Neetel Inside 文芸新都
表紙

NOT シー LOVE!
十余り六つ眼 「慧……ごめんなさい……本当にごめんなさい……!」

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愛せよ。人生においてよいものはそれのみである。


ジョルジュ・サンド









 サークル棟の入り口前にて私と小泉は、慧と杏ちゃん先輩の真剣な話し合いが終わるのを待つという当初の目的を忘れて、おしゃべりに花を咲かせていた。
 昨日、衝撃の「はんけん」デビューを果たした私は、この「はんけん」――犯罪小説研究会がどのようなサークルなのか皆目見当もつかないでいた。そのため、私と小泉との間で交わされる話題は「はんけん」について焦点があてられた。
 小泉曰く「はんけん」には犯罪小説を中心とした古今東西あらゆる推理小説が書架に所狭しと並べられているらしい。千冊を優に超えるその蔵書の数もさることながら、なんと驚くべき事にその大半は杏ちゃん先輩の所有物だということだ。杏ちゃん先輩が子どもの頃から集め始めたというそれらの書物たちはどれも年季が入っていて、丁重に書架に収められた一冊一冊の犯罪小説や推理小説がまるで「はんけん」――「犯罪小説研究会」という得体の知れないサークルの妖しい雰囲気を言わず語らずのうちに形作っていると小泉はしみじみ語った。そして、彼ら――杏ちゃん先輩や星さんや小泉は、そんな異様な雰囲気を生み出している書架を背に窓のカーテンを閉め切って切れかかった蛍光灯の不十分な採光の下、日々、退廃的な犯罪小説や推理小説の世界の深淵に自らを沈めているという事だ。
 私は、話だけを聞くとそれはそれは近寄りがたい「はんけん」の実態の一部を知って、ゴクリと生唾を飲み込んで思わず呟いた。
「小泉、あんた、いつからそんな根暗な子になったの? お姉ちゃん悲しい」
「俺は根暗じゃないよ。俺たちは犯罪者の計り知れない心情を自己に投影させて人間の心の中に根付く闇の正体を知りたいだけなのさ……」
「よくわかんない。こりゃ『はんけん』が会員不足に喘ぐのも無理ないね」
 小泉は「そうなんだよな」と口惜しそうに相づちを打った。
 私も読書は好きだけど、何も好き好んで薄暗い中で本を読まなくてもいいのではと思ってしまう。
 それを聞いた私の頭の中に薄気味悪くニヤリとした笑みを浮かべる小泉の顔が浮かんだ。気持ち悪いです。
 そして、星さんがこんな小泉と肩を並べて妖しさプンプンの犯罪小説の世界に浸ってうっすらと笑う姿も同時に浮かんできて、げんなりとしそうになった。
 読書に興じるにしても、星さんにはビル・エバンスのピアノ演奏をBGMにしているジャジーなオープンカフェで、優雅に湯気を立てるエスプレッソを啜りながらの方が似合っていると思う。いや、そっちの方がしっくりとくる。勝手な決め付けだけど星さんはそうじゃなければいけないと私は思うのだ。
