5階にある病室からは、夕焼けに赤く染まる町が見えた。ヘルメットを被った3人組の小学生が、病院から遠ざかるように自転車で走り去っていく。タカアキは背もたれの部分が起き上がったベッドに身体を預け、開け放たれた窓から、その景色をぼんやりと見下ろしていた。

――もうすぐ、夏休みも終わる。

 またひとつ、現実との繋がりが消えてしまうようだった。

 酷い倦怠感から病院を訪れ、そのまま入院になってしまったのは、雪の舞う年明けのことだ。入院してすぐにひとりでは起きられなくなり、それからは寝たきりの日々が続いている。本来ならタカアキも高校最後の夏休みを迎え、間近に迫った受験に備えて予備校にでも通っている頃だった。
 だが、そんな日常は2度と戻ってこない。食事の代わりとなる薄黄色の液体が入った巨大な点滴袋、そこから繋がっている鎖骨の下に刺された太い針、尿道から伸びるカテーテル、そして断続的に起こる意識の混濁が、当たり前にあった日常から、タカアキを引き剥がしていく。

 窓の外からはひぐらしの鳴く声が聞こえ、思い出したように流れるゆるい風が、隣の大部屋に吊り下げられている風鈴を、ちりん、と鳴らす。

 まるで死ぬ準備をしているようだと、タカアキは感じた。

「ねえ、タカ兄ちゃん、聞いてる?」

 その幼い声に、タカアキはゆっくりと病室へ向き直った。ベッドの脇では、声の主であるユウコがパイプ椅子に座り、床に届いていない足をぷらぷらと揺らしている。前日に高熱を出し、まだ微熱のあるユウコは、ほっぺたを赤くして、ふて腐れた顔をしていた。
 小学校に入学した際の健康診断がきっかけで免疫不全の病気が発覚し、4ヶ月前からユウコはこの病院に入院している。高熱を出すことが頻繁にあるが、体調のいい時は病院内をあちこち歩き回り、担当の看護士をよく怒らせていた。
 その探検中にタカアキと知り合ったユウコは、若い人が珍しかったのか、頻繁にタカアキの病室へやってきて話をするようになった。

「ごめん、うとうとしてたみたいだ。何の話だったっけ?」

 タカアキはうっすらと笑顔を浮かべ、消え入りそうな声で訊ねる。ユウコは身を乗り出して、タカアキに小さな顔を近づけた。

「あのね、ハルばあちゃんがいなくなっちゃったの。おととい、ハルばあちゃんからあめ玉貰ったばっかりなのに、きょう行ったら、ハルばあちゃんいなくて、ベッドが骨だけになってたんだよ」

 骨だけになる、という言い回しにタカアキの胸が締め付けられる。

「・・・・・・うーん、元気になって退院したんじゃないかな?」

 ハルばあちゃんを知らないタカアキは話を合わせたが、ユウコはぶんぶんと首を横に振った。
ショートから少し伸びた髪が遠心力で浮かび上がる。

「違うよ! なんにも言わずにいなくなっちゃうなんておかしいもん。
 あのね、ユウコ見たんだよ。昨日、昼間は熱が出ちゃって、ずっと寝てたから、夜に寝られなくなったの。それでね、トイレに行ったら、お医者さんとかが、いっぱいハルばあちゃんの部屋に入っていったんだよ。
 のぞいてみたら、みんなハルばあちゃんのベッドの周りに集まってた。入ろうとしたんだけど、けんおんの看護士さんに見つかって、自分の部屋に連れて行かれちゃったの。それで、きょう行ってみたら、ハルばあちゃんいなくなってた。同じ部屋の人に聞いてみたけど、みんな知らないって言うんだよ」

 懸命に話すユウコを、タカアキは羨むように見つめた。ユウコは死からずっと離れた所にいて、まだその存在すら知らない。


――ハルばあちゃんは死んでしまったんだよ。
――死ぬっていうのはね、心臓が止まって、身体がかちかちに固まってしまって、
――もう目も覚まさないし、おしゃべりも出来なくなって、2度と会えなくなる事なんだよ。
――そして、自分ももうすぐハルばあちゃんと同じように死んでしまうんだよ。


