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家出少年少女
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 家出少年と家出少女



 深夜営業しているコンビニで立ち読みをして、その後、決まったようにトイレを借り、自慰行為に耽る僕を見て彼女は何を思うだろうと今更感慨も沸かない流れ出た精子を拭き取ったトイレットペーパーを見つめながらそんなことが過ぎる。
 通り過ぎていく時間とともに、僕の体も空中にふわりと浮かんだ後の安堵感を残している。これでいささか楽になるとため息をついた。
「今日は調子がいいね」
 僕の隣にいる彼女はそんな言葉を投げかけた。僕は答えないでせっせと情けなくずり下ろしたジーパンをはく。薄暗いコンビニの天井は羽虫を飛ばして不衛生を披露するにはうってつけの場所だった。乱暴にしまわれたモップもその例をでない。そのモップの先端に張り付いている、黒々とした粘着物をとってみたくなるが汚いのでやめておく。この一連の流れに僕は僕が人間であることを悟りソレが非常にうれしくなって小躍りをしながら。トイレから飛び出た。
「チャック開いているよ。」
「わかってるよ。」
 どうせ、深夜のコンビニには男しかいないんだ。気にする必要もないだろう。
「私、女の子。」
「そうだったね。」
 彼女としゃべっていると、コンビニ店員は僕のことを見つめていることに気が付いた。まるで不審者を見るような目で僕を見ている。深夜のコンビニの店員は注意深く僕のことを見ている。そのことをこの店員が誰に話すのかが僕には非常に気になった。多分、よく知りもしない、夕方の時間帯にしかバイトを入れない女子高校生にその内容を話すのだろう。と僕は思う。多分、あの無表情が得意そうな顔でもロマンチックな出会いというものを望んでいるのだ。他人とは違う、飾り付けやすい、その時々に興奮を覚えられる気軽なロマンチックを。くそくらえ。僕はつぶやく。
「そんなこというもんじゃないよ。」
 彼女は、冷蔵の棚にある乳製品を物色しながら言う。製造日が気になるようで、一つの商品をくるくると回して遊んでいた。僕は、パンの棚に隠れて見えない彼女を追うようにして、その姿を確認し、わざわざ、かがんでいる彼女の顔に近いところの乳製品を取った。
「買ってくれるの」
「ああ。」
「やった。」
 僕と彼女の生活は始まったばかりだ。



