「圭輔兄さんに、僕の気持ちは分からないよ」
 それが、私の双子の弟であるところの、二見祐輔の口癖だった。
 初めに断わっておくと、私は兄という役割でいることに何の不満もなかったし、兄であることで祐輔に対して優越感を持っていたなどということもない。
 むしろ、何より大切な弟を守ってやらねばと、そればかりを考えていた気がする。
 しかし、祐輔にはそれが煩わしかったようだった。
 祐輔は、周りの人間から私と自分を比べられることを酷く嫌った。
 私と祐輔は、得意なものや苦手なもの、趣味や女の子の好みすら似通っていたのだ。同じ道の、ほんの少しだけ前を歩く兄という存在は、祐輔にとって目の上のたんこぶでしかなかったのかもしれない。
 祐輔が抱えている劣等感に気付いてから、私は意図的に自分がしたいと思う事柄を避けて行動するようになった。
 祐輔に道を譲るように、祐輔が困った時に助けてやれるように。部活、勉強、その他なんでも。自分が苦手だと思うことを率先して行うようにしてきた。
 そうしているうちに何年か経ち、一時は険悪だった祐輔との関係も大分和らいだものに変えることができた。
 私たちはいわゆるカギっ子で、親がいない夕方以降に二人きりで会話をすることが日常の一部だった。
 学校であったこと、両親や友人とのこと、互いの趣味や勉強のこと。様々なことを語り合った。私たちが兄弟にしては異常なほど仲が良いというのは、恥ずかしながらも自覚しているつもりだ。
 私たちが高校二年になってしばらくしたある日、祐輔は突然こんなことを言い出した。
「兄さん、僕、好きな人ができたんだ」
 軽い驚きと共に相手を訪ねると、私とも面識のある人物だった。祐輔と同じく生徒会に所属している三年生だ。
「兄さんに相談に乗ってほしい」
 そう言われて、頼られて嬉しい反面、私は困ってしまった。
 白状すると、私はこの歳になっても恋愛の一つもしたことがなかったのだ。そんな私が、相談に乗れることなどあるのだろうか。
 しかし、祐輔の話を聞いているうちに、私の心配は杞憂であったと分かった。祐輔は私に、彼女の好みや趣味やらを尋ねてきてほしいと頼んできたのだ。
 面識があると言っても、仲がいいと言えるような関係ではない。しかし、私は頼ってくれる祐輔に答えたかった。「そこまで深くは聞き出せないと思う」と断り、私はその頼みを引き受けた。
 私が彼女と面識を持ったのは、生徒会室でのことだ。私自身はこの学校の生徒会に所属しているわけではないが、祐輔の様子を見に何度か出入りしたことくらいはある。
 翌日。さっそく私は生徒会に用がある風を装い、三年生のクラスへ出向いた。彼女はすぐに捕まった。尋ねてきたのが私だと知ったときに少し驚いたような表情を見せたのは、多分あまりに久しぶりだったからだろう。
 生徒会へと持ってきた出来合いの用事を終え、あくまでついでといった風に私は切り出した。
「良かったらでいいんですけど、先輩に相談したいことがあって……。少しお時間もらえませんか?」
 彼女は少し考えるそぶりを見せた後、
「うん。じゃあ、放課後とかでいいかな。今はもう授業始まっちゃうし。その時にまた来てくれる?」
 と提案してきた。できるだけ人の少ないところで話したかった私としては、願ったり叶ったりだ。
 そして放課後、帰りながらでもいいかと言ってきた彼女に同意し、下校しながらどう話題を切り出そうか考えていると、彼女の方から私に話を振ってきた。
「でも、よかった」
「え、何がです?」
「だって、最近二見君休みがちだって聞いてたから。生徒会にもあんまり顔出してこないし」
「あー……そう、ですね」
 自分の思っていた方向と違う話題だったことに戸惑いながら、私はできるだけ穏便な言い訳を探す。
「えっと、弟……いや、兄が体を壊していて」
「お兄さん? お兄さんなんていたんだ?」
「ええ、双子なんですけどね。親が仕事で忙しいので、僕が看病を」
「へー、偉いんだね」
「そんなことないですよ、当然のことですから」
 早く本題に話を移したくて、私はさらりと言い流す。すると、彼女が私の顔を不思議そうに眺めているのに気がついた。
「どうかしましたか?」
「ん、なんかね。今日の二見君、いつもと違うんじゃないかなーって」
 心臓が、一際高く脈打つのを感じた。
 なぜ彼女はそんなことを気にするのだろう。こちらは相談をしたくて話を持ちかけたというのに、なぜそんなどうでもいいことを聞くのだろうか。この女は、こちらの話を忘れているのではないか?
