Neetel Inside 文芸新都
表紙

短編集(『雨の日、二人で歩く道』更新)
蝉の声

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…………ミィィィ――――――――ンンン……ミィィィ―――――――ンンン……

 どこか遠くから蝉の声が聞こえてくる。
 焼けるような太陽の光が容赦なく照りつける。体からは滝のような汗がとめどなく流れ、シャツは濡れてべっとりと背中に張り付いてくる。
 暑い。歩くたびに額から流れた汗が頬を伝わり、あごの先からポタポタと地面に落ちていく。暑さのせいか、それとも僕の意識が朦朧としているのか、景色が歪んで見える。蝉の声とあいなって、まるで遠い記憶の中を歩いているような感覚におちいる。蝉の声はしてもその姿は見えない。だから蝉の声を聞くたびに、ひょっとしたら今聞こえている声は幻聴ではないかと思う。本当に蝉は鳴いているのだろうか?
 その鳴き声を聞くたびに思い出してはいけない何かを思い出しそうになり、頭がズキズキと痛む。それなのにそれを思い出そうとすると蝉の声はいっそう強まり、何も思い出せなくなるのだ。夏が来るたびにノイローゼになりそうになる。この間ついに医者に診てもらったが、結局体には何の異常も見られなかった。医者は幼少時のトラウマか何かが原因ではないかと言った。
 そして僕は久しぶりに故郷に帰ることにしたのだ。もちろんその幼少時のトラウマの原因とやらを探るために。幼いころの体験が原因ではないかとはうすうすわかってはいたのだが、実家に帰るまでの決心はなかなかつかなかった。それを知ることによって何かを失うような気がしたからだ。だがこの間の医者の忠告によってようやく決心がついた。
 十数年ぶりに帰る故郷は以前とまったく変わっていなかった。めったに人の通ることのないあぜ道も、古ぼけた電柱も昔となんら変わりはない。何もかもが懐かしい。とりあえず僕は両親に挨拶に行こうと実家に向かい、今こうして歩いている。夏とはいえ今日は特に暑い。

 家の前に来ると女の子が立っていた。十歳くらいだろうか。この暑い中長袖のシャツとジーパンを着ている。夏の暑い日にはひどく不釣合いなほどきれいな白い肌をしていて、とてもかわいらしい子だった。その子が僕のことをじっと見ている。
以前会った事があるような気がした。誰だっただろう。だが思い出そうとするとまた頭に鈍い痛みが走る。声をかけようとするとその子は後ろを向き、そのまま走り出した。そしてもう一度僕のほうを振り返った。ついて来い、と言っているような気がした。
 僕はその子の後を追った。その間何度か話しかけたが何も答えてくれなかった。どんどんと人気のないところに進んで行く。やがて鬱蒼とした茂みの中に入っていった。そこに入ると一つの古井戸が見えた。その子は井戸の前に立つと、僕のほうを振り返りそのまままわりの景色に溶け込むように消えていった。
その井戸を見た瞬間まるで古いビデオテープが再生するかのように僕の中で記憶がよみがえった。僕はその女の子が誰なのか思い出した。美香ちゃん。あれは小さいころよく遊んだ美香ちゃんだ。どうして忘れていたのだろう。彼女は明るく活発な子で、内気で口数が少ない僕にとって数少ない友達だった。そして僕がはじめて好きになった子だった。

 僕らはよく暗くなるまで二人でなわとびをして遊んだり、追いかけっこをしたりして遊んだ。暗くなると一緒に星を眺めたりもした。僕は一緒に遊ぶよりも彼女のとなりでそうやって星を眺めるほうが好きだった。そして星を見ているふりをしてよく彼女の横顔をのぞきこんだ。そのたびにあまりの可愛らしさに僕の心臓は張り裂けそうなほどドキドキして、彼女に心臓の音が聞こえないかと心配した。
 美香ちゃんはあまり家に帰りたがらなかった。家にいるとお父さんがいじめるから、と彼女はうつむきながら言った。彼女の母は男癖が悪く、美香ちゃんがまだ小さいときに浮気相手と一緒に家を出て行ったのだという。そしてそれまで真面目だった父親は会社をやめ酒びたりになり、彼女に暴力を振るうようになった。彼女はいつも長袖長ズボンをはいていたけど、それはきっと殴られてできた痣を隠すためだったのだろう。
美香ちゃんが成長するにつれて父親の暴力はひどくなっていった。彼女の父親は美香ちゃんが自分を捨てた女に似てくるのに嫌悪感を抱いていたのかもしれない。見るたびに怪我は増えていって、学校に来るのも日を追って少なくなっていった。それにつれて一緒に遊ぶことも少なくなった。
 ある日彼女が眼帯をつけていたので心配になり、どうしたの、と尋ねると彼女はお父さんにタバコの火を押し付けられたの、と答えた。彼女は失明していた。だが先生に目のことを聞かれても彼女は何も答えなかった。先生に言ったことがばれたらまた殴られるから、と彼女は言った。僕はそう言った彼女を見ても何もしてやることができなかった。そのころの彼女の手首にはいつも包帯が巻かれていた。今思えばあれはためらい傷だったのかもしれない。
 
