Neetel Inside 文芸新都
表紙

NOT シー LOVE!
二十眼 「私にその手を握る資格はあるのかな?」

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みずから苦しむか、もしくは他人を苦しませるか。
そのいずれかなしに恋愛というものは存在しない。


レニエ
 








 心の準備とはよく言うけれど、一体全体どんな準備をすればいいのだろう。
 別に手は震えていないし、頭から血の気が引いてフラフラしているわけでもない。ただただ足が前に動かない。両足に鎖で鉄球を繋がれているのではないかと思えるくらい歩きにくい。
相も変わらず私は幼子のように小泉に引っ張られながら歩いている。
 病院の受付へ慧の病室を尋ねに行った小泉を私は革張りのロビーチェアに座って待つ事になった。きっと大きな病院なのだろう。受付ロビーらしきこの場所からはたくさんの人の気配がする。耳を澄ますと、男性が時折咳き込んでいたり、子どもに絵本の読み聞かせをしている母親と思しき女性の囁きが聞こえてくる。受付待ちの患者を呼ぶアナウンスも聞こえる。
 病院を病院たらしめる音が聞こえてくる度に私は気が滅入ってしまう。
「三階の三〇三号室だってよ」
 私の許へ戻ってきた小泉の声はとても穏やかだ。何の迷いも無い力強ささえ感じる。今の私の心境とは正反対の代物だ。
 「大丈夫、大丈夫」と呪文のように小泉は何度も何度も私に言って聞かせるけれど、そんな小泉の言葉が余計に私を緊張させる。もちろん小泉にそんなつもりはないだろう。だから、小泉は何も悪くはない。単に私が臆病なだけだ。
 三階へ向かうエレベーターの中にいると、この暗くて狭苦しい密室に佇む自分が囚人にでもなったかのような気分になる。エレベーターを降りた後も囚人になった気持ちが拭いきれなくて、仕舞いには小泉が手の引く先は絞首台に続いているのではないかと錯覚してしまった。
 意気揚々とまではいかなかったけれど、ここまで小泉に付いてきておきながら何を今さら私はこんなに怖気づいているのだろう。自分の情けなさに我ながら呆れ返ってしまう。
 小泉の歩みが止まった。ついに慧がいる病室の目と鼻の先まで来てしまったのだ。
 今まで以上に自分の身体が震え上がっている様が手に取るようにわかる。その震えはきっと私の手を握っている小泉にも嫌と言う程伝わっているだろう。
 やっぱり駄目だ。私の決心は揺らいでいる。
 頭では理解している。慧に謝るべきだと。でも、どうだろう。慧に謝ろうとする自らの意志が全く固まっていないのだ。
 張り裂けそうな胸の苦しさ。そして、その苦しさに呼応するように震え出す身体。
 はっきりと理解した。
 慧に謝るなんて今の私には無理だ。
 卑怯者だと後ろ指を指されてもいい。
 逃げ出したい。
「こいず……」
「姉さん!」
 今にも吐き出されんとした私の弱音を小泉の声が遮った。
 ゆっくりと今まで私の右手に感じていた小泉の手の感触が消えた。
「なんで、震えてるんだよ~。もう、すぐそこだぞ!」
 まるで、小泉に責め立てられているような感じがした。
 そう感じた瞬間とうとう私は力無く床に膝を落としてしまった。左手でハーネスを握る事もままならない。この場から逃げ出そうとする底意地の悪さにさえ私の気持ちは従おうとはしない。
 私の明らかな異常に小泉が駆け寄ってくるのがわかった。



 それからどれくらいの時間が過ぎて、どうやって自分が病院から這い出てきたのかはっきりと覚えていない。病院前の広場のベンチに座って僅かな風の流れを感じた時、私はやっと冷静さを取り戻す事が出来た。
小泉が気付けの為に買ってきてくれた紙コップのジュースを飲みながら私は自らの不甲斐なさを痛感した。
私はまんまんと、あの場から、慧から、逃げ出したのだ。悔しさのあまり泣き出してしまうかと思ったけれど、そんな事は無かった。
 小泉はと言うと、せっかく私の為を思って慧に謝る機会を作ってくれたのに私に文句を一つも溢さなかった。
 実際、小泉はどんな気持ちでどんな表情をしているのだろうか。ひょっとしたら私の意気地の無さに憤りを感じているかもしれない。自分の行いが功を奏さず落ち込んでいるかもしれない。でも、私は小泉の本音を敢えて探ろうとはしなかった。
「ありがとう。小泉」
 力無い声で小泉にジュースのお礼を言った。面と向かって言えばいいのに、私はそっぽを向いていた。見える筈の無い小泉の表情が見えてしまいそうでとても怖かった。
「いいって。気にすんな。てか……なんか……無理やり連れてきたみたいな形になってごめんな」
 小泉の声はどことなく暗い。
「どうして謝るの? 小泉は何も間違った事してないじゃない」
 謝るべきなのは寧ろ私の方だ。
「いいや。俺は姉さんに悪い事をしたよ。俺は姉さんの気持ちを全然理解してなかったんだ」
「そんな事ないよ」
「でも、姉さんは怖がっていたじゃないか。それはさ、つまり、姉さんが慧に謝るべきかどうかまだ迷ってたからだと思うんだ。だとしたら、俺がやった事は間違いだよ。姉さんの気持ちの整理がしっかり出来ているかどうか、俺には見極める必要があった」
「小泉……」
「俺、ちょっと焦りすぎてた。だって姉さん、昨日、慧を突き飛ばした後からずっと様子がおかしかった。なんだか怒ってる風な感じがしたし……。かと思ったら、今日は打って変わって寂そうな顔してて……。そんな姉さんを見てるのが、なんか……嫌で。どうにかしてやりたくて……」
 私は口を開くのをやめた。かける言葉が見当たらなかった。仮に、小泉の今までの善意に応えられなかった事を私が謝ったとしても、余計に彼を惨めにさせるだけな気がしてそれだけは出来なかった。
 すっかり肩を落としてしまった小泉の姿が頭に浮かんでくる。そんな小泉に私は何もしてあげられない。
 本当は自分がどうするべきなのかは知っている。それは小泉に謝るという事じゃない。でも今の私にはそれが出来ない。どうしても出来ないのだ。
 グシャリと紙コップを握り潰す鈍い音がした。
「姉さん、大学に戻ろうか。もう、ここにいても仕方いないもんな。出直して来よう。姉さんの気持ちの整理がついたら、また来よう。な?」
 「うん」。そう言って私は頷くべきなのだと思う。
 だけど、私は頷かなかった。
「まだ、道、覚えてないだろ?」
 小泉がだんまりを決め込む私を咎める様子はなかった。
 私は自分の紙コップに残ったジュースを飲み干してから静かに立ち上がった。
 小泉は空の紙コップを私の手から取り上げて、私の右手をここまで来た時と同じようにまた優しく握った。

       

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