Neetel Inside 文芸新都
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短編小説集
上空2メートルの星空

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上空2メートルの星空

 明け方の日が昇る直前の薄暗いひとときに、風呂に入る。
至って普通の浴室だ、大きな磨りガラスで閉じられ、引き戸を開ければニ畳程の大きさに浴槽と洗い場、白い壁に覆われて青い丸型タイルで埋められた水玉模様の床。
電球は点けない。
決して明るくは無いが、特に何をするわけでも無い、風呂に入るだけだ。わずかな日の光でも充分だ。
それに、ちょっとだけ風情が出る。
いつものどこにでもある風呂場が、急に旅館の露天風呂のように感じられる。
そんな自己満足のちょっとした楽しみを満喫しながら湯船につかり、体の力が抜け行くのを感じて、思わず目を閉じる。
「ふぅあ、あ~~」
 足は伸ばせないが、適度に曲げれば収まる浴槽がちょうどいい窮屈さを与えてくれる。
 浴槽に片肘を乗せ目を開ける、白い正方形のタイルで覆われた壁を見つめる。
何も考る気は無いのに、いろんな事が頭をよぎっていく。その瞬間は強烈に記憶しているのに次の瞬間には別の事を考え、結局は何も考えていないのと同じように、いつの間にかタイルの数を数えたり対角線を結んだり、くだらない事をしながら湯船に浸かっていると何となく天井を見上げていた。
朝日を反射する朝焼けの雲のように、その天井も日の光を受けて日陰のタイルよりも、うっすらと姿を見る事ができた。
 いつもは気にならなかった染みやカビがなぜか星のように見えて、急に外に放り出されたような感覚に襲われた。
その天井までの距離は2メートルくらいだろうか、手を伸ばせば届くかもしれないこの至近距離にいきなり星空が現れた。
近くにあったものが急激に離れていく感覚、自分が何かに引っ張られ体は動かないのに意識と視角だけが遠くに行く感覚、湯船に浸かった体が自分自身の感覚をさらに揺さぶった。
だが、この感覚もタイルを数えるのと同じにすぐに過ぎ去る、必死にもう一度と思考していると天井に星ではないものを発見した。
目を凝らすと、見慣れた形のそれは昆虫である事が分かった。
トンボだ。
どうやって紛れ込んだのだろう、ずっとそこに停まっていたトンボは動きもしない、見つめているうちにまた天井が星空になってきた。
するとトンボが衛星ステーションに変わって、今度は自分が巨大な人間になったような感覚がした。
天井が宇宙になり、壁が広がり、自分が小さくなって地球から空を見上げたさっきの感覚とは真逆に、手を伸ばせば宇宙に届く程の大きな人間になっていた。
目の前に星空が現れたのでは無く、星空に近づいたのだ。
『あのトンボを逃がしてやろう。』
そう思い、浴槽から立ち上がるその姿は、まるで海から現れる怪獣の様だ。
 天井を見上げるとそこはまだ星空で、衛星になったトンボを掴もうと手を伸ばす、星空に手を伸ばす感覚に思わずニヤけてしまう。
今、自分は上空の遥か彼方にある衛星を掴もうとしているのだ。
雲よりも遠く、星よりは近く、そこにある存在を掴もうとしているのだ。
宇宙に伸びるその手は衛星になったトンボを掴む事に成功した。
それと同時に世界はいつもの景色に戻っていく、冷たい床、水滴が滑る壁、染みのある天井。
窓から日が差し込んでくる、そこにはあの景色は完全になくなっていた。日が昇る直前の夜と朝の境界線、そのひとときに見た夢だったのだろう。
きっと、このトンボもいつもより高く、遥か上空の大空を飛んでいたのだろう。その眼から見えていたのは丸く青い地球だったのだろうか。
窓を開け、トンボと朝日が昇るのを見届ける。
夢の時間の終わりと共にトンボは手から飛び立った、衛星のような軌道を描いて。


       

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