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冬の旋風
冬の旋風番外編: 鬼の悪平(完結)

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  冬の旋風番外編  「鬼の悪平」



一、平多郎と桜


 時は元亀二年(西暦1571年10月)、北条氏康様の死去より話は始まる。
 この頃、武田信玄(法性院幾山信玄)は破竹の勢いで関東に進軍していた。
 これは、様々な要因が彼の鬼神の如き攻めを実現させている。

 その中でも、大きくは今川氏の滅亡が重たかった。
 東海道一の弓取りは、織田信長によって力を削がれ、好機と見た信玄は、当時同盟関係にあった今川氏を切り捨て駿河へ進軍しを行った。
 進軍するに際し、信玄は徳川と手を結ぶなどして狡猾に上野、相模、武蔵へ矢を放ち続ける。

 我らが主君は今川へ援軍を送り無事に撃退したのだが、その後も執拗に攻撃の手を加え、ついには駿河を信玄によって平定されてしまったのが昨年の丁度同じ季節。
  
 今川と言う均衡を失った国々は否応にでも戦を始めた。
 近年目立って力を増したのは徳川軍。
 織田の後添えもあるのだろうが、それを無しにしても油断ならない。
 いずれはぶつかる壁と思って働くが懸命だ。
 しかし、今重要なのは徳川では無い、当然武田である。
 彼らは決して手を緩めるとは思えない、いかに早雲様の代より関東を制してきた覇者であろうと、現状すぐには戦えない。
 会合で氏政様が後継者となる事には決まったが、一日二日で全軍を把握できる訳がない。


 …と、家老である松田憲秀は、目の前の忍にここまでの経緯を話した。
「ここまでは理解出来たか」
「御家老様、まったくもって分りません。一番重要な私の仕事の内容が抜けておりまする」
 松田は彼を睨み威嚇したが、その男は涼しげな顔で松田の顔を見ていた。
「まぁよい、では簡潔にお前の仕事についてだけ話そう。近々、上田松陰殿が甲斐に同盟を求める書状をもって行かれる。その際に上田殿の護衛と一団の安全を守るための斥候を行って欲しい」
 つまりは、北条は武田に媚を売ると言う訳か…
「献上物も多い故に、山賊などがでては困るのだ。出発は明日伝えよう」
「了解した、ではまた明日」
 そう言うと、松田の目の前にいた忍は大きく飛ぶと、疾風の様に塀を走り抜け…そして視界から消えた。
 松田憲秀は、近くの松の木を殴りつけ
「ワシとて頭を下げたくてやっている訳じゃないわ、先代の遺言でなければこのような事したくもない」
 彼の脳裏には、忍が放った憐れむような冷やかな目が思い出された。



 小田原城中庭に降り立つ、音も無く、誰の視界からも外れた枯れた桜の木の下
 羽織を裏返し、直ぐ様に下働きの若者へ変身した。
 早着替え、変装は忍の術でも基本である。彼の正体は城中の人間でも高位の役人しか知らない。
 誰もいない事を確認し、その木から離れようとした時
「平多郎は下手糞だねぇ」
 突然耳元に若い女の声が聞こえた。見ると木の上に十一才前後の愛らしい少女が枝に座ってこちらを見る。
「桜かよ、脅かすなや。後、そんな場所に居ないですぐさま降りろ」
 愛嬌も無く、面倒くさそうに彼女を見た。
「いいのかぁー、父様にいいつけるぞぉ」
「お頭様が子煩悩なわけねぇだろ。すぐさま降りろ、じゃねえと見つかっちまうぞ」
「なにさ、うちと二つしか違わないくせに偉そうにして」
 桜と呼ばれた少女は口を尖らせ木から音も無く飛び降りた。
「偉そうなんじゃなく偉いんだよ。誰よりも早く一人前になれたんだよ、お前と違ってな」
 平多郎と呼ばれた少年が親指で自分の胸のあたりを指し、鼻を高く見せる。
 桜は平多郎の足をこずいて
「隠密の術が下手糞な平多郎どこまでできる事やら」
 彼女は自分が平多郎を見つけれた事を自慢し、そっぽを向く。
「うるさいぞ、俺はこれから風呂焚きで忙しいんだ。遊び相手は他を探せ」
 そう言うと平多郎は、彼女をほったらかして城の方へ歩いて行った。

 彼女はと言うと、ふてくされながら同じく城の方へ歩いて、そして途中で姿をくらました。




 その日の夜、城内の下働きは自分の家に戻り、城内は静けさで満ちていた。
 到る所で灯火が赤々と灯っているが、現代と違い月明かりが無ければ一寸先はまさしく闇の世界である。

 小田原城の中の一室にカラクリで出来た隠し扉がある。
 水瓶に規定量の水が貯まると取っ手が壁に現れ、それを持ち上げると畳から壁が浮き上がりその間をくぐるのだ。
 壁が持ち上がると同時に水瓶の中の水は外堀に流れ、扉は再び壁へと戻る。実に凝った仕掛けであった。
 中に入ると、すでに数名の男たちが待っていた。
 平多郎は頭を下げ、開いている場所に座った。
 室内には多くの上忍の顔も見られる。だが、中忍以下は顔を隠している。
 それからも、数人の同志が続々と部屋に入ってきた。
 その間、誰もが無言でじっと中央の蝋燭を眺めていた。
 この会合に出席するすべての忍が席に着くと、突然中央に置かれていた蝋燭の火が消えた。
  
 だが誰も驚きもしなければ、口も開かない。
 再び?燭に火が灯った時、上座にはまだ若々しい、痩せてはいるが大柄な男が座っていた。
 彼が現在、北条乱破の総大将”風魔小太郎”である。
 彼の隣りには、小奇麗に化粧をした美しい少女が座っている
(あっ…)つい平多郎は声を出しそうになった。
 それも仕方があるまい、彼女は昼間に言い合いをした桜なのだ。
 桜は緊張してか、どうしてか、普段とは違いおとなしく、少し沈んだ顔をしていた。
 平多郎は彼女に釘付けになったが、棟梁の風魔小太郎が口を開くと、体に緊張が戻り顔を上げて小太郎の方を向いた。

「今日、皆に来てもらったのは次の仕事の話でだ。 聞いているとは思うが、我々北条はひとまず武田と同盟を結ぶ事になった」
 室内から少しだけ声が上がる。
「情けないだとか、武田との同盟に反対と言う様な事を言っても始まらぬ。これは決定事項である」
 室内は再び静けさが戻る。
「これより名を上げる者は、この殿より頂いた書状を運ぶ一団に紛れてもらう。理由は分かると思うが護衛と先行を務めてもらう」
 小太郎は巻物を懐より取り出し、静かな声で読み上げた。
 声は決して大きくないが、その言葉言葉が重い衝撃の様に体を貫く。
「…以上三名の中忍と今回より混田の悪平を加入する」
 平多郎は名前で呼ばれる事が少なく、多くの大人からは暴れん坊で喧嘩に負けない”悪平”と呼ばれていた。
 この話自体はすでに松田家老より受けている。
 彼自身はさほど何とも思わず、むしろ正式に大人へ成れたと認めて貰えたのが嬉しく、笑顔を作っていた。
「悪平はまだ未熟で年は十四と若いが、この男以上に戦える者もそうはいない。それ故にワシからも殿へ推薦したのじゃ」
 憧れの小太郎からの褒めの言葉に、少し赤くなって顔を掻いた。

 話は次々と進んだ。
 道中の道順から、見張りの交代の順序、更には敵と遭遇した場合、武田方が同盟を結ばなかった場合の対処。
 すべては綿密に進められている。
 
 小太郎は最後に全員が納得したのを見て、
「これより最後に重要な事を伝える。各自、話しが済み次第帰って好し」
 そう言うと、小太郎は桜を見て
「この度の献上品は金銀の他にもうひとつ、先方から希望が出ておる」
 場は静まり返り、目線は桜に注目する。
 平多郎の瞳孔は開き、胸が急に高鳴る…悪い意味で

「桜を諏訪四郎勝頼の妾として献上する」
 場は騒然となる、それも当然だ桜はまだ十一歳の少女。それも妾として献上せねばならないとは
 桜の表情は暗く、目も当てられぬ程に落ち込んで見えた。
 諏訪四郎勝頼と言えば現代で言う武田勝頼の事で、その時はまだ武田性を名乗っていない。
 
 武田方は縁を深めると言う意味で北条家の娘を正室として迎えたいと願い出ていたが、まだ八歳の娘を嫁がせる事を良く考えなかった北条方は代わりの娘の献上を進めた。
 その結果、北条氏と縁の深い男、風魔一族に白羽の矢が立ったのだ。

「以上だ、出発まで幾日か日がある。その間に各自準備を整えよ」
 小太郎はそう言うと桜を奥へさがらせた。
 それを合図に、室内に居た忍達はぞろぞろと部屋を出ていく。
 平多郎もふらふらと立ち上がり、小太郎に頭を下げる。
 チラリと桜を見るが、彼女はこちらの顔を見てくれない。
 彼は目を閉じ、小太郎に背を向け隠し扉の前に立つと小太郎が声をかけた。
「悪平よ、しばし待て話がある」
 平多郎は、くるりと向きを反転し、何も言わずに再び元いた席に戻った。


 やがて部屋の中には、平多郎、桜、小太郎の三人だけが残った。
 それでもまだ無言のまま、刻々と時間は過ぎた。
 平多郎はこの空気になじめずついに口を開き
「御頭様、一体何の用なのでしょうか」
 と小太郎に訪ねた。
 小太郎は、じろりと平多郎を見つめ、少し経ってようやく口を開いた。

「悪平よ、死んでくれるか…」


 小太郎の目は笑っていない、桜は相変わらず顔を伏せている。
 平多郎は瞬きをする、どうも視界が歪んで見える。
 
 彼の背中に汗が流れた…




     

二、鉛玉は物を言わない



 十月なのに部屋は、じとっ、と湿っていて風の入らない部屋は蒸し暑かった。
 室内は音が外に漏れないように作られているので、外からの音も入らない。
 完全に密閉された部屋の中の三人が一同に沈黙すると、そこには限りない静寂が生まれる。
 これで行燈の灯が落ちれば、世界は無に包まれてしまう事だろう。
 
 桜は未だに顔を上げぬ。
 平多郎は声を上げる事が出来ない。昼間、松田家老へ対応した時とはまるで違う。
 世間知らずのまだ子供な平多郎でさえ棟梁、風魔小太郎への恐怖心は根強いのだ。

 
「どうだ、出来るか」
 静寂の空間に再び重く響く小太郎の声が平多郎を撃つ。
「うぅ…」
 声にならぬ言葉を口から出す、このまま魂を抜かれそうだ。
「どうじゃ、悪平よ」
「しょ…承知致しました」
 彼はすぐさま上着を脱ぎ棄て、匕首(あいくち)を腹に当てた。
 ”なぜ”、”なんで”、”どうして”、忍は疑問を持つ必要が無い。言われたとおりに行い死ねばよいのだ。
 時の戦国大名が忍を重用したのは、その為である。
 現代で言う鉄砲玉、鉛玉はただ飛べばよいのだ。
 平多郎は目を閉じ腹と腕に力を込めた。
(南無三…)
 ぐっと、力を込めて”腹を裂いた”と思うと同時に脂汗が体中からブワッと弾ける。
 体が一瞬にして痺れるような痛みと疼きが湧き上がる。
(つまらねぇ人生だったな…)
 一瞬、目を見開く。桜がこちらを不安げに見ていた。
 小太郎は相変わらず無表情でこちらを見ている。
 平多郎は自分の腹を見てみた。

