Neetel Inside ニートノベル
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この世の果てまで
第三部

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  1 旅行記


 1

 キリコたちはマルセイユを後にして、村に戻った。アリサワは村を留守にしており、イ
エスがキリコたちを迎えた。3人が村に到着したのは早朝。イエスは出かける準備をして
いた。
「無事だったか、良かったな」
 イエスはそれだけ言うと、車で村を出て行った。
「相変わらずそっけないわね」
 キリコはそう言って、トランクに積んでいた荷物を片っ端から地面に落としていく。そ
れを拾い集めるユウ。ユキは欠伸をしながら背伸びをする。
「イエスさんらしいですよ」
 ユキがそう言うとキリコは、ふん、と鼻をならす。帰ってきたらはじまりの場所を吐か
せるとするか。このベレッタで……キリコはジャケットの内ポケットに収まっている銃を
服の上から触る。

 3人は村を出る前に与えられていた家へ向かう。3人の帰還に気づいたノアが荷物を運
ぶ手伝いをする。
「ヨウジは?」
 ノアの言葉に3人は沈黙。言葉がない。ノアは空気を察し、悲しそうに微笑んで、荷物
をテーブルの上に下ろす。
「朝食の準備、しますね」
 そう言って家を出て行くこうとするノアをユキが引き止める。
「ハツは?」
「町に戻ったとだけ、聞きました」
 そしてぺこりとお辞儀をして、ノアは家を出て行く。ノアの言葉を聞いても、3人は口
を開かない。各々、見つけられない言葉を探していた。

 2

 キリコは2人にはじまりの地へ向かうことを伝えた。

 朝食を平らげて茶をすすりながらのこと。久しぶりの村での朝食も、3人では静か。以
前とは違い、テーブルがやけに広く感じられる。並ぶ皿の数、こぼれたパンの欠片……

 数秒間沈黙があり、ユキが口を開く。
「それってどこですか?」
「わからないけど、多分東の方」
 ユキが不思議そうな顔をする。
「曖昧ですね。というか、マルセイユでなにか見つけたんですか?」
「う~ん。夢だと思いたい」
 そう言ってキリコは笑う。ずずず、とユウが茶をすする。
「いいですよ。他にやることもないし。キリコさんに付き合いますよ」ユウは湯飲みを置き、
欠伸をする。「一眠りします」
 ユウは席を立ち、ベッドへ向かう。テーブルに残されたユキとキリコ。

 ……

「なんだか、きまずいわね」
 キリコの本音。理由はわかるが、解決策が見つからない、とキリコは思う。
「そうですね」
 ユキの正直な言葉。3人ではいけない、私たちは5人でなければならない、とハツは思う。

「私もちょっと休みます」

 ユキはユウが残していった湯飲みと、自分の分を流しに持っていく。
「キリコさん、多分、私たち、今、すごく不安定な状態なんですよ。2人がいなくなったか
ら。私たちは一緒にいなきゃならないんです」
 湯飲みを洗いながらユキが言う。キリコは何も答えない。
 湯飲みを洗い終わったユキは、失礼します、と言って家を出て行った。1人残されたキリ
コは、しばらくぼんやりして、はぁ~とため息をついて、苦笑いをして、少年にもらった手
帳を取り出し、読み始める。



「 1日目

 敵は地中海に人間たちを集めているそうだ。話によると地中海に大きな船を作っていると
いう。ノアの箱舟。アリサワさんはそう言った。これはすでに戦争であり、テロ行為なんて
いう生易しいものじゃないという。今、世界中が協力をしあって、地中海に侵攻しようとい
う計画があるのだと、アリサワさんは言った。自衛隊もそれに参加するとのこと。わたしは
すぐに手を挙げた。わたしも行きたい、と。みんな驚いてた。戦うつもりなの、とアミは言
った。
 あの日の朝。わたしは全てを失った。そんなわたしができることと言えば、遠くへ行く、
ということに近い行為、キョウジくんの言う、逃げることにとても近い行為、戦いくらいし
か、もう残されていない。キョウジくんならさっさと逃げよう、と言うだろうけれど……も
うわたしにはこれしか残されていない。
 遠くへ行く手段を失ったわたしは、戦うことにする。

 ヨーロッパ。世界中の戦力がそこへ向かうのだという。憧れの欧州。少しでも遠くへ行け
るなら、戦いも悪くない                              」


「 2日目

 アリサワさんにもらった『路上』はもう何度読み返したからわからない。よれよれになっ
てきてる。別に楽しいからそうしてるわけじゃない。他に何もすることがないから。活字か
ら顔を上げると、キョウジくんのいない世界があまりのも鮮やかに見えるから。
 
 現実逃避っていうのかな?
  