「俺たちだって、努力しているんだぜ。杏ちゃん先輩なんか『暗いイメージを払拭するためさ』とか言って、今年なんかサークル室に見学に来た新入生にあの本棚を『杏ちゃん文庫』なんて可愛らしい名前で紹介したりして……それでも本棚から『殺戮にいたる病』とか『ハサミ男』ってタイトル見つけただけで新入生の子はビビって、すぐ帰っていったけどな」
「そりゃ、無理ないよね~でも私は、その2冊は名作だと思うよ」
「お! さすが期待のホープ! わかってるなぁ……他にも、読書だけじゃなくて杏ちゃん先輩の代から映画なんかも観る様になったんだぜ」
「あ、今日は確か『インビジブル』観るらしいね」
 杏ちゃん先輩率いる「はんけん」の涙ぐましい努力を聞きながら、私は「ミーティングばするよ~」と電話口で陽気に私に言っていた杏ちゃん先輩の言葉を思い出していた。
 そして、すっかり忘れていた慧と杏ちゃん先輩の謎の会談の事も芋づる式に思い出した。
 そう言えば、あれからどれくらい時間が過ぎたのだろう。サークル棟の入り口がガラッとスライドされて中から慧がひょっこりと姿を現す気配は一向にしない。
 視覚障害者用の音声時計に耳を凝らすと、私がサークル室から追い出されてから既に時計の長針が半周するくらいの時間が経過していた。
 慧はおしゃべりが好きな子だけど、初対面の人とこんなに長話をしているなんて、どれだけ真剣な話を二人はしているのだろうか。
 想像もつかない慧と杏ちゃん先輩のやりとりとは何か、沈思黙考していると、不意に小泉が鼻先笑いをしながら言った。
「慧の奴遅いなぁ~もしかして杏ちゃん先輩、調子に乗って初対面のあいつに『人間談義』やってるんじゃないかな……だとしたら慧の奴可哀そうになぁ~」
 ‘人間談義’小泉はさも当たり前のようにその言葉を口にした。それは、どこかで聞いた事がある言葉だった。確か、私が初めてその言葉を耳にしたのは、私が初めて「はんけん」を訪れた日の事だ。その日、杏ちゃん先輩が今の小泉のようにありふれた言葉を扱うようにサラッと口にした言葉だ。
 でも、何も知らない私にとってその言葉は『現代用語の基礎知識』の最新版にも載らないような未知の新語なのだ。
 そして、再びその言葉を聞いた私は何故かその未知の言語にただの興味本位以上の関心を寄せていた。
 別に頭がおかしくなったわけじゃない。
 私の思考回路はいたって正常のはずだ。
 でも、ネジは一本外れているかもしれない。
 結局のところ、私は‘人間談義’という言葉の持つ意味を知りたいのではなく‘人間談義’という言葉が当たり前に存在する世界の中で生きている「星光一」という人物の事を知りたいのだ。
 私の思考が行き着くところ。私の目の前に存在している全ての事象。
 私の中でそれらはみんな「星光一」という一人の男性の事を私が知ろうとする事に帰結するのだ。
「小泉! ‘人間談義’って何なの?」
「え、杏ちゃん先輩から聞いてないのか? しょうがないなぁ~そんなんじゃ『はんけん』でやっていけないぜ」
「いいから、教えなさい!」
「な、なんだよ? そんなに必死な顔して……あ~‘人間談義’っていうのはな……」