 …腹からは血の一滴も出ておらず、匕首は寸での処で止まっていた。
 もちろん自分は死ぬつもりで腹目掛けていたし、躊躇はしていなかったはず。
 よくよく見れば、腕もまるで痺れたように動かなくなり停止していた。
 代わりに感覚は無かったが自分の股間から尻、座布団に至るまですべて濡れて嫌な匂いを放っている。
 体は痺れている為か濡れた感覚は無い。

「不動金縛りの術…」
 小太郎はそう言うと、平多郎の小便など気にせず近寄り匕首を奪い取った。
 彼が再び上座に座ると平多郎を縛っていた術が解け、平多郎は力無く後ろに倒れこんだ。

「見事也、混田 悪平よ。主は主名に添いしっかりと今死んだぞ」
 褒められているのかどうかわからぬが、とりあえずは生き延びた。…今はそれに感謝しよう。

「何故このような事を言うか気になるだろう。松田殿に対した不作法の罰とでも思ったか」
 平多郎は言葉を返せない。とにかく今はすべての力が抜けてしまった。
 とは言え、この様な姿を御頭様に晒してはならぬと、彼はなけなしの力で立ち上がり姿勢を正した。
 小太郎は、平多郎が姿勢を正すのを待ち、その後、この死ぬと言う行為に対しての意味を伝えた。



 風魔小太郎は、北条氏政より密命を承っていた。
 その内容は戦慄の一言、つまりは任務にあたる忍に対し
 ”死ね”
 と言っているに等しい。

 して、その内容とは
「 武田信玄公を殺害せよ 」
 つまりは、それである。

 多くの忍達が挑み、決して帰って来る事が出来なかった、そのような仕事である。
 平多郎は絶句した、まさしく死を本気の意味で考えねばならぬ大仕事。
 失敗すれば、北条家は武田騎馬軍団の手によって容易に滅ぼされかねない。
 そして、場合によっては桜をも…

「どうじゃ、ワシの真意がわかったか」
 小太郎は静かに平多郎を見た。
「り、理解致しました」
 己が小便の溜まりに頭を付け事の大きさに震えている。
「殿は期限は決めておられぬ、今は平伏した姿で良いと申されておる。故にすぐに移る必要は無い、ただ場合によっては桜もお前も死んでもらう」
 彼はもうはっきりと死を宣告した。
 桜は再び顔を落とし、不安げに目をつむった。

 平多郎の任務はこうであった。
「武田家は、桜の諏訪家への入室に際し北条方のいくつかの条件を受け入れた。その中の一つが同行として五人までの女中、下働きを武田家に置いて良いとの事。彼らからすれば、この五人も同様に人質であると考えている」
 平多郎はうなずき、次の言葉を待つ
「悪平よ、お前は幼馴染の下働きとして同行して貰う。道中も同じく桜の世話係だ、斥候も護衛もするな、この事は残りの三人にも伝えておく。とにかく身も心も下働きとして桜に尽くせ、武田内部をどのように探りどのように信玄を討つかは繋ぎを通してお前に連絡しよう」
 小太郎以外の二人は声も無く、ただただ平伏していた。
 小太郎は、手をパァンと打つと部屋の明かりは一瞬にして消え
「これにて解散とする、この事は他言無用。次の連絡があればその折に連絡しよう」
 言い終わるや、室内の明かりは再び赤々と灯り、すでに二人の姿は部屋から消えていた。


 後には湿った部屋の空気と熱気、それと己の小便のキツイ匂いのみが残っていた。
 



     

三、おもらし郎と、泣き虫姫


 あの日から、そろそろ三日ほど立つかな。
 奇麗に掃除をし、換気孔を全開にしているおかげで匂いは取れていると思うが、やっぱりあの部屋にはもう入りたくないな。
 中庭をホウキではたきながら秋の夕焼けを眺める。
 紅葉は美しく、今が一番一年の中で好きな季節だ。
 だけど、その後には寒く嫌いな冬が来る。
 ある大人は、冬があるからこそ春の美しさに皆が笑顔を見せるものだ。と言っていたが、春より秋が好きな自分にとっては、やはり冬は要らない季節であり、可能であるなら飛び越したい、そんな気持ちもあった。

 つまりは、世の中不可能な物はいくらでもあり、それを変える事は出来ないのか…と。
 平多郎は再びため息をつくと集めた落ち葉の中に芋を二個放り込んだ。
 燃えやすい藁を中に混ぜ、火打ち石で火を付ける。
(この前までは、こんな些細な事で喜べたのになぁ)
 大人になる事への実感、十四歳の平多郎は心落ち着くこと無く、この数日を過ごしていた。
 死ぬ事を簡単に考えていたが、どうもそうでは無い事がこの前の晩に分ってしまった。
 そして…
 
 あの日より桜の姿を見ていないのも気になった。
 妾と言う意味が良く分らず、仲の良い中年の奉公人に聞けば
「裕福な男が、妻の他に持つ夜伽の相手」
 と言われた。
 しかし、そんなもんで意味が分かるはずがない。第一、夜伽の意味すら知らぬのだ。
「男と女が裸になり、体を弄り合い、己の一物を女の股間の隙間に差し込む。そうすると女も男も極楽気分を味わえる」
 さっぱり意味は分らぬが、なぜか自分の股間が熱く膨らんで来るのが分った。
 女の股間の隙間…昔、桜と共に風呂に入った時の事を思い出すが、あるべき物があるべき場所に無く、ただ一本の筋のような物が見えた。だがそれに己の一物を入れる事が可能なのだろうか。そして誰がこのような事を考え実行したのか。
「何度かそれを行うと、女の腹が膨らみ子が出来る」
 まさしく不可思議な現象である。
 一物を入れる事で女の体のなにかが作動して子供が出来るのだろうか。
 平多郎はさっぱり意味が分らないが、ただひたすら股間が大きくなり傍目から見ても、見っとも無い事だけはハッキリしていたので、火を見るふりをして屈み込んだ。

 芋はさっぱり焼けぬ、火の加減がわるいのだろうか、しかし頭の中では淫らな妄想が過熱している。
 それも相手は高々十一歳の少女を相手に
「俺は馬鹿か」
 顔を赤くして、立ち上がる。
 夕暮れの透き通った冷たい空気を吸い込み頭を冷やす。
 別の場所に溜めていた落ち葉を両手いっぱいに抱き抱え火の元へ近寄ると、そこには美しく着飾った少女がいた。
(うぉっ、桜かや)
 両手から落ち葉がどさりと落ちた。
 それを見て緊張が解けたのか、桜はゲラゲラ笑いだした。
 平多郎は顔を赤め落ち葉を拾い集め、火の元に近寄ると

「なんじゃあ、桜。お前ワシをバカにしに来おったんか」
 照れ隠しに、少し怒った口調で話しかける。
「ほんに、平多郎は下手糞だなぁ。そんなんで良く忍とかやって行こうと思うもんだよ」
「やかましいわチビ。お姫様ごっこは余所でやれや」
 ふふぅん、っと鼻で笑い桜はじっと平多郎を見る。
「おもらし多郎が落ち込んでないかなぁってなぁー、来てやった訳だよ。この優しい桜ちゃんがね」
 ついついカっと頭に血が上った平多郎は、手に持った落ち葉を彼女の頭からかけた。
 バサササっ
 思ったより大量の落ち葉は桜の着飾った服などお構い無しに、彼女の全身を包んだ。
 あっ、と思い即座に冷や汗が流れた。
(まずい、これもしかして奥室行きの着物じゃないか)
 まずいまずいまずい、御頭様にばれたら腹を切らねばならんかも知れん、今度は本当に…
 冷や汗まみれの平多郎は落ち葉をかき分け彼女を探す。

「ぶはぁ」
 桜が落ち葉の中から頭を出した。そしてすぐさまゲラゲラ笑いだした。
 なんか知らないが平多郎も笑いだした。
 あの晩から自分たちを縛っていた緊張が解けたような気がした。

 手を貸し、落ち葉を払い落してやる。
 日はすっかり見えなくなり、海の向こう側が少し明るい程度であった。
「芋、そろそろ焼けるぞ」
 平多郎は竹串で芋を刺して確認する。
「よぅ焼けとる」
 そう言い、桜に一本差し出した。
「熱いけぇ気を付けろ」
「平多郎と違うからなぁ。うちはそこまで下手糞じゃないもん」
 とか言いつつ、さっそく舌を火傷しているし
「お前の焼き方が下手糞なんじゃ」
 何か人の所為にしつつも口は絶え間なく動く。
 着物が汚れる事とかお構いなしに石段の上に座り、二人で日が暮れ真っ暗になるまでそこにいた。


 今日は雲が無い、いい夜だ。残念ながら月は三日月でうさぎが餅をついているかどうかは分からない。
 風は涼しく、秋の虫達が奇麗な音色を響かせていた。

「今日な、父様から指導を受けた」
 桜は平多郎の顔を見て言った。美しい笑顔だった。
「何の指導を受けたんじゃ。今更忍の術か」
 彼女は首を振って、潤んだ目で平多郎を見る。
「子作りの指導じゃ」
 平多郎は青冷める。
「父様は”最期までは出来ない”とか言ってた、なんか男の一物がうちの穴に入るといかんらしい」
 女は嫁入りまで生娘で嫁がせる事、これは武家社会では常識である。
 しかし、彼女は忍の娘である。そこで、幾人ものクノイチを育てた小太郎はクノイチの業を彼女に数日間教え込んでいるらしい。
 女狂いにさせれば、それこそ情報も入り易い。

 彼女はあんまりそれが楽しくないようでもある、体が熱くなって極楽のような気分に成る事は成るのだが…

「なんか、相手はいい大人で、うちより倍近く年行ってるのに、何でうちなんやろうって思う」
 平多郎は、何も答えられなかった。
 彼女の眼は恥じらいと悲しさで潤んでいる。

「うちは、平多郎の子供を作りたい」
 彼女はそう言うと、平多郎の顔を乱暴につかんで彼女の唇と平多郎の唇は重なった。
 少し長い間、唇は合わさったままそのままであった。



 彼女が顔をゆっくりと離していく、平多郎は動けなかった。
 彼女は突然、ゲンコツで平多郎の頭をゴツンといい音で殴ると小走りで走り去り、少し遠くの方から

「阿呆、この下手糞おもらし郎」
 そう大声で彼を罵った。

 そして涙で鼻が詰まった情けない声で
「さいならーーー」
 そう叫ぶと歩いて城の中で入って行った。


 後には、茫然と桜の後姿を眺めているだけの平多郎が一人
 訳もわからずその場で座り込んでいた。
 星を眺めるが、空には雲がうっすら掛かり始めていて見えなくなっている。

「口ぃ…吸われてしまった…」
 ぼーっと幻覚のように桜の後姿が彼の眼に映った。
 一生懸命手を伸ばすが、幻覚故に触れる事が出来なかった。




     

四、初夜


 
 上田清衛門信秀率いる六名の侍と、桜姫と名を変えた桜の小侍従五名は十一月の中頃に甲斐の武田家の屋敷へ着いた。
 「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」と言い放ち、城を作らず屋敷のみの武田信玄の屋敷は簡素な造りではあったが、いかにも武神の住処と呼べるような威圧感があった。
 躑躅ヶ崎館、通称”武田屋敷”。
 十一人の北条方は桜姫を中心に武田信玄と相まみえる。
 信玄公が席に着くまで一同は頭を上げる事なく、顔も見る事が出来なかったがその威圧感は凄まじかった。
 部屋の温度が一気に落ちる感じがした。
 信玄が一歩歩く度に心の臓を打たれ、腹の底から冷えが染みわたる。


