Neetel Inside 文芸新都
表紙

短編集(『雨の日、二人で歩く道』更新)
モザイク(別ver)

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山口孝也が半年ぶりに登校してきたとき、クラスの誰も彼のことを山口だと認識することができなかった。半年前、山口は盗撮事件によって停学処分になっており、その日は山口の停学あけの初めての登校日だった。
 クラスの誰もが見えるはずのものが見えないということが、他者の顔を認識できないということが、これほど奇妙で不快なものだとは知らなかった。山口の顔にはモザイクがかかっていた。

 山口の盗撮事件よりさらに二ヶ月前の放課後、河野恵子は忘れ物を取りに学校に戻った。外はもう薄暗くなっている。校舎の中にはすでに生徒の姿は見られず、いつもより広く感じられる。静まり返った校舎は、昼間の騒がしい校舎とは違い、恵子は何となく心が安らぐ気がした。恵子の足音だけが廊下で反響した。
 教室に入り、目当ての教科書を自分の机から取り出して鞄に入れ、教室を出ようとしたとき、ガタンという派手な音が鳴り響いた。鞄が引っかかって机を倒してしまったのだ。山口の席だった。
 恵子は倒れた机を元に戻すと、床に散らばった山口の教科書やノートを拾い上げていったが、それらにまじって何枚かの写真があることに気づいた。
そこには恵子の、しかも着替えをしているときの姿が写っていた。他にも何人かの女子生徒の着替えているところが写った写真があった。
 恵子が吐き気にも似た嫌悪感を抱き写真を眺めていると、ふいに後ろから誰かの息切れした声が聞こえた。恵子は悲鳴を上げそうになるのをこらえて振り向くとそこには山口が立っていた。
 山口は走ってきたのか呼吸が荒く、額には汗をかいていた。そうして小動物が怯えるような眼でしばらく恵子を見つめた後、手に握られていた写真を強引に奪い、散らばっている残りの写真も自分の鞄に入れていった。その手は小さく震えていた。
 恵子が当惑し押し黙っていると、山口は嗚咽を漏らしながら「お願いだ。このことは誰にもいわないでくれ。頼む。何でも言うことを聞くから……」と震えた声で言い、恵子の足にすがりついてきた。
 足をつかまれた恵子は全身の皮膚の中を小さな虫が這い回るような寒気を感じ、反射的に山口の顔を蹴り上げていた。山口は顔を抑えてうずくまり、うめき声をあげた。
 赤い血が床に点々と落ちた。恵子は謝ろうとしたが、山口の苦痛にゆがんだ顔を見て声をつぐんだ。一瞬、頭の中に子供のころの自分の姿がよぎった。
 河野恵子が五歳のとき両親が離婚した。父親の暴力が原因だった。弟は母親の元に引き取られたが、恵子は父親に引き取られた。
 父親は執拗に恵子に虐待を加えた。体は痣だらけになり、学校での体育はいつも見学していた。毎日のように殴られた。腹を蹴り上げられ血を吐いたときもあったし、タバコの火を性器に押し付けられたときもあった。
 九歳のとき、初めて犯された。泣き叫ぶ恵子を父親は殴りつけ、無理やり犯した。激痛と激しい嫌悪感が全身を包んだ。行為が終わるまでの間、恵子は何も考えないように、何も感じないようにつとめた。自分は人形なのだと思い込んだ。
 それからも毎日のように殴られ、犯されたが恵子は人形になることによって必死に耐えた。そんなある日父親は若い女を連れてきて、そのまま女と一緒にふらっと家を出たきり戻らなくなった。
 恵子が十一歳のときだった。その後親戚の家に引き取られることになり、そのままその家の養子になった。
 苦痛に歪んだ山口の顔を眺めながら、恵子はある感覚を味わっていた。それは今まで征服されたことしかなかった恵子がはじめて味わう征服感だった。そのときまで恵子は征服する側の人間と、征服される側の人間はまったく別の人種だと思っていた。でも、違うのだ。それは地続きで容易に逆転するのだと気づいた。
 山口の顔から滴る血を眺めて、こんな青白い体からこんなに赤い血が流れるのだと、恵子は不思議に思った。恵子は山口を見下ろしながら静かに言った。
「本当に何でも言うことを聞くのね……」
その日から山口は恵子の奴隷になった。