 ポストの赤さを見て、昼は明るすぎると彼女はつぶやいた。
 どうして、と問うと、これじゃ、だれかココで死んだみたい。なんていうものだから、僕は可笑しくなって笑い出す。そのことがきっかけで、僕と彼女は夜にしか会わなくなった。時間はきまって丑三つ時。今は夏場だから、大体2時間半の生活だ。
 彼女は所謂ホームレスというやつだった。家出少女、なんて、世間のTVからボキャブラリをひっぱりだしてもかまわない。とにかく彼女には家がなかった。緑道公園の公衆便所の裏の、更に入って樹の裏に彼女の居場所はあった。大体そこのあたりで生活をしている。まだ、家を出て間もない頃だったので、服は比較的綺麗なものを着ていた。今時の子のファッションはわからないが、お世辞にも流行の服とは言える内容ではなかったものの彼女の印象とぴったりなワンピースは彼女の肌と見違えるくらいに、ぴったりと張り付いていた。
 僕は彼女に優しかった。何をするにも一緒でいようと努力を惜しまなかった。その甲斐があったか、なかったかわからない。でも、彼女は僕になついていてくれる。今では排泄でさえも。一緒の空間でないといられないくらいだ。僕たちは世間で言うところのなんなんだろうね。
「そんなのしらないよ。」
「つれないなあ。」
 ベンチに横たわりながら、器用にヨーグルトを貪る彼女はそれでもこぼれるヨーグルトを僕の太ももになすりつけながら言った。僕は煙草に火をつける。吸っている銘柄の名前もわからない。適当に買った煙草だ。じりじりと、音を立てて先端が燻る。彼女はその動作を見て体を起こした。
「かけて」
 僕は、答えず、肺にためた煙を彼女にかける。彼女の重たくなった髪の毛が少し持ち上がった。恍惚の表情を浮かべる彼女に、どうでもいいと思いながら、フィルターにまた口をつける。
「これ、後何回浴びたら死ぬかな。」
「待たなくても、時間が解決してくれるよ。」
「そんなに待てないよ。」
「そ。」
 家を出た理由なんて聞いたことがない。そんなものを聞いたところでなんになるのだろうか。彼女は若かった。多分、僕と同じくらいの年代だろう。16か17。最近の若者の短絡的な行動。そんな言葉で解決されるほど彼女の行動は珍しくもなんともない。その社会的印象が、彼女を、いや彼女たちを増長させているのだろうと僕は思っている。いままで危ない目にあったことはないのか? 聞いたことがある。でも彼女はよく答えてくれなかった。変わりに、いろんな濁し方をされて、危ない目には合ったのだろうが、最終的に安全だったことを知る。彼女は僕の中の唯一の家族であることは確かだった。
 一つの暮らしに飽きが来るなんてことは当たり前だと、彼女を励ましたこともあった。つらいことがあるなら近しい人に相談をするべきだとものたまった。僕は、彼女に対して親であることもできたし、それ以上の関係であることもできた。僕はいつも彼女を励ましていた。僕は彼女が生きていくうえで、大切な相談役として彼女のその社会的抜け道を援護し続けていた。
 僕たちは恋人なんかじゃない。
 僕たちがそもそも同じ土台に立っているわけではない。この生活で全てを決めているのは彼女の意思であって僕の意思ではない。ただ僕は彼女がこの世界という檻に居座れるように、居易い様に装飾してやることだけが僕の意思であり行動原理だった。親のような感覚。母性本能というのはこういうことを言うのだろうか。目の前ですくすくと成長していく彼女を見ている気分に浸っているのだろうか。でも、どちらかといえば、これは彼女の停滞であって成長ではない。
「琴乃。」
「うん?」
 彼女は僕の太ももに頭をおいて、うつぶせのまま答える。スラリと伸びた背中から掛けて臀部に掛けての肉に、彼女も女性だということを思い出せる。深夜の公園の闇は彼女の黒い髪も溶け込ませる。その髪が16、17の女性にしてはふさわしくない異臭を放っていたとしても僕は気にしない。べっとりと彼女の頭の油が手に滲んだとしても、僕はいつものように彼女の頭を撫でてやろうと思う。
 だけど、彼女はこのままではいけない。
 彼女は、帰らなければならない。
「いつになったら、家に帰るんだ?」
「えー。」
「そろそろ、お母さんとかも心配してるころだろう?」
「おかーさんなんて知らない」
 彼女は顔をずらして、公園の闇を見る。公園の闇には何が潜んでるんだろうね。
「でも。お風呂にも入りたいんじゃないのか?」
「うん。」
「なら帰ればいい。」
「君は、私に帰ってほしいの?」
 公園の闇に向けていた視線が僕に戻る。その目には不安のような、疑問のような、救いのような。よく分からない色が滲んでいた。
「そういうわけじゃないよ。」
「じゃあ、どういうわけ?」
「僕たちは子供だっていいたいんだ。」
「このままホームレスでいられることはできないってこと?」
「いられるんだろうけど。多分、この先の僕たちのプライドが許さないんじゃないかな。」
「大人だね。」
「子供だよ。」
「悩める、子供?」
「だな。」
 彼女は僕に笑顔を見せてくれた。一日で何回も見せない笑顔だ。あまり僕が冗談を言わないせいもあるかもしれない。彼女の背景には家を出た少女という現実がある。それは彼女自身が悩んで出した答えであり、またそこには子供から大人への切り替えという一つ先の闇が佇んでいる様に思う。だけど、この笑顔は嘘じゃない。僕に見せてくれるこの笑顔だけは、彼女の子供の遺産なんではないか。
「でも、帰らない。」
「そう。」
 そこで、今日の会話は終わった。夜の闇は多分今が一番深い。暁の見える前の空は、静かな藍色を称え、星の輝きを藍色で消し去ってしまう。切り替わる一時の一番深い闇。多分僕たちはその場所にいるんだろう。いつまでここに居られるか判らない。それでも、その場所を、この時間を美しいと感じるこのときだけは。まだ僕たちは子供で居られるのだろう。