 でも、そんなやり方いつまでも続けるわけにはいかない               」

「 3日目

 義勇兵に立候補。アミが激怒。
 なんて説明したらいいかわからない。欧州に行きたいから?ううん、ちょっと違う。たぶ
ん、遠くへ行くため……こんな曖昧な説明じゃ、もっとアミを怒らせてしまいそう。

 ハチキュウよりもこっちがいいから、と小銃を渡されたけど返した。わたしはこのハチキ
ュウで戦いたい。

 いきなりの訓練で的の真ん中に弾が当たったのには自分でもびっくり!指導官も驚いてた。
わたしは射撃の才能があるのかもしれない……とかなんとか言っても、別に嬉しくないけど
ね。必要だから当てるだけ、それだけ。                       」

「 4日目

 訓練が本格化。たくさん走らされたけど疲れない。なんと持久走で1番!最近の男は情け
ない!でも全然疲れてないのも変だなって思う。体が変になっちゃったのかしら?

 射撃訓練をたくさんしたせいか、耳の裏がざわざわする。ちょっとうるさい。     」

「 5日目

 アミが看護兵になった。本当ならわたしもそうするべきなんだろうけど……

 ケンジくんは訓練で会うけど、カミカワくんとシンジくんは全然見かけない。2人ともさ
ぼってるのかしら?
 訓練で会うけど、ケンジくんと話はしない。なんだか、気まずい。きっとお互いにキョウ
ジくんのことを思い出しちゃうからだと思う。

 訓練は良い。体を鍛えて、技術を磨いて……嫌なことを忘れられる。没頭していれば、こ
の世界を見なくて済む。訓練を終えたら『路上』を読む。この繰り返しが理想的。

 日本にはもう、富士にしか人はいないんだそうだ。日本は終わってしまった。あっけなく。
福神。わたしたちが逃げ始めた場所。母校。教室。教科書。黒板。雑巾。窓。カーテン。チ
ャイム。教師。廊下。下駄箱。正門……どうして、わたしはそこへ、少しだけ、戻りたいと
思ってるんだろう?こんなに遠くへ来たのに!これからもっと遠くへ行けるのに!    」

「 6日目

 狙撃銃の練習を始める。ハチキュウと一緒に持ってると、みんなが馬鹿にする。
 そういうもんなのかしら?
 2挺の銃を背負っても、まったく重くない。というか、最近何も感じなくなってきてる。
感情の起伏も鈍くなってきてる。何も考えたくなくなってきてる。ただ、何かに没頭してた
いって思ってる。
 キョウジくん。わたしはどうしたらいいのかしら?                 」

「 7日目
 
 背負った銃と狙撃銃で合わせて8キロ以上になると、アリサワさんには言われた。けれど
、わたしは重いと思わない。どうしてかしら、あの日の朝からこっち、体が異常に軽い。な
んでも出来てしまいそう。疲れることはないし……どうかしちゃったのかな?
 みんな一緒に戦争に行くことになった。アミだけは看護兵だけれど。わたしも本当ならア
ミと同じように看護兵としていくのがいいんだろうけれど、なんだか、それは出来ない。後
ろにいることなんてできやしない。誰よりも先に行かなければならないって思う。

 時折、耳の後ろがざわざわする。誰かが話してるみたい。最初はキョウジくんの亡霊かな
んかじゃないのかって思ったけれど、どうやら違うみたい。正確には聞き取れないけれど、
何か言ってる。もしかしたら幻聴で、わたしの頭はどうにかなってしまったのかもしれない。

