Neetel Inside ニートノベル
表紙

いん!
Succubus!

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 夕飯も食べず、お風呂にも入らず。ただ、上着だけを脱いで、自分の部屋へと逃げ帰った。同じ屋根の下にいるはずのアイリスから隠れるように、ベッドの中で蹲っていた。
「……あれは、一時の気の迷いであって……いや、そもそもしてない。うん、あれは未遂、未遂なの……っ!」
 しばらく眠れなくて、ベッドの中で寝返りを打っていた。いつもは気にならない、置き時計の針の音。この夜に限って、妙に耳に残ってた。
『ご主人様、起きてますか』
「…………!」
 不意に扉がノックされる。ベッドの中で丸めた身体が、びくりと跳ねる。
 顔がすっごく熱い。胸がどきどきする。
(違うから! ありえないからっ!) 喚きだす心臓に両手を重ねて抑えつけ、唇を噛みしめる。気持ちを抑えつけるのに精一杯で、返事が出来ない。
『…………』
「…………」
 扉が開いたら、どうしようかと思った。ただ、声を殺して、眠ったふりをするだけ。
『…………』
「…………」
 扉は開かない。こつんと、もう一度だけ、軽いノックの音が響くだけ。
 足音が去っていく。あいかわらず耳に残る、時計の針の音。

 カチ、コチ、カチ、コチ…………。

「……アイリス、いないの?」
 ベッドから顔を出す。もしかしたら、どこかへ行った振りをして、扉の向こうにいるかもしれない。
 じっと、声を押し殺す。返事を待つ。
 盗聴機とかいう機械が、この部屋のどこかに隠されているのかな。そう思うと、身体が熱くなる。ベッドシーツを強く握りしめて、言ってしまった。
「……きても、いいよ……」

 カチ、コチ、カチ、コチ…………。

 刻まれる時計の針の音。
 暗闇に慣れた目が、少しずつ、いつもと変わらない寝室を鮮明にしていく。
「……あぁぁぁ、もう……っ!」
 頭の中が、ぐちゃぐちゃ。
 私、変だ。世界で一番愛しいのは、父様のはずなのに。
 今は変態のことばっかり考えている。どうして。

『あはっ! それが貴女の本質なんじゃないの?』

 そんなはず、ない。
 私は、淫らなことだけを求めて生きているような、変態じゃないもん。
 でも、心のどこかで認めなさいと囁きかけられている。
 いやだ、認めたくない。執拗に彼女を求めたあの時の私は、まるで淫魔と変わらなかった。父様という想い人がいらっしゃるのに、そんな、不誠実な女だって思われたくない。

『――でも、仕方ないじゃないの。ごはん、食べなくちゃいけないでしょ?』

 うるさい、黙れ……っ! 頭を振る。また耳鳴りがして、意識が遠くなりかける。
 そうだ。あの時にも父様の声を聞いたような気がする。幻聴に違いなかったのだろうけど、一時の誘惑に溺れそうになっていた私を、戒めてくれた。
「父様……」
 祈るように、ここには居られない父様のことを考えた。目を閉じて、再びベッドの中で蹲る。広がる闇の中に、彼の人の姿を思い浮かべた。
 私は、貴方の側にいたいです。また、声を聞かせてください。私の名前を呼んで。
 フィノって呼んで。
 そうしたら、きっと私は楽になれる。なにもかも忘れて、貴方だけを想っていられる。
 意識が曖昧になって落ちていく。闇の中へ身を委ねるように、沈んでく。
 眠りは浅く、夢を見た。

     