 今日の昼間は雨だった。一人静かに雨のことを思う。
 雲間にチラチラと瞬く太陽に今は引っ込んでろと呟くが、そんなことをお構いなしに、雲の細部から、その雨粒の間から光は漏れてくる。コンクリートを淡く照らす白の光に、息を吐きかけて撫でてやる。硬い質感は感じることができず、皮膚の様に張り付いた雨の膜が雨は水で粘着質なのだということを思い出させた。
 デパートとデパートの間に僕の姿はあった。その間の、暗い雨の入る水道管の向こう側、フードを被って座り込んでいる僕はまるで、打ちひしがれたラッパーだ。そんなイメージが先行する。目の前にある鉄柵の向こうの自転車を見て、人の多さをしる。僕のような人間はたくさんいるさ。そして、今だって彼女は生きている。今彼女は何をしているだろう。僕はこうやって町の人々の多さをしって、勝手に打ちひしがれている。腹のすき具合も適当に、家に帰らずブラブラと、巣を知らない蛙のような気持ちだ。どうやって家に帰ればいいのだろう。家に着くまでの光景は? 家に着くまでの心持は? 家についてからの仕草は? 僕はどんな言葉を作っていた? 全てがわからない。多分置き去りにしてしまったんではないだろうか。どこに? 決まってる。あの場所だ。彼女が居るだろう、あの緑道公園。あの公園に全てを置き去りにしてしまった。
 彼女に言った言葉が思い出される。でも、その言葉はこの雨と一緒に上から降ってきてそして、下に落ちていく。その地面の水溜りを啜る事が僕にはできない。出来て精々コンクリートに張り付いている言葉を撫でることだけだ。もちろんそれは拾わなくて良い言葉の数々だ。彼女は僕を必要としてくれる。そのことだけが僕にとっての心の支えで、今の生活に対しての答えのようなものだった。
 少し歩いてみよう。立ち上がって、太ももに付いた雨を払う。ヨーグルトの染みがあることに気が付く、僕はそっとそこを撫でて、そのことを忘れたように歩き始めた。鉄柵の向こうには駅が広がっている。今の時間帯は夕方。もう、ここで3時間も座っていたらしい。
 駅前には傘をさした人々が往来していた。授業を終えた高校生や中学生の姿もちらほらと見える。みな一人ではいない、誰かを側に携えて、楽しく談笑している、あれは彼氏だろうか、それとも男友達だろうか、そんなことが気になる。なんでそんなことがきになるのか、僕には性欲があるらしかった。いや、性欲なのだろうか。だれか隣に居てほしいという孤独の言葉なのだろうか。今僕には友達と呼べる人間は一人も居なかった。相談をするような、そんな人間はいない。僕が家を出たことで誰が心配しているのだろうか。
 傘の進む方向に適当に足先を進める。この先はデパートの方角に向かっている。そのデパートの中にはゲームセンターもなければ、都合の良い食事どころもない。唯一あるのは、不衛生なマクドナルドだけ。だけど笑いながら女と男は入っていく。どうせ、隠れた階段の脇で、ふたりで涼みながら愛でも語るのだろう。
 地下の食物売り場に出る、そこで振舞われている試食品を物色し、あははははは。と楽しそうに笑いながらその二人はお互いのロマンティックに胸をときめかせていた。楽しいことだろう。それは楽しいな。楽しそうだ。僕だって混ぜてほしい。その片手につまんでいるウィンナーの一つ分でも良い。その爪楊枝の部分でも良い。君たちの共有した時間を僕にくれないか?
 共有した時間、僕は誰と共有したのだろうか。右側頭部が鈍痛を醸し出す。僕は、以前、こんな時間を誰かと過ごしたんじゃないのか?
 