「一同の者、面を上げられい」
 平多郎は風魔の小太郎と同じような声に思った。口調は静かだが言葉に重みがあった。
 顔を上げ信玄公の顔をみる。
(今ならわかる…確かに武神と呼ばれるだけの事はあるわ)
 威風堂々としたその姿、威厳ある髭、まさに現世に現れた牛頭天王(ごずてんのう)と言った処だ。
(こりゃあ殿様の格が違うわ…)
 顔には出さないが、渋い思いで
(北条と武田が戦って勝てる見込みが見当たらぬ。)
 と一人嘆いた。皆はどのような思いで信玄公を見ているのだろうか。
 

 信玄公は北条方への労いの言葉をかけると桜姫を見つめ、にこやかな顔となり勝頼と桜姫へ祝いの言葉を捧げた。
「おい、勝頼。姫をこちらへ」
「招致致しました」
 信玄公の上座に近い席に座る清閑な若者がその場から立ち上がり、桜姫の元へ寄る。
「桜姫、殿の元へ…」
「わかりました」
 桜姫と勝頼と呼ばれた若者は共に信玄公の元へ赴く。
 信玄公の目の前で二人は面を伏せた。信玄公は笑みを浮かべ近寄り
「お前らの子供が武田家を支えるのだ。我らは皆家族、ワシはお前の祝言を祝うぞ」
 そう言い、二人の肩を叩いた。

「よし、これで北条も我が家族、皆の者すぐさま祝宴を用意せよ。大急ぎでじゃ」
 信玄公は立ち上がり大笑いで家臣団に命じた。
 家臣団も大笑いし、全員立ち上がり台所へと向かった。
 唖然とし、動きが取れないのは北条方のみ、武田家の者は全員が全員祝宴の用意に動き、屋敷の庭園は冬も近いのに熱気を帯びた大きな酒宴会場と化した。
 北条方も武田家臣団の手を取られ庭園に赴く。
 乾杯が済めばもはや上下の関係は無くなっていた、信玄公自ら飲み比べを始める。
 屋敷には領民の子供が遊びに来て勝頼と桜姫に赤とんぼを稲穂で縛ったおもちゃを差し出した。
 

(なんて国だ…)何もかものスケールが違った。理想郷と呼べる統治の賜物だ。
 侍に化けた忍の仲間が耳打ちする、”とんでもない国だ”、まさにその通りだった。
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」
 この言葉は嘘では無い、まさにその通りだ。武田の強さは騎馬軍団などでは無い、中身が違うのだ。
 少なくとも、今回の同盟は間違った選択では無い。北条ではまず勝てない。
 北条の家臣団全員の骨の髄まで染みわたった。


 目を桜姫に向ける、年が倍も近い男であったが精悍な顔つきの美しい男だ。少なくとも鼻がでかく、顎の突き出た自分よりは男前である事は間違いない。
 勝頼が桜姫を笑わせる。何をしゃべっているかは分らぬが無性に悔しく袴の上から太腿を強く握り、歯をくいしばって耐えた。
 黒染めの袴であったから良かったが、彼の両腿は激しく血を噴き出していた。
「おい、どうした少年」
 付添の侍が悪平に話しかける。
「申し訳ないが酒を飲み過ぎたようです。少し風に当たってきます」
「そうかそうか、子供に酒はまだ早かったな。ゆっくり気分を整えてくるがいい」
 平多郎は、下唇ををくいしばり作り笑顔で屋敷から出た。どうにも眼から涙が溢れそうで困る…何故だ。
 


 酒宴が始まって約二刻後、屋敷を下る階段の所で、平多郎は一人風を受けていた。
 大よそ一刻はすでに屋敷から離れ一人石段の上に座っていた。
 彼の頭の中からは既に信玄公の威厳や恐ろしさは消え、ひたすらに桜姫への思いでいっぱいだった。
(俺は桜の事が好きだったのじゃろうか)
 そうだなぁ、もし嫁を取るとすればやはり桜だっただろうなぁ。どうにも他の娘を嫁に取ると言う想像が出来ない。
(奇麗じゃったなぁ桜…)
 あの日の夕日と同じ真っ赤な夕日が彼を照らす。
 屋敷の方ではまだ酒宴が続いているのだろう。大人から子供まで、歓喜の声が絶えない。だが平多郎はその輪には入る気がしない。
 むしろ呪っていた。
 北条の殿様の判断と棟梁風魔小太郎の判断を。なぜ桜なのだ…
 今更ながら自分の心の内を知ってもどうにもならなかった。その時、平多郎は不謹慎にも股間が熱くいきり立っていた。
(なぜあの時、俺は桜を抱きしめてやれなんだったのだろう)
 あの日から、男女の営みの行い方については知識を得ていた。愛を確かめ合う事で出来る絆と快楽を。
(どうせならば…いや、筆おろしは桜でなければならなかったのでは。そして桜の始めては俺が奪うべきであった)
 一度でも彼女と肌を合わせる事さえ出来れば俺はこんなにも苦しまなくても良かったのかもしれない…
 あの日と同じ夕日は山の向こうに消え、美しい月が顔を出した。
 屋敷からの声も静まってきている。どうやら酒宴は終わったようだな。


 平多郎は腰を上げ、元の場所に戻った頃には既に武田家臣団によって全て酒宴で無茶苦茶にされていた庭園は奇麗にされていた。
「お前はどこに居たんだ馬鹿者が、信玄公の締めの言葉も聞かずによう」
「ごめん、ちょっと寝てしまっていたようだ」
「ほほぅ…まぁ良いか、他の奴等は皆行ったぞ」
「どこへだ」
「そんなもん寝所に決まってるだろ、俺ら下働きは向こうの武術道場で雑魚寝だ」
 下働きの仲間は右手で池の向こうにある広そうな道場を指差した。
「布団は敷いてあるらしいから一緒に来いや」
 男は平多郎の袖を引張るが平多郎はそこから動かない、ぼーっとしたまま空を見ていた
「あのさっ、桜はどこ行ったのじゃ」
 どうしてこんな事を聞いたのだろうか、未来を読む力があればこの時、平多郎は素直に寝床へもぐりこむべきであった。
「ああ、桜姫ならば諏訪様と共に離れの部屋へ向かわれたぞ。…邪魔はするなよ、今宵は二人の目出度い初夜じゃ」
 初夜…正式に妾として迎えられた証、純潔の喪失…
 平多郎は、可能な限りの嘘の笑顔を作った
「当然だろ、北条家と武田家の縁をわざわざ壊すかよ。俺の事は気にするな、ちょっとそこらを散歩してくるだけじゃ。おっさんは先に寝とけよ、じゃあな」
 平多郎はくるりと向きを変えて石段の方へゆっくり歩いて行った。
 下働きの男は彼の背中を見て感ずいたのか、憐れむような眼を向けてそのまま道場の方へ向かって行った。



「うそじゃうそじゃうそじゃ…」
 心の中で何度もつぶやいた。多分彼が今後生きる中で最高の隠密術を使ったと思う。武田忍も多いこの屋敷の中を誰にも見つからずに桜姫が居ると言う離れの部屋まで着いた。
 彼の心の臓はバクバクと馬鹿に大きな音を立て出し、体中から汗が噴き出してきた。
(うそじゃうそじゃうそじゃ…)
 部屋の屋根裏から部屋の中を覗く…彼の体は凍りついたように動かない。
 汗がジワリジワリと吹き出る、だが体の体温は急降下した。それこそ心の臓が止まったような感じで。
 息をする事さえままならない…ただ、彼の体は時間が止まってしまったかのように動くことが出来なかった。


「あぁぁ…勝頼様…」
「桜姫よ、素晴らしい、素晴らしすぎる。何と言う美しい体じゃ」
「見ないでください…血が汚いです…」

 そこには野獣のように弄り合い、恥ずかしげも無く声を上げる桜と、昼に見た美しく清閑な顔に似合わず様々な方法で桜を辱め、それを喜ぶ男の姿があった。
 年は倍以上差があり、陰部はまだ薄くしか毛が生えていない少女に対し興奮する男

 平多郎は長い間息をしていない事で眩暈がしたが、何とか立ち直れた。
 力無く立ち上がり、部屋から抜け出す。それこそまだ成人もしていない忍の技ではなかった。
 音も無く影も映らずに武田屋敷から平多郎は飛び出した。

 涙は止まらなかった。不思議な気分だった、奪われた物がこんなにも大事であった事が実感できた。
 近くの山まで駆け抜け洞窟の中に入る。
 そこで平多郎は大声で泣いた、誰にも聞かれたくなかったがそんな事、今は関係なかった。彼はひたすらに泣いた。
 泣き止むと、自分の一物の異常な熱さに気が付く。
 立ち上がり、右腕で涙を拭くと、洞窟の中のひんやりした空気が体の熱を冷ます。
「さらばだ、桜」
 洞窟の中に響き渡る大きな声で叫ぶ。平多郎の眼は既に子供の眼では無くなった。
 袴を下し、ふんどしを脱ぎ去る。体を覆っていた物をすべて地に下ろすと彼は目を閉じ、自分の一物をしごきだした。
 脳裏では桜の始めては自分が奪っていた。
 体をくすぐり合い、まだ小さな乳首に吸いつき、様々な角度で桜の秘部を己の一物で突き抜いた。
 彼の快感は絶頂に到り、一物の先より白い液体が地に落ちる。


 自分の体より溜まっていた鬱憤すべてを吐き出すと周囲の熱気は瞬時に冷やされ、平多郎は闇へ溶け込んだ。
(子供の俺は今ここに死んだ…、今より我が名は悪平とす。風魔が忍として全て任務に命を賭す)

 この日、平多郎は死に。
 のちのち”鬼の悪平”と呼ばれる戦忍が生まれた。




 

     

五、 風邪薬


「して、首尾はいかがでございますか」
「万端である。大藤殿も覚悟はよろしいか」
「当然でございます、この戦国の世は仏の力を持って統一されねばならない。さすれば、この和の国は極楽浄土となる…ですな、法師様」
 薄暗い寺の一室に多くの坊主と付近の百姓、侍が大勢集まって話し合いが行われていた。
「了解致しました大浄法師様。では皆の者、今夜一刻後に興国寺城へ向けて移動する。よいな」
 激しい叫びにも似た咆哮が付近の山々に木霊する。
 この百姓や坊主、侍達は皆武装をしており血気だっている。
 全員が立ち上がり武器を片手に”一向専念無量寿仏”と三回唱え再び吠えた。

 その時、部屋の中の火はすべて消え突然の暗闇に包まれた。
「どうしたのじゃ、火を起こせ」
 指導者と思われる大浄法師と呼ばれた僧が怒鳴った、百姓の男は行燈に近寄り火打ち石を打ちつけて、再び火を灯した。

「あっ」
 その場にいた全員が驚きの声を上げ凍りついた。火を起こしに行った百姓は行燈の傍で死んでおり、火を起こしたと思われる者は全身が墨の様に黒い服を纏っていた。
 よくよく見れば自分達は囲まれている、彼等は驚きと恐怖で声が出ない。突然の侵入者は一人では無かった、墨の様に黒い服の男は、合計五人、自分達を囲むように室内に存在している。
 行燈を付けた男は静かな声で
「三河から流れてきた坊主共が。懲りずに相模でも一揆を企てるとは承知千番也」
 黒尽くめの男は大浄法師を首を掴み上げる。
「ああっ…馬鹿者早く助けろ。地獄に落ちたいか」
 その声が号令となり、部屋に居た侍達は黒尽くめの男達に刀を向けた…が、刀は空を切る。
 侍達はこの奇妙な術の前に取り乱し、刀をやたらめったら振り回すが…が、刀には何も当たらず空を切り続けた。
 大浄法師を掴んでいた男は、法師を投げ飛ばし、指で首を切る真似を行う
 