「なんか、今日の二見君大人っぽいよね。落ち着いてるって言うかさ」
 そんなことはどうでもいい。私は祐輔のために彼女の好みを聞きに来ただけなのだ。どうにか話を軌道修正しなければ。
 私は、この女から見えないように唇を噛んだ。
「そ、そんなことは、ないんじゃないですかね?」
「そんなことあるよ。うん。なんか休んでる間にイメージ変わったなぁ。あ、そうだ!」
 なにかいいことでも思いついたように、パンと手を叩く目の前の女からは嫌な予感しかしない。
(……馴れ馴れしいな)
 最初に感じた彼女の親しみやすさは、私の中でただの出しゃばりへと姿形を変えていた。
 不快が顔に出そうになるのを押し殺して、私はじっと我慢する。
「生徒会の後輩はみんなそうしてるから、二見君も私のこと名前の方で呼んでよ。私も二見君のこと名前で呼ぶからさ。その方が会の中での結び付きって言うか、チームワークが良くなる気がするんだよね」
 嬉しそうに話す女の顔は、確かに魅力的だった。祐輔の好みなのだから。祐輔の好みは私の好みだから。魅力的に見えた。どうしようもなく。だから我慢していたのに。でも。
「ねぇ、祐輔君?」
 その名前を聞いた瞬間、私はポケットの中に忍ばせていたものを、思い切り彼女の腹に突き刺した。
「……え?」
 生暖かいものが腕を伝う。綺麗に整っていたはずの彼女の顔が、痛みと驚きに歪む。気分がスッとしたのは一瞬だけで、次にやってきたのは自慰の余韻にも似た、脱力するような後悔だ。
「あーあー。やっちゃった……」
 叫びださないように彼女の口を塞ぎながら、耳元でそっと囁く。
「でも、仕方ないじゃないですか。アンタに祐輔をやるなんて、もったいなさすぎるんだから」

   ●

「お前のことは、俺が何でも分かってる」
 それが、あの過保護な兄の口癖だった。
 そもそも、双子だというのに「兄さん」と呼んでいるのは変だと、昔からよく友達に言われたものだ。
 だというのにそれを直さなかったのは、兄さんは僕よりもいつも一つ先にいたからだと思う。
 運動、勉強、その他なんでも。双子だというのに、いつも僕は敵わなかった。一時期は子供らしく、それに反発してみたりもした。うちの親は、僕らを比べて贔屓したり非難したりするような人ではなかったけれど、それでも嫌なものは嫌だったのだ。
 僕らは似ていた。外見はもとより、得意なもの苦手なもの、嗜好が本当に似通っていた。
 なのに、そのうち兄さんは僕とは全く逆のことをするようになる。
 愕然とした。露骨なまでに、兄さんは僕に気を使って生きているのが分かったのだ。
 まだ中学生だったのに、兄さんは自分の好みを完全に切り捨てた生活を、何の不満も無いかのように続けていた。
 多分、兄さんがなぜそんなことをしているのか――いや、そもそも好みと逆のことをしているだなんてことに気付いた人間さえ、僕以外にはいなかっただろう。
 僕は兄さんが怖くなった。このままでは、この自分と同じ顔をしている人間は、何かとてつもないことをしてしまうんじゃないか。さも当然のようなことのように。しかもそれは、おそらく僕のために。
 だから、兄さんが僕とは違う高校に行くと言い出したとき、僕は心底ほっとしたのを覚えている。
 実際、兄さんと僕とでは学力に相当の差があった。僕は兄さんから離れた生活に期待していた。これで自分だけの秘密が持てる。これで兄さんを含まない、「僕」の生活が始まるのだと。
 そんな考えは、心底甘かった。
 高校に入って兄弟一緒の時間が少なくなると、兄さんの過保護は反比例するように強くなった。