 横浜から船。シベリアから列車。どれも心躍らせるような旅行手段だけれど、今では、も
う喜べない。旅行でもないし、遠くへ行くためでもない。それは戦場に行くための手段なん
だ。まるで学校へ行くために乗る朝のバスみたいに。

 訓練は楽しい。没頭できる。そして着実に成果は出る。わたしは人を殺すより良い手段を
覚え始めている。村で兵士の頭を撃ち抜いた時は怖くて仕方なかったけれど、今なら、きっ
と怖くない。わたしの体は震えない。遠くへ行けないのならせめて……

 シンジくんからipodをもらった。
「僕にはもう必要ないから」
 そう言った彼の目の下にはくっきりと隈ができていた。眠れていないのだろうか?
 ipodの中は洋楽だけしかなかった。寝る前に聞くと不思議と心地良く眠れる。一番の
お気に入りはレディオヘッドの『True Love Waits』という曲だ。何を言っ
てるかはわからないけれど、とても可愛い曲だ。                   」

 4

 キリコは1度手帳を閉じる。思春期の青臭さ。他人の日記を読む背徳的快楽。もう1度手
帳を開き、読み進める……違和感。ページを戻り、アリサワさん、という文字を読み直す…
…シンジくん、という文字を見直す……まさかね……そしてまた、ページをめくる。

「 8日目

 船旅。海風。何もない海。白波。飛んでいく鳥。油の匂い。
 遠くへいくのだ、とわたしは思う。思うほどは遠くない、遠くへ。
 キョウジくんが見たことのない外国。

 海風。鳥の鳴き声。エンジンの音。話し声。タバコの匂い。水の音。食事の匂い。放送の
声。
 耳の裏で聞こえ始めた音は、日毎に大きくなっていく。語りかけているのは、誰なのだろ
う。何をわたしに伝えたいのだろう。ただ音は大きくなっていっても、何を言ってるのかわ
からない。それはただの音なのかもしれない。声であるフリをしてる、音。
 キョウジくんの声なら、どんなに小さくても聞き分けられるのに……
 海の夜は静かです。これまでよりもずっと、静か。船室にはみんなが寝てるんだけど、寝
息も聞こえない。まるでみんな死んでるみたい。わたし以外の全てが、死んでるみたい。と
ても静か。静寂。闇。船体にあたる波の音。
 昨日見た夢。何もない、まっさらな大地を1人で旅する夢。わたしはマントを着て、銃を
背負って、1人歩いてる。そこがどこなのかも、どこへ向かってるのかもわからない夢。遠
くへいきたいと求めてる、わたしの願望なんだろうか?
 今日もきっと同じ夢を見る。予言的な夢を。                    」

「 9日目

 列車を駅のホームで見たとき、芋虫みたいだと思った。ノロノロ動くあれ。でもやっぱり
列車でとても早い。窓から見る風景はとてもゆっくり流れるけど、目を地面に落としたら、
眩暈がしそうなほど、早く進んでるのがわかる。
 5日でモスクワに到着するそうだ。そこから車でフランスまで移動。あれだけのことがあ
ったのに、この鉄道が無事だったのは不思議な気がするが、とにかく今、わたしは列車に乗
ってる。それだけは事実。憧れてたシベリア鉄道も、今じゃそこらの私鉄と変わりはしない。

 耳の裏で聞こえてたのは音であるのがはっきりとわかるようになった。その音は何らかの
声に似せようとしているように思える。実際とても声のように聞こえる。それらしく、なん
らかの言語であるような、伝えようとしていることがあるような……それでも、それが音で
あると、わたしは確信してる。幻聴でないことも、また同様に。
 この音がし始めてからあの夢を見るようになった。予言的な夢。関連があるのだろうか?
キョウジくんの死と何か関係があるのだろうか?わたしが半身を失ったことがきっかけなん
だろうか?
 どれだけ考えても結論は出ない。ただ、わたしは、その音に慣れてしまった。それに、シ
ンジくんからもらったipodを聴いてると、その音も気にならなくなるから、眠れる。こ
のipodのおかげで、それが音だと気づいた。英語の歌の意味はわからなくても、それが
言語であり何かを伝えようとしているのがわかる。それでも耳の裏の音は違う。音楽と比べ
るとその差がよくわかる。