 バッと、血が飛び散り刀を振り回していた侍達の首が飛んだ。

「ば、化け物じゃ」
 部屋に居た全ての者たちが我先にと逃げ出すが、部屋から出た瞬間、百姓や坊主達は体が輪切りに切り裂かれ、バラバラになった体が地の落ちた。
 黒尽くめの男達は動きが止まった者から順に首を刈って行く。
 それはさながら地獄絵図、一方的な虐殺へと変わって行った。当初、室内に居た一揆衆は約五十人、その内半数が既に何も出来ずに死んでいった。

「こっ、こっちは出られるぞ」
 百姓の一人が逃げ道を見つけると中に居た者は我こそと、仲間を押しのけ逃げ惑った。
「ええい、放せ。地獄に落ちたいのか」
 坊主衆は特に醜く、力の弱い物を押しのけ、我先にと部屋から抜け出した。

「何とも醜いなぁ」
 あっと思う間も無く、目の前に突然現れた黒尽くめの男に大浄法師は首を掴まれた。先程の行燈に火をつけた男だ。
 後ろからは相変わらず無表情で目の前に居る男達の首を刈り続けている化け物が迫り来る。すでに百姓や侍達は首の無い死体と変わり、生きているのは坊主のみとなっている。
 坊主達は懇願し、命乞いをし、仏に向かって念仏を唱えた。
 大浄法師を掴んでいる男の開いている左手がこぶしを握ると、その場にいた坊主達全員の両腕、両足、そして一物がボトリと地に落ち、全員が悲痛な声を上げて芋虫のように這いずり悶えた。
「坊主は念仏だけ唱えておればよい」
 黒尽くめの男達は刀で坊主の胸を突いて殺していく。

「た…助けてくれぇ」
 涙ぐんだ声で大浄法師は自分を掴んでいる男に命乞いをした。
 黒尽くめの男は汚い物を触ったような嫌な顔をして、大浄法師を投げ飛ばした。
 法師は震える体でノソノソと這いずり目の前の男達から逃げようと寺の門の方へ向かっていく。
 法師を掴んでいた男は、それを見て本当に嫌そうな顔をした。

 右手を上げこぶしを握る。少し離れた所に居る法師の体は坊主達と同じく両腕、両足、一物がバラバラにされ法師は絶叫を上げた。

「貴様は生かしておいてやる、見せしめだ。我らはいつでも見ているぞ、達磨太子の様にその姿で悟りでも開くんだな」
 法師は震えながら
「貴様は地獄に落ちるぞ、我々仏の使いを殺めたのだからな。もはやどうしようもないぞ、お前は地獄行きだ」
 涙と鼻水を垂らしながら法師は男に向かって吠えた。
 仕事を終えた黒尽くめの男達は闇に溶け込むように消えていく。
「何卒奴らに神罰を。仏の使いたるワシをこんな目に合わせるあの男共を無間地獄へ」
 大浄法師は芋虫のように痛みと怒りで震えながら大声で男達を呪った。





「流石だな悪平よ。素晴らしい腕だ」
 森の中を走る先程の黒尽くめの男に仲間は声をかけた。
「問題ない、坊主共がどんなに数が多くともワシには勝てぬよ」
 仲間の男は腰の袋から餅の入った包みを差し出した。悪平は遠慮せず、包みから一つ餅を手に取る。
「甘いぞ、上物の餅じゃ。小太郎様からの差し入れでな、”度々すまない”だとさ」
「何、ワシは風魔の乱破じゃ。仕事がありゃあ何でもするさ。
 悪平は仲間の手から更に二つ餅を取り口の中に入れた。

 二人の忍は一本杉と呼ばれる伸びた杉の枝の上で酒と餅を食べて休みを取っている。
「お前はもう一人前処か、上忍として働けよう。今回の信玄暗殺さえ上手く行けば小太郎の名を頂けるやも知れぬぞ」
「ワシはまだ十六じゃ、そんな若造が棟梁なんぞになれるかよ」
 仲間は小さく笑い悪平の手の上に小さな包みを乗せた。
「これは何じゃ」
「御頭様から信玄公への薬じゃ」
 ハッとなり仲間の眼を見る。
「安心せよ、すぐには症状は出ない。南蛮人から手に入れた秘薬じゃ。一時的に体に力が漲るが服用を続ければ吐血し心の臓が止まる」
 毒殺かぁ…あまり気が進まない、どうせ行うなら忍の技を駆使した殺し合いが良い。
 とは言え風魔忍軍の棟梁からの指示とあれば行わねばならんだろう。
 悪平は手の上に置いてある薬を、自分の懐に薬をしまう。
「なにぶん相手方には、あの加藤段蔵と甲斐の六郎がいるのだ。表向いて戦うのはチト難しいじゃろうて」
 仲間の男は、悪平の心を読んだかのように毒を盛る理由を付け加えた。
「加藤は死んだぞ。馬場信春殿が厠に入っていた加藤を槍で殺した」
「それは知っておる。だがなぁ悪平よ、ワシには奴が死んだとは思えん。幻術で馬場を騙くらかしたとしか思えぬよ。それに甲斐の六郎はまだおるのじゃろう」
「確かに六郎は厄介ではあるが…ワシの気持ちとしては一度思う存分やり合いたいものじゃ」
 仲間の男は黙りこみ、悪平を睨んだ。
「くれぐれも御頭様の命を守るように、そして桜姫様に危害が加わるような事は行うなよ。よいな」
「念を押さずとも理解出来ておるさ。ただのぼやきじゃ」

 仲間の忍口は元を緩め笑みを浮かべ、用が済んだと見るやその場から立ち上がり
「何にせよお前の風閂の術、見事であったぞ。たった一年でああも使いこなすとはな」
「楽じゃあなかったわ、革の手袋がいくつも潰れたぞ」
「ふふ、何にせよお前が優秀な忍になって我等は皆喜んでおるぞ。桜姫にも宜しくな。御免」
 そう言うと仲間の男は猿が木の上を飛び回るかのように月夜の森を飛び去って行った。

 一人残された悪平は、酒瓶の中の残りを一気に飲み干し
「人使いの荒い連中だ。俺は今日の仕事で親父にも死んでもらったと言うのに…」
 とぼやいた。
(個人的緊急の用事を作る為に名目上の父親が死んだ事にして暇を貰ったのだ)




 平多郎が死に、悪平が生まれた日より約二年の歳月が過ぎていた。
 武田屋敷では桜姫の下働きとして名目上の仕事を淡々と繰り返していたが、緊急の仕事には風魔の忍として各地へ忍働きを行った。
 この時すでに風魔忍軍内部では高い評価を受けていた。

 この二年という月日は悪平の人生の中でも、特に苦しい日々であった。
 諏訪勝頼は既に名を武田勝頼と改め、高遠城より躑躅ヶ崎館(武田屋敷)へと移り住んでいた。
 すなわち既に勝頼は後継者として正式に認められていたのだ。
 転居の際も悪平は彼らに付き添い奉公を続けた。
 かつての正室、遠山夫人は既に亡くなられ桜姫が継室と考えられていたが、信玄公は北条の姫を継室にすべきと主張した為に桜姫は妾のままであった。
 その理由の一つが跡継ぎが生まれない事に合った。
 十一歳と幼年で出産をする事になった為か、最初の子供は流産と言う悲しい結果になってしまった。
 その為それ以降、桜姫は妊娠が出来なくなっていた。
 初めの頃は、それはもう異常な程の愛撫で桜姫を愛した勝頼であったが、今現在ではただの性欲の発散の為に桜姫を抱いているに過ぎなかった。


 …既に勝頼の興味は桜姫から離れ、北条の幼い姫へと移っていた…

 その様な勝頼と違い、献身的に勝頼を慕う桜姫は日々美しくなっていく。
 これからが女の花盛りとも言うべきなのに…
 悪平を苦しめるのは、その様な桜姫の姿を見る事と、日々美しくなる少女を思い切り抱きしめたい衝動に駆られる事であった。
 すでに成人し、嫁が居てもおかしくない年になっていたが、悪平は未だ女性に触れた事が無く童貞のままである。
 仕事柄、多くの女を辱める事が出来る機会は沢山あった。百姓の娘から、落ちぶれた大名の姫君…荒れ果てた時代、女性への暴行は日常茶飯事であり、仲間は何の気も無しに姫君を凌辱し色町に売ったりしていたが、精神的にまだ子供なのか悪平にはそれが出来ずにいた。
 
 元亀四年一月
 信玄公が西上作戦と呼んだ戦で再び三河へと侵攻することが決まった。
 だが肝心の信玄は風邪をこじらせ寝込んでしまう。
 信玄も家臣団も、この好機をのがすのは惜しいと嘆いたがどうにも信玄公の具合の悪さは収まらなかった。
 無理をしようとすればするほど風邪は悪化し、とにかく安静にせねばならず、皆爪を噛む思いで信玄公の回復を待っていた。



「桜姫様、お早い事ですね」
 台所で包丁仕事を行っていた悪平は桜姫に声をかける。
「おはようございます平多郎。今日も寒いですね」
「ええ、まったく冬は嫌いです」
 今や彼らは主従の関係であり、どのような時も悪平は桜姫に対し言葉を選んでいた。
 桜姫もまた、彼の心中を察してか決して昔の様に話そうとはしなかった。
 普通に話をしていても、もはやこの距離は永遠に短く成る事はない…まだ若く経験の無い二人でも分ってしまっていた。

「こんなに寒いから大殿様の具合は治らないのね…殿も大変嘆いておりました」
 そう言うと格子の窓から外を眺める。
 雪は積り、いまでもチラチラと雪が降っている。
「姫様。もし宜しければ私が服用しています風邪薬を差し上げましょうか。大変効きますよ、私の故郷の薬です」
 それを聞いて桜姫は目を大きく見開いた。
 彼女もまた風魔の忍であった…我々の任務を全うする時が今来たのだ。彼女はそれを察した。
「ありがとう平多郎。ではこれを大殿様に差し上げてみます」
「お役にたてれば幸いです。食後に一錠ずつ飲まれればすぐさま体に力が戻りますよ」
「お伝えしておきます…」
 彼女の眼は曇り、影を落とした。
 歩みは遅く、罪悪感や疑問に襲われているようにしか見えない。
 
 彼女は背中を見せ、台所からゆっくりと離れだす。
 悪平はその背中を見て、一度戸惑い…そして意を決して声をかけた

「姫、その薬は”平多郎”からと伝えて下さいね。”平多郎”とちゃんと言って下さいね」
 理解してくれるだろうか…桜は…わかってくれるだろうか。
 ”何かあったら俺が全部責任を負う”その気持ち、姫に伝わっただろうか…

 桜姫は悪平の方へ向き、目いっぱいに涙を溜めて
「ちゃんと伝えます。…ありがとう」
 そう言うと足早に台所から離れて行った。

 悪平の心配は無用であった。桜姫にはしっかりと伝わった。
 でも桜姫には悪平が身代わりになる事が嬉しいのでは無かった、”どんなに立場が変わっても見守ってくれている”
 その気持ちがしっかりと彼女に伝わった。
 それ故に涙は止まらなかった。



 数日後、武田信玄は体調を戻し、三河の野田城へと出陣する。
 そして、その年の二月十日に野田城の攻略に成功
 だが、その直後から体調を崩し吐血を繰り返すようになる。
 伝令の兵から聞いた話では、服用していた薬が無くなってからすぐに体調を崩したようだった。

 
 
 四月の十二日、甲斐の虎、そして牛頭天王と呼ばれた稀代の武神”武田信玄”は甲斐へ引き返している中
 その命の火は燃え尽きた…




     

