Neetel Inside 文芸新都
表紙

泥辺五郎短編集
「小説探し」(文藝ホラー企画参加作)

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 歩いて五分ほどのところにある住宅街で数年前殺人事件が起きた。二人暮らしの老人宅で、白昼堂々と何者かが押し入り、家に居た夫を殺して逃げたという。妻は外出中のことだった。犯人はいまだ捕まっていない。

 何か身の回りで怖い話でもないかと思い出したのが前述の事件であるが、どのような惨状であっただとか、妻に疑いはかけられなかったとか、そもそも本当に殺された老人は実在していたのか、といったところまではわからない。新聞の地方欄には載っていた覚えはあるが、ベッドタウンのありふれた殺人事件のその後が追跡調査されることはない。近所の住民に聞けば、ミステリー好きの主婦があれこれ話し聞かせてくれるかもしれないが、まだ未解決であったとするならば、やぶ蛇を突いた僕自身が疑われてしまうことになりかねない。
 そうそう近場に小説の種など転がっていないし、探偵の真似事や取材なども、小説の中のように出来るわけではない。

 子供の頃、飛び降り自殺の跡を見た。
 当時、九階建てマンションの八階に僕は住んでいた。夕方、習い事へ行くために家を出た際、何か外が騒がしく、下を覗くとコンクリートの上に巨大な血溜まりが出来ていた。階下に降り、遠巻きに血を眺めながら通り過ぎた。掃除のおばちゃんが嫌そうな顔をして、バケツとモップを持ち、掃除を始めようとしていた。
 その映像が、本当に見たかどうかあやふやだ。
 同じくらいの時期、当時学校から一緒に帰るグループの内で、男子同士のキスが流行った。ガキ大将的な強面のHと、優男で後にヤンキーとなるYとがちゅっちゅちゅっちゅやっていた。他にも数人やっていた気がするのだが、その二人以外の映像は浮かんでこない。全員が全員やっていたわけではなく、僕もしない側の一人だったので、正直助かったと思っていた。
 その後彼らが同性愛者として立派に育ったという話も聞かない(聞こえてこないだけかもしれないが)。少年時代特有の、疑似恋愛、疑似性交のようなものだったかもしれない。猿でも幼いオス同士が交尾の真似事をすることがあるように。
 自殺した人の話に戻る。
 彼は二十五、六歳の青年で、四階に住んでおり、そこから飛び降りた。
 一度で死にきれなかった彼は、何箇所も骨折した身体を引きずってエレベーターに乗り込み、最上階に着くと、そこからまた自殺をやり直し、無事死ぬことが出来たという。
 というのが、同級生のNから聞いた話。もちろんこれは大袈裟に捏造された噂話、都市伝説のようなものである。彼が自殺をやり直したのは事実だが、それは一度目の投身後、死にきれずに入院し、退院した後の話だという。
 血の量から考えれば僕が目撃したのは、二度目の飛び降りの直後だと思える。しかしそこには既に死体はなかった、という点では、すぐに起き上がり「死に直しに行った」ホラ話の中の姿の方が結び付きやすい。そちらは嘘だと理解していながらも。
 死に直しの件を小説仕立てにすれば、そこそこ怖いホラーに仕上がるかもしれない。しかしそういう気分になれないのは、僕自身がちっとも恐怖を感じていないからだ。直に死体を見ていたらまた違っていただろうが、大量の血溜まりはけばけばしいと言えるくらいに赤すぎて現実感がなかった。掃除のおばちゃんの憂鬱さを想像して気の毒に思ったのが、当時の僕が一番気に病んだことかもしれない。
 マンション上階に住んだ経験がある方ならわかるかもしれないが、ひょいと柵を越えれば簡単に死ねるあの場所では、生と死の距離は非常に近い。外に落ちた者と、内で生き続ける者との違いなんて一メートルもない。死に直しの話をしたNの口調も、笑い話を語る態だった。

 身近な怖い話を探したり思い出したりしようとしたのは、ホラー小説の題材が見つからなかったせいだ。そもそも最初はれっきとした小説を書こうとしていた。
 原案はあった。