白い花が、咲いていた。
「フィノ、こちらへおいで」
 暗闇の中で、懐かしい声を聞いた。差し出された指先。ご主人様を求める子犬みたいに駆けよって、自分の掌を重ねる。心に花が咲いた気分。
「とーさまっ!」
 世界に光が満ちていく。雲一つ無い青空の下、地平線の先まで見渡せる草原が広がっていた。晴れやかなその場所で、愛しい人と手を繋ぐ。足元に咲き誇るのは、小さな白い花。
父様が世界で一番好きだという花が、私も大好き。
「ここで会うのは久しいね。元気にしてたかい?」
「はいっ!」
 父様は、誰もが目を引く容姿を持っておいでだ。名の知れた裁縫師が作った、煌びやかな礼装も、名工の鍛冶師が打ち下ろした重厚な鎧も、父様が身につければ単なる服になり下がる。
 誰もが、父様の御姿をその瞳に焼きつける。天界の神々から祝福されて生まれてきたような、理想的な美貌を。
 青空と変わらない二つの双眸の中。私が映し出される。
 頬が染まってて、太陽みたいに笑ってる。
 貴方のことが大好きですって、そう言ってた。
「フィノ。最近、君の魔力の流れがおかしいね」
「え……?」
「心配事があるなら、相談に乗るよ。なんでも言ってごらん」
「はぅぁっ!」
 父様が私の頭を、よしよしって、なでてくれた。
 どうしよう、どうしよう、くらくらしちゃう。
「あのね、とーさま」
「うん、どうしたんだい」
「さいきんね、へんたいがいてね、うっとーしいのです」
「…………変態?」
「なぐっても、けっても、ふんづけても、だめ。しぶとくって、いやになっちゃう」
「それは大変だ。一度、家に帰ってきなさい」
「へんたいも、いっしょに?」
「いや、変態はその辺りに捨てておきなさい。捨てるのが煩わしいなら、私が斬り捨ててあげるよ。物理的にも、社会的にも、綺麗に片づけてあげるからね。後の処理も任せなさい。一片の残骸も残さないし、アフターサービスも完璧だ」
「さすがですー!」
 父様がにっこり微笑んだ。腰元に帯びた長剣が、じゃらんと音を立てる。父様はお強い。武術大会でも、父様が負けたところを見たことがない。
 頭をなでてくれた掌が、頬に降りてくる。綺麗だ。すべすべしてる。この手を煩わせたくない。優しく支えてくれるこの掌を、いつか、私の方から支えてあげたい。
「でもだいじょうぶ。フィノ、ちゃんとひとりでやれます」
「よしよし、無茶をしてはいけないよ?」
「へーきですっ! わたしのしあわせは、とーさまのおそばにいくことですからっ!」
「ありがとう、いい子だね」
 父様が笑ってる。どうしよ、鼻血でそう。
「とーさまぁ! だいすきぃっ!」
「うん、私もフィノのことが、好きだよ」
「ど、どれぐらい……っ!」
「愛してる。君は実に、私の理想形だ」
「きゃーーーーーーーーーー!!」
 幸せ過ぎて、死ねる。いや、むしろ、今死にたい。
 父様と一緒に貫かれて、二人仲良く死んでしまいたい。
「とーさまぁ! フィノも、あいしてますーっ!」
 もう無理。私、父様のこと好きすぎる。止めらんない。
「父様っ、いっしょにしんでくれますかーっ!?」
「ははは。お父様困っちゃうな」
 一杯まで背伸びして、父様の胸元へと抱きついた。うああぁぁ、たまんない。父様のにおいがするよぅ。くんくんしてもいいよね! いいよねっ!?
 微かな風にそよぐ、一束にまとめた銀糸の髪が流れてくる、それが頬をくすぐった。
あぁ、父様、無理です、もう本当に限界です。
「とーさま! とーさまぁ! とーさまぁぁ…………っ!!」
 下からお顔を見上げる。困ったような、照れたような表情の父様が最高にかわいい。
 これ、永久保存版に決定。うん。本当の本当にもう無理。
「ぎゅう……っ!」
 我慢するとかなにそれ、そっちの方が正気なのっていうか、心臓がもう本当に限界なんですけど、父様なんでそんなに格好いいんですか、私の気持ちなんてとっくに分かってる癖に、それでも穏やかに微笑んでおられるとか、本当にズルいです、反則です、卑怯ですよ、もう誰にも渡さないんだから、誰かの瞳に入ることも許さないんだから、ここが夢の世界ならもう出なくていい。父様と二人っきりでずっとここにいるの、そうしたら誰の邪魔も永遠に入らないし、それってつまり父様と永遠に二人きりっていうことで、どうしよう、どうしよう、どきどきしてきたよ父様、父様、渡さない、誰にも渡さない、絶対に渡さない、私だけの父様、私だけが父様の特別なんだよ、誰にも邪魔なんてさせない、邪魔する奴はみんなみんな、みーんな消え…………。
「フィノ、キスしようか」
「は、は、ははははははは、はいっ!!」
 父様は小さく頷いて、頭をもう一度優しく、なでてくれる。
「目を閉じて」
「…………」
 素直に目を閉じた。父様の手が、私の頭の上から頬へと降りてくる。
今、目の前に、世界で最も好きな人の顔があるんだろう。もう少しだ。嫌なこと、苦しいこと、全て忘れさせてくれる。
でも、もう少しだったのに。
「……なんですの、この甘ったるい世界は……胸焼けを起こしそうですわ」
だれ。誰が邪魔したの。
「紅茶の中に、砂糖とミルクを限界まで突っ込んでも、ここまで甘くはなりませんわよ……
大体、その歳になって、未だにこんな夢の中で生きてるなんて、たいした根性してますわね。お姫様でいるのもいい加減にしなさい。フィノ・トラバント」
 この世界で、聞いたことのない声だった。というよりも、この世界で父様以外に、誰かの姿を見たことがない。目を開けて、確かめようとした時だ。