 神様かしら、と、書いててなんだか笑ってしまった。                」

「 10日目

 列車は進んでる。
 わたしはずっと本を読んでる。
 他人に会うのは食事の時だけ。シンジくんは部屋を出てこない。
 風景は退屈。

 なんだか、自分の中に大きな力があるのがわかる。そしてそれは、わたしの中にあった大
事なものとか、忘れたくないものとか、色んなものを吸って大きくなってる。一秒ごとに。
予感がある。わたしは、わたしの中の大きな力に生かされ続けるんだ、と。
 なんだか、死ぬ気がしない。
 わたしは生かされ続けるような気がする。

 だけど、何のために?                              」

「 11日目

 アミが部屋から連れ出そうとするから体調が悪いといって断った。アミの悲しそうな、寂
しそうな、ちょっと怒ってる顔。
 なんだか、億劫なんだ。そういうのが。
 どういうのって聞かれたら、答えにくいけど。

 目的地に近づいてく。わたしは福神から遠く、遠く離れてく……           」

「 12日目

 シンジくんの言葉も気にならない。みんなの心配と気遣いも何も思わない。
 どんどん、わたしは固まっていく。
 もう、どうにもならない。引き返せない。わたしは半身を失ったんだ。        」 

「 13日目

 あの村のことを考えてる。無性に懐かしい。短い間の滞在だったけれど。とても楽しかっ
た……気がする。
 アリサワさんやシミズさんに出会う前。戦争を知る前。キョウジくんがいなくなる前。
 
 駄目だ。書く事に集中出来ない。もう、なんだか、どんどん駄目になっていく。    」


「 14日目

 耳の裏では音が鳴り続けてる。それが当たり前になってしまった。最近ますます体が軽い。
なんでもできる。そのかわり、思考が鈍ってる。日記に書くことが思い浮かばない。昔は頭
の中に文字が浮かんでた――人間は言葉でものを考えると言ったのは誰だったかしら?――
のに、今では無。綴る言葉は、手に任せてるだけ。反射。耳裏の音が大きい。

 明日から戦争。念入りに銃を磨く。とにかく死なないようにしよう。遠くへいけないけれ
ど、生き延びることだけは諦めたくない。でも生き延びて、どうなるんだろう、わたし。
 夜が深い。ここはフランス。ぶどう酒の国。
 終わり。おやすみ。                               」

 日記はそこで終わっている。

 5

 キリコは手帳を閉じる。そして頭の中で日記に出てきたキーワードを整理する。
 地中海、戦争、ヨーロッパ、アリサワさん、『路上』、キョウジくん、義勇兵、ハチキュ
ウ、ケンジくん、アミ、カミカワくん、シンジくん、日本、富士、福神、耳の裏の音、遠く
へ、大地を旅する夢、死なない、半身、フランス……

 駄目だ、うまくパズルを埋められない。

 キリコは額に手をやる。汗ばんだ額。手入れのされていないぱさぱさの髪。

 わかったのはこの日記を書いたのは少女だということ。そして少女のキョウジという少年
への想い。ただ、それだけ。だがそれだけでも前進した、とキリコは思う。きっとこの少女
が『神話篇』を解く鍵。







 続く




     


  2 胎動


 1

 ハツが町に帰り、以前と同じように高校に通い始めてからすでに1週間が経っている。
いまかいまかと指令を待つハツにとって、この1週間はとても長い。

 町を出てから1ヶ月が経っていたにもかかわらず、それほどのお咎めも騒ぎも起きな
かったことに、ハツは拍子抜けした。よくよくクラスメイトに話を聞くと、どうやら5
人は特例で神話学の実習に行っていることになっていたようだ。
「ねえ、ずっと地下の遺跡の調査をしてたんでしょ?」
 仲良くもなかった女生徒にそう言われた。まあね、と答えるハツ。腹の中では新生教
の力の強さに感心しつつ、大騒ぎになって注目されることを期待していた。
 そうなると、まずいのか。
 注目されると動きにくくなる。教団はそれに対するケアをしたのだろう、とハツは考
えた。実際、アリサワにお膳立ては済んでいる、と言われていたからそれほど変に思う
こともないのだろうが……