 恵子の山口に対する加虐的な行為は日に日にエスカレートしていった。初めは殴ったり蹴ったりといった単純な暴力行為で満足していたが、次第にそれでは満足できないようになっていった。
 ある日なんかは山口に目隠しをさせて全身に針を刺していった。一本一本さしていくたびに山口は苦しみ、あえいだ。
 その様子を眺めながら恵子は子供のころ近くの公園で、子供たちが虫の体をちぎって遊んでいるのを見たのを思い出した。
 そのときはただ嫌悪感を感じ、なんであんなに苦しそうにもがいているのにひどいことをするのだろうと思ったが、今ならわかる気がした。苦しみ、もがいているからその子供は虫の体を引きちぎったのだ。
 恵子は自分の中のどろどろとした黒いものがだんだん大きくなっていくような気がして不安のようなものを感じたが、だからといって、もはややめることはできなかった。苦痛に耐えるよりも、快楽を我慢することのほうがずっと難しいのだ。
 
 そんなとき、山口の盗撮が発覚した。山口はその内向的な性格や貧弱な容貌のせいかよくいじめられていて、恵子も山口がクラスの何人かに殴られていたり、金を脅し取られたりしているのを何度か目にしたことがある。
 山口をいじめていた天川たちの話によると、その日彼らはいつものように山口から金を脅し取ったが、山口はたった千円しか持っていなかった。
 もちろん彼らがそんな金で満足するはずもなく、他に隠していないかと財布を奪い、調べた。そのとき山口は珍しく抵抗したが、貧弱な彼が敵うはずもなく財布は奪われた。
 天川が財布の中を調べると中には何枚かの写真が入っていた。
それがアイドルの写真とかだったらまだ笑い事で済んだのだろうが、その写真に写っていたのは同じクラスの娘でしかも着替えているところが写っていた。
 このことは学校中に広まり、当然先生たちの耳にも入った。普通なら退学になるところだが、山口の母親の強い説得によって奇跡的に停学で済んだ。学校側もいじめを黙認していたという負い目もあったからだ。

 クラスの何人かは他のクラスの連中を連れてきて見せたりしたが、奇妙なことにこのクラスの生徒以外にはモザイクは見えないようだった。
 恵子たちにはそいつの顔が見えなかったので確信はもてなかったが、このクラス以外の人間にはそいつの顔は山口に映っているようだし雰囲気なども山口そのものだったのでそいつを山口として扱うようにした。
 クラスは山口のモザイクのことで話が持ちきりだった。なぜ山口の顔にモザイクがかかっているのか? なぜこのクラスの生徒以外には見えないのか? さまざまな憶測が飛びかったが当然ながら答えはでなかった。もちろん山口本人に直接聞くものもいたが山口は何も答えなかった。
 クラスの生徒以外には見えなかったので他のクラスの連中や先生たちはこのことをまったく信じず、悪質な冗談としか思わなかった。誰も信じてくれないのでいつのまにかモザイクのことは自分たちのクラスの生徒以外とは話さないことが暗黙の了解となった。
 恵子は山口を避けるようになった。それは山口の顔が見えないから苦痛を与えても表情の変化が読み取れず、面白くないというのもあったが、これ以上自分の中の黒い欲望が大きくなるのが嫌だったからだ。
 