父様の掌が、瞼の上に添えられた。
「フィノ、いいと言うまで、目を閉じていなさい。分かったね?」
「はい」
 父様の言葉に、逆らう理由なんてない。言われた通りに、すぐに両目を閉じた。ただ、どうしても気になるから、耳をそばだてて、二人の会話を盗み聞きしてしまう。
「これは驚きましたわ。貴方も、この甘ったるい夢への侵入者?」
「聞こえが悪いね。部外者は君だけだ」
 じゃらん、と鉄が擦れる音。父様が、腰元に帯びていた剣を引き抜いたんだ。
「仲がよろしいのね。わたくしも、混ぜて頂きたいわ」
「娘に手をだす不埒者は、お呼びじゃない」
「うふふ。魔導騎士の隊長を務める、ルーク・トラバント様。一人娘には、随分と甘いのですね」
「あいにくと、目に入れても痛くないほどにね。さて、私のことを知っているなら話がはやい。遺言となる自己紹介をしてもらおうかね」
「その必要はないでしょう。先日、入隊の推薦書を頂きましたもの。まさかこんなところでお目にかかれるとは、思ってもみませんでしたけど」
 推薦書……? 
 誰だろう。父様と話している女の人も、私と同じところへ行こうとしてるの?
「そうか、君が現在のアカデミーの会長か。ふむ、妥当な人選、といったところか」
「あら、てっきり罵られるかと思ったのですけれど」
「そんなことはない。組織の上に立つ者は、賢く有能であると同時に、適度に壊れた者をあてがうのが一番だからね。すぐに代替えが出来ることが、なにより好ましい」
「……わたくしを、傀儡扱いしないで頂けるかしら?」
「それならば、次の者に椅子を明け渡すといい。君はどうも、娘に悪い影響を与えてくれそうだからね」
「うざったいですわね、過保護な親って……それにしても、お噂通りの美貌のようですし、砂糖菓子みたいな甘いファザコン娘が出来あがるのも、納得ですわ」
「そうだろう。私の娘はかわいいだろう。君、単なる変態のようだが、なかなか見どころがあるではないか」
「…………は?」
「謙遜は不要だよ。確かに、私の娘はかわいい! それには激しく同意しよう。しかし覚えておきたまえ。かわいい娘に手を出されることは、父親として非常に面白くないのだよ……まったく、最近は本当にけしからん連中が多過ぎる。天上に住まう脳なしのジジィ共に限らず、冥府にいる悪友のカスまでもが、息子の嫁にどうだとほざくテメェの頭が異常なんだよ実際、頭部が毛髪的な意味で哀れなハゲの軍神は、娘に神器になれとか言ってきやがる。ふざけんなボケ、神器なんぞ、テメェの貴重なハナゲでも引っこ抜いて作りやがれ! ――――あぁすまない、少し冷静さを欠いたね。悪い癖なのだよ。どうも娘のことになると、昔のように頭に血が昇ってね。ははは。とにかくだ。どいつもこいつも、私の娘をなんだと思っているのだ。実にけしからん」
「とーさま。フィノ、およめにいかないと、だめですか?」
「安心しなさい。相手が本気で来るならば、本気で迎え撃つだけだ。場合によっては世界も道連れだが、致し方あるまい。だからいい子にして、言う事を聞いてくれるね?」
「はいっ!」
「うん、いい子だね。フィノ」
 嬉しい。父様に褒められた。
 閉じた瞳の上に、念入りに両目を被せる。父様が悪い人をやっつけて、目を開けていいよって言ってくれるまで、こうしていよう。
「うふふ……久々に、こう……腹の底から、怒りが込み上げてきそうだわ。なんだかとっても、滅茶苦茶に暴れてやりたい気分。そろそろ子離れして、わたくしに娘を任せなさい。貴方が溺愛している以上に、壊し尽くしてさしあげますわ」
「困ったね。自分に降りかかる火の粉なら、適当に部下を犠牲にしてあしらうんだが。娘に手を出すというなら、容赦しないよ?」
「それは素敵。わたくし、分かりやすいのが大好きですから。面倒なだけの規則に縛られていると、つくづくそう思いますわ」
「その点については同感だ。では、死ぬといい」
 父様の剣が、ざくりと地面を突き刺す音がした。そこから魔力の気配が溢れだすのを、全身で感じとる。そして魔力の気配がもう一つ。父様に負けず劣らずの色濃い力。怖くなって、父様の後ろに隠れた。
「邪魔な花畑、全て綺麗に吹き飛ばして、荒野に作り替えてさしあげます」
「残念だよ。アイリスの魅力が分かってもらえないとはね」
「……アイリスですって?」
「手土産に覚えておきたまえ。小さき花、今は亡き、彼女の名をね」
 彼の人の手によって、世界が変わっていく。空が切り裂かれていく。
目を閉じて、両目を覆っていても、魔力のうねりを感じる。
 青空に反した、赤い牙の群れが押し寄せる。アイリスの白い花弁とは異なる、黒一色に染まった魔力のうねり。
「――――降り注げ」
 ざあああぁぁぁ……! 
さざなみが聞こえる。気まぐれな通り雨が訪れたかのよう。
 私と父様を除いて、世界を徹底的に破壊していく。
 アイリスの花弁が、雨の滴を受け取るように、項垂れて、踊っているんだろう。切り裂かれ、切り刻まれて、青空の只中で翻り、地に落ちていくんだろう。目を開けずとも分かった。
 花が、枯れていくのが苦しい。父様の一番愛した花が、無残な有り様になっていくのが辛い。
嘘だけど。本当は、愉快でたまんない。
心地良くて、楽しくて、心を許せば笑ってしまいそう。
 アイリスなんて、一輪も残さずに枯れてしまえばいい。
私の足に踏まれて、無残な有り様をさらせばいい。
 心が笑う。アイリスなんて、大嫌い。
 笑えば笑うほど、胸が抉られるように痛んだ。
 私が、父様のアイリスになれる日は、永遠に来ない。