 *

 病んだ父の乗った古い車両が切り離されるのを見送り、私らは前の車両へと住み処を移す。電車で産まれ、電車で育った。窓の外に映る景色を指し「何で私らは降りられへんの?」と母に訊く。固く締められていた窓を、母は少し開けた。景色は偽りだった。外には何もなかった。全く何も。

 *

 twitter上で書かれる小説、ツイッターノベルと呼ばれるものだ。twitterを始めてみたもののほとんど呟くことがなかった僕は、ツイッターノベルの存在を知った途端に飛びついた。以来毎日書き続けている。フォロワーの方々の大半は「#twnovel」のハッシュタグが見えた時点で読み飛ばしてくれているだろうと思う。文字数制限がきついからこそ、そこで書ききれなかった細部を書き足していくことで、短編小説へと仕上げられることもある。短編集の方に置いている『彼女は死なない』は一編のツイッターノベルから膨らませた。『リフティング・モンキーズ』は、複数の作品を絡ませてある。
 百編を越えた自作のうち、最もホラー向けであり、短編小説化に適していると思われた前掲の作を原案として、僕は以下のように書き進めていた。

 *

 『環状線』

 病み、死に瀕した父を乗せた車両が切り離されるのを見届けて、母と私は前の車両へと移る。最後尾の車両近くに居るのは、父と同じように死期が近い人とその家族ばかりだ。歩いて動ける私達を羨ましそうに見つめる目がある。同じ視線が、今切り離されたばかりの車両へも向かう。床に這いつくばってうめき声をあげていた、手足の腐り始めているおじいさんを踏んでしまう。「失礼しました」と母が謝り、私も頭を下げる。彼を看ていた家族の方々は、いいのよ、という風に手を振る。振り返り振り返り頭を下げつつ歩いていたために、また瀕死の誰かにつまずいて転んでしまう。ささやかな笑いに車両は包まれていく。

 電車の中で生まれ、電車の中で育った。私達電車住人は一度も電車の外へ出たことがない。窓の外には明るい日射しの中を笑いながら歩く男女二人連れや、電車の中にはいない動物達、高く聳える灰色の建物が見え、青くなったり赤くなったりする空が広がっている。私達は学校車両で学び、公園車両で遊び、住居車両で眠る。家族内にもう長くは生きられない病人が出たら、電車の最後尾まで旅をする。友人と別れ、学校での勉強から解放されるその旅は、父を引きずりながらではあるが、苦しいだけではなかった。私は初めて恋をした。私は初めて性交をした。ただ、その相手は既に切り離された車両側の人となってしまった。

 旅の往路では、少しずつ古びていく車両、家族に見捨てられて這いながら進む哀れな人、旅のゴールに行き着けず息を引き取った死人を運ぶ人達を眺めながら、暗澹とした気分に陥った。父を見送ってからの復路で、進むごとに綺麗になっていく車両と電車住人達と触れ合っても、その気分は晴れてくれなかった。「私達は生者の世界へと帰っていくのに、どうしてこの歩みが、死にゆく者達を送る時の歩みとそう変わらないように思えるのだろう」という疑問が頭に浮かんだ。窓の外では、私の気持ちのことなど、いや、電車内のことなど考えたこともなさそうな人達が、笑い合ったり抱き合ったりしていた。ことに、他の人や、狭い車内の椅子や壁にぶつかることなく無邪気に走り回れる子供達の姿が目に痛かった。そのような子供時代を私は送ってこなかった。おそらく電車住人の全ての人達も。

 父と別れて一週間ばかり過ぎた頃、取り分け熱気に溢れる車両に入った。そこは他の車両と違い、カーテンで仕切りが設けられており、香水と汗の匂いが混ざり合った濃厚な香りが鼻に刺さる。車両の真ん中の細い通路を歩きながらも、カーテンから時折突き出る手足や尻が私達にぶつかる。以前通った時は、この車両の意味に気がつかなかった。だが今では、漏れ聞こえてくる男女の嬌声がどのように発せられているのかがわかる。そこで行われている行為の、汚らわしさも重要さも、完全ではなくても理解は出来る。往路では足早に通り過ぎた母だったが、今は、この車両の住人を募集している貼り紙などを見ながら、わざと噎せたいように、濃密な空気を吸い込んでいる。