 町は以前と変わらず。外界とのギャップはあるが、やはりここが自分の故郷なのだ、
とハツは安心する。縛り付けられていようが、騙されていようが、ここなら安心できる。
ハツはすでに外界の荒野や村の姿を忘れつつあった。ちょっとした冒険。好奇心。キリ
コやほかの皆へ後ろめたい気持ちはあったが、それ以上に、アリサワから必要とされて
いること、何より、自らが特別であるという思い込みが彼女を支配していた。
 
 私は世界を救うのだ。

 選ばれた存在……いつの間にかハツは、自分を中心に世界が回っていると考えるよう
になっていた。

 アリサワから連絡があったのは、それから3日後のこと。

 2

 ハツは自室でぼんやりと、ドラマを観ている。あまりにもくだらない恋愛物語。紆余
曲折あって結ばれる2人の話。うすっぺらい、大量生産ドラマ。使い捨ての物語。いい
加減うんざりしてきたところで、携帯が鳴る。ハツはすぐさま電話に出る。
『町の生活はどうだ?』
 待ち侘びていた声を聞いて、ハツの胸は高鳴る。
「おかげさまで、とても退屈です」
 ハツがそう言うと、アリサワは笑う。
『元気でなにより……準備が整った。今度の土曜日、中央議事塔の向かい側にあるコン
ビニに行ってくれ。レジでバイトの面接で来た、といえばあとは現場の者が説明してく
れる』
「待ってました。私しか出来ないことなんですよね」
『そうだよ。我々には出来ないことだ』
「わかりました」
 そしてハツは電話を切る。顔のにやけが止まらない。頬を押さえながら、ハツは、早
く土曜日になればいいのに、と思う。

 3

「誰へ連絡したんだ?」
 電話を切ったアリサワにヨウジが尋ねる。
「ちょっとね。気にすることはないさ」
「また悪だくみかよ」
 ヨウジは欠伸をして座っていたソファに寝転がる。
 2人は町の東ブロックの新生教の隠れ家にいる。表向きは作家の居宅。
「まさかあんたが作家だったなんてね」
「表の顔は大切にしないとな。それに売れない作家の生活も悪くないよ」
「あんたの本を読んだことあるよ。たしか、『蛍』って小説だったな。つまらなかった
よ」
「そいつは、ありがとう」
 アリサワはタバコに火をつける。ヨウジはソファから飛び起きて、本棚に近寄る。背
表紙を手で触りながら、題名を読み上げていく。
「『1984』『悪霊』『神聖喜劇』『1千1秒物語』『細雪』『メテオール』『リト
ル・ビッグ』『百年の孤独』『夏への扉』『俺の中の殺し屋』……本を読んだってどう
にもなんねーよな」
「その通りだ」
 アリサワは煙を吐き出す。ヨウジは本棚の端までタイトルを読み上げてから、アリサ
ワの方を向く。
「で、俺は何をするんだ?ここに軟禁されてもう1週間近く経つぞ」
「今週末、土曜日にやってもらいたいことがある。議事塔でちょっとした騒ぎが起こる
予定なんだが、その騒ぎに乗じて、ひと仕事だ」
「内容は?」
「CGのトップの暗殺」
「……本気で言ってんのか?」
 アリサワは書き物机の引き出しから銃を取り出し、ヨウジに渡し、微笑む。
「大事な仕事だ」
「人殺しをやれってのか?」
「人じゃない。悪意そのものさ」
「意味わかんねーこと言って誤魔化すの、好きだよな」
 ヨウジは銃を手の中で転がす。黒光りし重厚。マガジンには弾が満タン。
「寿命を延ばす第一歩さ」
 アリサワはそう言って部屋を出て行った。残されたヨウジは、銃口を覗き込んで、笑
う。

 もう、どうにもなんねー。これがヤクの代償だとしたら、でかいね。でかすぎる。キ
リコさん、俺、もう2度とあんたに会えないかもしれない。このまま逃げちまってもい
いんだけどさ、可能性はあるって思うんだ。アリサワの狙いがまだよくわかってないけ
ど、それでも、あいつは寿命を延ばすことも含めて、何か考えがあるんだろう。だから
……こっちも、あいつを利用して、うまくやるよ。そんで、もし、キリコさんのとこに
戻れたら……