     

 世界を破壊する音が止んだ。
父様の剣が、再び鞘に戻る音。それを耳にして、静かに目を開く。
「素直に驚いた。生き延びているとは思わなかった。……良い顔だね。賢く壊れた者ほど、最後は美しく微笑む」
「…………嫌な男」
 目を開けると、世界は一変していた。
 青空は、血が滴り落ちたかのように、真っ赤に染まり、周囲は土くれの大地を剥きだしにしていた。見知らぬ彼女の上には、巨大な剣が墓標のように突き刺さり、さらに幾重もの鎖が、地面に縛りつけている。
「輪廻の終焉か、この星が滅ぶまでの封印か、二択から選びたまえ」
「両方が好ましいわね。でも、その前に、一言いいかしら」
「フィノ、目と耳を閉じなさい」
「……はい」
 父様には逆らえない。逆らう必要なんてない。両目を閉じて、それから両手で耳を覆う。剣に貫かれた彼女の姿、黒い翼に、黒い尻尾。つい最近、どこかで見た。
 瞳の色が、彼女のような深い蒼色ではなかったような気がするけれど……。
ひどく、心が揺れた。
「フィノ・トラバント。貴女のアイリスが、消えてしまうわよ?」
「……なに?」
 耳を完全に閉ざしてしまう、その間際、
呪いをかけられたように、その言葉が、ねっとり染みついた。
耳を防ごうとしていた手が、動いてくれない。
「……ほら、あちらをご覧になって」
 誘われるように、見た。剣に貫かれていても、わずかに動く彼女の指先。
黒い翼と、黒い尻尾。紅い瞳の女性が、一糸纏わず、立ち尽くすようにして、空を見上げていた。
「……誰だ、あれは? 彼女の幻影だとすれば、勉強不足ではないかね?」
「うふふ。女々しく花びらに想いを寄せている男には、関係ありませんわよ」
 心が急いた。心臓が早鐘のようにまくし立てる。足が一歩、前に進む。
「……アイリス?」
「待ちなさい、フィノ」
 父様の手が、私を繋ぎ止めた。
「フィノ、目を閉じなさい」
「…………」
 父様の声が、耳に届いた。それでも、空を見上げる彼女の姿から、眼が逸らせない。
 黒い翼を大きく広げ、両足が地上から離れてく。待って。行かないで。アイリス。
「フィノ」
 父様の手が、力強く抱きしめてくれる。温かくて、気持ち良くて、幸せだった。でも、振り解いた。抗ったのは初めてだった。
「……ごめんなさい、父様。彼女は、私の使い魔なんです」
「使い魔?」
「はい。声を聞き届けて、来てくれたんです。だから、追いかけないと」
「待ちなさい、フィノ。あれは――――」
「知ってます。あれはろくでなしの変態です。ですから、その……私がいてあげないと、なにをしでかすか、わからないから。ごめんなさい。必ず帰りますから!」
 父様の手を振りきった。戻れないかもしれないと。それでも、急くように足が前へと進む。走った。
「――風の精霊、シルフ! フィノ・トラバントの名と魔力を辿り、私に力を貸し与えよっ!」
 風に乗る。彼女が飛び去った空へ向けて。
 不気味に赤い空の中。急ぐ気持ちだけが後押しをしてくれた。僅かな自分の魔力を押し出して、感情を必死に高めて、高めて、高めて、アイリスを追いかける。
世界はうす暗く、冷たくなっていく。一片の欠片も陽の光が存在しないかのような、真っ暗闇の夜だった。怖い。心臓が締め付けられるほどに、恐ろしかった。
「……っ!」
 冷たい汗が流れ落ちていく。歯の音が合わない。進んではいけない。この先を見てはいけない。
 私には、まだ早い。頭が警笛を鳴らす。本能が、戻れって叫んでる。
 心の奥底から響く声だけが、弾んでいた。

