Neetel Inside 文芸新都
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そうなると良いね、
「私はねぇです」

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 私がうやうやしく「はじめまして」と頭を下げると、
「そんな、はじめましてだなんて水臭いですよ、白鳥さん」と、くるりんさんは頭に巻いたオレンジのバンダナをほどきながら言った。
くるりんさんの髪は、自然に茶色くて柔らかそうで軽く癖がかかっていて、長毛種の猫を連想させた。
くるりんさんはオレンジのバンダナを適当に畳んでテーブルの隅に置き、店員を呼んでホットコーヒーを注文した。
猫舌ではないんだな、と私は少しだけ意外に感じた。

「本がお好きなんですよね、白鳥さん」と、くるりんさんは前髪を触りながら言った。
くるりんさんはよく、こうして脈絡もなく話題を変えるのだ。
「ええ、まあ」と、私は言って、紅茶で口の中を濡らした。
「私が白鳥さんくらいの歳だった頃は、文章を読んで面白さを感じるという発想すらなかったですよ」と、くるりんさんは表情を変えずに言う。
対する私は少しだけ微笑んで、「兄に影響されて」と少し照れながら言った。

「もの凄く怖い小説があるんだけど、きっとお前には理解できないだろう、
 みたいな内容のことを、いつだったか兄が私に言ったんです。
 私はむきになって、絶対に理解できるからその小説を読ませてくれ、と頼んだんです」
それが、私が本を読むようになったきっかけだった。
「そうして兄に読ませてもらったのが、江戸川乱歩の『鏡地獄』という短編だったんです。
 私にとっては怖いというより、むしろ楽しげな話のように感じました」

 こういった話をすると、大抵の人は、今度その本を私に貸して、だとか、
他に何かお勧めの本は?だとか、社交辞令で言ってくるものだ。
だけどくるりんさんは違った。
「なるほど、そうなんですか」と無表情で言うだけだった。
くるりんさんの無表情さは、無愛想さとはまた違った感じがあった。
表情を変えないことで、話し相手に安心を分け与えようとしているみたいだった。
実際に、くるりんさんと居ると、喋っていても喋っていなくても良い、というような、ある種の安心感があるような感じがした。
それは、私にとっては割りと珍しいことだった。
大抵は、喋っていなくては駄目、だった。

 くるりんさんが注文したホットコーヒーが運ばれてくる。
くるりんさんはコーヒーには口をつけず、「学校の給食って、残さずに食べたことあります?」と私に聞いた。
私は一瞬、えっ、という表情になって、それから、「ありますけど」と答えた。
「私はねぇです」と、くるりんさんは言う。
ねぇです。
実際にそんな喋り方をするんだな、と私は思う。

「野菜が食べられなかったんですよ。野菜っていう種類の食べ物が全部。
 なんというか、野菜っていう響きの中に、うねうねした虫みたいなものが潜んでる気がして、駄目だったんです。
 だから給食は殆ど残してました。
 主食が麺類の日は、野菜が入っている汁物に麺を浸すのが嫌で、ソフト麺をそのままかじってました。
 そんなんだから、ある意味クラスの人気者だったんですよ。
 小学校入学から中学校卒業までですから、九年間ですね。
 ずっとそんな風でした」

 くるりんさんは、ポケットからポケットティッシュを取り出し、
落ち着いた動作でティッシュを口に当てた。
そして、たっぷり三秒ほど時間をあけてから、ぷしゅんっ、とくしゃみをした。
くるりんさんは口に当てたティッシュを、オレンジのバンダナと同じように適当に畳んで、それをポケットに入れた。

「でも高校二年生の頃、急に大丈夫になったんです、野菜が。
 うねうねの虫でもいいじゃないか、と思いました。
 それで急に、食べなおさなきゃならない、と思ったんです。
 その、九年分の給食をね。
 ちゃんと九年分、残さず給食を食べなおそうと」

 くるりんさんは、ふわっ、と横を向き、窓の外を見た。
曇りだ。六月の曇り。
お洒落でも奇抜でもない、ただの曇りだった。

「そう思って、今の大学に入学したんですけどね」と、くるりんさんは六月の雲を見ながら言った。
くるりんさんは、運ばれてきたコーヒーを無視するみたいに、ずっと口をつけずにいた。


 くぉろりん、くぉろりん、と音がして、喫茶店のドアが開き、男の人が入ってきた。
その人も、オレンジのバンダナを頭に巻いていた。



       

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