 4

 土曜日の朝。ハツは議事塔前のコンビニの事務所の椅子に腰掛けている。狭い室内は
雑然としている。中に通されてからすでに10分が経っている。ハツは落ち着かずに、
さっきから携帯を開いては閉じ、閉じては開くを繰り返している。

 今更ながら怖い、なんて言えないね。

 小心者の自分を笑う。なんだかんだで、あんたはびびってるのよ、とハツは自分を責
める。ハツは携帯を開き、時間が過ぎていくのを見る。それでも、私は選ばれたんだ。
だから、小心者の自分とはここでお別れ。
 ハツが携帯を閉じると、事務所に男が入ってきた。事務所内に案内した店員とは別の
男。
「準備はいいですか?」
「ええ」
 ハツは携帯をポケットに突っ込む。
「いつでも」
「行きましょう」
 男は裏口を開ける。ハツは椅子から立ち上がり、男の後についていく。

 ……

 ヨウジは議事塔1階のロビーのソファに座り、正面の大きなテレビを眺めている。テ
レビでは朝のニュースをやっている。本日の天気。昨日のスポーツの結果。強盗事件の
続報……
 議事塔1階は開放されていて誰でも出入り自由。議事塔自体が役所を兼ねているから
手続き等に人々がやってくることが多いからだ。おかげで1階の警備は手薄。入ってく
る者の身体検査も何もないから、銃も持ち込める。CGにしては手抜きだと思うが、そ
れほどの自信があるのだという見方もできる。

 あとは、合図を待つだけ。合図を待って、正面のエレベータに駆け込む。おそらく仕
掛け人たちはこのロビーにいるんだろう。もしかしたら俺以外すべてが仕掛け人なのか
もしれない。それほど大掛かりじゃなと、こんな作戦やろうと思わないだろう。

 ヨウジは握っていた手を開く。汗でうっすら濡れている。

 俺はこれから人を殺す。俺は人を殺す。人を殺す。

 呪文のように唱えて、ヨウジは内ポケットに収まっている銃をジャケット越しに触る。

 5

 議事塔の頂上の部屋で、1人の男が窓の外を眺めている。小さな世界。箱庭。閉じた
町。
 室内はシンプル。観葉植物の鉢が窓際に2つ、執務用の机、どっしりとした革張りの
椅子。男は椅子に座り、両腕を肘掛にもたせて、自分の頭の中にある、記憶を遡ろうと
している。
 どれくらい時が流れたんだろう、と男は思う。あとどれくらいで、この世界を破壊し
尽くせるのだろう。
 あの後、あらゆる手を尽くして、世界を壊わそうとした。が、思いのほかこの世界は
頑丈に出来ており、完璧な崩壊へは向かわなかった。
 それでも、と男は思う。今度こそ終わり。システムそのものを崩壊させ、言葉を葬り
去る。俺の悪意が世界を覆いつくし、全てが消える。これが俺の……
「あんたへの復讐ですよ、アリサワさん」
 男はにやりと笑う。部屋中にけたたましい警報音が鳴り響く。男は警報音を無視する
ように、窓の外を眺め続けている。






 続く




     


  3 記憶/歴史


 1

 イエスは村と教団施設との中間地点に車を止めて、ハンドルの上に足を投げ出してタ
バコをふかしている。貧弱な太陽の光が膝から下と上をツートーンに色分けしている。
窓を全開にしているが風はほとんどない。だが、とても静かだ、とイエスは思う。
 
 名前とは一体何なのだろう?

 イエスはそんな哲学的問いを頭の中でこねくり回す。名前とは恣意的なものである。
誰かが勝手につけたもの。名前をつけるものは常に他者であり、名前をつけられるもの
はその「他者」にとっての「他者」である。そしてそれは、意思を持つもの「ヒト」に
限られる。名前とは「ヒト」が便宜的に使用している「印」。区別をつけるための、あ
るいは、差別するための、記号。

 じゃあ、俺の名前コウイチロウというのは記号だ。そして自分に名づけたイエスとい
うのも記号だ。イエスという名前をつけたのは俺だが、俺自身は「他者」に名づけたつ
もりだ。それならばコウイチロウという名前が本当の名前なのだろうか?イエスという
のは外見を表している記号であり、中身はコウイチロウである、ということなのだろう
か?