六、女の体
 

 武田勝頼と言えば長篠の戦いでの大敗北によって大いに名声は下がっているが、流石は武田信玄が見込んだ男である、無能とは掛け離れた天才であった。
 結果として東美濃の明智城を落とし、武田信玄ですら落とせなかった遠江の高天神城をも落とす事に成功している。
 しかし、世の中に完璧な人間などいない。武田勝頼には決定的に欠如しているものがあった。
 武田信玄は死に際に勝頼を頭首として認めた上で「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」としている。
 武田勝頼唯一の欠点にして、致命的欠如とは…

 武田信玄が最も大切にした「和」を重要視していなかった事だ。
 彼は現在で言う結果主義。何より自分が武田の頭だと言う事を周りに証明せねばならなかった。
 だが、それにも当然理由がある。

 勝頼の体にも信玄公から受け継いだ武田のやり方は受け継がれていた、だが彼の不幸とは”武田信玄の後継者”であった事である。
 信玄公の代からの家臣は勝頼に疑問を持つものが多くいた。彼らからの期待と不安は想像以上の圧力であった。
 つまり”勝頼は信玄公以上の結果を求められたのだ”


 話は天正五年(西暦1577年)に戻る。
 二年前の長篠の戦いにて大敗北を喫した時、勝頼の中で何かが飛んで行った。
 やる事なす事がどうにも上手く行かない、運命は長篠で決まってしまったかのような絶望感が彼を襲う。
 順風満帆な青年期を過ごし、信玄公に認められ、ついには武田の棟梁まで昇り詰めた…
 その後は…そして今は…


「勝頼様、お茶をお持ちしました」
 障子を開けた彼女の額に向けて扇子が飛び、彼女はお茶をこぼしてうずくまった。
 彼女へ追い打ちを掛けるように蹴りが彼女の腹部へ飛んだ。
 襟袖を引っ張り部屋へ取れ込むと障子を開けたまま彼女を全裸にし覆いかぶさった。
 それは庭を掃除していた悪平の目の前で行われた。
 悪平はそれを見て見ぬふりをせねばならず、血を吐く思いで彼らの後姿ばかりを見ていた。
 この時、悪平は二十歳、桜姫は十七歳であった。

 
 事が済めば勝頼は何も言わずそのままその場を立ち、何事も無かったかのように部屋を出る。
 廊下を通る勝頼に悪平は目を合わさないように会釈をしたが、彼の心中は怒りの炎が渦巻いていた。もしこの時、勝頼が悪平をからかう様な事をしていれば即座に首を刎ねていただろう。
 廊下を歩く音も遠ざかり誰も周囲に人がいなくなる、ようやく静かな昼下がりの光景が戻った。
 そんな静かな空気の中、唯一少女の泣き声が部屋の中より聞こえている。
 悪平は居ても立ってもおられず、部屋の中へ駆け寄り言葉を掛けた。
「桜、桜ぁ。気をしっかりせい。桜ぁ」
 悪平は桜姫の体に着物を被せ、彼女の肩を抱いた。
 彼女はそれでも泣き止まなかった。そして悪平も一緒に泣いた。


 信玄の毒殺は結局の所、誰にも分らずに寿命と言う話になった。
 風魔の小太郎よりは”そのまま武田へ逗留し、情報を送るように”との連絡を受ける。
 彼らの新しい任務により、北条方は誰よりも早く武田の動向を知る事が出来た。
 だが、それらの情報は彼と彼女の涙の数でもある、それを知るは当人ばかりである。

 勝頼の桜姫に対する態度は信玄の崩御から日増しに酷くなっており、暴力は元より性的凌辱を与えて喜ぶような事も行うようになっていった。

 
 だが唯一彼らにも慰めはあった。あの日、毒薬を渡したあの日から二人の距離は元の様にとまでは行かないまでも、ずっと近くに感じれるようになった。 
「さぁ、桜姫。着物を着て悪い事は忘れて下さい」
 彼女の着物を着せつけ、叩いて埃を払う。
「では、私はこれで…」
 これ以上ここに居れば忍の目にも止まる、悪平は会釈をし背を向け部屋を出る。

(これで良いのだ…)
 桜姫の心を癒す事、それが自分の愛である。
 ”彼女に触れずともよい。”
 悪平はそう固く決意していた。
(良いのだ…乱破のワシは乱破として生きれば良いのだ) 
 背を向けていた悪平の背に桜姫が涙声で抱きつく
「平多郎…今夜会えますか…」
 背中が湿ってきた、多分桜姫の涙だ。
「だめです。殿にどのように思われるか分りません」
「今夜は諏訪山の城に行って帰りません。平多郎、貴方ともっと話したいの…」
 心が動いた…、分ってはいたが自分はやはり桜姫の事を愛している。
「では今夜、月見酒の御供をさせて頂きます」
 そう言うと、彼女の手を取り頭を下げ、そして部屋を出た。

 
 部屋から出た悪平は庭の松影へ身を潜めた。
「だらしない男じゃな、男なら押し倒せよ」
 どこからともなく声が聞こえる。
「覗きが趣味の爺さんなんぞワシは知らんぞ」
 その声は松の上から聞こえた。
 庭師に化け、松の手入れをしている老人はニタニタ笑いながら松の木から飛び降りた。
「口ぐらい吸ってやれや。そんなんじゃからまだ童貞なんじゃよ」
「やかましい、六郎に見られたら事じゃろう」
「六郎なら今ここに居らんぞ。おったらワシは入れんわ」
 老人は腰の竹筒を差し出した。
「土産じゃ、仙台の酒じゃ。北の酒はうまいぞ」
 悪平は老人の手より竹筒を奪うと一気に飲み干した。
「悪くない。今回は仙台か、何か収穫は」
「色々じゃ。じゃが、なんつーてもあの独眼龍は面白いぞ、下手すれば奴が天下取るかもな」
「伊達なんて小さな国じゃないか。それに中央からも遠い、それは無いじゃろう」
「織田も元々は小さな国だったぞ。それが今や日の出の勢いじゃ、世の中どう動くか分らんぞ」
 そこまで言うと、老人はもう一本竹筒を取り出し口の中に注いだ。
「飛び加藤ともあろう者が昼間から酒かよ」
「ワシらの仕事は夜が本番ぞ、昼に飲まずして何時飲むつもりだ」
 このだらしなく、覗きが趣味な下品な男の名は”加藤段蔵”、通称”飛び加藤”。 
 二人が知り合ったのは、悪平が武田屋敷に出入りするようになってすぐの事、加藤段蔵が厠に入っていた時に馬場信春が信玄公の命を受け暗殺を試みた。
 流石は加藤段蔵、致命傷は防ぎ一命を取り留めたが瀕死の重傷を負って近隣の川へ落ちてしまっていた。
 そんな彼を救ったのが悪平であり風魔の医療術を使い、加藤を蘇生させる事に成功した。

 当時の悪平は荒れ果てており、近隣で辻斬りを度々行っていた。
 正体不明の辻斬りは”カマイタチ”と呼ばれ、特に武田家臣団を狙って行っていた事から武田に恨みある侍の仕業と考えられていた。
 その日、返り血を浴びた体を川で清めていた時に偶然に加藤を発見する。
 殺さずに治療を行ったのは、ほんの気まぐれで、相手が加藤段蔵である事を知ると悪平は技比べを申し込む。
 傷も癒えぬ体でありながらも加藤は悪平を完膚なきまでに叩きのめし、こう言った。
「お前はワシの恩人故に殺すつもりはない。ワシが直々に稽古をつけてやる、強くなったらまた技比べをしようかの」
 次の夜から悪平は毎日加藤のいる洞窟へ赴き加藤の技を盗みまくった。
 悪平にはその才能があり情熱があった。そして稽古をしている間だけが鬱憤を…桜姫の事を忘れる事が出来た。
 

「毘沙門天殿にも会うてきたぞ、そろそろ身を引くつもりらしいが後継者が決まらんと嘆いていたよ」
「よく自分を殺そうとした主君に会う事が出来るものじゃ」
「何、世の中過去を忘れて未来を見据えねばならぬ。毘沙門天殿は隠居後、ワシを正式に隠密として雇いたいそうじゃ」
「また殺されるような事はするなよ」
「彼女に言ってくれや」
 そう言うと加藤は酒を旨そうに喉を立てて飲み干した。
「用件は何だ、爺さん」
 悪平は呆れながら加藤に質問する。
「織田がまた動いたぞ。奴ら本格的に甲斐を潰すつもりじゃ」
 彼らの眼は輝きは増し、猫の様に瞳孔が細くなる。
「なるほど、武田の殿様が苛立つ訳が分るわ」
「それとな、越後もやばいかもしれん。毘沙門天様が身を引かれた後、多分二つに分かれるだろう。今夜、勝頼殿が出かけられたのは上杉景虎殿と会うためじゃ」
「同盟を組みのか」
「多分な、武田は織田の驚異、上杉は内部分裂とごたごたしておる。北条とも再度同盟関係の強化を求めるだろうな」
「浜松の徳川対策か…」
「じゃが徳川と北条は長い同盟関係にある。対して、武田と北条は未だに仲が良いとは言えんな」
 桜姫の部屋を見てそう呟いた。
「桜姫は関係ないじゃろう。単純に夫婦仲が冷めただけじゃ」
「夫婦では無い、妾じゃろう。人質のようなもの、これでは北条は徳川に着くのが目に見えている」
 悪平も同意見であった。元より我等は武田への隠密として入っているのだから。
 加藤は息を吸い込み、少し間をおき悪平に話した。
「勝頼は北条に、関係強化の為の正室を願い出るじゃろう」
 悪平は言葉に詰まった。桜姫は一体どうなるのであろう…
「まぁ、気を付けなよ。六郎にも勝頼にもな」
 そう言うと加藤は立ち上がり、握り飯を悪平に放り投げ軽く笑って見せた。
「死ぬなよ」
「爺さんはさっさと死ね」
 カッカッカ、と笑い加藤は壁に溶け込み消えて行った。
 悪平は頭を掻き”どうしたものか”と頭を悩ませた。




 日は沈み、そこから一刻が過ぎたあたりだろうか、廊下に酒と饅頭を用意した桜姫の姿が見えた。
 月明かりの中の彼女はまるで天女の様に悪平の瞳の中に映る。
 悪平を心を決め林の中から姿を現した。
「いい月夜ですね桜姫」
 彼女は笑って悪平に向かって上品に”おいでおいで”と手招きのしぐさをして見せる。
「こんばんわ、平多郎。たくさん食べて飲んで、楽しい時間を過ごしましょう」
 もう、子供の頃の様な言葉使いは使って居ない。
「ごめんなさいね、私はお酒が飲めないので、この甘酒を頂きましょう」
 彼女は湯飲みに甘酒を注ぎ悪平に渡した。悪平もそれを受け取り月にかざし乾杯を二人だけで行った。
 甘い液体が喉を通る、酔いはそんなに強くない。
 月を眺め二人は黙々と飲み、饅頭をほおばるが中々言葉が出てこない。
 二人は無口のまま四半刻を過ごす。
 そんな中、はじめに言葉を口に出したのは桜姫の方であった。
「みっともない所見せてばっかりだなぁ私」
 うつむいて湯呑の中に映った月をじっと眺めながらそう言った。 
「そんな事無いですよ。貴方は貴方の仕事の為に涙を流している。…それだけです」
 悪平は嘘の笑顔を作った。得意の作り笑い
 彼女はまだうつむいたまま湯呑の中を見つめている。そして少し間を置いてゆっくり悪平の方に顔を向け、笑顔を見せた。
「ねぇ、今日の今だけは昔の桜と平多郎に戻さない。私も久しぶりに平多郎に”下手糞”っとか言いたいの」
 その笑顔は眩しかった。恋心がなせる技か、悪平の中で死んだ平多郎が息を吹き返したような気がした」
「そうじゃな、そうするかぁ桜よぉ。堅苦しいのはワシも嫌じゃ」
 桜は笑って悪平…いや、今の今だけは平多郎に戻った彼を肘でこづいた。
「わかっとったよ、うちも嫌やったもん。毎日肩こるんよ、いつか大声で笑ってやろうって計画してたもん」