『楽しみだわ。はやく行きましょう。もっとはやく、もっと昂って。
 素敵な匂いがするあの世界へ。なつかしい雰囲気に、魂が濡れちゃいそう。
 ご馳走がたぁっぷり、ありそうね』
 
 素敵なはずがない。この先から漂ってくるのは、腐ったゴミのような匂い。鼻につく。饐えた匂い。風を通じて漂ってくる。ねばついた油のように、肌にこびりついて、吐き気を覚えた。
 気持ちが悪い。気持ちが悪いのに、それをどうしてか、好ましいと思ってしまう。
 意地汚く、口の中に涎が溜まっていく。ごくりと、飲み干す。
 食べても、食べても、食べきれないぐらいの、欲に満ちた塊。身体が疼く。

『だいじょうぶ。こわくないわ。ほぅら、見えてきた…………』

     

 深い木々と水の匂い。湖面の上、力なく漂って、夜空に浮かぶ星を見ていた。
 なんのために生まれてきたのか、そんなことは知らない。わからない。
 気がつけば、この世界に在った。ヒトの意志だとか、そういうものを紡いで。
「…………食べなきゃ」
 単純明快な本能。生を長らえさせるには、なにかを口にしなくては。
 湖面に漂う片腕を持ちあげる。指の一本を口元へ運んで味わってみる。ちぅちぅ……と音を立てて吸いついた。
 柔らかい肉の感触と、噛み切れそうな皮膚の感触。滴り落ちる水滴は、喉元を流れおちていく。
「ダメ……」
 もっと、もっと、濃くないと。ねばっこくて、ひっかかって、舌で転がせるぐらいの。
 これじゃあ、私は満たせない。行かなきゃ。餌を求めて、身体を満たさないと。
「……あはっ!」
 これから味わう餌との行為を想像して、全身が熱くなる。
 たくさん食べよう。お腹がいっぱいになるまで。餌が狂って、壊れてしまうぐらい、たくさん食べてあげよう。
 とっても愉快。含んだ笑みをこぼしながら、湖面を泳いだ。岸部に辿り着くと、冷たい夜風が全身をなで上げた。とっても素敵。
 身体の中に閉じ込めていた、黒い翼を広げる。とっても軽い私の身体。風に身を任せるのは造作もない。腐った匂いがする方へ飛びましょう。
 夜空に浮かぶ星の輝きとは違う、地を這うような、灯りの群れが見えてくる。その場所に、濃い水を孕んだ、餌共がいる。

「かわいい子……」
 餌の身体に宿る、魔力と呼ばれる力。それが私の糧だった。
 口にすれば、単なる水と変わらない味。理性をかなぐり捨てて、本能を剥き出しにすることによって、それは極上の味に変わりゆく。
「ねぇ、こっちに来て……楽しいこと、しましょう?」
「あぁ……」
 餌を捕食するのに相応しいヒトの姿を、私は持っていた。妖艶に微笑めば、それだけで餌は跪いて、食べてくれ、と懇願して見あげてくる。それが愉快だった。
 紅い瞳で縛りつけ、たっぷり焦らす。一番美味しくなるところを狙って、両手で絡み取ってあげる。吐息を重ねて、中へ、一番奥へ、吹き込める。
 軋むベッドの上、路地の石畳、どこでも良かった。ただ、他の餌の目について、身の危険を晒すことだけは避けてきた。だけど上手く誘いこみさえすれば、後は簡単。力尽き果てるまで、食べ尽くせばいい。
 今夜は半壊した建物の中。腐臭さえ漂ってきそうな、黄ばんだベッドの上で、ご馳走を味わった。餌は行為の途中で苦しみに喘ぎ始めるが、それでも動きを止めはしない。限界を迎え、だらしなく涎をこぼして横たわり、最後の声もなく、倒れ伏す。
「まぁまぁってところね。ごちそうさま」
 鼻をつく白濁色の液体と、安酒の匂いばかりが満ちる部屋。
 男が力尽きる直前、覆いかぶさるように倒れてきたので、繋がりを外し、蹴り飛ばす。悲鳴をあげる余力すらなく、床の上で白目をむいた。それを適当に踏みつけ、踏み越えて、小窓を開く。
「……いい匂いね」 
 清涼な夜風など流れない。汗と油に満ちた室内に、燃え底なったゴミカスの匂いが混じる。行き場を失った、腐った水の匂いが強く鼻をさす。
 これが私の場所。これが私の生まれた理由。とっても素敵。どこにも行けやしない。おかしくて、おかしくて、笑った。餌ならば、潰れて死ぬだろう高さから、一息に飛び降りた。
「帰りましょう」
 私には、私一人がいればいい。望むままに行動し、食べたい時に食べて、欲を満たす。
 満ち足りれば、山奥の大樹の虚で、息を潜めて眠るだけ。