「Search for deep psychology(人間談義)それは、つまり人間が心の奥底に秘めている‘深層心理’に関して探求する事よ。まぁ、深層心理学に近いわね」
「アホの子先生?」
 小泉の説明に重ねる様にして口を挟んだのは、いつの間にか私たちの目の前に現れたアホの子先生だった。
 足音がしなかった。そもそもアホの子先生が私たち二人の傍に近寄ろうとする気配すら感じなかった。
 目が見えない私ならともかく晴眼者の小泉でさえ気付いていないようだった。
 私は恐る恐るアホの子先生の声がする前方を見つめた。アホの子先生はそんな私の気持ちなんて露知らずといった具合に私たちに軽く挨拶をしてから、また話を続けた。
「広義的な解釈を借りるなら、深層心理学とは人間の心の深層、いわゆる‘無意識’と呼ばれる領域を用いて人間の意識現象や行動を解明していく心理学の一つの事ね。この学問には‘無意識’と呼ばれる心の働きが私たちの言葉や行動を決定付けているという考え方があるわ。詳しく知りたかったらジークムント・フロイトの著書を読めばいいわ。氏の著書はどれもなかなか興味深いわよ。……ごめんなさい、話がちょっとずれたわ。さて、肝心の‘人間談義’なんだけど……この『犯罪小説研究会』は、もうわかるかも知れないけど、人間の行動の中でもある特殊な部類に属するものを‘人間談義’の話題の中で使っているの。それが、何かわかる?」
 アホの子先生にそう聞かれたけど、私はその答えを言いあぐねた。
 答がわからないんじゃない。じゃあ、どうして、私は答を言いあぐねたのか。
 それは、その禍々しくおどろおどろしいその答えを自分の口で言いたくなかったからだ。
「何をそんなに怯えているの? んふふ、それはね……‘殺人’よ。」
 私は思わず生唾をゴクリと飲み込んだ。小泉は静かに先生の話に耳を傾けているようだ。
「なぜ、人は人を殺すのか? ‘殺人’の解釈として、それはそもそもオスがメスを獲得したり集団内での地位を確保したりするために繰り広げられる種内闘争の中で行われる種内淘汰の一部であるとする、進化論の観点から説明した解釈があるわね。確かに、その起源を辿れば人が人を殺す‘当初’の目的は種の存続という本能に基づくものであると、私もそう思うわ。でも、この複雑に入り組んだ現代社会ではどうかしら? 果たして現代の人間は、今まで考えられてきたように種の存続という尤もらしい理由で人を殺しているのかしら? 種を存続するために、親が、自分が手塩に掛けて育てた子どもを殺めたりする必要がある? 殺すのにも飽き足らずわざわざ死体を切り刻んで路上にゴミのように捨てたりする必要がある? ……今の世の中で心安らかに子孫繁栄を望むのなら、そもそも人を殺す道理なんてあるわけがない!!」
 何故か、アホの子先生は話の最後の方は声を荒げて喋っていた。
 目が見えなくても、そのアホの子先生の迫力を感じる事が出来る。それほどに、アホの子先生の言葉は鋭利な刃物であるわけではないけど、的確に私の心の中に何かを刻みつけていた。 先生は息を荒げている、でも怒っているんじゃない。吐きだされる息に交じって、鼻をすする音が僅かに聞こえた。
 ひょっとしてアホの子先生は、今、私が知る由もないアホの子先生だけが知る悲しみに打ちひしがれているんじゃないか。
 そして、アホの子先生の表情は今……
 私はアホの子先生の表情を想像しかけたけど途中でやめた。
 アホの子先生の気持ちは、きっと、私が気易く想像していい代物じゃないのだ。
 アホの子先生は、大きく一回息を吐き出した。
「ごめんなさい。取り乱してしまいました。つまり‘人間談義’というのは……」
「‘人が人を殺す’根拠を人間の心の奥底に眠るもの‘深層心理’の中に見出すこと。そして最悪の場合、人を殺すというプロセスにまで人間の行動を至らしめるような‘人の心理’の実態は如何様なものなのかを、犯罪小説とか映画に登場する犯罪やそれを行う人物を引き合いに出して考える話し合い。‘人間談義’とは、つまり、そういうことですよね? メグ先生!」
「your score is 75 points.Mr.koizumi.(75点よ。小泉君)忘れちゃいけない事があるわ。それは、そのような事を引き起こす要因となり得る深層心理の正体を追求する以上にどうしてそのような心をこんなにもちっぽけな私たちは持っているのか。それを考える事よ。これが‘人間談義’……わかったかしら? あかりん」
 私は、口には出さず、ただ先生の方を向いて大きくYESと首を縦に振った。
 アホの子先生の話を聞いて‘人間談義’の全貌について私はおおよそ理解したつもりだけど、一つだけ釈然としない事がある。
 でも、それを今アホの子先生に投げつける事は、私に熱弁してくれたアホの子先生の親切さに対して余りに失礼なことだ。
 だから、私はそれを言わない。
 静かに自分の胸の中に仕舞っておこうと思う。
「Shut up! (うっそ~ん!)アイスが溶けています! せっかく『はんけん』の皆さんに買ってきたハーゲンダッツのアイスが溶けています! あぁ~どうしましょう!」
 さっきまでの理智的な言葉遣いとは打って変わって、アホの子先生は文字通りアホの子先生となって今私の目の前でオロオロとしている。ガサゴソと慌ててアイスの入った紙袋を漁っているのだろうアホの子先生の様子を想像すると実に滑稽だ。
 私は思わず、笑ってしまった。小泉も釣られて笑った。アホの子先生も自嘲気味な笑い声を挙げていた。一気に周りを明るい雰囲気が包み込んだ。
 改めて思う。私の人生はこんなにも楽しいのだ。でも、私は本当に欲張りでつくづく考えてしまう。
 この場に星さんがいればいいのに……
 そして、横で一緒に私と笑っていて欲しい。
 愚直にも私は懲りずにそんな事を考えていた。