 タカアキは、そう言ってしまいたい衝動に駆られた。
 タカアキの顔つきが変わったのを感じ、ユウコは目をまん丸にして、口を半開きにしたまま固まってしまった。怯えた表情のユウコを見て、タカアキは我に返った。
 ユウコには未来があって自分にはない。その妬みから、取り返しのつかないことをするところだった。人生最後の友人を傷つけて終わるなんて悲しすぎる。

 タカアキはユウコに笑いかけた。ユウコはまだ戸惑った表情のままだ。

 きっと、今日のことなんてユウコはすぐに忘れてしまうんだろう。病気が治って普通の暮らしに戻り、大人になる頃にはタカアキという人間がいたことすら忘れてしまう。

 そう思うと、無性に淋しくなった。
 だから、ほんの少しだけ、その未来を分けてもらいたいとタカアキは思った。

「・・・・・・ユウコちゃん、これからする話は誰にも言わないって約束してくれる?」
「え・・・・・・? なに・・・・・・?」

 おどおどしたまま、ユウコは上目遣いでタカアキを窺う。タカアキはユウコを優しく見つめ、ゆっくりと同じ内容を繰り返した。

「秘密の話があるんだ。ナイショにするって約束してくれたら教えてあげる。聞きたい?」

 ユウコは首を傾げてしばらく考えていたが、ちらりとタカアキを見て、こくんと頷いた。

「・・・・・・うん、約束する。誰にも言わないから教えて」
「じゃあ、指きり」

 タカアキはベッドから痩せ細った腕を出して小指を立てた。ふっくらとしたユウコの丸い小指がそこに絡まる。


 ゆーびきーりげーんまーん、うーそついたらはーりせんぼんのーます。
 ゆーびきった。


 小指を絡ませた手を小さく振りながら歌ううちに、ユウコの顔には笑顔が戻っていた。タカアキは深呼吸をしてから、ゆっくりと話し始めた。

「・・・・・・あのね、ハルばあちゃんは悪い人に連れて行かれちゃったんだ」
「えっ! それなら、助けに行かなくちゃ! 110番しなくちゃ!」
「それは無理なんだ。悪い奴らはすごく強くて、警察でも勝てない。大人たちは悪い奴らがいるって知ってるけど、秘密を知ったことがばれたら連れて行かれちゃうから、みんな黙ってるんだ」
「じゃあ・・・・・・ハルばあちゃんはどうなっちゃったの?」
「大丈夫、遠い所に行っちゃったけど、元気にしてるよ。悪い奴らは連れて行くことしかできないんだ。ただ、ユウコちゃんに飴をあげることは、もうできない」

 ユウコは眉間に浅い皺を寄せて、口をへの字にしていた。タカアキの話を理解しようと一生懸命に考えている。頭の中でタカアキの話を繰り返していたユウコは、あっ! と声を上げた。

「ねえ! ユウコも秘密知っちゃったよ! ユウコも悪い人に連れて行かれちゃうの?」
「だから絶対にナイショなんだ。でも、誰にも言わなければ大丈夫だよ。悪い奴らも、ユウコちゃんみたいな子供が秘密を知ってるなんて思ってないからね」
「ほんとう?」
「本当だよ」

 ユウコはベッドに両手をついて、シーツをぎゅっと握っていた。タカアキはその小さな握りこぶしに、自分の手を重ねる。ユウコはびくっとして、タカアキを見つめた。

「でもね・・・・・・僕は秘密を知っていることがばれちゃったんだ。だから、僕はもうすぐ連れて行かれちゃう」
「えっ・・・・・・タカ兄ちゃんもいなくなっちゃうの・・・・・・?」
「うん。今すぐじゃないけど、きっともうすぐ」
「そんなのダメだよ! 逃げようよ!」
「無理だよ。どんなに逃げても、絶対に捕まっちゃうんだ」
「・・・・・・そんなの、ヤダ・・・・・・ヤダよ・・・・・・」

