Neetel Inside ニートノベル
表紙

賭博異聞録シマウマ
第三十四話 荒野の果てに

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 勝った、本当だろうか、うん、勝った、間違いない、でも……。

 そんな堂々巡りをしてしまうほど、勝利の興奮は甘美で耽美。
 限られた者に許された至福の刹那を、雨宮たちは脇目も振らずに駆け抜けていく。
 心臓を握り潰されるような極度の緊張状態から解放されたのだから無理もない。
 雨宮は彼にしては珍しく、後で二人に酒でも女でも好きなものを奢ってやろうと意識のどこかで考えていた。
 そう、すべてがうまくいくようになる。
 これからずっと――


 数時間ぶりに吸う外気を肺一杯に吸い込んだ。
 夜の冷たい絹のような空気が全身の隅々まで清めてくれるような心地がした。
 しかし、ここで油断してはならない。
 まだ布陣は構築途中で完成されてはいないのだ。
(そしてこれで……王手!)
 雨宮はすぐに玄関を閉めると、ライターで火を放った。喫煙していて本当によかったと思う。
 大きく育っていく炎を見て、雨宮はようやくほっとため息をついた。
 これで万一天馬が封鎖を突破してきたとしても脱出不可能。
 かつて友と過ごした屋敷が少しずつ灰に返っていく……。
 胸の内に心寂しい追憶の感傷が起こりかけた。
 が、結局は心の海と勝利の余韻の中に埋没していってしまった。
「終わった……」
 その時、一陣の風が吹き、木々が一際大きくそよいだ。
 ざわざわ、ざわざわと。
 囁くように。

