Neetel Inside 文芸新都
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そのころ、モララー大佐は足早に連隊長室に戻った。普段にあれほど威厳を保とうとしているわりにはなんとも情けない歩き方である。乱暴に連隊長室のドアを開けるど音を立てて自席に座り、これまた乱暴にベルを鳴らして従兵を呼んだ。
「ちょっと来てくれ」
「呼ばなくとも大佐が部屋に入ってきたときからずっと目の前にいました。危うく扉に鼻の骨を折られるところでしたよ」
「そんなことはどうでもいいんだ。ソックラス、そこの本をすぐに取ってくれたまえ」
ソックラスと呼ばれた男は、モララーが顎でしゃくった先にある本棚から丁寧に本を取りだした。表題は「シスペレンの英雄」。港湾都市シスペレンを舞台に繰り広げられるコメディ小説である。笑いを中心としているものの、ときに感動、悲しみ、空しさ、非情な現実に直面する主人公達が、結局はすべてが解決できないものの、八割方解決しそこに満足を見つけるという、理想と現実の織り交ぜがブルジョワから知識人、貧困層と国中で読まれているナウな国民にバカうけの本である。つい最近に、軍より大隊長以上の将校全員に配給された。
「大佐は、配給されたから仕方なしに本棚に置いておく、とか言っていたくせに、最近は夢中ですね」
「あれから私も考えが変わったのだ。最初は軍務大臣の鶴の一声と聞いて、軍にこんなもの送りつけるなんてとうとうこの国もおかしくなったものだと悲観したものだが、やはりお偉いさんがやることにはなにかしら理由があるということを理解した。百聞は一見に如かずという言葉の通り、読んでみるとこれはおもしろい。なおかつこの愛国心に溢れる内容! 是非とも師団長に進言して師団の予算で伍長まで一人一冊、全員に読ませたいものだよ」
ソックラスは、聖書を手に取る熱心な聖職者もこんな顔するのかなぁと思いながら、感想を述べた。
「師団が破産します」
「そうマジメに考えられても困るね。あくまでもたとえ話だ。別に全員に配給しなくとも、そうだね、およそ大隊ひとつあたりに5冊購入すればいいだろう。どうだね」
「では進言書の原稿を書いておきましょう」
「それは困る」
モララーは体の向きをソックラスに向けた。ソックラスも立ち方を正す。
ソックラスはじっとモララーの目を見た。モララーは少し目線をずらす。
「どうしてです?」
「私の立場上、なかなか言えなくてね」
モララーはもっと目線をずらす。猫のようになにもない部屋の隅っこを見つめていた。
「そう強がる必要もないと思いますが」
「そういわれても、この格好をずっと続けてきたのだから、今さら変えるということはできん」
「いつも私に見せてくれるような、普通の感じでいいと私は思いますが」
「それはここがプライベートだからだ。いいかい、君が我が家の召使いで、君と私が仲が良かったからこそ私は君を従兵に推薦したのだ。だからここは私が自室でくつろいでいるのと同じなんだよ。仕事とプライベートは一緒にすべきでないっていうのは公理だろ」
「そうですかね」
ソックラスは、公理といわれてもいまいちピンとこなかったが、少し考えて数学あたりでやったことを思い出した。しょせん、モララーの父親が暇だったときに教えてくれた数学なので、付け焼き刃である。
モララーは若干不利になったのを感じて、水を一杯飲んでから話題をそらそうと試みた。
「それはそうと薄高く積まれたこの書類の山はなんだね。私の記憶では昨日の許可証認で今後1週間は仕事がなかった筈だが」
「つい30分前に届きました。およそ1ヶ月分の普段の仕事量に相当する書類です。準戦時体制に入りましたから、法律によって師団の仕事がこちらにまわってきたわけです」
「……勘弁してくれ」
モララーは筆記用具を用意し事務を始めた。なにか忘れているような気がしたが、目の前の仕事の量を無視することは出来なかった。


ブーン達は挨拶を終えて談笑へと入っていった。
ごくごく自然な形で談笑に入れたのはブーンの努力の賜物である。
「ところでギコ特認軍曹、君はたしか第1中隊第2小隊小隊長だったおね?」
「そうであります」
「つまりだね」
ブーンは三拍おいた。
「直属の上司はイヨウ大尉だおね?」
「そうであります」
ギコは半拍ほど、およそいつもどおりである。
たいしてブーンはもう一度三拍おいた。
「あの…その…なんというか、まだ会ったばかりだからあれこれいうのもなんだけれども…ともかく、頑張ってくれお」
「はっ」
ブーンの意志を読みとったかどうかはギコ自身以外誰にもわからなかったが、ギコはいつもどおりにそのまっすぐな眼でじっとブーンの目を見て敬礼した。
ギコは何か思い立ったようで、ふと腕時計を見た。
「おっと、もうこんな時間か」
「どうしたお?」
「本日は訓練学校の教鞭を執るのでこれにて失礼させていただきます」
「構わないお。頑張ってくれお」
ブーンはにっこりと笑って――とは言ってもいつもニヤケづらだが――言った。
ギコは敬礼をびっしときめ、つられて他の者も敬礼してしまった中を背筋をまっすぐに伸ばしてずんずんと歩いていった。

続いてひょっこりと出てきたのが少し体格は細めの男である。
「よろしいでしょうか」
「ん? 君はまだ会っていなかったおね」
「あ……はい。なかなか声をかけられずにいて」
「別に萎縮することないお。僕は逆にギコ特認軍曹に対して萎縮してしまったくらいだから大丈夫だお」
場の空気に「ああ、それはわかりますとも少佐殿」と言う雰囲気が出た。皆の顔が同情の苦笑であるのがそれを表している。春のうららかな空気はここだけに届かない。
細めの男は少し笑って、どうやら気が軽くなったようにブーンには見えた。
「名前は何だったお?」
「アレシュタイス中尉であります」
「よろしくだお」
「第3中隊中隊長であります。お役に立てるよう精一杯頑張ります!」
「頑張ってお」
ブーンはふっと真顔になった。別に怒っているわけでもなく、明後日の方向に目線をやって記憶の糸をたぐり寄せているためだ。
「アレシュタイス…そういえば君と前に会ったことあるような気がするお」
アレシュタイス中尉は嬉々とした表情になり、ブーンの語尾に続けさまに喋った。
「覚えていらっしゃってたんですか? ありがたい限りです。五年前になりますね」
「ああ、思い出したお」
ブーンは子供部屋のゲーム機器周辺のケーブルの山のような、こんがらがった記憶をほぐすことに成功した。

       

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