 ユウコは顔をくしゃくしゃにして、今にも泣き出しそうになった。

「だからね・・・・・・ユウコちゃんにお願いがあるんだ」
「おね・・・・・・がい・・・・・・?」
「そう。これから教える秘密の呪文を覚えてほしいんだ。それで、思い出した時でいいから、その呪文を心の中で唱えてほしい。そしたら、僕はいつか必ず戻ってこられる。
 でも、この呪文のことは絶対に秘密だ。誰かに話したら呪文の力がなくなっちゃうからね。どう? やってくれるかい?」
「そしたら、タカ兄ちゃん戻ってくる?」
「うん、戻ってくるよ。約束する」
「やる! じゅもん、教えて!」

 タカアキはユウコに呪文を教えた。
 ゆっくり、ゆっくり、何回もタカアキは呪文を繰り返した。
 ユウコもタカアキの呪文を同じように繰り返す。
 何度も間違えて、何度も忘れて、それでもユウコは秘密の呪文を繰り返した。

 そうしている間にも太陽は沈んでいく。
 いつしか風は止み、蝉の声も風鈴の音も、何も聞こえてこなくなった。

 ついには部屋の中が真っ暗になり、ふたりは顔を寄せ合うようにして、呪文を繰り返していた。ユウコはようやく、長い呪文を覚えることができた。


「あれ? どうしたんだい? 真っ暗じゃないか」

 病室の引き戸ががらりと開き、タカアキの担当医が無遠慮な声を上げた。

「すいません、すぐに点けます」
「ああ、いいよいいよ、こっちで点けるから」

 枕もとに手を伸ばそうとするタカアキを制して、担当医は壁に取り付けられているスイッチを入れた。パチリと音がして、蛍光灯が部屋を明るく照らす。

「あれあれ? ユウコちゃんここにいたのかぁ。検温の看護士さんが怖い顔して探してたぞぉ。早く部屋に戻らないと怒られちゃうよー」

 ベッドに乗っていたユウコは、不安そうにタカアキの手を握った。

「僕ならまだ大丈夫だよ。また明日おいで」

 優しく笑うタカアキに頷いて、ユウコはベッドから飛び降り、担当医をひやりとさせた。パタパタとスリッパの音を響かせて扉の前まで歩いていくと、ユウコは振り返り、タカアキに小指を立ててみせた。タカアキが同じように小指を立てると、ユウコはにやにやしながら身体を横に傾け、くるりと背を向けて病室を出て行った。

「タカアキ君、もてもてだなあ。ずいぶん懐かれてるねえ。なんだい、これ?」

 担当医はふたりがやっていたように小指を立てた。

「内緒ですよ、約束ですから」
「おっ、なんだい、生意気だなあ」

 担当医が笑いながらタカアキに近づき、枕もとのボタンを操作すると、モーター音が低く響いて、ベッドが通常の状態へと戻っていく。頭の位置が低くなっていくにつれ、闇に包まれた町はタカアキの視界から消えていき、見えるのは澄んだ星空だけになった。

「先生」
「ん? なんだい?」
「ユウコちゃんは死なないですよね?」

 担当医の動きが止まり、わずかな沈黙が病室を満たした。

「・・・・・・死なないよ。完治までに時間はかかるが、ユウコちゃんの病気は必ず治る。1年後には何の問題もなく普通の暮らしに戻っているよ」
「そうですか。・・・・・・よかった」

 タカアキは星空を見つめた。西の空に夏の星座は見えなかったが、春の名残りであるスピカが輝いているのが見えた。そして、タカアキは疲れ果てたように目を閉じていった。

「タカアキ君も頑張って病気を治さなくちゃな。高校生なんていちばん楽しい時期なんだから。
 ・・・・・・さて! こっちも診察してしまおうか。窓閉めるよ」

 担当医はタカアキに背を向けたまま窓を閉め、厚手のカーテンを勢いよく引いた。


 翌日からユウコは熱がぶり返してしまい、1日中、病室のベッドで眠っていた。起きたり眠ったりを繰り返しているせいで、夢と現実が曖昧になっていき、熱のあるあいだはずっと、いろいろなものに追いかけられている気がした。恐怖を感じるたびに、ユウコは秘密の呪文を唱え続けていた。