 両親が仕事で忙しくて家にいないことをいいことに、家にいる時間はずっと僕に付きまとってくるようになったのだ。
 学校で何があったか、友達と何を話したか、授業や勉強のことまで、全部話すまでは放してもらえなかった。
 それはどんどんエスカレートし、仕舞いには何かを少し言いよどむだけで、手が出るようにすらなっていった。
「なぜ言えないんだ! 後ろ暗いことがあるのか! 俺たちはたった二人の兄弟なのに、隠し事なんかして恥ずかしくないのか!」
 理不尽な暴力。執拗な罵倒。体が痛くて学校を休まなければならない日が増えても、僕には耐えることしかなかった。分かっていたからだ。小さい頃から知っている、僕にとっては当たり前の事実。
 僕は、兄には勝てない。
 それでも良かった。兄さんのことは疎ましくも思っていたが、同時に尊敬もしていたから。
 兄さんが僕を助けてくれること、気にかけてくれることが、優越感や下心があってのものなどではないと、僕だからこそ気付いていたから。
 だから良かった。それでも、僕だけが我慢すれば済むのなら。
「お前、高校入って一年くらい経つが、好きな女とかはできないのか?」
 高校二年になってしばらくして、兄さんがその質問をしてきた時。ついに来てしまったか、と思った。
 先輩のことを、兄さんに知られるわけには行かない。漠然と聞き出すだけじゃなく、兄さんの方から話を振ってくるなんて。まさかとは思うが、先輩に何かするかもしれない。
「いや。残念ながらまだそういう人はいないよ」
 なるべく冷静に言い放ったつもりだ。兄さんも、「ふーん」とだけ呟いてその話を終わりにしてくれた。
 思えば、そんなにあっさり引き下がったのがおかしかったのだ。
 次の日……そう、ついさっきのことだ。目が覚めると、身体が動かなかった。周りを見回そうとしても、真っ暗で何も見えない。
 僕は寝ぼけていて、昨日の悪い予感が現実になったという事実を受け止めるのに、しばらく時間がかかってしまった。
 両手両足を縛られ、椅子にくくりつけられたような状態で、どこか暗い場所に閉じ込められている。多分、押入れかどこかだろう。
 なんでこんなになるまで起きなかったのか、寝ている間に薬でも嗅がされたのだろうか。いや、まさか――
(そういえば、今はいったい何時なんだろう?)
 そう思った瞬間に、スパンと小気味いい音とともに襖が開かれる。やはり押入れだったのか、などと納得した束の間。僕の思考は停止した。
 僕の目の前に立っていたのは、まさに『僕』そのものだったのだ。
 僕のメガネをかけ、僕の学校の制服を着て、僕が入学祝いに買ってもらった時計をつけた、僕と同じ顔の人間。
「……兄さん」
 『僕』は、その手に持っていたなんだか丸いものを僕に差し出す。まるで本来の持ち主に返すように。満足げな笑顔で、『僕』は言った。
「ほら、祐輔。お前の好きな子が、遊びに来てくれたぞ?」
 赤いモノにまみれた何か。それを、両手が縛られた僕は抱きしめることもできない。
 僕が一番欲しかったはずのもの。きっと、兄さんが一生懸命僕のために取ってきてくれたものが、まるで薄汚れたゴミのように、ゴロリと僕のひざから転がり落ちた。
 ああ――。
 僕と兄さんの好みは一緒だから。いつかこうなってしまうんじゃないかと恐れていた。
 僕は、兄さんに勝てないから。いつかこうなってしまうんじゃないかと恐れていた。
「酷いよ、兄さん……」
 だから、僕はそう呟くことしかできない。嬉しいせいか、悲しいせいか。止まらない涙を流し続けながら。

「先輩は……僕が殺したかったのに」