 …なんで気が付かなかったのだろう、平多郎は涙が出た。
 彼女は何も変わっていなかった。ずっとあの時の、六年前の時の桜のままだったんだ。
 そんな子供な彼女が大人の汚い部分を見せられ続け、体を汚され、凌辱され、それでも耐え続けていたんだと思うと悲しくて涙が止まらなかった。
 見れば桜も泣いていた。
 あの日”さいならぁ”って言ってゲンコツで自分を殴った時から時間が止まっていたのだ、大声は出さなかった、泣き声は押し殺したまま二人は肩を抱き合ったまま泣いた。
 
 二人の唇が重なるまで時間は掛からなかった。
 あの時と同じままの味がした。六年の間、いくら体を汚されようとも何も変わらないままだった。
 長い、長い時間唇が触れ合った二人は同時に唇を放す、平多郎は桜を抱き抱え彼女の部屋へ移した。
 蒲団の上に下ろした桜の腰の帯を解き、着物を一枚一枚脱がせて最後に髪留めを外した。
 六年前、屋根の上から見た幼い裸体はそこに無く、成熟した女性の美しい裸体が目の前に現れた。
 震える手で桜の乳首に吸いつき、開いた手で彼女の股間をまさぐる。
 女の体を知らぬ童貞の平多郎は愛撫のやり方を知らず、ただ指を熱く湿った”口の中の様な穴”に出し入れしていた。
「ぷぷっ、あははっ平多郎は初めてなん」
 桜は少しだけ声を上げて笑った。
「何やっても平多郎に勝った事無かったけど、伽のやり方だけはうちの方が先輩だね」
 平多郎は少しだけムスッとしたがそれはすぐに治る。彼女は平多郎の手を取って穴のどの辺りをどう扱えば良いか導いた。
 彼女はニヤニヤしながら
「やっぱり平多郎は”下手糞やね”」
 といつもの言葉を口にするとクスクス笑った。つられて平多郎も笑った。
 緊張も解け、彼女の導きのままに平多郎の一物は彼女の体内に侵入する。
 二人は再び唇を合わせ、何度も何度も腰を振り続けた。

 平多郎と桜は本当の意味で人生で一番の幸福と快楽に身をゆだねた。
 本当に最後の幸せになるとは当然思っていない…

「うち、平多郎の子供が欲しい」
 耳元で彼女が囁いた時、平多郎も桜も絶頂に達した。






 

     

七、涙を流す網の中の獣と、愛の為に裏切る女




 数日後の夜の日の出来事であった。
 正式な夫婦であれば夜が明けるまで一緒に居れるのだが、二人の間柄は複雑極まっている。なにせ大名の妾と奉公人の間柄なのだから。
 妾と言えば言葉は悪いが愛人の事であり、この時代では妾を持つ事は決して悪い事では無かった。そして妾であろうと、跡継ぎの子を産んだ場合は権力構造的には正妻よりも高くなる。
 この時代より少し先の話にはなるが、淀君は豊臣秀吉の妾であり、子供を産めなかった正妻のねねに代わり秀吉が崩御した後に権力を握る事になる。
 
 悪平と桜姫の秘密の夜が明けた次の日、風魔の繋ぎより悪平は再び別の仕事に駆り出される事になった。
 任務中ではあっても、彼の頭の中では桜姫の匂い、息、声が何度も再生させられる。
(夢心地であったなぁ…)
 無事に任務が終わり、仲間と途中で別れたのち悪平は腰の紐を解き、脳内であの晩の桜姫の仕草や感触を思い出し己の一物をしごいた。

(また機会があれば良いのだが…)
 心の中はいまだに愛しい桜姫の事でいっぱいだ。悪平は月の見える丘の上で「あぁっ」と一声上げ月に向かって白い液体を飛ばした。



 場所は変わり武田屋敷、桜姫の寝室に二人の男が入ってくる。
「夜分申し訳ありません桜姫。この度は殿より大事な話があり、その仲介人として付き添わせて頂く事をお許し下さい」
 今まで見た事が無い、中年で髪は総髪の男と武田勝頼が部屋に入ってきた。
 桜姫は頭を下げ、上座に勝頼を招きその隣に自分、目の前に中年の男が座った。
「お酒の用意をしてまいります」
 桜姫が席を立つと勝頼が手で彼女を制し、桜姫は再び腰を下ろす。
「今宵は酒はいらぬ。ただ一言聞きたい事があるだけじゃ」
 桜姫の心はざわめく。まさか…でもそんな事ある訳ない。自分だって平多郎だって十分に警戒していたはず。
 もちろん情事の際は気が緩みもしたが、それでも周囲に張った音仕掛も鳴らなかった。

 音仕掛とは、触れると音が鳴る装置の事である。桜姫の寝室周囲には悪平が作った軋みが起きやすい部分が多く作られている。
 床であろうと天井裏であろうと人が通れば軋みによってその存在を知らせる音仕掛が…

 武田勝頼は桜姫の方を向き、最も恐れていた言葉を放った。

「その方、ワシが諏訪山へ赴いた際に奉公人の平多郎と”密通”したな」
 気を失いそうな程の衝撃、桜姫の心に重く響いた。
「何を馬鹿な事を。なぜそのような事を言われますが、それも別の殿方がおられる前で」
 中年の男は、静かな口調で桜姫を見つめ、口を開く
「自分は二代目海野六郎と申します。この屋敷の御庭番を務めています」
 頭を下げたこの男こそ、甲斐忍の二枚看板が一人”甲斐の六郎”であった。決して表に出ぬ男が今、目の前に居る。
 この男は情報収集と情報操作に長けた忍で、様々な方法で他国の情報を正確に調べつくす。
 その様な男だ、自分の領内での出来事を知らぬはずが無い。
「六郎は我が国一の忍じゃ。教えてやろう、この六郎がお前の密通をワシに教えてくれたのだ」
「では殿は、私より六郎を信じるのですか」
 桜姫は精いっぱい言い返した。正直状況は厳しい、嘘であれ、とにかくこの場を切り抜けねば。
「姫様。古来より”壁に耳あり”と申します。私は西風耳の術を心得ています。この屋敷で行われている事はすべて筒抜けなのですよ」
 六郎はニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべ桜姫を見る。勝頼は六郎へ目を向け
「では六郎よ、いったん部屋から出よ。四半刻たったら戻って来て今からワシらが話す内容を言って見せよ」
 と命じ、それに対し六郎は
「承知致しました」
 と二つ返事で席を立つ。
 去り際に六郎は桜姫に一つ提案を行う。
「私と勝頼様が口裏合わせを行っていると思われては桜姫も私の術を信用しないでしょう。桜姫の方で何かしゃべって頂いて貰えませんか」
 六郎はそう言うと、廊下をゆっくり歩いて去った。桜姫は最後まで彼が部屋から遠ざかるのを見終えると部屋に戻り勝頼と向かい合った。

「勝頼様は覚えてられますか。私達の最初の夜を」
 桜姫はわざと今回の件から離れた話題を選び話しかけた。
「もう六年も前の事だ。忘れてしまったわ」
「薄情な人だ事。私の純潔を捧げた人がこうも薄情だとは思いませんでした」
「ならばお前は今でも覚えているのか」
「当然でしょう。十一月の二十日の吉日に亡き大殿様より御祝言を頂きました。本当にお忘れでしたのですか」
 彼女は涙をこぼし、静かな声で訴え続けた。初めの頃の愛情を今も求めている事、今でも勝頼への愛を忘れていない事を説き、密通などあり得ないと泣きながら訴える。

 彼女が話している間、勝頼は身動きせず静かに桜姫の話を聞き続ける。
 桜姫は話す事に夢中で四半刻が過ぎていた事には気が付かなかった。

「失礼致します。四半刻立ちましたので伺わせて頂きました」
 障子を開き、六郎が部屋の中に入ってきた。桜姫は涙を拭き、六郎の目の前に対峙する。
「では、私達がどのような話をしていたか言ってみてください」
 夢中で話してはいたが音仕掛の音は、最後に六郎が入る前に聞こえたのみだった。近くに居た気配も無い。
「ええ、では失礼ながら申し上げます。”初めに姫様は殿に初夜について”質問なされましたね」
 桜姫の顔色が青くなる
「殿は答える事が出来ずに桜姫様が自ら”十一月の二十日の吉日”と言われました」

 その後も、六郎から聞く話は隣で聞いていない事には分らないくらいの、小言で話した事まで鮮明に聞いているようで、最後には
「止めて」
 と泣きながら六郎の口を閉じさせた。
 二人の男は顔を背け泣いている桜姫を横目で見て微笑んでいた。
「御両人が風魔の乱破だと言う事もわかっております」
 六郎は懐より小刀を取り出し桜姫の前に置いた。
「殿は寛大な方です。北条方へ御迷惑を掛けるつもりが無いのでしたらここで自害なさってください」
 桜姫は目の前の小刀をじっと見つめ、室内に静かな沈黙が半刻ぶりに訪れた。
 だいぶ長い間、誰も口を開かず、一人は小刀を見つめ、二人は桜姫を見つめていた。

「もし、私が死ねば、この武田屋敷にいる奉公人を関東へ帰して頂けますか…」
 二人の男はうなずき、勝頼が声を掛ける。
「間男であり、風魔の乱破は許せぬ。故に殺すが他の者は帰してやろう」
 桜姫は身を乗り出し勝頼に懇願する。
「殿、お許し下さい。どうかあの者を殺すような真似はお辞め下さい」
「ふざけるな。乱破を許せと言うのか、間男を許せと言うのか」
 激しい怒りの口調に桜姫は押され、顔をそむけ声を上げて泣き始める。
 いまだ納まらぬ怒りの顔の勝頼の元に六郎がそっと耳打ちをした。勝頼は笑みを浮かべ顔から憤怒の表情が消える。

「良いだろう。では条件がある、それを飲むのならばあの平多郎と言う乱破を許してやる。好きな方を選べ」
 勝頼は桜姫に遺書を書けと命じた。
 一つ、奉公人と密通していた事を書き記し、それがばれた為に自害した事。
 二つ、自分が乱破として武田家に居た事を自白している事。
 この二つであった。
「待って下さい。二つ目の項は聞き受けられません」
「ならばそれでも良い。その場合はあの間男には死んでもらう、当然それ相応の苦しみを与えてな」
 勝頼の顔は醜く歪み、その笑みは嘔吐するに相応しい下衆の笑みであった。
 平多郎の愛を取るか、風魔への忠誠を取るか。
 通常男の忍であれば悩むまでも無い。命を捨て特攻を行い死ぬか逃げ切るか、もしくはその場で腹を切るか。
 だが女は違う、気持ちは定まらない。

(…父上、申し訳ありません…)
 彼女はついに折れた、忠誠より愛を選んだのだ。
 桜姫は用意された和紙に、勝頼の命令通り遺書を書き終え、最後に花押(”かおう”今で言う直筆のサイン)を加えそれを勝頼に渡した。
 勝頼はそれを一通り読むと満足げに「よし」と言い、席を立ち笑いながら部屋を出る。
「おう、六郎よ。実に見事であった、そこの女は好きにしてよいぞ。…使い終わったらそれらしく見せて殺しておけ」
「ははっ、ありがたき幸せ」
 勝頼は廊下を笑いながら歩いてゆく。部屋に残った男は先ほどまでの態度とは打って変わり目を血走らせて桜姫へ襲いかかった。
 言葉を発する間も無く、口を猿轡(さるぐつわ)で縛られると六郎はまさに獣のように桜姫を蹂躙する。
 気味の悪い声を発しながら桜姫を凌辱する六郎は、三度様々な体位で桜姫の中に射精した後、茫然自失となった桜姫の喉に小刀を突き立てた。