「36度6分。起きてもいいけど、騒いじゃ駄目だからね」

 吊り目の看護士はユウコに短く告げて、病室を出て行った。怖い看護士の姿が見えなくなった途端、ユウコはベッドを抜け出し、病室を出る。ユウコがタカアキに呪文を教えてもらってから3日が過ぎていた。
 朝食が終わったばかりの廊下には、看護士や入院患者がたくさんいた。ユウコはその脇をすり抜けるようにして、タカアキの病室へと向かう。

 病室の重い引き戸を開けると、そこはがらんとしていて、骨組みだけになったベッドがぽつんと置かれていた。大きな窓は開いていて、いろんな蝉の声が喧しいくらいに聞こえてくる。ユウコはしばらく立ち尽くした後、ハルばあちゃんの時と同じだと気付き、回れ右をして病室を駆け出ていく。引き戸が開いた時に、窓から吹き込んだ風が病室を流れていった。


「すいませーん! すいませーん!」

 ナースステーションの窓口によじ登ったユウコは、大きな声で看護士を呼んだ。ぎょっとして席を立つ看護士を呼び止めて、居合わせたタカアキの担当医がナースステーションから出てくる。

「こらこら、そんなとこ登ったらダメじゃないか」
「先生! タカ兄ちゃんは? タカ兄ちゃんはどこ行っちゃったの?」

 ユウコはよじ登っていた所から下りて、担当医に聞いた。担当医はしゃがみ込んで、ユウコと視線を合わせた。

「・・・・・・あのね、タカ兄ちゃんは、ちょっと遠い所へ行くことになったんだ」
「悪い奴らに連れて行かれちゃったの?」
「悪い奴ら?」

 担当医は予想外の言葉にきょとんとする。
 ユウコはタカアキの言葉を思い出し、慌てて口を押さえた。

(秘密を知ったことがばれたら連れて行かれちゃうから、みんな黙ってるんだ)

「ユウコちゃん? どうしたの。悪い奴らって何のことだい?」
「なんでもないですっ!」

 ユウコはその場から走り去っていった。担当医はパジャマを着たユウコの小さな背中を見ながら、大きく息を吐いた。


 それからのユウコは、暇さえあれば呪文を思い出していた。
 検温の時、トイレに入っている時、お風呂で身体を洗ってもらう時、ベッドで眠る時。
 毎日、毎日、ユウコは呪文を繰り返した。

 呪文を唱えていれば、いつか必ずタカ兄ちゃんは戻ってくる。

 タカアキの言葉を信じて、ユウコは呪文を繰り返した。
 けれど、タカアキはいつまでたっても戻ってこなかった。

 それから1年後の7月、病気が完治したユウコは両親に手を引かれて病院を後にした。退院時には、担当医や友達になった入院患者がみんなユウコを見送ってくれた。
 入院中に学校からの課題をこなしていたため、ユウコは学年が遅れることもなく、元のクラスに戻った。両親は心配していたが、学校側の配慮もあって、大きな問題もなく、ユウコはクラスに馴染んでいった。

 過去を大事にするには、ユウコはまだ幼すぎた。
 通常の生活が戻ってくるのに連れて、ユウコはタカアキのことを次第に忘れていった。
 いつしか、秘密の呪文も記憶の奥底へと押しやられていった。


 それから6年の月日が過ぎ、中学2年生の夏休みを迎えたユウコは、自分の部屋で夏休みの宿題に取り組んでいた。外は真っ暗になっていて、物音ひとつ聞こえてこない。
 そんな時間まで宿題をしているのは、友達と泊りがけで海に行くのを許してもらう条件が、それまでに宿題を終わらせておくことだったからだ。

