Neetel Inside 文芸新都
表紙

NOT シー LOVE!
十余り八つ眼 「あなたの手は温かいですか? それとも冷たいですか?」

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女性は澄んだ鏡のようなもので、わずかに息を吹きかけただけでも曇る。


ヒッペル









 玄関の扉を開けて「ただいま」と言うと「おかえり」と言う声と共にドタバタとした足音がこちらに近づいてきた。そして、今日はママと久しぶりに親子水入らずの夕食を過ごす事が出来る日だったという事を私は思い出した。
 いつもなら仕事の都合で帰りが遅いママと一緒に食事が出来るのだから、私にとってそれはとても喜ばしい事のはずだ。でも、今日は素直にその貴重な家族団欒の一時を楽しもうとする気にはなれなかった。
 今日の晩ご飯はカレーだった。ママの得意料理だ。得意料理なだけあってそのカレーはゴロゴロとした具材がカレールーと絶妙に絡み合っていてとても美味しかった。でも、それを美味しいと感じられるのは、ただ単にママが料理上手だというだけではなくて、食事中にママが弾んだ声で楽しそうに私に話しかけてきてくれて、そんなママの声を聴きながら食べていたからだと思う。
 ママはその時々の私の気持ちを察知した上で私に接してくれる。
 目が見えなくても人の優しさは解ってしまうものだ。私が帰ってくるなりママはこう言っていた事を思い出した。
「どうして泣いてるの? 明、何があったの?」
 ママのいつもと変わらない気遣いにひどく私の心は痛んだ。
 それと同時にさっきまで私の心を支配していた禍々しい何かがすーと音も立てずに消えていくような感じがした。
 どうして私は泣いていたのだろう。
 食事を終え、ぼんやりとリビングでママとテレビを見ていると、滑舌の良いニュースキャスターが暗いニュースを淡々と読み上げているのが聞こえてきた。
 誰かが残忍な手口で殺されてしまったそうだ。
「あら、やだ。これってうちの近所であった事みたいよ」
 どうやらその事件は私の身近な場所で起こったらしい。
「それにしても……かわいそうね……まだ若いのにね」
 ママはまるで自分の事のように亡くなった被害者の事を不憫に思っているような口振りだった。
「かわいそうだね」
 私もママに同調してそう言った。でも、私のその言葉にはママのような女の子に対する哀悼の意は全く込められていない。
 今日、私が慧を突き飛ばしてしまった時、最初は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。「ごめんなさい」なんて言葉を呪文のように繰り返し心の中で唱え続けていたと思う。でも、そんな自分の心の声は嘘っぱちだという事に今さらながら気が付いた。
 私は悪い子なのかもしれない。
「ママ、私って悪い子かな?」
「急にどうしたの?」
「……ねえ、どう思う?」
 ふとママがこぢんまりとした掌で私の両手を包んだ。
「もちろん! 明は良い子だよ!」
 ママの掌はちょっと冷たかった。こんなにも温かい言葉を私に投げかけてくれているのに、ママの手は私の手とは対照的に冷たかった。
 ママは私に嘘を言ってはいないのだなと思った。
「そっか……ありがとう」
 そう言った瞬間、私はやっぱり悪い子なのだなと自分で納得した。
 私は良い子なんかじゃない。だから、そんな私を叱って欲しい。ハッキリとママにそう言えば良いのに、私は黙って、ママに見られないように細心の注意を払いながら、キュッと自分の下唇を噛んでいた。
 私は悪い子であると同時に臆病者でもあるようだ。
 今夜は寝付けないだろうなと思っていたけどそんな事はなかった。現実と夢の狭間で微睡む(まどろむ)でもなくいつの間にか私の意識は夢の世界へと誘われていた。