「そう、終わったんだ。そして始まる」

 解放されたはずの心臓が再びドクンと脈打った。
 聞き覚えのある声が脳髄に染み入ってくる。
 テーブルクロスにこぼしてしまった酒のように……。

「……清算の時間だ」


 熱風に髪をたなびかせながら

 嶋あやめはそこにいた。








「気分はどうかな、雨宮くん」
 シマは木立の中のひとつに背を預けて、慌てた様子もなく一服していた。
 あたかも散歩の途中で出会ったとでも言わんばかりの自然体だ。
 雨宮は一気に冷たくなった胸の中から絞るように息を吐いた。
 できるだけ平成に、また心の中を覗かれぬよう注意を払いながら。
「……最悪だ」
「アハハ、ひどいなァ」
 雨宮はぎっと歯を噛み締めた。
 久々に思い出した砕けた奥歯の痛みが、警鐘のように頭の中に響いてくる。
 顔を背けたい欲求を必死に押さえつけながら、シマを睨みつけた。
「……なんでおまえが、ここにいる。
 天馬を裏切って逃げたんじゃなかったのか」
「ふふ、さァどうしてかな」
「ヘッ、俺らが焼け死ぬところを直に見たかったのか?
 ハハハハハハッ!
 だったら残念だったな。勝負は俺の勝ちだ!」
 雨宮は高らかに言い放ったが、相手の反応は予期していたものと少しも一致しなかった。
 シマは目を皿にして、戸惑ったように瞬きを繰り返した。
「勝ったって……え? なにが?」
「あ……?」
「いや、だって、君ここにいるじゃん。
 まだ半荘終わってなかったでしょ?」
「麻雀なんかもう関係ないんだ」
「関係あるよ。
 終わってないのにここにいたら、君の負けじゃん」
 雨宮は笑い出した。
「なんだ、おまえ、そんな甘いこと考えてたのか!
 アハハハハハハハハハハ!
 ハハ、ハハハ、ハハハハハ!
 馬鹿野郎め! 俺ァ天馬を閉じ込めてきてやったんだ。
 あいつが死ねば俺の勝ち……!
 今頃パニックになって、泣き叫びながら黒こげになってるだろうよ!!」
 威勢よく言い放った勝利宣言は、どこか虚しく夜気を振るわせた。
 シマは顎に人差し指を当てながら、星座を探すように夜空を仰ぐ。
「ああ……勝ったってそういうことか。
 それは違うよ、雨宮くん」
「はぁ……?」
「君はさ、ポーカーで言うところのフォルドをやっちゃったんだ。
 天馬は命を賭け、君は降りた。
 ……どっちが勝ったか、わかるよね。
 ふふ……そんなザマだから、大切なことを見落としたんだ」
「何を……」
 ハッと雨宮は息を呑み、慌ててカガミを振り返った。
 まさか、そういうことか。
「カガミ! こいつは、この女は一度勝負を放棄したんだ! だから――」
 言わずもがなとカガミはこくりと頷いた。
「心配無用です。天馬様が生還されない限り、この勝負は雨宮様の勝ちです。
 屋敷の外に残っていたからといって、シマ様の勝負資格は復活などしません」
 感情の起伏に自分でついていけないのか、返事を聞いた雨宮は安堵したにも関わらずげっそりしていた。
 対照的に木に背を預けたままニヤニヤ笑いを浮かべているシマの様子は、敗者のそれと言うよりは謎々が解けない友達をからかう子どものようだ。
 その余裕が雨宮になにか決定的なミスを犯したような落ち着かない気分にさせるのだ。
「なんなんだ、おまえは。なにを考えてる?」
「天馬のこと」
「何度も言わせるな、あいつはもう死んだ! 死んだんだよ!」
「どうかな。シュレディンガーの猫と違って生きてるかもよ」
「そんなこと――!」
「怯えないでいいんだよ、雨宮くん」
「怯えてなんかいない! 俺は……
 俺があいつに負けるわけない……!
 カガミッ!!」
「はい」
 カガミの視線が雨宮の指先へと向けられた。
「やつを殺せ!」
 シン……とその場の空気が沈殿した。
 その場で動いているものは、息荒い雨宮の肩と燃え伸びる火炎だけ。
「勝ち取ったヤツの人権を行使する!
 今すぐヤツを締め殺せッ!」
 カガミが表情を変えずに、静かな声音で聞き返した。
「しかし、まだ天馬様の生死の確認が取れていませんが」
「生死が確認できるのはいつだ?」
 雨宮の声はだんだん語気と狂気を増していった。口の端から唾の飛沫を飛ばしながら彼は吼えた。
「火が消えてからか? 瓦礫を撤去してからか? 死体が燃えカスになってたら勝負無効か?
 あいつは死んだッ! 俺が勝ったんだッ!
 さあヤレ、いまヤレ、すぐコロセ!
 首を締め上げ、糞尿を撒き散らさせ、そいつをあの世へ送ってやれッ!!」
 今にも自分で掴みかかりそうな雨宮に、カガミは恭しくその頭を垂れた。
「畏まりました」


 歯で手袋の中指を噛み、するすると白い手の甲が露になる。
 その間、立会人カガミはニスを塗ったような黒光りする両眼をシマから外さなかった。
 それを受けるシマはというと寿命を終えたタバコを踏んづけて土に還しながら、手で口を覆ってアクビなんかしている。
 普通なら強がっているだけにしか見えない所作も、シマというフィルタをかけた途端にリアリティを増す。
 そんな彼女の前でカガミの黒く長い流れる血のような髪が滑るように揺れた。
 ちょうどお互いに手が届くか届かないかの距離で相対する。
 写真の中のような静止を破ったのはカガミだった。
 そしてそれは他の誰にもマネできない破り方だった。
 右腕をすっと持ち上げたかと思うと、肩口まで袖を捲り上げた。
 一瞬の間を置いて、次の瞬間、その光景に誰もが呼吸を忘れてしまった。
 めきめきめき、と青く太い木の根にも似た静脈が浮かび上がったかと思うと、筋肉が風船のように膨らみ、あっという間に丸太と同じ幅になった。
 突然の変形に倉田と八木が恐怖の悲鳴を上げ、さすがの雨宮も油汗を浮かべて一歩後ずさる始末だった。
 負の視線を一身に受けながら、カガミはおぞましい腕を見せつけるようにくねらせた。
「……賭けは私の勝ちでしたね」
「まだわからない」
「いいえ。やはり無理だったんです。
 彼は一人では何もできません。
 あなたが助けてあげれば……」
「そう思う? でも、こうしなきゃダメだった。
 天馬が真剣にならなきゃ、雨宮も降りなかったから」
「その結果がこれならば、やはり道などなかったのです。
 できることなら、私も見てみたかった。……奇跡を」
「見れるさ」
 カガミはゆっくりと首を振った。
 感情を窺わせない鋼鉄の表情の奥から、ほんのかすかな悲哀が滲んでいるようにシマには思えた。
「どうしてあなたは、信じられるんですか。
 怖くないんですか、裏切られることが。
 期待しても夢を見ても、その終わりにどうしようもないエンディングが待ち構えていると思うと……私は……」
「君にはそんなこと言う資格はないよ」
「え……?」
「夢? それは追いかけている人だけが使える言葉だ。
 君は最初から諦めちゃってる。
 ただの弱虫は、一生羽ばたけない」
「……強気ですね。首を締め上げる手に力が入りすぎてしまうかも」
「どうぞ」
「……つくづくあなたは、気に入らない。
 死が怖くないフリをして、そんなにプライドが大事ですか」
「怖くないよ、ホントに」
「嘘ばかり……」
 責めるようなカガミの言葉にシマは笑みを浮かべた。それは優しさと寂しさを混ぜ合わせた笑みだった。
「カガミさんはさ……生まれる前のことを覚えているかな」
「……は? 前世……ということですか?」
「まあ、そんな感じかな」
「ありませんが……それがなにか。
 まさか、自分には来世があるから死んでも構わないとおっしゃるのですか?」
「ふふ……いいや。ただ……大抵の人はそうだと思うんだけど……
 わたしは生まれてくる前、特に苦しかった覚えも、幸せだった記憶もない。
 だから、死んだ後もそうなんじゃないかと思うんだ。
 意識も肉体も消えて……ただ元に戻るだけ。
 無だった頃に……」
 カガミは数瞬、窺うような間を開けた後、キッパリとした口調で告げた。
「なら、私が無に還してあげます。今、ここで……!」
 デッサンが狂っているとしか思えない異形の腕が、シマの細い首を易々と掴みあげた。シマの革靴の先が地面から離れ、ぷらぷらと揺れる。
 血流が止まり、顔面が充血し始めた。
 空気を求めて脳が苦痛の信号を発するが、カガミの豪腕を前にしてシマの身体能力などゴミ同然。
 そして苦しみは遠のき、シマの世界が真っ白に染まっていく。
 硬直していた筋肉が弛緩し始めるのを、他人事のように感覚していた。
(死……)


 無限に続く白夜の荒野。
 綺麗で虚無なる死の世界。
 いつか誰もが帰る場所。
 シマは見た。


 世界がひび割れ、崩壊するのを。




 その時、カガミの脳裏に奇跡という二文字がくっきりと浮かんだ。
 屋敷の二階、出窓が内側からブチ破られてガラスを空中に舞い散らせていた。炎の輝きを受けてそれは乱反射し、万華鏡のように中心の人物を照らし出す。
 顔面を覆い、制服を煤だらけにしながら、彼は地上へと転がり落ちた。
 華麗な着地などできようはずもなく、ゴロゴロと不様に前転を繰り返し塵埃に何度も揉まれ、ようやく止まった。
 ボロボロのズタズタ。
 けれどヨロヨロと満身創痍の有様で立ち上がった彼はまぎれもなく――


 今夜の勝負を制した男なのだった。

       

表紙

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Neetsha