「えー? もう12時過ぎてるの? これじゃ明後日までに終わらないよお」

 ユウコは英和辞典から顔を上げて、思わず、大きな声で独り言を言った。窓が開いていることを思い出し、慌てて口を押さえる。外は変わりなく静かで、眠っている両親が起きてくる気配もない。
 ほっと息をついたユウコは、シャーペンをノートの上に置いて身体を伸ばした。力を抜くとあたりの静けさが急に気になり始める。夜を怖いと感じたのは小学校の低学年以来だった。

(・・・・・・そういえば、ちっちゃい頃に入院してたんだっけ)

 頬杖をつき、過去の記憶に身を任せていると、夜の病院でハルばあちゃんの病室をのぞいた時のことが浮かんできた。医師や看護士がハルばあちゃんのベッドの周りに集まって、こそこそと話している。
 いまであれば、あの時、ハルばあちゃんが亡くなったんだとわかる。けれど当時のユウコには、昨日までいた人がいなくなってしまうということが、理解できなかった。

(そうそう、ハルばあちゃんが亡くなった時に、悪い人に連れて行かれたって誰かに教えられたな。えーと・・・・・・、あ、そうだそうだ、タカ兄ちゃんだ。いま考えたら、こども相手にひどい嘘つくよなあ。そういう冗談言う人じゃなかったと思うけど)

 ユウコはいつもベッドに寝ていたタカアキのことを思い出していた。あまり喋らなくて、どんな時でもにこにこしていたタカアキ。
 ユウコの記憶から、最後にタカアキと話した日のことが浮かび上がってくる。ハルばあちゃんの話、悪い人に連れて行かれるという話。


――そして、自分ももうすぐ連れて行かれてしまうという話。


(タカ兄ちゃん、自分がもうすぐ死ぬってわかってたんだ・・・・・・)

 ユウコは目を伏せた。そしてタカアキから教えてもらった秘密の呪文を思い出す。もうずっと忘れていたのに、秘密の呪文はユウコの頭の中にはっきりと蘇った。まるで、大事にしまっておいた宝物が出てきた時のようだった。

「あ・・・・・・この呪文って英語だったんだ」

 ユウコはシャーペンを手にとって、呪文をアルファベットでノートに書き出す。


(Long time no see. You have grown.)


「・・・・・・これでいいのかな? わかるような、わからないような・・・・・・」

 タカアキと向かい合って呪文を練習している時のことが、ユウコの目の前に浮かび上がってきた。呪文を繰り返すうちに病室は暗くなっていって、タカアキの顔が見えなくなっていく。


「暗くなってきたね。明かりをつけるよ」

 タカアキが枕もとのスイッチを入れて、病室を明るくする。

「じゃあ、もう1回。ちゃんと言えるかな」
「ロング、タイム、ノー、シー。ユー、ハブ、グローン。」
「うん、完璧だよ。忘れないようにね」

 タカアキは細い手でユウコの頭を撫でた。ユウコは嬉しそうに、えへへ、と笑った。

「ねえ、この呪文ってどういう意味?」

 ユウコが訊ねると、タカアキは小さな優しい声で答えた。

「『久しぶり、大きくなったね』って意味だよ」
「ふーん、そうなんだ」

 タカアキは笑顔のままでユウコを見つめた。
 ユウコもそんなタカアキに気が付いて、じっと見つめ返す。

 やがて、タカアキは優しく言った。


「ありがとう。思い出してくれて」



 ユウコは夢から覚めたように、思い出の中から現実へと戻ってきた。
 あたりはさっきまでと何も変わらない。物音ひとつしない夜が広がっているだけだ。
 けれど、ユウコの心臓はドキドキと激しい鼓動を打ち鳴らしていた。


――呪文の意味なんて聞いてない・・・・・・。


 記憶にない筈の記憶。いつか必ず戻ってこられるというタカアキの言葉。
 ユウコはしんとした夜に押し潰されてしまいそうに感じた。


「タカ兄ちゃん」


 思わずユウコは小さく呼びかける。
 だが、その呼びかけに答える者は、誰もいなかった。

 代わりに窓の外から、ジー、という蝉の声が聞こえてきた。