 1つの対象に幾つも名前があることはよくあること。コウイチロウ、そしてイエス。
この2つの名。しかし、そのどれもが、仮初め。真の名を自分で知っていながら、それ
を使うことのできない苦痛。

 いや、俺の名前は盗られてるだけだ。外見も名前も盗られてしまっては、言い訳のし
ようもないけれど。そうさ、名前は記号。外見も記号。問題は中身、そう、意味だ。俺
は俺だ。これだけは覆らない。それだけは嘘をつかない。俺は不変だ。相変わらずだ。

 イエスは、苦笑い。ダッシュボードから1冊の本を取り出す。タイトルは『路上』。
イエスの断片化した記憶を繋ぎとめるモノ。
 記憶は戻りつつあった。同時にそれは、自分が何者であるかを知ることでもあった。
イエスは自分が何者であるか、知り始めていた。記憶の復活はキリコたちに出会って、
加速していた。

 さて、わかり始めてきたんなら、そろそろ始めなきゃならない。俺はそのためにこの
世界に、この姿で生まれてきたんだろう……

 イエスはタバコを窓の外に落とし、エンジンを掛ける。

 2

 ユキはノアと井戸で水を汲んでいる。
 村に戻ってから、ユウは仕事をせずに食っちゃ寝の怠惰な生活。キリコは研究に夢中。
ユキだけが以前のように村の仕事をしていた。その中でユキはノアとの親交を深めてい
った。
「ノアちゃん、変わったよね。話すようになった」
 ユキがそう言うとノアは井戸から桶を引っ張り上げながら「あの人がいないからね」
と言った。
「あの人ってアリサワさんのこと?」
「そう。今は町に行ってるから」
「話しちゃいけないって言われてたの?」
「そうじゃないんだけど……」
 ノアは水を桶から甕にうつす。その仕草は大人びている。サマになってる、とユキは
思う。私よりもずっと。なんていうか、大人って感じ。
 ノアは額の汗を拭う。
「行きましょう」

 ノアは以前よりもずっと社交的になっていた。まるで別人のように。ユキにとっては
ハツがいない中の救いだった。同世代の同性と話すことで、ユキは不安を紛らわしてい
た。ユキの不安は消えなかった。それはヨウジとハツと離れたことに起因していた。一
緒にいなければ大変なことになる、という予感があったからだ。ユキは取り返しのつか
ないことになっている、と考えていた。キリコやユウが思うよりもずっと……

 ユキとノアは色んな話をした。村のことや、将来のこと、昔好きだった人のこと……
「ノアちゃんはさ、将来どうするの?ずっとこの村に住むの?」
 家に甕を運び込んで、テーブルに座って茶で一服。昼食の準備まで暇。
「そうねえ、将来のことなんて考えたことなんてないけど、この村にずっといることは
ないわね」
「どうして?」
「だって、この村、そのうちなくなってしまうわ。人が生まれないんだもの」
「大丈夫よ。私たちがなんとかするもの。私やキリコさんがね」
 ノアは力なく笑う。どこか悲しげ。
「なんか、ごめんなさい」
 ユキが笑う。
「どうしてノアちゃんが謝るのよ」
「うん……」
 2人は黙り込む。しばらくして、ユキが口を開く。
「昼の準備を始めましょう。少し早いけどね」
「そうね」
 2人は立ち上がり、台所へ行く。

 3

 カーテンを閉め切った薄暗い室内。ベッドの上に寝転がり、ユウはサヨリのことを考
えている。彼女に関しての考え得るすべての結末を考えている。
 戦死、生き延びても洪水、洪水を切り抜けても荒廃した大地……血で汚れた手、2挺
の銃、人殺し、いつ殺されるかもわからない戦場……
 彼女にとってのあらゆる結末は死へ辿りつく。あっけない死、苦しみ抜いての死、陵
辱されての死……生き延びるビジョンが持てない。