 すると、今まで開くことのなかったサークル棟の入り口がゆっくりと開けられた。慧かな。私は入り口を開けた人物の方に向かって話しかけた。
「慧?」
 でも、その人物は何故か返事をする事は無かった。どうやら人違いだったみたいだ。
 やってしまったな。でも、このような人違いは私には日常茶飯事だ。今さら、動揺を露わにする必要はない。
 私は、その人物に対して間違った事を詫びようとした。
「おい、慧? どうしたんだ? そんな、悲しそうな顔して」
 私が詫びを入れる前に小泉がそんな事を口走った。
 あれ、そこにいるのは……慧なの? どうして返事をしてくれなかったの?
 小泉の言葉によると慧は今悲しそうな顔をしているみたいだけど、杏ちゃん先輩との間で何かあったんだろうか。
 私は、不安な気持ちを抑えきれず、慧に悲しそうな顔をしている理由を聞き出そうと慧の気配がする方に手をかざした。
 そして、慧である事を改めて確かめてから慧の両肩に手を置いた。
「どうしたの、慧? 何かあったの?」
 でも、慧は即答しない。その代り、肩をプルプルと震わせて、その震えがはっきりと慧の肩に乗せられた私の手に伝わってくる。
 何があったのだろう。勝気な慧を沈黙させるほどの衝撃的な出来事が杏ちゃん先輩との間で巻き起こったのだろうか。
 私が慧の肩を揺すって優しく聞き出そうとしても、慧が口を開く事は一向になかった。
 相変わらず慧の肩は震えている。
 怯えているのか、嘆いているのか、私にはただ想像することしかできない。
 今、慧の為に私は何が出来るのだろう。私はしばらく目を瞑って考え込んでから、やっと思いついた自分が慧に出来る事を実行に移した。
 そして、私は今まで肩に置いていた左手を慧の背中に回し、右手は慧の小さな頭に添えたのだ。私は、慧を両手で優しく包み込むように抱き締めた。ほんのりとした慧の温もりが私の体躯に染み込んでくる。私は自分の温もりが慧に伝わっている事を願った。
 すると、今まで黙り込んでいた慧はどういうわけか、静かに泣き始めた。ちょうど、私の肩の位置に当たっている慧の目元から涙が零れて私のカーディガンに無言の主張をしていた。
「安心して慧。何があったかは知らないけど……私が全部受け止めてあげるから……ね」
 慧が鼻をすする音が聞こえた。その音は私の耳にしっかりと届いて、言わずとも、慧が必死に泣き止もうとしている事を私に伝えた
 そして一頻り泣いた慧は、私に抱きつかれたままの状態でゆっくりと口を開いた。
「あかりんに……言わなきゃ……いけない事がある」
 私は慧の頭を優しく撫でながら腫れ物に触るようにして「うん」と頷いた。そして、慧は弱弱しくまた口を開いた。
「悪い事は……言わない、悪い事は言わないから……もうこれ以上……星さんの事を……好きに……ならない方が……いい……かもしれない……!」
 私は一瞬、慧が何と言っているのか、よくわからないでいた。
 でも、慧の口から出た言葉は、末期癌の患者に対してあと幾許しかない命の灯火の限界を知らせるあの事務的で冷淡な情け容赦のない余命宣告に似ているような気がした。
 もちろん、慧はそんなつもりで言ったのではないと思う。
 それに、私をそんな言葉で傷付ける気など慧には微塵もないはずだ。
 でも、私が、慧の言った事を絶望感に満ち満ちた言葉と感じてしまったのはもはや変え様のない事実なのだ。動揺するのも無理はない。
 私は、いつの間にか抱きしめていたはずの慧を突き飛ばしていた。なぜ、そのような事を私はしてしまったのか、わからない。
 ガツンという鈍い音が私の耳に聞こえた。そして、続けざまに小泉が「慧! 大丈夫か!」とどよめいている声も聞こえてきた。
 その光景は、もちろん私には見えるわけがなく私はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。

 私の心の深淵で何かが私に囁きかけてきたような、そんな気がした。

       

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Neetsha