 目の前の景色がいつのまにか、スクリーンの様に目の前から、現実から遠ざかって行くような感覚に囚われる。これはどこかに僕の意識が向こうとしている。僕は見たくないのに。それでも現実感は損なわれて、頭の内側に僕は深く深く溶け込んでいく。この記憶は何だ?
 顔も、髪型も思い出せない。そもそも性別もはっきりとしない。だけど、わかる。彼女は。彼女は女性だと。気分は通常。それこそが日常といわんばかりの充実感。噛みあわなかった歯車がきっちりと僕の体には嵌め込まれているような、失われていたものを取り戻したような。
 その人物は、お茶の葉を見て喜んでいた。渋みが強い方がすきだと。そんなことを言っていた。どうせだったら君には珈琲が似合うよ。そんなことを漏らしたのだと思う。その人物の表情は、今の僕には思い出すことが出来ない。
 その人は前をどんどん歩いていく。地下の食物売り場を器用に人並みを擦り抜けていく。待ってくれ、僕はそんなに早く人を擦り抜ける術を知らない。その人は僕が後ろに居ることに気が付いて、手をさし伸ばしてくれる。
 そうだ、その人は、いや、彼女は。いつだって僕のそばにいてくれたじゃないか。いつも、裏切らず、必ず僕のことを考えてくれた。それがたまらなくうれしくて、そのことを僕はいつか返したくて。まだ、僕は君にふさわしい人間じゃないけども、だけどいつかきっと、君に相応しい人間になって、そのときには、君も僕の事を、ちゃんとした男として認めてくれているように思う。そうやって僕たちは日常を暮らしていくんだ。
 でも。
 僕は、なぜ今ここに居るんだろう?

 突然、目の前の意識が遠ざかる。肩に何か強い感触がある。手だ、誰かの手が僕の肩の上に乗っている。驚いて後ろを振り向くと。そこには誰かが居た。
「おい、八代。お前なんでこんなところに居るんだ。」
 何を言っている。お前は何で僕の名前を知っている。僕は何も答えることが出来ない。すばやく、顔を隠すように、殻を被るように、パーカーのフードを被る。そして、逃げ出すように前を歩いた。
「おい!」
 もう一度肩をつかまれる。さっきよりも確実に強い力でつかまれて、僕は顔を顰め、相手を殴ってやろうと決意をするが、でも、それでも手は振り上げることは出来なかった。
「お前、なんで学校に来ないんだ。大体、家にも帰ってないんだろう。」
 お前は何様だ、お前は僕の何を知っている。なんで、お前は僕の全てを見たようなことを言う。大体、僕はお前の顔なんか知らない。お前なんかしらない。お前ら、なんか。

「篠崎、心配してたぞ。」

 心臓の鼓動が一気に強まる。篠崎? しのざき、し、のざき。死の先。死の先には何があるのだろう。多分何もない、誰かの回想と妄想、そして追悼。そのくらいのものだ。僕はどうせひっそりと、公園の裏で腐乱死体になって発見されるのだ。何が悪い、何が悪い! 篠崎? ハッ! 誰だ、そいつは誰何だよ! 言ってみろよ。
 やっぱり、殴ろう。こいつを殴ってそのまま逃亡してしまおう。だってこいつは僕と、誰かを勘違いして、心配なんてされるはずのない俺に対して、心配してるぞなんていう気休めの言葉を吐いているのだから。気休め、全てが気休め。僕が心配されているはずなんてない。だって、いつかの記憶には。
 あたまがいたい。あた、まがいたい。
 目の前がずきずきする。涙があふれ出る。いつかの懐かしさを思い出す。あれは子供のころにゲームをやっていて、そのBGMがすごくお気に入りで、そのゲームのサウンドトラックを買って、何回も繰り返しリピートをして、聞いて聞いて聞きまくって。その所で何回も泣けてきて。何でだろうと思う。多分あのころにはもう戻れない。幼心に、剣や魔法に憧れを持ち、そして自分が何かになれると決め付け。世界までもをひっくるめて、自分の日常も全て救えるヒーローになることが出来た。今はもうなれない。そのころの記憶は、輝かしいものになってしまって、眩しくて、でも目を背ける事が出来なくて。だから、泣いてしまうのだ。
 振り払うように、裏拳を入れるように腕を振り回した。
 その手が誰かにつかまれる。
「こんなところで何してるの!」
 彼女だ。
 琴乃が、来てくれた。
 昼間は会わないと決め付けていた彼女がそこに居た。
 そのまま腕は引かれていって、あまりに強い力だったので僕は躓きながら、エスカレーターの階段を彼女に引っ張られながら走る。後ろから声が聞こえる。だれかは、叫んでいる。そんな言葉は聞こえない。僕の生活に、彼は手を出すことが出来ない。
 エスカレーターはカンカンカンと間抜けな金属音をだして僕の居場所を告げてくれる。ガラスで出来たドアも開け放って、人ごみの中を突っ切っていく。彼女は僕の手を持ったままだ。彼女は、慣れたように僕の目の前をどんどん走っていく。僕にはそんなことができない。何で君はそんなことが出来るんだい。どうして、僕を連れて前を走ることが出来るんだ? 涙が止まらない。もうやめてくれ、どうして、僕を連れて行くんだ。どうして、どうして、どうして。
 バスロータリーをぬけて、そのまま、緑道公園の方に走っていく、不思議と体は疲れていなかった。だけど、肺が確かに酸素を欲していて、僕の口元は涎や涙や鼻水で酷い事になっていた。拭くことも適わない。彼女は走り続ける。彼女の足が、全てが背景と一緒に解けていく。僕もその中に入っていくのだろうか。
 坂を上りきって、緑道公園の近くに来て、僕たちは初めて歩き始めた。そのときには疲労という言葉しか頭の中にはなかった、彼女にありがとうなんていう気の利かせた一言なんて言うことは出来なかった。痰が喉に絡まってうまく呼吸が出来ない。何もかもが苦しい。
 彼女の方を見ると彼女は綺麗な顔をして笑っていた。
 夕映えの空が背景に映し出されていて、雲は綺麗ないわし雲だった。空が低い。雲が真横から見えるような気がする。彼女はその延長線上に立っている。少し丘になっている、緑の芝生に立ちながら、赤いマグマのような大地に立って僕を笑顔で受け止めている。僕はだらしなく涎をたらし、現実の苦痛に耐えていることを側で笑っている。エガヲで見てくれている。
 夕刻を告げるチャイムが、鳴り始めた。