 山口孝也がはじめて盗撮をしたのはちょうど一年ほど前のことだった。その日山口は自分の部屋で新しく買ってもらったカメラをいじっていた。すると向いのマンションの窓に着替えをしている女の人が見えた。特に美人だったわけではない。だがそれは今まで体験したことの無い感覚だった。それがはじまりだった。
 それから山口は毎日のように盗撮した。トイレや更衣室に隠しカメラを設置したりした。そうして時々盗撮した写真を授業中に隠し見たりして楽しんだ。特にそれがクラスで人気のある女子生徒だと、たとえようの無い優越感を感じた。
だがある日、山口は帰り道の途中で盗撮して取っておいた写真を学校に置き忘れたことに気づいた。
 山口は必死で走り、教室まで戻った。教室には女子生徒が一人いた。河野恵子だ。彼女はしゃがんで何かを眺めていた。手には山口が撮った写真が握られていた。山口は心臓が張り裂けそうになるのを感じた。
 恵子がもっている写真を山口は奪い、残りの散らばっている写真もかき集めて鞄の中に入れた。自分の手が震えているのがわかった。
 頭が真っ白になりどうすればいいのかわからなかった。ただ頼み込むしかなかった。山口は必死に河野にすがりついた。顔に激痛が走った。蹴られたのだ。鼻の奥が熱くなり血が流れた。手でそれを押さえながら横目で恵子を眺めた。
 その目からは、歓喜の感情が感じ取れた。それは山口をいじめている連中の目から感じ取れたものと同種のものだったが、より強烈で官能的で美しいものだった。恵子は山口を見下ろしながら静かに言った。
「本当に何でも言うことを聞くのね……」
山口は黙ってうなずくしかなかった。その日から山口は恵子の奴隷になった。
 だが山口は恵子から与えられる苦痛をいつしか快楽と感じるようになった。恵子のサディスティックな行為がだんだんエスカレートしていっても全然問題はなかった。恵子がより強い刺激を求めていくのと同じく山口もまたより強い刺激を求めていった。しかし、その幸せは長くは続かなかった。盗撮がばれたからだ。
 停学になった山口はずっと自分の部屋にひきこもっていた。そうしてときどき鏡で自分の顔を眺めた。この醜い顔をさらにいやらしく醜く歪めて写真を撮っていたのだと思うとつらかった。そしてクラスのみんなも自分の顔を見るたびにそう思っているのかと思うと死にたくなった。だが死ぬ勇気なんか無かった。
 せめてこの顔をクラスのみんなにも自分にも見えなくなれば少しは楽なのに、と山口は思った。そう思うと、山口は顔中に何かぞわぞわとした感覚が広がるのを感じた。鏡の中に映る山口の顔にはモザイクがかかっていた。
停学がとけ、山口は学校に行くことにした。クラスの連中にも自分の顔が見えていないことがわかり、だいぶ気分が楽になった気がした。
 いろいろと質問をされたが山口は答えなかった。自分にもわからないからだ。それにたとえわかったとしても答える気など無かった。
 停学がとけてからというもの恵子は山口を避けるようになった。いじめは以前よりひどくなった。その苦痛は恵子からうけるものと違い、文字通り苦痛でしかなかった。しばらくして山口は学校に来なくなった。

 山口が学校にこなくなってから一ヶ月ほどが過ぎた。ある日、無数の盗撮写真が校内にばら撒かれた。すべて山口や恵子と同じクラスの生徒の写真だった。ところどころで悲鳴のようなものが上がった。
恵子はこれが山口の仕業だと何となく直感したが、もちろん確証はなかった。ばら撒かれた写真の中に恵子に関する写真は無かった。
 次の日、恵子が教室に入るとクラスのみんなの顔にモザイクがかかっていた。そして黒板には一枚の写真が貼ってあった。
 その写真を見て恵子は激しい吐き気を感じ、教室を飛び出した。そうしてトイレに入ると洗面台の上に吐いた。写真には山口を踏みつけている恵子の姿がうつっていた。恵子の顔はいやらしく歪み、恍惚としていた。その顔は恵子を犯したときの父親の顔にそっくりだった。
 恵子はまた吐いた。そして自分の顔を誰にも見られたくないと思った。すると顔中になにかぞわぞわとした感覚が広がっていった。顔を上げ、鏡を覗き込んだ。恵子の顔にはモザイクがかかっていた。

       

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