Neetel Inside 文芸新都
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泥辺五郎短編集
「浮妻」(日常風景 10/21更新)

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 玄関先に出来た蚊柱の上で妻が寝ていた。
 しばらく眺めていたかったが、家の鍵を取り出す音で起こしてしまった。
「おかえり」と言った後、彼女は自分がどうして外にいて、浮かんでいるのか不思議に思えたようで、蚊柱に気付くと手で払おうとした。
 けれどその手はひらひらと風に揺られて蚊柱をうまく払えないでいる。

「窓が開けっ放しだったみたい」
 うとうとしていたところ、外から入り込んできた風に煽られ、いつの間にか外で漂っていたらしい。遠くへ流されてしまう前で良かったと、笑えないことなのに彼女は可笑しそうに笑った。

 今日も仕事は見つからなかったと私は嘘をついた。本当はしばらく前から仕事探しを諦めていたのでひたすら時間を潰していただけだ。図書館で本を読んだり、河原で鷺と戯れたり、駅のトイレに籠もって手帖に詩を書いたりしていた。働いていた頃に比べてまともな詩が書けなくなっていた。妻が喜んでくれたような詩句が一つも浮かばなくなっていた。

 妻は私を責めてくれないので甘えてしまう。彼女はもう内臓も血液もほとんど売り払ってしまっていたので、妻の絵が描かれた紙のようだ。少女時代から愛読していた小説の類を彼女が古本屋に持っていってからまだ半年も経っていない。思い入れのある文章の上に貼っていたという、膨大な量の付箋を一枚一枚剥がしていく彼女を見ると胸が痛んだ。
 彼女が服を売りに行く頃には痛みも感じなくなっていた。

 彼女の鼻の行方を聞かせた。高く整っていた彼女の鼻を売り払ったのは駅裏にある寂れた古人屋だった。大きな店だと足元を見られて買い叩かれてしまうので、彼女のほとんどはそこで買い取ってもらっていた。脂性のや、ごつごつとした醜いものや、鼻の穴の広がりすぎたものの並ぶ中で、ひときわ彼女の鼻は美しかった。つつましい鼻立ちでありながらどれよりも輝いて見えた。彼女の鼻を愛撫した覚えがないことを少し悔やんだ。
 売り払ってすぐに店頭から消えた彼女の指や内臓ほどには、鼻は売れ筋の商品ではないらしく、しばらくの間、他の醜い鼻に囲まれて息苦しそうにしていたが、どういうわけか値段を倍に付けたら売れたという。しかも買っていったのは醜い鼻の持ち主などではなく、破れた靴を履いていた、鼻筋の通った若者だったという。
「あれは多分、愛するんでしょうな」と古人屋の店主は名残惜しそうに言った。
 話を聞いた妻は「ちょっと嬉しいかも」と言って恥ずかしそうにしたが、顔が赤くなることはなかった。白い肌に残された鼻の痕跡を指でなぞるとくすぐったそうに笑い、少し咳き込んだ。

「あんなところで寝ていて痒くならなかったの」
「刺されてはいないから。刺したくなるような体じゃないから」
 彼女の体からはもう人の臭いもあまりしない。乾いて裂けた唇の向こうに、崩れかけた我が家の壁が見える。私は彼女の唇を湿らせるために、口を塞がないように気をつけながら少し舐めた。


 秋の空気は冷たくて
 誰かがどこかで死んでいく
 金網越しに手を繋ぎ
 血が流れても離さない

 言葉は嘘で
 体も嘘で

 汚く醜くののしりあいながらも
 私たちは笑い合う
 秋の日射しは恐ろしく
 誰かの胸を貫いて

 または何もなく
 おそらくは滑稽で

 ずるずる滑る手のひらと
 倒れた木々の下の土
 生きているので死んでいく
 雲に届かぬ手と足と

 私は私を忘れて
 私は私を忘れていたい
 私は私を忘れてしまい
 私は私を忘れたい

 日々は
 秋でも過ぎて
 嘘は
 いつでも気軽につけて
 ここにもどこにも
 何もなく
 しがらみにしばられることなく
 一人で倒れて


『秋の』と題されたそれは、今がまさに秋であることを鑑みるに最近書いたものらしいのだが、書いた自分ですら記憶にない代物だった。あまりにも何も書けなくなって七五調に逃げている。詩を書くためではなく糞をするために籠もっていたトイレの中で、紙が切れていたから『秋の』が記されていた手帖のページを一枚破って尻を拭いた。糞の量も少なかったので一枚で足りた。

 金がなくて服を売った人たちが全裸で震えながら歩く街角を、妻の左目を携えて馴染みの古人屋を目指した。これ以上妻を売って飢えを凌ぐのも忍びなく、次からは私を買ってくれないかと店主に相談してみた。痩せて肌も荒れてはいるが持病も目立った傷痕もない。
「あんたのはいらん」禿げ上がった頭に埋め込んだ十個ほどの眼球でこちらを睨みながら店主は冷たく言い放つ。
「酒も煙草もやってない」
「あんたが嫌いだからいらないんだよ」 
「好き嫌いで商売をするのか」
「あんた以外にはしないよ」
 仕方なく、大手の古人屋まで一時間ほど歩いた。すれ違う人たちの多くはどこかしら欠けていて、妻のように半ば浮かびながら移動していた老女は蚊柱を避けていた。

 試しに左手の薬指と小指を売ったが一日分の食費にもならない。美しかった妻と違い、私に付けられる値は酷く安い。「内臓買取キャンペーン」というのもやっていたが、値段表を見ると妻が売り払った時の価格とは比べものにならないのでとても売る気にはならなかった。とにかく妻の左目を売った分と合わせて一週間は凌げるのだから、その後のことはその時に考えることにした。 
 
 家に帰ると妻は消えていた。
 開け放しの窓の外では冷たい秋風が吹き始めていて、蚊柱も我が家には寄りつかなくなっていた。
 私は何度も彼女の名を呼び、家中の隙間を探し、木々や電線に引っかかっていないかと思い、周辺を駆け回った。幾つかの死体と目撃情報はあったが、それは彼女のものではなかった。「飛んで消える人は近頃珍しくないからねえ」と哀れみの声を幾人かにかけられた。

 心当たりというほどではないが、彼女の鼻を買ったという青年の元へと飛んでいったのではないかと私は勘繰った。しかし青年の居場所など私は知らない。古人屋の店主なら知っているかもしれないが、彼は私になど教えてはくれないだろう。
 私は消えてしまった妻のことを書こうと手帖を開いたが、もう彼女が読んでくれることはないだろうと思うと、どのような言葉も浮かんではこなかった。
 寒くなってきたので窓を閉めたが、少ししてから思い直してまた少し隙間を空けた。

 明日は私の体でもそこそこの値段で買い取ってくれそうな古人屋を探しに、隣町を歩いてみようと思う。


(了)

※ 若干、蚊柱の扱いが現実とは異なっています。蚊柱が発生するのは夏です。ちなみに蚊柱を作るユスリカは人を刺さないそうです。後は大体日常風景です。

       

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