 外では人々が自由に生きている。
 外では広すぎる世界を人々が持て余している。
 外では雨が降る。
 外では子供達が駆け回っている。
 外では。
 外では。

 父を送る旅に出る前には考えたこともなかった疑問が頭から離れない。狭い空間、狭い記憶に閉じ込められ、それが当然だと思い込んでいた、ほんの数ヶ月前の自分にはなかった感情。
 どうして私達は外に出られない?
 電車内の限られた空間の中、似たような顔ぶれと日々向かい合い、使う機会のなさそうな知識を教師に詰め込まれ、どこか諦めきった表情の大人達と過ごす。やがて家族と共に死出の旅路に出るまで同じ生活の繰り返し。時折先頭車両に連結されるという新しい車両に人が移っていくが、それはほんの少し車内の風景を変えるだけに過ぎない。何か劇的な出来事を運んでくるものではなかった。

 父と別れて二ヶ月ほど。見覚えのある車両が増えてきた。旅の終わりが近い。次に最後尾の車両へと旅立つ時は、母の死が近い頃だろうか。
 父の形見を時折胸のポケットから出して弄ぶ。指輪のはまった父の左手薬指。父の身体からぽろぽろと取れていったものの一つ。血の通わず、もう動くことのないそれを口に含む。汚らわしいものを見る目で母がこちらを見ているのに気付き、すぐにポケットに仕舞った。
「母さん」と私はしばらく振りに母に話しかける。旅が終わるまでに聞いておかなければいけないと思っていたことを、照れ隠しに紛らせて聞いてみる。
「どうして私達は電車の外へ出られないの?」
 思わず大きな声になってしまい、周囲の住人達がこちらを見る。そこには悲しそうな顔や呆れ顔がちりばめられている。私を嘲るような、それでいて同時に自嘲混じりのような笑い顔も。
 母は無言で窓に寄った。シートに座っていた人達が母のために場所を譲る。普段は固く閉ざされて隙間のない窓を母がガタガタと揺らす。先ほどの嘲笑男が加勢し、ほんの少しばかり窓が開いた。
 窓の外には何もなかった。
 開かれた明るい世界も、笑い合う人々もいなかった。
 ただ真っ暗な、どこまでもただ暗いだけの空間が広がっていた。
 閉じられたままの窓の外には、相変らず眩しい景色が映っているのに。それらは偽りだった。

 私は思わず窓に歩みより、そこから手を出して外を確認しようとしたが、母に押し留められた。
「あっちへ落ちると、消えるから、気いつけや」
 そう言うと母は、私のポケットから父の指を抜き取り、窓の外に投げた。

 *
 
 ここで僕は筆を止めている。この先の大体の展開はこうだ。
・窓の外に何かを捨てると、闇に溶けたそれについての記憶が失われる。
・「私」はすぐに、形見の品が何だったかを思い出せなくなる。
・切り離された古い車両も、次第に闇に飲み込まれていくので、父の記憶も薄れていく。
・「私」は父の子供を孕んでいる。だが子供は父の記憶を失った頃に生まれるので、タブーの意識はない。そもそも世間一般的な常識は電車住人の中では育たない。
・彼らは同じところをぐるぐると永遠に廻り続ける。ある者はそこを「環状線」と呼び、ある者は「無間地獄」と呼ぶ。

 しかし、「闇に溶けたものの記憶は失われる」というのなら、一人称でそれを語るのは難しい。形見の品について描写しにくくなってしまう。三人称で書き直そうか。その場合、語り手が男性か女性か分からないよう書くことで、ラスト付近にサプライズを持ってくることの意味がなくなる。いや、母との微妙な感情的確執も盛り込むのだから、そこにこだわる必要はないかもしれない。「彼女は~」という語り口でいいか。だがいちいち「彼女の母」と書くのは煩わしい。しかし名前を付ける必要性はあまり感じられないし……。
 と、うだうだと考えているうちに気付いてしまう。いくらアイデアを出し、プロットを修正し、大幅に書き直しを繰り返したところで、わずか百三十一文字しかない原作を越えているとはとても思えない。ホラー要素も、せいぜい序盤の、病人でいっぱいの車両ぐらいでしか出せてない。肝心の外の景色が偽りだったシーンではどれほど言葉を費やそうとも、原作の「景色は偽りだった。外には何もなかった。全く何も。」以上のものを書ける気がしなかった。
 ホラーにこだわらず、他の作品でも試してみたが、どれも上手くいかない。ボリュームアップ出来なかったり、長くするとすぐにボロが出たり。