 その日は秋風が涼しい見事な満月であった…




 翌日の昼頃に悪平は武田屋敷に着いた。
 早く桜姫に会いたいと心弾ませ宿舎へ戻ると、奉公人の仲間が声をかけてきた。
「平多郎よぉ。旅で疲れているとこ悪いが殿様と桜姫が呼んでるらしいぞ。すぐに本堂へいってくれぇい」
「分った。すぐに行くよ」
 平多郎は土産の饅頭と酒を持って武田屋敷の本堂へ向かう。
(はて…何かあったのかのう)
 屋敷の中の空気が悪い、どこがどう悪いか説明が出来ないが、獣のように気配に敏感な忍の鼻は違和感に感ずいた。
 本堂の前に立ち
「御呼びでございましょうか。平者多郎、唯今戻りました」
 中から勝頼の声で「入れ」と聞こえた。
「失礼致します」
 悪平は障子を開き中を見る。中には…大勢の侍がそこに居た。
 ハッとなり立ち上がろうとしたその刹那、頭から網をかぶった。そして瞬間全てが分った。”まずい、仕掛けられたか”
 走ろうにも飛ぼうにも、どうにも網が邪魔でならない。そして残念な事に、手に刃物の類は全く無い。
 頭にはまったく良い案が浮かばない。すでに侍達は、槍先を悪平の体の至る所に向けている。
「すまねぇ、平多郎…」
 先程の奉公人の仲間だ、目には涙を浮かべ、体はすでに縄で拘束され動けなくなっていた。
「何事だ、何が起こった」
 奉公人は涙ながらに悪平に全てを語った。

「桜姫が今朝方自害なされた。理由はわからんが関東から来た仲間達はみんな殺されたぁ」
 頭の中が真っ白になり、体中の毛が立ち、脂汗が体中から雨のように溢れ出した。
「…おい、こんな時に冗談いうなよ…」
「本当じゃ、出なけりゃあ真先に桜姫がワシらを助けてくれるはず、違うか」
 桜姫が死んだ…自害だと…
「ワシは仲間が死ぬ様見て恐ろしくなって…お前をここに連れて来る役を買ったんじゃ。お前が逃げないようにここに誘導したんじゃ」
 そんな事はどうでもいい、桜姫は…桜は死んだのか
「すまん、武田の奴等は卑怯じゃ。嘘吐きじゃ、逃がしてくれるって言ってたのに」
 突如目の前に血飛沫が舞い、悪平の目の前に何かが転がってきた。
 それは何なのか…言うまでも無い。最後まで言葉を言う事も出来ず、奉公人の仲間は首を落とされた。
 それを見て身動きが出来ぬ網の中でありながら悪平は、ものすごい力で暴れまわり侍を押しのけ勝頼がいる上座に迫る。
 渾身の力で暴れまわり、あと一歩と言うところで黒装束の男達が持つ刺又で取り押さえられた。
「勝頼ぃ、桜姫はどこじゃぁ。話をさせろ」
 じっと勝頼を見据える悪平。武田勝頼は薄く笑い、手を叩き、奥より檜の棺桶を持って来させた。
「離してやれ。但し警戒は怠るな」
 目の前の黒装束の男達は刺又を引く。
 悪平は、よろけた足取りで棺桶の中を見る、顔には白い布が掛けられていた。
 震える手でそれを払い、顔を見て一声鳴き、飛び下がって畳の上に嘔吐した。

 武田勝頼は懐より手紙のような物を取り出すと屋敷全体に聞こえるような大きな声で朗読を始めた。

「”私、桜姫はあろうことか殿が不在の夜に奉公人の平多郎と関係を持ってしまいました。理由は多々ありますが、私は風魔の乱破として武田勝頼様を騙し続ける事に疲れていたのが原因です。故郷の者と肌を合わせる事に幸福を抱いてしまいました。しかしながら私は沢山の秘密を持ったまま生きるのが辛く、勝頼様へ申し訳ないと常々頭を痛めておりました。私はここに私のすべての秘密を打ち明け自害致します。勝頼様、何卒他の奉公人達を悪く思わないでください。悪いのは全て私なのです、彼らを許し故郷へ帰してください。宜しくお願い致します”」
 武田勝頼がそれを読み終わると同時に悪平は渾身の力で襲いかかる。…だが黒装束の男達が、動きの鈍い悪平を簡単に捕まえてしまった。
「バカな事を、そいつは偽物じゃ。そんなもの初めから無く、ワシらを陥れる為に作ったのじゃ」
「見るものが見ればわかる。ほぅれ、ここに桜姫の花押もあるのだぞ」
 完全に動きを封じられた悪平の目の前に遺書を見せ、花押を見せつける。
「それで北条に脅しをかけるつもりか下衆がぁ」
「脅しでは無い、戦略だ。今は南方からの脅威を避けねばならない、その為にはこう言う物がとてつもない価値を作る」
「そんな事の為に桜は死んだのか」
「十分役には立ったさ、乱破よ。すべて上手く回り出したのは、お前が愚かにも密通などしたからだ。感謝はしている、十分お前にも価値があった。…だがもう用は無い。殺せ」
 ワシの為に桜は死んだのか…しっかりと自制し、桜の体に触れる事無く今まで通りでいたら死ななかったのか…

 自分への不甲斐無さ、愚かさ、悔しさ、それらが入り混じり悪平は涙した。
 一人の侍が頭上で刀を構える。



 …その時
 侍の刀は弾き飛び、突然室内に十人の黒い影が現れる。
 黒い影は刀を拾うと無表情にその場にいた侍と黒装束の男達を薙ぎ払いだした。
 辺りには突然の乱入者に驚き悲鳴を上げ場は一時混乱する。
(”影分身の術か…”)
 幻影を生み出し、その間を目にもとまらぬ速さで駆け抜け、あたかも実在する分身のように見せる術だ。
 影は悪平の周囲の男達は薙ぎ払うと煙幕を使い室内を白く染めた。

(おい、悪平、生きておるか)
(やっぱり爺さんか、助かった。網を切ってくれ)
 小声で連絡しあう。加藤は悪平の体に巻かれた網を切り裂き、彼の手に刀と風閂を渡した。
(こいつは返しておくぜ。今はとにかく逃げろ、こんな場所で戦っても分は無い。連中を殺したければ今は生き延びろ)
 悪平は、刀を腰に差し、風閂を懐にしまうと、加藤の先導に従い、煙に乗じて本堂から抜け出す事に成功した。


「おのれ、悪あがきを。六郎よ、奴を追撃しその場で殺せ」
「了解しました」
 二つ返事で六郎率いる忍びの一団は、悪平と加藤の追撃を開始する。
(”影分身”といえば加藤段蔵…奴は死んだはずでは…)


 異臭にまみれた武田屋敷の中で武田勝頼は小さく舌打ちをした。


 

 

     

結び、 悪平と平多郎と桜姫と後、沢山の人たち


 ー初ー

 悪平と加藤段蔵が、武田屋敷を無事抜け出して四回目の冬が訪れた。
 執拗極まる六郎の追跡を切り抜けどうにか見つからずに居たのは偏に加藤段蔵の力が大きかった。
 彼は、六郎の秘術、十九面変装術と配下の忍に関する情報を完全に把握していた。
 それにより甲斐の忍の裏をかくことが出来たし、加藤は悪平に多くの忍術を授け育てる事が出来た。
 数年の年月は、悪平自身を術者として成長させる。

 六郎の配下に追われていたある日、悪平の目の前に風魔忍軍棟梁、風魔小太郎が現れる。
 彼は静かに一つの問を投げかける。
「桜姫の事はあきらめて城に帰れ、今勝頼を撃てば殿の妹君へ危害が加わる。また、我ら北条方は義を失ってしまう」
 この時すでに武田勝頼は行動を実行しており、密通と隠密を嫁によこした事を無かった事にするからより一層厚い同盟の強化を申し込んだ。
 彼は北条方に姻戚関係となる事を強く求め、北条氏政の末妹が彼の元に嫁ぐ事になった。
 北条の乱破の生き残りが復讐で武田家に害を成せば

 風魔小太郎自身が悪平に復讐をやめるように伝えて来た。
 悪平の答えは…
「その御命令には承諾しかねます」
 と、突っぱねた。
 棟梁自ら伺い、風魔復帰の機会を与えたのだが悪平は承諾出来なかった。
 それは意地であり、悲願であり、桜姫への熱い愛情の成せる技であった。
 風魔小太郎はすでに予想が付いていたのか、しつこく引きとめる事も無く懐より平多郎と書かれた木札を取り出し、木炭で名前の上にバツ印を大きく書くと、その札と一巻の巻物を悪平に向って放り投げた。
 彼らの中で”名消し”とも”黒印”とも呼ばれた抜け忍への最終通知である。
 通常逃げ続ける抜け忍の枕元にそれを置き、”いつでも殺せる”事を警告し、巻物には九名の忍の名が書きこまれる。
 これは”生き延びたければ九名の追跡者を殺せ、殺せば自由”と言う江戸時代で言う仇討に似た処罰の方法である。
 悪平は、何の迷いも無しにそれらを受け取ると風魔小太郎に対し一礼し、足早にその場を去った。
 悪平の姿も気配も消えて無くなると風魔小太郎は木陰に向かって声を掛ける。
「野中よ、ワシと悪平を比べ見てどう思う。遠慮はいらぬぞ」
 木陰より中年の男が突如現れる。まるでたった今、影より生まれ落ちたように気配も無くいつの間にかそこに居た。
「失礼ながら申し上げます。悪平の奴めは大層強くなりました、しかしながら今はまだ御頭様の方が勝っております」
「…今は…か」
「はい、”今は”です。そお遠くない将来、悪平は完全に御頭様を越えられるでしょう」
 この野中と言う男、実はちょくちょく悪平と共に任務をこなした繋ぎの忍である。
「そうか…ではワシが名消しを受けてお前がワシを追う場合、どのようにしてワシを殺す」
 野中は少し黙って顎をなでる。
「九名、それぞれ団結し素早く極めます。三、三、三の攻撃で一度にやり合わず、流れが止まらぬように全方位から攻撃します」
「…わかった。では行け」
 野中の後ろで八つの足音がした。そしてそれらの気配は一瞬でまた消える。
 これだけ念を押してもやはり風魔小太郎は失敗するだろうと読んだ。
 そしてその読みは当たった。

 翌日の明け方、偵察の風魔忍の一人が九人の死体を発見する。
 その死体は全員バラバラにされており、足跡は九つのみであった。



 ー継ー

 時代は更に風雲の流れが激しく渦巻き、天下取りの名の元に人は同朋の血肉を食らう、暗黒の世紀が極まった。
 生きる為に妻も娘も売り払う男、落ち武者狩りによって命を失う大名、田畑を失い餓死する子供。
 坊主すら堕落する世の中に、一片の光も無かった。

