Neetel Inside 文芸新都
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小説を書きたかった猿
6.この戦争が終わったら小説を書くんだ

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 6 この戦争が終わったら小説を書くんだ


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 爆撃機が僕らの家のある辺りの上空を飛び交っている。避難してきた山の頂から眺める、燃え上がる町の景色は一帖の屏風絵のようで、身に迫る死の影も忘れてしまうくらいに美しかった。
「綺麗やなあ」
 一緒に逃げてきた姉が不謹慎な言葉を口にする。
「あん中ではお父やお母や近所のおばちゃんや友達が焼け死んでいってるかもしれんのになあ。そんな景色を綺麗や思うてしまうんやから、うちは最低の人間やなあ」
「僕も……」と同意しかけたところで、
「あんたは汚れんとき」と姉が制止する。
「将来、このことを小説に書くよ」と僕は決意を姉に話す。
「このくだらない戦争が終わったら、僕らが見たこと、聞いたこと、見捨てた人たちのこと、殺した人たちのこと、みんな書いてみせるよ。姉ちゃんが思ったようなことも、僕が口には出さなかった薄汚い想いも全部……」
 僕の話を微笑みながら聞いてくれていた姉の表情が凍り付く。その視線の先では、山の上空を飛び去っていこうとした爆撃機が、気まぐれな一発の爆弾をぽとりと落としていた。
 鼓膜が破れたせいで音を伴わない光景の中で見えたのは、僕をかばってくれた、下半身のない姉の姿だった。
 幸い残された命と視力の全てを動員して僕はその見たくない情景を目に焼き付ける。いつかこれらの思い出したくないこと全てを小説に仕立てあげてみせるんだという思いを込めて。
 まだかすかに姉の指先が動いている。したたる血をインク代わりに用いて、むき出しになった僕の腹に文字を記している。震える筆致で懸命に書かれたそれは、「今書けよ」と読めた。

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 戦争を知らない僕は戦中のことをリアルに書けない。想像で補い、悲劇を愚直に悲劇的に書き、登場人物たちにそれらしく振る舞わせる。戦争反対を声高に叫ぶこともためらわれるので、遠慮がちの絵空事でしかなくなってしまう。

 僕は戦争のことをうまく書けない。
 僕はセックスのことをうまく書けない。
 僕は恋人との語らいをうまく書けない。
 僕は友達との遊びをうまく書けない。
 僕は家族の絆をうまく書けない。
 僕は前向きな話をうまく書けない。

 誰に語り聞かせる必要もない人生を送ってきた人間に、人に読ませるようなものが書けるのだろうか。
 何かこれだけはどうしても誰かに伝えたいという強い想いを持たない人間が、表現活動をするべきだろうか。
 理屈がなければ、理由がなければ、書いてはいけないものだろうか。
 あれこれと逡巡しながら言い訳を探し、解答を求めながら正解からは逃げている。

 僕にも戦争体験があったなら、
 僕にも好きな人がいたら、
 僕にもいまだ友人と呼べる人がいたなら、
 家族を素直に愛することが出来たなら、
 もっと前向きに人生を歩めたら、
 
 どの仮定にも「小説が書けただろうに」という結びにはっきりと繋がる糸があるわけではない。
 時折思い出したように、逡巡をそのまま文字にしたような、小説と呼ぶには物足りない断片的な文章を書き連ねる。いつかこの中のどれかが小説の形を成していくことになるのだと信じて。

 その中の一編を短編小説と名乗らせて、賞に応募したことがある。何も期待していなかった。自己嫌悪の種がまた一つ増えるだけだ、そう思っていた。何より自分自身がそれを小説だとは認めていなかった。


       

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