 何かを思い出す。やめろ。
 やめろ、やめろ。このチャイムは聞きたくない。段々と、また先ほどの記憶を思い出させる回想が僕の中にあふれ出す。目の前が急に暗くなる。やめてやめてください。思い出したくない。あいつの名前は草野。草野忠志。草野は僕に話しかけた。

「篠崎が心配してるぞ。」

 ああああああ。やめろ。その名前を呼ぶな。やめてくれ。僕の中から穿り出さないでくれ、彼女はまだ微笑んでいる。僕の苦痛を僕だというように。いやむしろ。彼女自身が僕だというように。彼女自身が。僕?
 じゃあ、僕の、彼女は誰なんだ。
 ずきり。
 
 暗い、ここは部室の前。誰かが声を出している。
 黄昏色に染まった廊下の床は目を背けたくなるくらい輝いている。白い粒子が足元を漂っている。目の前には部室のドア。だれかが叫んでいる声が聞こえる。誰だ? 誰が叫んでいる。その声に、どこも嫌悪を感じることが出来ない。これは嬌声?
 ドアのノブを捻る。がちゃあり、音は僕より遅く進んでいる。だけど、ドアを開く光景はどこまでも早い。まるで、僕自身が急いで開いたかのように。僕はこのとき何を思っていた。なんで僕の頬には涙が流れている。だらしなく、涎をたらしている?
 ドアの間の空気が、僕の体を撫でる。吹き出た汗を洗い流すかのように、現実感の冷たい空気が体を冷やす。また、汗をかく。背筋から伝わって、前へ、前へ。前へ。
 部室は、夜だった。
 常夜を感じさせる。夜。そこにはありふれた風景の断片があって、僕はそれを垣間見てしまったんだと思う。誰にも理解されない、誰かと誰かの思い。そして、行為。愛情の形に指輪なんか要らない。確かめ合うなら体温だけで良い。でも、僕はその体温を感じることが出来ないから、この夜についていくことが出来ない。
 机はギシギシと音を立てていた。勉強机を八つに繋ぎ合わせて出来た、即席の会議机、その上に、思案する、何かが乗っかっていた。それは、その姿は。

 彼女が足を開いている。首を持ち上げて、誰かの首に手を回して。その背中の厚みを確かめている。
 
 鯵の開きを思い出させる。あいつは菜食家なんだ。ブレザーを前から机に広げ、シャツを放り出し、机と重力を一体として。溶け込んでいる。水のしぶきのスローモーションのように、二人は細々とした動作で水音を弾かせていた。荒い息が聞こえる。
 暗い、部室。一人の男、一人の女。行為。知らない男。彼女。
 彼女は、篠崎、は。篠崎琴乃は、目の前で、知らない男と。何かを………。

 目をもう一度開いたときには、彼女の姿はなかった。
 ここは緑道公園、そして、そのベンチ。
 おかえりチャイムはもうとっくのとうに鳴り止んだ。僕は懐にあった煙草を探る。
 煙草は見つかったけど、雨に打たれていたせいか、フィルターは時化ってしまってもう吸うことは出来ない。僕は何かを思い出した。そして、何かを忘れて、孤独になった。
 彼女は、いた。
 けど、彼女は居ない。
 僕は、自分の名前を思い出す。家に帰る道のりを思い出す。どんな言葉で、どんな風に暮らしていたかを思い出す。すべて、彼女に置き去りにしていたものが、草野との出会いですべて思い出されてしまった。
 僕は信じていた人に裏切られた。
 彼女はどこまでも連れてっていってくれる人だと思っていた。彼女こそが僕の足りない絵画のかけらなんだと信じていた。だけどそんなことはなくて、彼女は僕の知らない男と、その場限りのロマンに身を浸していた。聞いたことのない嬌声を上げて。いや、聞いたことがある。そこまで彼女はその男に惹かれていた訳ではない。多分、その男も僕と同じ様に、同じような愛を、彼女に与えていたのだ。水音が聞こえる。パシャパシャ。その音で彼女とその男の逢瀬をまた思い出す。
 あのときの彼女はすでに僕の事なんか気にしては居なかったのだ。あの後、彼女が僕のことを見た目が忘れることが出来ない。どこか遠い、現実ではない、恐ろしいものを見たような目。そんな目で彼女は僕のことを見ていた。
 何も、悪びれた様子もなく。ただ、淡々と、行為の中断に絶望を覚えるような目。男は怒声を上げて僕を殴った。そして、そのまま家をでて、居ないはずの彼女の幻想にすがり、いつまでも一緒に居るという情けもない虚構に縋ってこの一週間を生き続けた。
 もう、頃合だ。そろそろ、生きている意味なんてあるのだろうか。
 僕は大切だと思っていた人に裏切られ。あの二人の逢瀬が理解が出来ないことを逆上され、殴られそのまま、夕方の廊下を走ってこの緑道公園に行き。幻を追い続けた人生。
 情けがない。
 今まで彼女に呟いていた言葉は何だったのだろう。あの言葉の数々は誰に向けられていたものなのだろうか。
 居ないはずの彼女に。
 水音はまだやまない。それどころか近づいてくる。パシャパシャ。どんどん近づいてきて、僕にあのときの彼女の行為を認めろとせがんでくる。僕は怒ることが出来なかった。彼女のその行為を怒ることが出来なかった。ただ、情けなくなっていた。裏切られた裏切られたという言葉が頭のなかに残響していて、それ以外を考えることが出来なかった。あの時、あの男の顔を殴ることが出来たなら、あの時、彼女の頬を張り飛ばすことが出来たなら。
 出来たなら、何なのだろう。その先に何が待ち構えていたのか? その答えはいつまでも出てくることはない。その先の答えも、僕は彼女という幻想に縋ることで逃げることが出来たのだろう。新しい。恋というやつに逃げることが出来たのだろうか。
 いや、出来なかった。彼女の幻想は僕にとって理想の恋人ではなかった。ただ、今の状況を甘えさせてくれる、寄り代としての心の道具でしかない。なら、僕の答えはどこに消えていったのだろうか。いや、違う。答えは出していない。僕は問題を先送りにしていただけだ。涙があふれ出る。とめどなく涙があふれてくる。嗚咽がとまらない。ぐ、ぐぐぐ、と声を漏らしてしまう。悲しみが、遅れて僕の心にやってくる。僕は、僕は。