 その日も今日のようにひどく暑い日だった。もう学校は夏休みに入り彼女ともしばらく会っていなかった。僕は彼女の家を訪ねた。玄関のチャイムを鳴らしたが誰も出てこない。出かけているのだろうかと思い、帰ろうとしたとき遠くの茂みのほうで人影が見えた。美香ちゃんの家ははずれのほうにあるので近くに家はなかった。だからあの人影は美香ちゃんかもしれないと思い、僕は人影の後を追った。人影に近づいていくとそれが美香ちゃんのお父さんだとわかった。そしてその背中には美香ちゃんが背負われていた。気分が悪いのだろうか、ぐったりとしている。僕はなんだかいやな予感がして気づかれないように後をつけることにした。
 美香ちゃんのお父さんはどんどん茂みの奥に入っていった。そこは普段人の通らないところなので道らしい道はなかったけどなんとかついていくことができた。しばらく進むと小さな古井戸が見えた。その井戸はもう使われなくなって随分たっているようだった。多分水も枯れているだろう。美香ちゃんのお父さんはそこで立ち止まり、美香ちゃんを下ろした。そして彼女を……彼女を、そのまま井戸に捨てたのだ。
 僕はその恐ろしい光景を木の陰で、彼女のお父さんに見つからないように願いながら見ていた。その日はとても暑かったのに首筋を流れる汗はいやに冷たく、心臓の鼓動は激しさを増し、ガタガタと震えて隠れながら彼女のお父さんが立ち去るのを待っていた。彼女のお父さんはついに彼女を殺してしまったのだ。それが故意なのか過失なのかはわからないけれど。いずれにせよ彼女は殺されて、この井戸に捨てられたのだ。

 僕は井戸のふたに手をやった。このふたを開ければきっと中には美香ちゃんの死体があるのだ。あれからもう十年以上たっている。もう白骨化してしまっているだろう。あの雪のように白い肌も、流れるような黒髪も、きれいな瞳もなくなってしまっているのだろうと思うと悲しくなった。

…………ミィィィ――――――――ンンン……ミィィィ―――――――ンンン……

 蝉の声がまた鳴り響く。僕はおそるおそるふたを開ける。井戸の中をのぞくと、そこには確かに美香ちゃんがいた。手足が不自然に曲がり、頭からは血があふれ瞳孔は開ききっている。ただあの色白の肌も、美しい髪も以前と変わっていない。美香ちゃんの隣にはもう一人横たわっていた。短く刈り上げた頭、日に焼けた色黒の肌、それは子供のころの僕の姿だった。
 アア、そうだ思い出した。僕はあの後美香ちゃんを助けようとして井戸に向い、そして後ろから誰かに突き落とされたのだ。きっと美香ちゃんのお父さんだろう。気づかれていたのだ。今までのことはすべて夢だったのだ。僕はもう来ることのない自分の未来を夢想する子供だった。
 気がつくと僕は子供の姿にもどっていて井戸の底から空を眺めていた。体が動かない。どうやら頭を強く打っているようだ。額からはどろどろとした血が流れている。手足は落ちたときの衝撃でだらしなく曲がり、もう指一本動かすことさえできない。すでに痛みすら感じない。体中を痺れるような感覚が襲い、目はかすみ、頭は朦朧としてまともに思考することができない。ぼうっとした意識の中で、自分がもうすぐ死ぬのだということだけがやけにはっきりとわかった。
 ふと横を見ると美香ちゃんの顔が見えた。美香ちゃんの白い肌が明かりに照らされて、青白く光っている。こめかみからは血が流れ、瞳孔は開き、そのきれいな瞳にはもう何も映っていなかった。

―――――ごめんね、ごめんね美香ちゃんのこと忘れてて。もう美香ちゃんのこと忘れたりしないよ。これからはまた二人で遊べるね。ずうっと、ずうっと一緒だからね。

もう口を動かすことも出来ない僕は心の中で彼女に話しかけた。そうすると気のせいか美香ちゃんが少し微笑んでくれた気がした。

…………ミィィィ――――――――ンンン……ミィィィ―――――――ンンン……

 雲に隠れていた太陽が顔を出すと蝉の声がよりはっきりと響き渡る。その鳴き声はまるで僕らに対する鎮魂歌のように聞こえた。

       

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