 
 武田勝頼は悪平を取り逃した後、北条家との同盟強化に成功する。決め手は桜姫の遺書にあった。勝頼自身の外交能力も高く、北条家は汚名を被らなくて済む代わりに先代の末娘を嫁として差し出す事になる。
 言わば婚姻の名の元にある人質であった。
 これらは、桜姫自害の直後から進められ、婚姻と同盟強化が実ったのは実に二ヶ月余りの素早さであった。
 だが、この同盟はすぐに崩れる事になる。
 越後にて謙信の跡継ぎをめぐる”御館の乱”が起こる。
 謙信の甥にあたる”上杉景勝”と、北条氏政の弟で謙信の養子となった”上杉景虎”が互いに譲らずに内乱となってしまう。
 当然北条方は景虎を支援し自らも出陣する、北条方は娘婿の武田勝頼に援軍を依頼する。
 武田勝頼はそれに応じ景虎支援の為北に赴くが、その隙を突き徳川家康が東海地方に進軍。その為に武田勝頼は東海地方のいくつかの拠点と莫大な金を失ってしまった。
 そんな折、佐渡を支配下に置いた景勝は武田勝頼に黄金と上野沼田を献上する事を条件に同盟を申し入れて来た。
 金に困っていた武田勝頼はすぐさま同盟を承諾、北条の援軍要求を破棄する。
 結果、景勝はこの御館の乱を制し正式に後継者として認められた。

 これを甲越同盟と呼ばれた、当然北条方の怒りは只事では無かった。
 すぐさま武田との同盟を破棄し、織田、徳川との同盟を結ぶ事となる。
 この時まさに、武田家の滅亡は確定した。
 東国諸侯はこの話を聞きこう言ったという”勝頼はこのたび大欲にふけって、義理の通し方を間違えた”と…


 その男は再び女を殴っていた。
 何度も何度も殴り、女は失神する。
 男は女の着物をすべて脱がし家臣団の前で女を凌辱し始めた。
 男の名は武田勝頼、女は北条夫人。彼女はまだ十九歳の若さであった。
 武田屋敷の中の家臣団は最盛期の頃に比べ明らかに少なくなっていた。
 多くの忠義者は既に余所の大名に従属し拠点は無傷で敵に渡る事もしばしばあった。
「殿、いい加減になさりなさい」
 配下の一人、真田昌幸は辛言するが当の本人は気にせず自分の嫁である北条夫人への暴行は続く。
 それを見て更に多くの家臣団は甲斐より去った。

 天正十年三月(1582年)
 ついに織田信長が動き出す。西から織田軍、南より徳川軍、東より北条軍、俗に言う”武田征伐”が始まった。
 武田勝頼は焦った、動く出した滅亡の足音はすぐそこまで迫っている。
「殿、甲斐を捨てて上野吾妻へいったんの引きください。すぐに岩櫃城で準備をしてまいります」
 真田昌之は軍議の中で彼にそう言うとそのまま席を立った。
(流石の殿も馬鹿ではあるまい、今は上野に逃れるべき、それ以外方法は無い)
 もはや時間との勝負、彼はすぐさま岩櫃城へ馬を走らせ準備を始める。
 だが、既に武田勝頼は十年前の聡明さを持っていなかった。
「ど、どうすればよい、やはり上野がよいか。どう思う」
 奥歯を鳴らし、肥え太った男は脂汗を垂らし配下に聞いた。
 しかし、だれも答えぬ。もう良い案など無い、素直に上野へ向かうのが良い。”そんな事も分らぬのか”と配下の武将は腹の底で笑っていた。
「小山田殿の岩殿山城はいかがでござろうか。現在上杉方は同盟を組んで居ります、また大殿様は困ったら上杉を頼れと申されました故に」
 武田勝頼は目を閉じ思考をこらした。他の配下の武将も名案だと囃し立てた。

 当時すでに配下の武将は二つの月に一度新しく加わるくらい不安定な人選の中、彼らはまだ気が付いていなかった。
 この岩殿山城へ向かうと言う案を出した者の名を知らぬと言う事に。



 ー流ー

「今更戻れだとさ、御都合主義もいい所だ」
「風魔も甲斐もごたごたしとるのう」
 悪平は手紙を丸めて囲炉裏の中に投げ込んだ。
 手紙には”すべての罪を許す故に至急小田原城まで戻る事”と書いてあった。
「お膳立ては出来たな、悪平よ」
「爺さんのおかげさ、感謝する」
 すると加藤段蔵はヒヒヒッとしゃがれた声で笑う。
「久しぶりに血が沸いたわ。お前さんも良く頑張ったな、ワシの弟子としては初の免許皆伝じゃ」
「そりゃあどうも。さて、そろそろ来る頃かな」
 囲炉裏の火を消し燃えきった手紙に息を吹きかけ灰を飛ばす。
 二人は闇に溶け込み小屋の外へ音も無く消え去る。
 それから半刻後、別の忍びの集団が到着した。
 白髪交じりの総髪に痩せた中年の忍が手を上げ、配下の忍びが一斉に小屋の周りを包囲する。
 中年の男が手を下げると配下の忍達は一斉に小屋の中へ手裏剣を嵐のように投げ続けた。
 小屋の中からは二人の男の声と血飛沫があがる。
「止めをさせ」
 中年の男が大声で命じ、配下の忍達は一斉に小屋の中へ飛び込む。

 その刹那、小屋の中から悲鳴と絶叫が山々に向かって響きわたる。二人分では無い、もっと多くの声が。
(まずい…)
 中年の男は残った配下の忍へ退却の合図を送ると、直ぐにその場から飛ぶように逃げ出す。
(ちくしょう罠だったか)
 中年の男は舌打ちをし、後ろに向かって声をかけた
「これは罠だ、俺達を誘導しようとしていたようだ。おそらく室内は風閂で結界が貼られていたのだろう」
 後ろから返事が返ってくる。
「知ってるよ、気が付かなかったのは己の力を過信しすぎたからだな」
「甲斐の六郎よぉ。どんな気分だ、武田を抜けて今は島の大将の所にいるんだってなぁ。どうだい過去の亡霊に振り回される気分は」
 男の顔が青く染まり気に乱れが生じる
「加藤…それに平多郎…」
 体に衝撃が走る、すぐさま腰の刀に手を掛けるが
 一閃…悪平の刀が六郎の肩から上を真っ二つに切り裂いた。
「悪いな、平多郎は死んだよ。ワシの名前は悪平じゃ、地獄で信玄公に詫びておけ」
 六郎の離れた上半身の口から血が吹き出し、言葉とは思えない意味不明な事を叫び、朽ちた。
「…爺さん、あいつ何て言ってた」
「あいつの子供、三代目甲斐の六郎がいずれお前を殺すとよ」
 二人は合掌し目を閉じ
 そして眼を開いた時二人は修羅の顔をして笑い合った。



 ー了ー

 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を現す
 驕れる者も久しからず 只春の夜の夢の如し
 猛き者も遂には滅びる 偏に風の前の塵に同じ


「開けろぉー、ワシだぁ、武田勝頼であるぞ。門を開けぇ」
 武田一派は岩殿城門前にて足を止められた、彼らはすぐに小山田信茂の裏切りに気が付いた。
 すでに彼は織田方と手を結んだか、武田勝頼の退路は完全に塞がれた。
「おぉぉぉぉ…」
 馬の上で噎び泣く勝頼の声が情けなく辺りに響く
「殿」
 駕籠の中から北条夫人が飛び出し勝頼の元へ近寄る。
「殿、諦めてはなりません、直ぐに岩櫃城の真田殿の元へ向かいましょう。彼は義に厚い人柄、必ずや殿を助けて下さいます」
 勝頼の涙は止まった、そしてゆっくり刀を抜くと、北条夫人の胸に向かって突いた。
 刀は彼女の胸を貫き背中まで達した。

 刀を引き抜き彼女を抱きよせ胸から溢れる血を啜る。
 配下の武将は狂気に取りつかれた勝頼を黙って見ている他無かった。


 もはや彼に付いてくる将は数少なかった。
 滝川一益の一軍は執拗に彼を追い詰めた、そして逃げに逃げ、ついに田野の地で滝川軍に包囲される。
 彼の周りは屍のみで木の陰で虚ろに夜空を眺めた。

 どこからか歌が流れて来た。
 幻聴かと思った、もしくは死期が近いのか

「祇園精舎の鐘の声…諸行無常の響きあり…」
 不意に世界からすべての光が消えた

 星の光も、月の光も、我を包む滝川軍の火の光も

「沙羅双樹の花の色… 盛者必衰の理を現す…」
 闇の中に一人の女が姿を現す
「…あ、あぁぁぁぁ…」
 手に首を持って居る為すぐには分らなかったが、まぎれも無く…桜姫の姿であった。

「驕れる者も久しからず… 只春の夜の夢の如し…」
 後ろを向けば先程刀で殺した北条夫人が恨めしそうに近寄って来る。

「あっあああぁぁぁ」
 足が動かない、急に全身の力が抜けたように立ち上がる事が出来なくなった。
 腕の力で必死に彼女らから逃げようと試みる。
 暗闇の世界の為か、全く距離感が分らない。自分は動いているのか、動いていないのか、只分かるのは二人の女が恨めしそうに自分に、確実に、近寄って来ている。

「猛き者も遂には滅びる… 偏に風の前の塵に同じ…」
 平家物語の冒頭のくだりを歌い終える。彼女らはすでに自分を見下して笑い合っている。
 声が出ない、涙と恐怖心だけが溢れ勝頼の心を引き裂いた。

「一緒に…行きましょう…」


 滝川一益は包囲の中心、勝頼が居る辺りから絶叫が聞こえる。
「いまだ、者共かかれぇー」
 滝川軍は槍と松明を持ち武田勝頼の元へ向かう。
 数分後、伝令の一人が滝川一益へ報告へ来た。
「申し上げます。敵将武田勝頼、またその奥方と思われる女性が木の下にて自害しておるようでした」
「何と歯ごたえが無い、武田はここまで落ちていたのか。まぁ良い、首を持ってこい、尾張へ戻るぞ」
 滝川軍は大きく勝鬨を上げ、二人の首を刀で落とした。




「見事也、悪平よ」
 加藤段蔵と悪平は滝川一益がいた木の上にいた。
「忍と女の恨みは深いぞ、勝頼よ。地獄の底でも悔い続けるがいい」
 二人の忍びは猿のように飛び去り、その場には一陣の風が吹いた。




「おい、お前。この文字読めるか」
「百姓のワシに字が読めるかよ」
「報告せんでええのか」
「別にかまわんじゃろう。首だけ渡せばお偉いさんは満足さ」
「そだな」

 勝頼の背中には紙が張り付けてあったが、それは正式な歴史資料には書いてない。
 紙にはこう書いてあった

       『天誅』




                  -番外編 鬼の悪平 完 -
 


 

     

ー番外編  鬼の悪平  あとがきー


 全八話予定の予定通り、無事完了致しました。
 正直、本篇の方が予定以上に人間増やしたり、無駄な複線を張ってしまったが為に停滞していて、その気晴らしに始めたのがこの番外編です。
 昔見たマンガの後書きに、「創作物語は飛行機と同じで、離陸と着陸が難しい」と言ってました。
 まさにその通りだなと思います。時に着陸に失敗すると目も当てられません。
 そう言うとこの番外編は上手く行ったかなと思いますが如何でしょうか。

 この番外編始めたあたりからちらほらコメントが増えて来ていたので結構プレッシャーでした。
 でも、今回は一切の複線の追加などせず、当初の予定どおりに進めれたのが成功の秘訣だったと今では思えます。
 なんとか本篇も脱線ばかりせずに本筋に戻したいなぁ。
 初めて書き始めた物語なので無事にエンディングを与えてやるのが創造者の務めですからね。

 本編が終わったら何書こうかなぁ。
 歴史物は希少みたいなんでまた歴史物でいこうかな。
 一応いくつか良さげなテーマ見つけたんですがこんなんどうでしょう?

・大正時代を舞台とした探偵物(怪盗十二面相みたいな)
・古代ローマの剣闘士が主役のお話

 まぁこんな感じです。
 んでは!

       

表紙

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