Neetel Inside 文芸新都
表紙

小説を書きたかった猿
12.一日は短いからきっと一生も短い

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 職場からの帰り道、一人になった途端何か恐ろしい空虚感に襲われた。
 めでたく定年退職まで勤め上げ、ささやかながら退職金も手に入る。もうすぐ初孫も生まれる。二十代の終わり頃までろくに働いたこともなかった屑だというのに、幸せ過ぎる人生だ。
 それでも何か足りないものがある。
 いや、これまでの三十数年間、満足していたことなどなかった。
 心の片隅にいつまでもやり残したことに対する思いがこびりついていて、ふと気を抜いた瞬間にそいつに全身を絡め取られることが幾たびもあった。
 何もかもを忘れて家族のために、誰かのために、自分を捨てて生きてこれたと思っていたのに。一生自分を騙し通せると信じていたのに。
 明日からの予定が何もなくなった途端、積み上げてきた業績も、積み重ねてきた年月も、積み立ててきた貯金もどうでもよくなってしまった。
 今なら書ける気がした。
 書きたいことならあった。
 愛する人のことを書けばよかった。
 家に帰った僕は、妻に生まれて初めて自分の夢を打ち明けた。
「これから小説を書こうと思う。
 いつ完成させられるかわからない。
 どんな出来になるかもわからない。
 若い頃には一編も完成させられなかった。
 だけど、あの頃とは違う。
 あの頃の僕は君と出会っていなかった。
 君の体のぬくもりも知らなかった。
 君との思い出もなかった。
 空想だけで、感性だけで、物語を作れると信じていた。 馬鹿げた妄想だった。
 他人の唇の感触も知らないのに恋愛を書こうとした。
 人を殴ったこともないくせに登場人物たちに殺し合いをさせた。
 本当は何もかもがどうでもよかったのに、意味ありげな深刻ぶった話を書きたがった。
 どこにもいない読者に向けて、目をつぶって手探りで書いていたあの頃とは違う。
 今の僕には君がいる。
 君だけのために書き続ける。
 君が目をつぶっていても、耳を塞いでいても構わない。
 僕が書きたいのは君についてのことだけだ。
 僕が書いた小説を読ませたいのは君だけだ。
 今まで君に言えなかったことを全部書くよ。
 今まで君に伝えたかったことを全部書くよ。
 死ぬまで君のためだけに書き続ける。
 そうして死の寸前に書き上げた原稿を持って、君のもとへ会いに行くよ」
 そう仏壇の前で誓った僕は、帰る途中に買ってきた原稿用紙を広げ、まずタイトルを考えることにした。
『小説を書きたかった男』
 どうだろう、少し硬いかな。
 まあいい、明日からは仕事もない。考える時間も書く時間も、死ぬまでいくらでも残されている。
 さあ、小説を書き始めよう。

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 12 一日は短いからきっと一生も短い


 ハローワークには人間が群がっていた。職を求めに来る人の数も、職員の数も多い。多すぎる。隣の市だ、昔の同級生と顔を合わせることがあるかもしれないといらぬ心配をしていたが、すぐにどうでもよくなった。僕のようなものはあっという間に人の中に埋もれてしまった。どのみちすれ違ったところで、僕のことを覚えている人なんていないのだ。それに皆あまり他人と顔を合わせたがっていないように思えた。

 平日の昼間であるのにも関わらず、スーツを着た中年男性がパソコンの前でうとうとしている。僕の隣の若者はイヤホンで音楽を聴きながらパソコンを操作しているせいか、「ない、ない」とやや大きな独り言を発していた。三、四歳くらいの小さな女の子を連れた若い母親がパソコンの画面とにらみ合っている。女の子はパソコンラックの下を通って隣の列にある他人の席に突撃していったようで、母親は大声でたしなめている。先ほど眠りこけていた中年男性が目を覚ます。

 まだ何もしていないというのに、それらの光景を目にしただけで僕はもう満足してしまった。長年何もしてこなかったせいで、一日のうちにやれることの量が少なくなっていた。
 不景気なんだろう。仕事がないんだろう。僕に出来ることなんて何もないに違いない。そう思いながら、画面の指示に従って情報を入力する。

 フルタイム
 28歳
 男性
 現在は仕事に就いていない

 職に就いたことがない、とか、小説家を目指しています、といったことを入力する欄はなかった。職種と勤務地を選ばずに「検索開始」ボタンを押すと、「検索結果が多くなりすぎるのでもっと絞ってください」といった感じのメッセージが出てきた。
「ないなあ」隣の若者がまた呟いた。
 僕はもう帰りたかった。

       

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