 水音が止んだ。もうパシャパシャと、近づいてくる音は聞こえないその代わりに。
「見つけた。」
 彼女が、目の前に現れた。
 僕は、彼女の顔を見ることが出来ない。彼女は傘をさしていた。肌に張り付くようなワンピースは着ては居なかった、むしろ3百人は着ている制服を着て、僕の目の前に現れた。誰かと同じ、記号。高校生という遣り過ごしの記号を身にまとって、家出少年の前に立っていた。
 静寂が夜の公園の形を細部まで尖らせて行く。鋭利な刃物のように現実感を纏いながら。
 僕の座っているベンチも座りにくくなった。僕は、立ち上がる。
「また、逃げるの?」
 そうさ、また、逃げるんだ。この公園には居られなくなった。だって君が居るから。
「私が、浮気をしたから?」
 そうじゃない。僕は、どうすることもできないんだ。答えが見つからないんだ。また、モラトリアムを探しに答えを出すための、モラトリアムを求めて駅前の暗闇とか、赤いポストとか、情けなく立っている卒塔婆の卑しさを眺めに行くんだ。
「答え、出してよ。」
「答え?」
 僕は、初めて彼女のほうに向き直った。
 胸の中の憎悪の種火が、ついに炎に変わったのかもしれない。憎悪。憎悪? 僕はやはり、彼女に対して怒りを持っていたのか? なぜ、なぜだ?
「私、最低でしょ。あのまま、あの男と付き合うよ。」
「そんなことを、言いに来たのか。」
「・・・・・・違う。」
「あの男は好きじゃないなんて言い出すのか?」
 僕は、静かに聞く。胸の内は混乱している。僕は何を言っているんだ。
 理不尽な怒りというものが目の前にあるとして、それを怒ることが正しいのか? そんな疑問が、目の前にちらつく。僕は、普通でありたかった。僕は、普通でありたい。どこまでも公平に生きていたい。
「人の気持ちは永遠だと思う?」
 突然、そんなことを言い始めた。
「私は、そんなことはないと思う。結婚をして、何十年も付き添うことなんて、そう簡単には出来ない。むしろ私にはそんなことは出来ない。いいと思う男が居たらそっちに靡くわ。」
「だから、僕を選ばなかったと?」
「選ばなかった、って思ってるのはあなたでしょう。」
 挑戦的な口ぶりで、彼女は言う。彼女は自分自身をさらけ出している。僕は、怒りを携えることが出来ない。そんなことは、どうでもよくなってしまっていた。
「だから、ほかの男と一緒になりたかったのか?」
「さあね。つまらない人生だと思ったの。一人の男に尽くすのは。」
「ここまで来ると清清しいな。」
「そう。」
「それで、君は何を言いに来たんだ。僕を笑いに来たのか? 情けない、彼女に浮気をされて嘆く僕の姿をあざ笑いに来たのか。」
「私と、付き合ってて。」
 彼女は、そういった。
「私は、これからもあなたと付き合うわ。そして、その最中に、何度もほかの男と寝るでしょう。だけど、あなたは私と付き合ってて。」
 彼女は、淡々と沿う告げた。目の前が赤の色を称える。怒りではなく絶望の赤。彼女を張り飛ばすことも出来そうにない。殺したくなる。首を絞めて、そのまま木に吊り下げ、辱めたくなる。でも、それは適わない。なんでだ。なんでなんだ。なんでなんだよ! やってやれ! やってやれよ、お前だってそう思ってるんだろ。
 いや、そうじゃない。これが現実なんだ。
 そう、これが現実。
 いつまでも、幻想を引きずっているわけには行かない。僕も、彼女も考えは一緒だった。人の心は移ろいやすく、そして、はかない。それをずっと続けることなんて不可能なんだ。そんな枷を嵌めていることなんて出来るはずがない。そう世界は一人を選び一人を愛すことだけに美徳を見出している。だけど、そんなことは出来ないから、そんなの適わないから。美徳。なんだ。あくまで美しい道徳観念。これが出来ればいいね。と作り出せない黄金に対して夢想するだけの思考。そんなものが流布している。
 彼女は、彼女だ。
 彼女の行動も、間違いも全て。愛すことが出来ないのなら。
 僕は、都合のいい彼女の幻想に縋るだけの情けのない男になってしまうのではないか。
「あなたは私の枷。あなたの愛情は私にとっての錘。もし、私を愛しているなら。」
 彼女の側に近づく。
「私を、怒って。・・・・・・そして赦して。」
 僕は初めて、彼女の前に立って彼女の瞳を見つめた。平和だったときも、こんなに瞳を見つめたことはない。
「君は間違ってる。僕が全部を赦すと思ってる。」
 瞳をそらさずに見詰めていると、彼女の宇宙に取り込まれてしまうのではないかという不安が僕を包む。でも、僕は、僕を見つけることが出来た。感謝をしたい。僕の幻想。偽りの彼女。楽しかったこの一週間。琴乃。いつになったら死ぬのだろうと。幻想の琴乃は呟く。大丈夫、いつ死ぬかは判らない。でも僕は多分君と一緒に死んでいくんだ。君の罪も何もかもを引っさげて。現世の憂いを僕という愛に変えながら君は僕と一緒に死んでいくんだよ。彼女は母親とそりが合わなかった。だから出て行った。でも、もういらないんだ、そんな設定は。
 さあ、僕の元に戻っておいで。僕の怒り。
「僕は、君を赦さない。これから、ずっと、一緒に居て、君をずっと赦さない。僕は君の枷で居よう。君は僕という罪を引き連れて生きていくんだ。もう。絶対に。一生。赦さない。」
 僕は大きく腕を振りかぶる。彼女の目は開かれたままだ。彼女の瞳に僕の姿、いや、幻想の琴乃の姿が映った。似合いのワンピースを肌にぴったりと馴染ませて、脂がかった髪を重そうにしながら。
 それでも、彼女は、確かに。あの幻の丘に立っていたときのように。
 悲しそうに、嬉しそうに、憂いを帯びて。
 本当に、幸せそうに。微笑んでいる。

