Neetel Inside 文芸新都
表紙

桜田類と宇宙人
三.異星人、手づくり

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 類のまぶたが開いた。部屋の中はうす暗い。時計を見ると、まだ朝の六時だった。
 睡眠時間はたっぷり十二時間だったが、すぐに起きる気はしなかった。


 二年前、本谷澪は確かに死んだ。しかし今、それは"なかったこと"になっている。
「ルイ!」
 その日、学校。昼休み。類は異星人の声を無視した。
 朝からずっと、類はボンヤリした様子で、まるで集中力が感じられなかった。口は半開きで、背筋もぐにゃりとしていた。年の割にしっかり者、と評されているとは思えないような体たらくであった。
 そんな姿を見て、クラスの女子、井田が"本谷"に話し掛けた。
「どうしたの、桜田くん? いつもと違うよね」
「アナタハ……」
 "本谷"に"澪"の記憶はない。ただ、姿形が同じであるだけのことだ。"本谷"は類の記憶の中の"澪"以外、何も知らなかった。もちろん、少しでも"澪"に近づくため、本谷家に生前のまま残されていた"澪"の部屋にあった小学校の卒業文集や、類への手紙、類からの手紙……そうした参考文献を読み漁ってはいた。しかし、その中に井田は登場していなかった。
 "本谷"は井田を精神操作することにした。目を閉じる。"本谷"の精神操作はイメージに拠る。井田の姿を想像し、井田にしか聴こえない音を想像する。そして井田に望むことを想像する。目を開く。
「…澪、忘れたのぉ? あたし、井田麻里子だよ! 中学で一緒になった!」
 "本谷"はまだ中学の卒業アルバムに目を通していなかった。井田麻里子は、類と澪の中学からの同級生で、演劇コンクールでは台詞一行の"村人A"ながら、実際に発した台詞が台本のそれと一文字たりとも合わなかったという、あまりにも演劇マインド皆無な女であった。そのため精神操作されて発した自己紹介台詞も冗長且つ説明口調になってしまったのだ。
 "本谷"はまた一つ自分が"澪"に近づけたことに満足した。しかし、もし類がこの事実を知れば、
「そんな面倒なことしないで、口で訊けばいいものを」
 そう、呟くことだろう。そしてそうなれば、"本谷"はむしろ"澪"から遠のく。そんな高度な人間の感覚は、しょせん異星人であるところの"本谷"には分からなかった。


 類はまさに抜け殻の状態で、屋上で一人寝転んでいた。
 昨日の夕方、帰宅してすぐに上からも下からも澱みを吐き出した。嘔吐中枢はまだ過敏な状態で、油断するとトイレに駆け込むハメに陥ることになりそうだった。昨夜も今朝も、米一粒胃の中に入れていない。強い空腹感が胃液のみの嘔吐に導いている可能性も、類は同時に感じていた。
 それでも食欲――だけではなく、あらゆる欲が今の類にはなかった。性欲は昨日一時蘇ったが、まるで台風のようなものであり、吹き荒んだ後は極めて大人しいものだった。欲を封じたものの正体は、自身への嫌悪であった。類は澪を失ってすぐに、生涯で澪以外の女に興味は持たない、と心に誓っていた。類は身体能力が高く、見た目も平凡な男子生徒よりは少々光って見える程度に良い。常時少なくとも一人の女子から興味をもたれてはいたが、その視線は黙殺していた。
 その誓いが、"澪であって澪ではない者"によって、ほんの一時とはいえ破られることになろうとは――類には、そんなこと想像もつかなかった。そして、行為を終えた後襲い掛かってきた強烈な無常観と共に、己を恥じたのだ。こだわりは、捨てるまでには至らなかった。
 類は自分を罵倒した。
 ――お前の身体はバカなのか? アレは澪じゃない。澪じゃないものに反応した。
 ――いや頭もバカだ。澪じゃないと解っているのに、身体を止められなかった。少なくとも、右手の動きを止められさえすれば、澪じゃないもので射精することなんて、絶対になかったのに。
 ――異星人だぞ? 異星人を見て、澪を思い出したんだ。お前は――
 ――こんなんじゃ、死んだ時、澪になんて顔して会えばいいのか……
 類の罵倒は、扉の開いた音と共に途切れた。
「よー」
 大迫だった。