『環状線』の完成は諦め、今度は「ツイッターノベルばかり書きすぎて長い小説を書けなくなった男の話」を書こうとした。
 でもそれってただの事実なわけで、僕自身は結構恐怖を感じてはいるのだが、他人に共有される類の怖さではない。

 素直に、普段はあまり読まないホラー小説を読もう。
 ということで馴染みの古本屋を訪ねる。かつては駅近辺に六軒の古本屋が犇めいていたが、今は一軒を残して全て潰れた。何年経っても歳を取った風に見えない女性店長の下で働いている中年のアルバイト店員は、潰れた一店のかつての店主である。眼鏡同士、半分白髪同士、本好き同士でウマが合うのか、中年にも関わらずいちゃいちゃしているのが目に痛い。しかし店のブログでは、店長はひたすら新刊のBL小説をプッシュしている。
「お勧めのホラー小説今置いてますか」と元他店店長に訊ねる。
「そこ、『エクソシスト』の主演の子みたいに、首が不自然な角度で曲がってる木彫りの人形が表紙の、高原英理『抒情的恐怖群』八百円ね。それよりさ村野君、アニメや漫画でよくある『料理の出来ない女の子』の描写として、指を絆創膏だらけにするってのあるじゃん。あれね、慣れてない人が料理中に怪我する、というのはわかるよ。包丁で指先をちょっと切るとか、割れた食器の欠片で怪我するとかね。でもね、それってせいぜい一回か二回じゃないかな。一度怪我をすれば、以降はずっと慎重になるだろ? それでも構わず勢いよく包丁を振り回し続けたりするのは、それはドジっ子なんてものじゃなくて、全く物を考えていない気違いじみた女の子ってことにならないか? そりゃあ大抵のアニメのヒロインはどこかエキセントリックなところがあるのが普通かもしれないけどさ。俺がもし二次元の可愛い女の子から手作りのお弁当渡されても、絆創膏だらけの指を見て、『この女、失敗から何も学ばない愚か者だ』と判断して、嬉しさよりもむしろ恐怖を覚えるよ。弁当は残さず食べるけど」
「小銭七百円しかない。あと、札は一枚もない」
「じゃあ七百円でいいよ」

 家に帰って早速読む。巻頭に置かれている『町の底』が一番面白かった。初めて読む作家ということもあり、そこで書かれている過去のおぞましい事件(孤児を養子として引き取ると助成金が出た時代、ある村が組織的に全国から孤児を集め、助成金だけを取って子供は殺していた)を、ほとんど事実のように思いながら読み、唯一の生き残りの子供が百歳を越えても超人的な力を持っているという話にも、奇妙なリアリティを感じた。
 amazonのレビューを読んでみると、「せっかく真に迫るリアリティがあったのに、最後で『お話』になっちゃってもったいない」というのがあった。しかし全体的に好意的なレビューが多く、「古臭い文体で今時誰がこんなものを読むのか、と思った。私は読みますが」というのには笑った。
 ホラーに関わらず、物語のオチで、それまで保たれていたリアリティが薄れる、という話はよくある。突然のご都合主義的ハッピーエンドや、読者置いてけぼりで登場人物が何事かを悟りまくったりするような。先ほどあげた『町の底』でも、村ぐるみの孤児殺しなら「あり得る」と思えるのに、最終的には「いやいやこれはないだろ」という話になる。
 だけど少し考えて欲しい。それらは、小説を完結させるために無理やり作られたというわけではない。読者に「これは虚構ですよ。目を覚ましてください。読み終えたら現実に帰ってくださいね」という呼びかけでもある。たとえ九十九パーセント事実に基づいた話であっても、ラストを物語的にすることで、「ほとんど事実だと思って読んでたでしょ、でもね、違うんですよ。実は嘘ばっかりだったんですよ、ごめんなさいねー」と持っていくことが出来る。たとえ本当に、事実ばかり書かれていたとしても、だ。