 降り立った場所は、街の中でも最も貧相で、ごみ溜めと呼ばれる路地裏だった。
 最低に不快なその場所は、とっても居心地の良い、最高な場所。
 足裏に血糊と吐瀉物が、からみつく。山奥の隠れ家、あの湖に戻るまでに、どれだけ汚れることかしら。
「もっと、もっと、汚れてしまえばいい……あはっ!」
 口元に手を添える。おかしくて、おかしくて、両肩が震えた。楽しい。とっても楽しいわ。
 歌でも唄おうかしら。こんな夜に相応しい、最低の、

 ……ァ、ァ……

「…………?」
 ごみ溜めの路地裏。道の先に、小さな餌がいた。
 食べごたえのなさそうな身体。壁を背に蹲っている。淫魔の鼻が、私と同じ性別だと告げていた。
 けれど、外見はまるで違う。
 とても服とは呼べないボロ布。ぐちゃぐちゃに乱れた茶色の髪束。光を失い窪んだ藍色の両瞳。
 青痣ばかりが目立つ顔。カサカサに乾いて切れた唇。幾本も折れて不揃いの歯。
 膝小僧を抱く両腕、両足に打ちつけられた鞭の傷痕。どれも不自然に曲がっている。
「…………………………ァ」
 美しいところなど、欠片もなかった。壊れかけた体で、ふらつきながら立ち上がる。
「ア~~~」
 聞くにも耐えがたい、ダミ声。耳鳴りがする。
 ひたり、ひたり。
 少女が、幽鬼のように距離をつめてくる。
 爪の禿げた五指を持ちあげて、私の前までやってきた。
「……まずそうね」
 普段ならば、味見すらせず、見向きをするのも面倒な餌だ。それでも、私の紅い瞳を見つめれば、少女は奴隷となりはてる。そこに意志など存在しなかった。私自身、この紅い瞳の奴隷なのだから。
「ア~~~~~~~」
 少女が手を掴み、引っ張る。
「……どこへ連れていってくれるのかしら?」
 食事の後の、けだるさが残っていたからだろうか。それとも、別の理由があったのか。
 私たちは、ひたり、ひたり、と路地裏の奥へと進んでいった。

     

 負という要素を詰め込んだ、屑入れの箱。それはきっと、こんな場所。
 餌が食べた餌の残りカス。小蠅の群れ。鼠を咥えた猫の死骸、増殖するウジ虫。なにかの骨。腐った液体。道を塞ぐ邪魔な餌の頭蓋。蹴りとばす。
「……まったく、本当に素敵よね」
 餌は、この世界を嫌っていた。屑入れの箱を開いてみるどころか、視界に入れようとさえしない。
 そのかわり、光のあるところへ必死に逃れ、自分さえ輝いていれば、世界は美しいと思ってしまえる生き物だった。