 私を目覚めさせたのは携帯電話の着信音だった。頼みもしないモーニングコールのせいで眠気眼を擦るのが非常に煩わしく思える。
「もし……もし?」
「あ、野尻明さんですか?」
 聞き覚えのない男の人の声だった。私の携帯電話の番号を知る人は数少ないはずだ。そして、私はこの声の男の人にそれを教えていない。
「どなたですか?」
「急に電話して、ごめんなさい。あの……俺、慧と付き合っ」
 そこまで聞いて私は受話口から耳を反射的に遠ざけてしまった。寒さの厳しい冬の朝に冷たい水で顔を洗う時よりも今私の顔は強張っている。ガクガクと顎が震えている。
 受話口から困惑した男の人の声が微かに聞こえてくる。私はゆっくりと仰向けになっていた自分の上半身を起き上がらせた。
 この男の人は慧の恋人なのだ。
 彼は何故私に電話を掛けてきたのか、そして私に何を訊きたいのか。そんな事言われなくても私には解る。でも、その問いに対してなんと答えればいいのか考えあぐねてしまう。きっと私は彼に上手く説明する事が出来ない。だったら今の私にとってまた耳元に受話口を寄せる行為はあまりにも無意味な事だ。まだ受話口から慧の恋人の声が聞こえている。慧の恋人に対する申し訳ないという思いをどうにか心の奥底に押しやって私はそっと携帯電話のオンフックボタンを押した。
 朝も早くからドッと疲れてしまった。私は頭を枕に埋めた。もう何もかも忘れてまた眠ってしまいたい。でも、皮肉な事にカーテンの隙間から零れる柔らかい朝日の温もりが私の顔を撫でて、窓の外からはスズメが「おはよう」と私に挨拶をしているみたいに鳴いている。タオルケットに包まって、耳を両手で塞いでみたけれど何の意味もなかった。何かが変わるはずもなかった。
 踏ん切りをつけて自分の部屋からリビングに行ってみると、テーブルにママが打った点字用紙がいつもの様に置かれていた。
 ――あさごはん ばななさんど きょーも いちにち がんばろー――。
 指で点字をなぞり終えた後に、見えるはずもないけれど力なく拡げた自分の掌をじっと見つめてみた。慧を突き飛ばしたその手をじっと見つめてみた。そして、思わず自分の事を鼻で笑ってしまった。
 こんな私が頑張っていいわけがない。
 背後からガサゴソとする音が聞こえてくる。ケージの中でラブリーがウロウロと動き回っているのだと思う。「今日も一日頑張るぞ」という声が今にも聞こえてきそうな元気の良さだ。その生き生きとしたラブリーの挙動が羨ましく思えてならなかった。




 私は久方ぶりに一人で通学した。
 不思議な事に「親友」としての慧が傍にいない事に寂しさを感じはしなかった。そして「学習支援ボランティア」としての慧が傍にいない事に焦りも感じなかった。その代わり肩の荷が嫌になるくらい私に圧し掛かっていてフラフラと今にもその場に倒れ込んでしまいそうだ。気だるさが全身を襲う。逃げ場のない私はようやく辿り着いた教室の椅子に腰を下ろすのに精一杯だった。授業を真面目に受けようとする気が全くしない。不貞寝の真似を決め込むと頬に感じる控え目にひんやりとした長机の冷たさがいやに心地良かった。
「おはよう! 姉さん!」
 いきなり声をかけられてびくついてしまった。たぶん小泉だ。昨日あんな事が遭ったというのにどうしてこいつは清々しい挨拶を私に出来るのだろう。
「どうしたんだよ~? 姉さ~ん元気ないぞ!」
 ごつごつした指が私の頭を馴れ馴れしく撫でまわす。いつもなら、私はきっと「やめろ~!」と威勢良く、小泉の手を振り解くのだと思う。でも今日は小泉のされるがまま。私には鏡を見ないで懸命に自らの感性だけを信じてセットした髪が台無しになっている様をただ黙って想像する事しか出来ない。もちろん「おはよう」なんて爽やかな挨拶も出来る筈がない。
「くよくよばっかりしてたら、幸せが逃げちまうぞ!」
 ああ、そうか。そういう事か。寝坊助の小泉が空元気なのはそういう意味なのか。
「やめてよ」
 ――これ以上、私に優しくしないでよ! そんな風にされたら……慧を傷付けた私が……人に優しく出来ない意地悪な私が余計に惨めに思えてくるじゃんか!――。
 本当はそういう風に言葉を付け加えたかった。でも、小泉の何気ない言葉に私が優しさを感じてしまった以上、私はその言葉を言ってはいけない。
「……姉さん! ちょっと俺に付き合ってくれない? どうせ授業受ける気分じゃないんだろ?」
 素直に小泉の提案に乗る事が出来たならどれほど楽な気持ちになれるだろう。
 突っ伏していた顔をブランと力なく小泉の声が聞こえる方に向けて、声にならないその叫びを厚かましくも小泉に投げつける。素直になれない自分にもどかしさを感じつつも、決して顔色は変えたりはしない。
 すると小泉はクスッと私に笑いかけた。
 小泉はきっとわかってしまったのだ。心のどこかで小泉の優しさに甘えたいと願っているその私のいじらしさに。
 そして、小泉は私の左手首をそっと手で握る。まるで腫れ物に触るように柔らかく、柔らかく握った。
 自分の肌に誰かの肌が触れると奇妙な安心感が全身をかけめぐる。視覚を失った分、残された感覚で得られる情報に身体が敏感になっているのかもしれない。
 否が応でも身体があらゆる情報を受容するのなら我慢する必要はない。受け入れる事に対して躊躇う必要もない。きっとそれが一番利口な生き方なんだと思う。
 でも、自分の心持に変化が訪れたとしても、停滞していた後ろ暗さが綺麗さっぱり心から洗い流される為には時間がかかってしまうのだ。
「いいよ。行こっか」
 ほらね。やっぱり、私の声はどこか震えている。
 そして、小泉の手はどういうわけか温かい。
 どうしてだろう。

       

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