 話が逸れた。

『町の底』がピークだった感は否めないものの、短編集『抒情的恐怖群』は楽しめた。が、楽しむばかりで、ホラーとして参考にするとかそんな考えは頭の中からすっかり抜けきっていた。少し暗闇に脅えながら歯を磨いて寝た。

 夢の中で僕は「やはり自分の足で取材しなければいけない」と思い立ち、午前三時だというのに家を出た。冒頭で記した、数年前に殺人事件のあった家を探しに行くために。
 目的地の住宅街まで下る坂道で、ドン、という音を聞いた。軽自動車がゆっくりと走り去って行った。道路の真ん中に倒れている小動物が見える。この辺りの畑を荒らし回っているアライグマだった。野外で見かける哺乳類では犬猫に次いでポピュラーな輩で、動く彼らを見る機会はそう多くはないが、撃ち殺されたのや轢き殺されたのはよく見かける。
 目撃してしまった以上は何かしなければいけない気がして僕は少し道を戻る。先に道路を渡っていたらしき、轢かれた奴の連れ合いが僕を見て毛を逆立てて唸っている。アライグマの糞には寄生虫の卵が……などと考えている内に、先ほど轢かれたアライグマがよろよろと立ち上がり、道の脇にある茂みに消えていった。
 どうせ助かるまいと思いつつも、その生命力に驚嘆した。
「ほんま見たんやって。飛び降りてすぐ『あ、失敗した』って呟いて、エレベーターに乗り込んで、多分いつもの癖で四階を押したんやけど、思い直して九階を押し直して、それでまた飛び降りた。最初から最後まで俺見てたんやから」
 Nの言葉がふいによみがえる。どう考えてもそれは嘘だった。

 老人の殺された家の見当はついているが、この暗さでわかるかどうか、と思っていたところ、一軒だけまだ明かりが灯っており、さらには玄関が開け放たれている。覗き込むと、居間のテーブルに座っている老夫婦が見えた。殺された人もちょうど彼らぐらいの年頃だったに違いない。何か知っているかもしれないので、思い切って訪ねることにした。僕の考えを読んだように、夫の方が手招きをしている。
 夢の中なので靴を脱ぐのがもどかしく苦戦していると、「そのままでええよ」というので遠慮なく土足で上がり込んだ。
「夜分遅く申し訳ありません。実は僕、今度ホラー小説を書くことになりまして。つきましては、数年前にこの辺りであった殺人事件について取材のようなものを」
 わかってるわかってる、という風に彼らは頷く。
「それじゃ私は買い物に言ってますから」とお婆さんが席を立つ。
 コンビニが近いもの。
 夜中の三時だろうと買い物に行くだろうさ。
 お婆さんであろうと。
「ゆっくり行っておいで」
 僕らは二人きりになる。僕はもうこれが夢でないことを薄々感づいているのだが、今さら引き返すことも出来ないところまで来てしまっている。
「それで、殺人事件の起こった正確な日時をお聞きしたいのですが」
「そんな自分で知ってることわざわざ聞かんでもよろしいやん、今や、今」
 僕は手帳に「今」と書き留める振りをする。手帳もペンも持ってはいない。手元も暗くて見えない。いつの間にか明かりは消えていて、目の前には誰もいない。
 僕は土足のままその家を後にする。事件の後、家は売りに出されたが、いまだに買い手は付かないでいる。残されたお婆さんはその後親類に引き取られたのか、まだ生きているのか、そこまでは知らない。少し離れたところから、ドン、という、車が小動物を撥ねたような音がする。

 早く家に帰ってホラー小説を書き出さなければ、と思いつつ、ひっそりと静まっている空き家を振り返り、軽く手を合わせる。
 と、肩をぽんと叩かれた。
 振り向くと警官が笑いながら僕を見ていた。
「道の向こう側からさあ、ずっと見てたの。職務上止めなきゃいけないんだけどさあ。俺こういうの初めてだから。なあなあ、それで一つ聞いていい、お前ってさあ」ここまで言ったところで我慢出来なくなったのか、彼はぶふっと吹き出した。
 つられてこちらも笑うと警棒で殴られた。

(了)

       

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Neetsha