『そんな生き物の欲望から生まれたのが、私たちなのよ。最高でしょう?』

 時折に聞こえてくる、心の声。嘲るように応えてあげるのは、いつものこと。
「最高よ。腐った匂いの全てが、好ましく思えてくるわ」
 私の手を引いて歩く少女の髪をなでる。くるりとこちらを振り返し、首を傾げた。それから一度、屈託なく笑って、また歩いていく。希望のない屑入れの中を、平然と歩いていく。
「ア~~~」
 酷い顔。笑っている顔ですら、泣いているのかと思えてくる。
 暗い悦びを見出している紅い瞳は、闇の中でこそ輝く。けれど、少女の瞳は、闇に呑まれていた。
「……」
 昔は、この少女も、光を求めていた餌の一人だったのだろうか。
 逃げ場のない袋小路。どこにも辿り着くことの出来ない、光の届かない迷宮。
 ここは、そんな世界だった。そして私たちは、ここから逃れる術はない。
「ごらん。私たちには、行き止まりしかないのよ」
 ここが終着点。少し開けた、巨大な広場に埋め尽くされた、廃棄の山。
 星すら見えない。わずかに差し込む月明かり。
「ア~~」
 少女が、その山の中へと、躊躇わずに両手を突っ込んだ。ズブズブと、両肩まで差し込んでいく。
「……!」
 くすんだ色の血が、流れ落ちていく。剥き出しになった廃棄の先端が、皮膚を切る。
 悪臭すら漂いそうな血の色は、栄養の不足か、病気か、その両方か。
「…………やめてよ」
 まっすぐに、なにかを求めている小さな掌。
 怖い。怪我なんて気にも留めず、なにかを探している、まっすぐな藍色の瞳が、胸を刺す。
「やめなさいっ!」 
 手を掴み、廃棄の山から引きずり上げる。
 枯れた小枝のように細い腕だった。力を入れずとも、ぽきりと音を立て、逝ってしまいそう。
「不愉快よっ、なにもかも……っ!」
 少女が痣だらけの瞼を瞬きさせる。首を小さく傾げた後に、顔を逸らして、両手をまた廃棄の中へと突っ込む。
「勝手にしなさいっ!!」
 黒い翼を広げる。風に乗るのは、とても容易いこと。けれど今だけは、後ろ髪を引かれてしまう。
 私は縛られない。こんな、小さな餌、知るものか。
「ア~~~!」
 少女のダミ声。忌々しいはずなのに、振り返ってしまう。
 膨らみのある、安い紙袋が、手の中にあった。ぽた、ぽた、と血が滴り落ちてる。それなのに、どうして、そんなに笑っていられるの。
「……なにが、入っているの?」
 いつだったか、どこかの男が言っていた。この世界は糞だと。
 脳なしの神が、すべてを詰め込んだ箱の中から『希望』を出し損ねたのだと。
 私を組み敷き、酒の入った瓶を床に転がし、血走った眼で、何度も何度も、呟いていた。
 この世界には、もう希望なんてものは残っていないのだと。
「ア~~~!」
「……なによ。それが貴女の希望?」
 それは餌の餌。細長い、パンと呼ばれる食べ物だった。
 大事な宝物のように頬摺りして、それから見るに耐えない両指で、冷えて固まったパンを、ふしくれた指と、折れた歯で、噛み千切っていく。
 ガリガリと甘噛みしている様は、小鼠のよう。どうにか、パンを二つに分ける。
 満面の笑顔。「キャア」と一度叫んで、

『あげるー』

 薄汚れた、最悪の掃き溜めの中だった。かろうじて、月明かりだけが届いてた。
 そんな場所。笑顔なんて、浮かべられるはずもない。
 ガラガラに枯れた喉で、それでも精一杯に言葉を絞りだして、私だけに見せてくれる、その笑顔。
『はんぶんこー。いっしょに、たべよー』
「……!」
 はい、と差し出された一欠片の、パン。
 こんなの、初めてだった。求めることばかりで、与えられたことなんて、なかった。
「……パンの味なんて、分からないわ」
『ふぇ~?』
「パンを食べたところで、生きていけないんだもの」
 ずっと一人だった。今まで、ヒトは餌だと思ったことしかない。
 それ以外の事に、興味を抱いたことがなかった。
『ぱん。おいしーよ?』
「……おいしい?」
『うん!』
 私が見つめれば、ヒトは、狂った。自らその身を委ねてきた。
 だから、私がヒトに告げられる言葉は、一つしか知らない。
「…………食べても、いいの…………?」
『うん!』
 笑ってくれた。それが、嬉しかった。
 生きてきて、初めてパンを食べた。冷たくて、どんな味もしなかった。
『おいしーでしょ?』
「…………」
 わからない――――あぁ、ごめんなさい。悲しそうな顔を、しないで。
 やっぱり、私は違う。ヒトじゃない。
 なんだろう、これ。胸が痛い。触れられてもいないのに、胸がすごく痛いわ。
 眼が熱い。熱くて、熱くて、なにかが零れ落ちてくる。しょっぱい。 
「……ひぅっ……えぐっ……」
『なかないでー』
 そんなはず、ない。私はヒトじゃない。淫魔だもの。
 でも、どうして、ヒトじゃないの。
 でも、どうして、瞳が紅いの。
 でも、どうして、黒い翼と尻尾が生えているの。
 でも、どうして、パンの味が分からないの。

『だいじょーぶ。ふたりでたべれば、おいしー』
「……え」
 少女の口が、大きく開く。それから、ぱくりと一口、パンを咥えた。
『おいひー?』
「…………」
 もう一度、パンを齧ってみた。
 でも、やっぱり、わからない。でも、これが、そういうことなのかしら。
「とってもおいしいわ……」
『ねー!』
 理由は知らない。ただ、この時に、初めてわかったこと。
 私は、おいしい物を食べると、涙が出る。少女を、ぎゅうって抱きしめた。
 いい匂い。でも、絶対に口をつけられない。
 宝物。私だけの、宝物。誰にも、触れさせない。
「……お願い。側にいて……」
 この世界に生まれてきた理由。見つけたと思った。