 破裂音が、公園の静けさを更に尖らせた。





 世間は僕を情けのない、甲斐性のない優柔不断な人間だと罵るだろう。
 僕自身もそう思う。彼女は僕のことを枷だといった。でも、枷を嵌めたのは彼女で、嵌める意思こそ、愛情だったのではないだろうか。僕はこれからも彼女に引きずられながら、この世界を歩いていく。彼女の枷として。
 僕の答えは、あの時、出来ていたのだろう。
 これからも、彼女と付き合っていたいと。彼女を、その行為を通して愛していると。
 愛の形を考える。
 愛の形は行為だけでは済まされない。行為はあくまで裏づけされたと思われる行動であって、愛情そのものの形ではない。その間の二人にどんな感情や、割り込めない言葉があったとしても、その行為は記号として消費されてしまえば、なんてことない、文字の並びにしかならないのだ。
 だって、そのことで動くのはちっぽけな僕の感情だけなのだから。
 琴乃は、家出少女は僕の心の中に居る。
 今では彼女の顔を思い出すことが出来ない。自分の顔を鏡でしか見れないように。鏡で見れない自分の内面は、どこまでいっても見ることが出来ない。だから、もう、僕は彼女の言葉も、そして好意も思い出すことが出来ない。染みの付いたジーパンはもう洗濯に出してしまった。今頃、一週間の汚れと一緒に洗い流してしまうだろう。時々あの緑道公園に立ち寄ってみても、何の感慨も受けることは出来なかった。
 世界は、僕で出来ているわけではない。他人との相互に世界は出来ているのだ。もし、どちらか片方が、裏切りを否とした場合は、その世界は崩壊して、新しい世界が構築されるのだろう。でも、僕たちの場合は違った。僕は彼女に対して怒り。そして、赦した。いや、これから一生を掛けて、彼女を赦していくのだろうと思う。
 恋愛とは、多分怒りに似たようなものなのだ。
 僕は、一生を掛けて、彼女を愛し、赦していく。
 一つ一つ、噛み砕き僕の心がボロボロになって、行っても、彼女の感情が、僕を癒してくれるだろう。
 日はまた昇る。そして沈んでいく。その繰り返しの作業の中で、僕はどこまで彼女を繋ぎとめられるだろうか。不安は残る。だけど、この気持ちと、枷になってくれと、僕が求めたように彼女もそう求めた気持ちがあれば、僕たちはどこまでも行くことが出来るのではないだろうか。
 他人の世界から逸脱した、感情。
 僕の胸の奥に、その感情は今でも火をつけて、燻らせている。





 眠い目を擦る。今日は、あの男に会いに行く日だ。

 僕は、あの男を怒る事はないだろう。
 あの男に掛ける愛情なんて、ひと欠片も、ないのだから。




 ―了―

       

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