「なんかお前、今日元気ねーな」
「んなことないよ」
 男は二人、並び合って座った。類はここで初めて空を見た。太陽がぶ厚い雲に隠されて、今日はとても快適な夏の一日。そんなことに、ようやく気付いた。
「つーか昨日も今日ほどじゃねーけど元気なかったな。あんな可愛い彼女いてさ~。お前バカじゃねーの?」
「俺はバカだよ。バカだけどバスケではお前に完勝だよ」
「ゆうねえ、アンタは!」
 笑いながら、大迫はそう言った。
「てかお前らさ、付き合ってけっこう長いん? 井田にきいたら、小学校の頃から付き合ってたらしーじゃん」
 井田は恐らく、そのことを生前の澪から直接聞いたのだろう。類には分かった。澪はほとんど隠し事などしなかった、女らしくない女だったからだ。
「友達じゃなくて、付き合い始めた――て言えるのは、まあ、小六くらいからだったかな」
「すげーなー。じゃあ、もう五年目か?」
「いや、違う」
 ――お前の記憶は、違ってる。
「三年だ」
 類は、大迫を睨み付けて言った。そしてそんな自分にハッとして、苦笑いを取り繕った。今、澪は生きていることになっている。
「…途中、二年間、断片的にケンカしてた時期があったから」
「あっそー」
「なんだ、その返事」
「だって、結果的には今も付き合い続いてるわけじゃん? どーせケンカしてもアマアマで仲直りしてたんだろ? わかんだよ? そんくれえ」
「お前は、なんか、屈折してるなあ……」
 そう言いつつも、類は微笑んでいた。今、この時に、大迫が屋上に来てくれて良かったと思った。
「ルイ」
 そして、今一番会いたくないヤツがやって来た。偽者――
「おお、彼女」
 大迫はそう言うと、邪魔しちゃイカンと、この場を去ろうとした。しかし、ズボンからだらしなく出された開襟シャツの裾を類に引っ張られ、逃亡を阻止された。
「なんだよ、気ィつかってやろうってのに!」
 小声で大迫は言った。気を遣ってくれるならそこにいてくれと、類は思った。
「…なんだ?」
 類は、目の前の異星人に対して身構えていた。何を仕掛けてきても対応できるように。
 ――気を抜くな。いい加減、姿に戸惑うのも止めろよ、俺。
 コイツは人間じゃない。
「ゲンキがナいヨウだカラ、これをモってキまシタ」
 "本谷"が差し出したのは、売店のメンチカツパンだった。類は受け取らなかった。"本谷"は続けた。
「キノウ、イエにカエってカラ、ずっとミオのヘヤでシリョウをサガしていまシタ。そのナカにルイのコーブツをシルしたモノがありまシタ」
 確かに、"澪"は類の好物をメンチカツパンだと思っていた。"澪"が類に何か作ってくるときは、大抵メンチカツパンだった。
 類は、"本谷"の差し出した手を弾いた。メンチカツパンは屋上の隅に飛んでいった。
「勘違いするな。俺は別に、こんなもの好きじゃない」


 次の日の朝だった。
 類が校門をくぐると、その影から"本谷"が現れた。
「おハヨうゴザいマス、ルイ」
「……」
 類は素通りして行った。目をつむりながら。完全なる拒絶のポーズだった。
「ルイ、これをミテ」
 類は、強引に隣を歩く"本谷"の声を無視した。
『ルイ、これをミテ』
 今度は、脳の中に直接異星人の声が響いた。類は不意をつかれ、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
「なんだよ、このバケモノ!」
 耳の間近で寺の鐘を鳴らされたような衝撃に、類は涙目で叫んだ。ぼやけて見えたのは、昨日と同じパンだった。だが、中にメンチカツ"らしきもの"は入っているものの、まともなものと比べると、その様相は明らかに異なっていた。一言で表せば、
「食えなさそう」
 だった。
「カエってもうイチドシリョウをサンショウしてイテ、キヅいたのデス。ルイがスきだったのハ、メンチカツパンではナク、"ミオがツクってくれたメンチカツパン"だったとイうコトニ」
 確かに、それは正解だった。しかし。
「…俺に、それを食えと?」
「コンドはマチガってはいないハズデス」
 人には許容範囲というものがある。たとえ本当の澪が作ってきたものであっても、この出来ではさすがに口に入れる気さえしなかっただろう。
 しかし、類には引け目もあった。どんなに拒絶したい存在であろうが、昨日パンを買ってきてくれたことは事実である。もちろん、気を引こうという意図はあるだろう。しかし、それでも、類を想って取った行動であることには疑いの余地もなかったのである。その想いを一度踏みにじった。
 二度踏みにじることは、類には到底出来なかった――すぐに、全身に痺れが走った。
「おま、なに、いれて、んだ……!?」
「どうしまシタ? とてもオイしくデキたのですガ――」
 異星人を人間の物差しで測って――類は、身悶えながら自分の甘さを呪った。




『異星人、手づくり』




       

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