場である。到底「千穂お嬢様の忘れ物をお届けに」なんてことを言うとは思えない。
 好都合だった。
「板垣さんがここに来るってことは、僕に協力してくれる、という解釈でいいんですよね?」
「これは、これは」
 口髭を指で弄びながら、板垣さんは僕を見て微笑んだ。流石は梔子高家専属使用人である。梔子高のあの振る舞いは、案外この人の影響なのかもしれない。或いは逆か?
「貴方様への評価を改める必要がありますな。てっきり、状況が飲み込めずに狼狽しているものとばかり思っておりましたが、よもや私の存在にまで思慮が行き届いているとは」
「狼狽はしましたよ。ただ、そろそろそれすらもしていられなくなってきたな、と思って」
 フェンスに寄りかかっていた姿勢を正して立ち上がり、板垣さんと相対する。この人に対して、ぞんざいな振る舞いをしていい理由が無い。
「板垣さん。貴方は知っているんですね? 今ここで、どんな事態が発生していて、僕が、どんな役目を担っているのかを」
「そう思う理由を、お聞きしてもよろしいですかな?」
 否定はしなかった。理由を聞くということは、それは九割がた肯定ということでいいのだろう。違うのであれば、何を言われているのかすら解らない筈だ。
「梔子高は言っていました。ポポロカは『猫が生きている世界』と『猫が死んでいる世界』を同時に観測出来る数少ない存在だ、と」
 今なら解る。それはつまり、自分の異空間同位体と、何かしらの方法を以っての情報伝達が可能である、ということだ、多分。
「数少ない存在だ、と言ったんです。唯一の、とは言っていない」
 数少ないと言っている以上、その広告に偽りは無く、絶対数は少ないのだろう。
 だがしかし、それが多数であろうが少数であろうが、他にもそういう存在が在るのは確かなのだ。そしてそんな希少な人材が、今のこの事態を迎えて尚、まばらに散らばっているとは思えない。
「後はヤマ勘です。ポポロカのお祖父さんと貴方が似ているというそれだけの理由で、板垣さん。貴方は協力者なのではないか、って考えました」
 とはいえ、自信はあった。それすらも、ポポロカに出来てお祖父さんに出来ない筈は無いという短絡的な根拠に縋ったものに過ぎないのだが。
「推理方法はどうあれ、その結論に辿り着いたという結果は、評価に値しますな」
 こうして見ていると、本当にそっくりだ。ポポロカは板垣さんと会ったことはあるのだろうか? もし既に相対済みだったならば、是非にその時のポポロカのリアクションをお聞かせ願いたいものである。
「最初、私の異空間同位体が、〈ンル=シド〉への干渉を貴方様に任せると決定した時、私は懸念したものです。私が最後にお見受けした貴方様を鑑みるに、到底この役目を真っ当出来まいと考えていたものですから」
 やっぱり、か。
 罰の悪そうに眉を顰めたが、そんなに申し訳無さそうに振舞う必要はこれっぽっちも無い。それは僕自身が、誰よりも考えていたことだからだ。
「十にも満たない年の経過は、私のような成長を止めた老人にとっては、瞬きの時間に等しい程に些細なものです。だがしかし、貴方様のような若人にとっては、これほどまでに成長させる、長い長い時間なのですな」
「……お久しぶりです、板垣さん」
 ようやく。
 僕と板垣さんの、四年無いし五年以上のご無沙汰を経て交わすものとして相応しい挨拶が出来た。
「御久しゅう御座います、延岡様。本当に、大きくなられた」
「ミヤコでいいです、小さい時みたいに」
 梔子高と仲良くこの人のお叱りを受けた回数は、両手の指で事足りるものではない。上等な食器に油性マーカーで落書きした悪戯が発覚した時の、申し訳程度にしか恐ろしくないお人好しな般若のような形相は、今でもたまに夢に出て来る。
 それくらい、僕や梔子高に気をかけてくれた人だ。恩師と言ってもいい。


 この上無い程に、頼りになる協力者である。

       

表紙

六月十七日 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha