「・・・そ、・・・・・・奪・・・ぞ?」
声を掛けられ、はっと我に返った。
「え?なんて?」
「・・・『それでは、悲しみを奪わしてもらうぞ?』と言ったんだ」
そういえば、その話の途中だった。
しかし、そう言った男の手を見ると、私はとっさに右手で左手を守った。
なぜなら、彼の手には注射をする道具が持たれていた。
いや、もしかしたら違うのかも知れない。
私が知っている『それ』よりも黒味がかっていて、どことなく不気味に見える。
「それは?」
男がそれに入っている液体を凝視し、怪訝な面持ちをする。
「注射器に見えるだろ?見えないのか?」
「見えるわ。・・・えっ!痛ぃっ!!!!」
いきなりだ。
いきなり男は私を射し、一気にピストンを引ききった。
そして射されたところからは、私の何かが出て行く奇妙な感じがした。
「・・・何すんの!!痛い!!」
急な彼の行動に私は動転し、力の限り彼を振り払おうと思った。
しかし脳裏で針管が折れるのを気にしたため、力が入りきっておらず男は離れない。
男は笑い、してやったりという表情だ。
「ククク。お前、注射が怖かったんだろ?さっきからずっと左手を守っていたしな。
だから、いきなりで悪いが射さしてもらった。悪く思うなよ」
耳元で男が喋ってきた。全身に悪寒が走る。気持ち悪い。
しかも注射が怖いのが図星だったのことが、しゃくにさわる。
「ところで早くそれを抜いてくれない?もう終わったんでしょ?」
「ああ、そのことについて残念なことがある。
俺はさっき注文通り、つまり『悲しみ』の感情を抜いてはいない。
俺が抜いたのは『怖さ』だ。注射のな。
こんな年齢にもなって怖がっているのが、かわいそうだったのでな。
俺なりの優しさだ。」
何言ってんだコイツ。と思ったが、確かにあれに対する『怖さ』が無くなっている気がする。
いやむしろ「射されたい」とさえ思っている。
・・・言っておくが私はマゾヒストではない。おそらく。
こいつ、本物かもしれない。
そう思った瞬間、好奇心が抑えられなくなった。
さっきまでは、気持ち悪いやつだと思い、今すぐ立ち去ろうと思っていた。
けれども今はそんな気持ちが吹っ飛び、立ち去る気にはならない。
むしろ「どんどん射して」と思っている。おそらく。
「さて、本番といこうかな。」
彼は高らかと腕をあげ、私を狙い澄ます。
「待って」
私は、そんな彼の行動を止めさせる。
それは注射が怖いからではない。
彼の今からの行動が無駄だからである。