     

 少女を抱いで、空を飛ぶ。骨と皮だらけの身体は、私よりも軽かった。風に乗ることは、二人でも容易い。
『おーほしーさまー!』
 きゃあきゃあ言いながら、両手を振って、楽しそうに星を指差していく。
『きれーだね、きれーだねぇ!』
 繰り返し、同じ言葉を耳にした。その日から、私にも、星が美しく見えるようになった。
 これからの夜はずっと、星が綺麗に見えるかもしれない。
 それは、きっと、素晴らしいこと。
 大切な物を、落としてしまわないように。
 強く抱きしめて、深い木々の匂いの住処へと、一緒に帰った。

「おはよー!」
「おはよう」
 慣れ親しんだ住処に、新しく増えた、少女の匂い。
 愛しいその額に口付けると、それだけで満足だった。食べなくとも、満たされた。
「おさんぽ、いこー!」
「えぇ、行きましょう」
 少女が来てから、太陽が昇っている間も、眼を覚ましていた。
「きれー!」
 一輪の小さな花、列をなして歩く蟻、湖に影だけ映る魚。
 なんでもないこと。そのすべてに、少女は指差し、喜んだ。
 木々から落ちる一枚の葉っぱにさえ、目を留めて、幸せそうに手を叩く。
「きれー!」
「うん、綺麗ね」
 よかった。私、ここに在って、よかった。
 太陽の下で、二人、抱き合うように、まどろんだ。
 食べたくない。この子だけは、食べたくない。

「だぁいすき」
 一緒に寄り添って、いつもの場所で星を見上げていた。七度目の夜。
 眠る間際にそう告げられて、お返しにキスをした。少女は「きゃあ」と声をあげて、笑ってくれる。
「しあわせー」
「はい、私も幸せですよ。ご主人様」
「ごしゅ……なにー?」
「ご主人様、です。私だけの、ご主人様。どんな我儘だって、私が叶えてあげます」
「ほんとうに? いいの?」
「もちろんです。貴女さえいてくれれば、他になにも、いりませんから」
「じゃあー。ずっといっしょにねー、いてくれる?」
「もちろんです。ずっと側にいますから。貴女の側に」
「ありがとー!」
「はい、私の方こそ、ありがとう」
 ぎゅうって、抱きしめる。私の胸の中、一つ、小さな欠伸がこぼれた。
「……ねむねむ……」
「そうですね、今日はもう寝ましょう」
「おやすみー」
「おやすみなさい」
 いつものように、二人で眠った――――翌朝、目を覚ましたのは、私の方が早かった。
 初めてだった。朝は、いっつもご主人様の方が、早かったのに。
 あぁもう。寝顔が、やっぱりかわいいなぁ。
 たべちゃいたい。でも、ダメ。

「朝ですよぅ、ご主人様」

「今日も一緒に、ご飯、食べましょうねぇ」

「……ご主人様?」

「……どうしたんですか? 今日は随分と、お寝坊さんですね……?」

「ご主人様? お陽さま、もうあんなに高く、昇っちゃってますよ?」

「お散歩の時間、そろそろ過ぎちゃいますよ」

「…………あの……ごしゅじん、さま?」

「……いやですよ……? そんなの、いやですよ……?」

「ご主人様。ねぇ、嘘でしょ?」

「私、ここです。ここにいますよ。ほら、ここですってば。お側にいますよ。ほらぁ、目をあけて、見てくださいよぅ。
 あ、これ! 新しいパンです。きっとお気に召されますよぅ。
 みてください。中に甘いジャムが入ってるんです。私にも、はんぶんこしてくださいね。ちょっと冷めちゃいましたけど、今ならまだ、とっても美味しいですよ。
 空を見てください。雲が全然ないでしょう? ご主人様の笑顔みたいに、とっても気持ちよく晴れてます。これならきっと、夜はお星様がよく見えますねっ! ご主人様の大好きな、まぁるいお月さまだって、見えますよ!
 流れ星にお願いしましょう。この前、途中で寝ちゃったじゃないですか。だから、今度こそ二人で見ましょうね。約束しましたよね。
 えへへ。今日はいっぱいお昼寝したし、大丈夫ですよ。きっと見れますよ。
 ほら、昨日も、約束したばかりじゃないですか。ずっと一緒にいるって、貴女の側にいるって、言ったじゃない。
 どうして……? お願い……起きて……起きてよぅ……! お願いです。目を覚まして。ご主人様! 私を、一人にしないで……っ!」

       

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Neetsha