Neetel Inside 文芸新都
表紙

Salvaged Life
第一審『Sink』

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 粒の大きい雨が降っていた。
 街路灯の光に映し出された雨は少し横殴りだ。天を指していた傘を傾けて調整する。ボタボタと雨がビニールを叩く音が耳に響いていた。もしくは、それしか聞こえない。
歩行者はほとんどいなかった。たまに物憂げな人影が見えれば、知らないうちに消えてしまっている。
秋の雨特有の妙なさわやかさはなりを潜め、梅雨のような黴臭さがあった。
昼頃、雨模様だった曇り空は、日が暮れると同時に泣き出した。それでも、何かを悼んでいると受け止めるには、雨足が強すぎた。
ワイシャツの胸ポケットから、先ほどコンビニで買った煙草を一本取り出して火をつける。何か重たいものが肺を回る感覚は久しぶりだ。先端で燻る火は、雨で体が冷えてしまったからそう感じるのか、暖かく感じられた。
 空を見上げた。雲とも分からない、のっぺりとした闇に遮られて白い月は見えない。今日それが見られないのは残念だと思った。今日は、俺の人生の中で一、二を争う特別な日だからだ。何となしに一つ、溜め息をついた。
 視線を前に戻すと、遠くに車のヘッドライトが光った。サー、ともジャー、とも聞こえる水飛沫をあげながらこちらに向かって走行してきている。道路脇から、それが徐々に大きくなっていく様を眺めて、俺は世界各宗教の祈りの言葉を唱えた。もはや何のために唱えたのかも自分で分からない。
眩い光を両眼に灯しながら車は近づいてきた。停車してある赤い軽ワゴンの陰となって、あの車の運転手からは俺の姿は見えない筈だ。
 俺はどこか気が可笑しくなってしまったのだろう。内にも外にも、俺を止めるものは何一つなかった。
 俺は一歩踏み出し、

「―――さて、一丁死にますか」

そう、誰かに告げて車道に出た。光が視界を埋め尽くし、クラクションに意識がしびれ、そのまま世界が大きく回転した。
頭が夜の海に沈んでいく。
その時発見したことと言えば、最期に見えるのはキラキラ自分の回顧録ではなく、どうしようもない現実だということだった。








思えば、コールドゲームの人生だった。
子供の頃からやる事なす事全て終わってしまった後だった。小学校の行事でやった演劇では、主役をやりたいと思った。役決めの道徳の時間。願望はある、けれどなかなか手が挙がらない。汗ばむ掌をこまねいていたら、クラスの一番かっこいい奴が迷いなく挙手した。それだけで担任の教師は、待ってましたと云わんばかりに決定の旨を伝えた。まるで初めから、そいつ以外の生徒を想定していなかったかのように。クラスメイトの拍手と共に勝負は決まった。別にそいつとはあらかじめ勝負を取り決めておいた訳じゃない。真っ直ぐに担任を見つめるそいつの横顔に、俺は掌の汗を、半ズボンの腿の部分で必死に拭った。
中学も高校も、後は大して変わらなかったと思う。いつも俺は遅すぎた。
そして今日も、人生をまっとう出来ずに試合は終了してしまった。スコアなんて見たくもない。自殺者の生涯が素晴らしいものだったなんて、聞いた事がない。
(・・・・、・・・。)
死んだ後に思うのも何だが、どうして俺は保険金自殺なんて考えたのだろう。
不景気の最中に会社切られて、再就職も難しくて、何とかファーストフード店でアルバイトを始めてみれば若い奴らとはそりが合わずに、挙句の果てには家族のためだと言って、その家族残して一人で戦線離脱してしまうなんて。今時流行りもしない、馬鹿げた話だ。
それならいっその事と思い、一家心中も考えてみた。しかし妻も子ども達も、包丁を掲げた俺を見て「あなた、あなた」「お父さん、お父さん」と言う風景を想像したら一瞬でかき消えた。
だからこの愚行は考えて考え抜いた末の、結果だったと思う。
真実悲しいのは、家族が強く止めてくれなかった事だった。決定してしまえば、後の準備は早かった。最後に、妻は抱かせてくれた。繋がる際に、恥ずかしがって口元を手でおさえる癖は昔のままで、不思議と安心した。でも、それだけだった。俺は妻の湿った白い肌を見、妻は俺の案山子みたいな顔を見ていた。
事情を知っている妻と娘は、無表情で俺を送り出し、知らない小さな息子は、この雨の夜に出かける俺を、首をかしげて見ていた。
(・・・です、・・・・。)
やはりここで俺は消えよう。神の声が聞こえる。浮遊感から変化し、上昇気流に乗ったような感覚に襲われる。地獄の沙汰も金次第と言うが、金のない俺は幸運にも天国に行けるようだ。さあ、俺の名を呼ぶのはどっちだ。神か仏か、この柔らかいヨルダン川風味の声はイエス様の方か。早く、俺を連れてってくれ――――。




「栗山さん、起きられましたか」
視界の端から端まで、白い天上。その中で俺を見つめる推定イエス様も、白い布を纏っている。清潔で神秘的な匂いが身を包んでいた。俺は朦朧としながらも、感謝の意をこめて呟いた。
「ああ・・・・父よ」
すると、彼は一瞬言葉を選ぶように間をおいて言った。
「いえ、栗山さん、私は医師です。加藤と申します」
 さすがに、俺は神様の名前を『加藤ヨシュア』と信じきることが出来なかった。急速に世界が色づいていく。よく見れば、辺りの白い空間は微かに年代を感じさせる壁紙だった。天国の空気だと思っていたものは、消毒の独特の臭いに過ぎなかった。そして目の前にいるのは、生身の人間。白衣を着た、白髪交じりの日本人である。感覚を取り戻した耳には、ワゴンの車輪の音や、ワイドショー仕込みの世間話が入ってくる。
 痛む首を回してみれば、午後の一時を回った時計が棚の上で時を刻み、栗山洋介、とマジックで書かれたプレートがベッドのパイプ部分にぶら下がっていた。
 「・・・嘘」
 なんと言うことだ。試合はまだまだ終わっていなかった。ただ少し、雨天停止をしていただけ。すぐに止んで再開されてしまったのだ。
 何処からか、アンパイアの高らかな試合再開の声が聞こえる。

俺はまだ、朝を迎えて、生きていた。

       

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