 きっと彼女は、あの後死んでしまったんだろう。

 目を閉じ、両腕を額の上に載せる。ユウは彼女の姿を思い出そうとする。それでも、
あの、色白で栄養不足の顔もうすぼんやりとしていて、うまく思い出せない。
 だけど、とユウは思う。あの声だけが思い出せる。強く、芯のある声。耳にすんなり
入ってくるような高音、力無く消えていく語尾の感じ。

 ああいう子は、本当に大切な人と幸せになってほしい……

 ……?……ユウは目を開けて体を勢い良く起こした。2,3度頭を左右に振って、首
を傾げる。

 あれ?俺ってあの子に惚れてる感じじゃないの?なんで好きな人と結ばれて欲しいな
んて格好つけちゃってるの?俺ってマゾ?……ああ、でも惚れてるってのとちょっと違
うって感じもするしなぁ……

 夢の中の――過去の――女だからか?とも思いながら、ユウは不思議に思う。
 ユウはまた目を閉じて、ベッドに倒れこむ。もぞもぞと体を動かし、携帯を取り出す。
イヤホンを耳につけて、音楽を流す。たまたま入れていた、レディオヘッド。別に好き
でもない「パラノイド・アンドロイド」を流す。

 Please could you stop the noise, I'm trying to get some rest~

 英語なんてよくわかんねえや、とユウは自嘲気味に笑い、求めてもいない眠りを眠る。

 4

 キリコは風呂にも入らず『神話篇』の正伝と外伝を仔細に読み続けている。何かしら
新しい情報を引き出そうと懸命。それでもこれまで何百回と読んだ内容に変化があるわ
けはなく、知っていることの確認作業になってしまう。
 『旅行記』の全文と『偽伝 旅行記』とも言える少年から渡された手帳の内容でわか
ったことと『神話篇』の正伝と外伝を引き合わせても見えてこないことが多い。むしろ
大きな空白だけが目につく。これまでよりももっと大きな空白。記述的空白と時間的空
白。

 あたしは、というかこれまで『神話篇』を研究してきた者たちすべては、何か大きな
勘違いをしてる気がする……紙の上だけで理論をこねくりまわした代償か。

 背中が痒いがどこが痒いのかわからない感覚。キリコはそれに襲われていた。答えは
そこまで出ているのに、答えの出てくる口が見つからない。どこかわからない。
 マルセイユの風化具合。『神話篇』の欠落。『偽伝 旅行記』に出てくる聞き覚えの
ある名前――アリサワさん、シンジくん――

 あ~イライラする。もう少しで何かがわかりそうなのに!

 ドアを叩く音。「キリコさ~ん、ご飯ですよ」ユキの声。キリコは頭をかきむしり、
少し考えて、ずっと着ている白いカットソーの胸元を指で開いて鼻を突っ込む。汗臭い。
垢臭い。キリコははぁ~とため息をついて、机の上に広がっている本を片っ端から閉じ
ていき、メモとして使用した大量のノートの切れ端をまとめてゴミ箱に放り込んだ。

 風呂でも入って気分を変えよう。さすがに臭い。

 そして大笑い。驚いたユキがドアを開けて顔を出す。
「どうしました?」
「いや、あんまり汗臭いもんだから、自分で笑っちゃった」
「先にお風呂ですか?」
「せっかくの料理が冷えるのも嫌だから、食べてから入るよ」
「わかりました」
 そう言ってユキが顔をひっこめる。キリコは椅子から立ち上がろうとして、盛大に転
ぶ。眩暈。しばらく立ち上がれないほどの激しい眩暈。そして喉が詰まって、何度も咳
をする。
 眩暈と咳が止まると、激しい倦怠感。あ~あ、とキリコは思う。人生が短いなんて誰
が決めたのかしらね。
 キリコはのろのろと立ち上がり、自らの頬を両手で叩き、明るい顔を作って、居間へ
出て行く。

 5

 昼食には思わぬことにイエスも参加。誰も予想していなかっただけに、みな怪訝な顔。
「そんなに俺がいるとおかしいか?」
 スープをすすりながらイエスはテーブル上の面々を見渡す。
「そりゃね」
 キリコがパンを食いちぎりながら言う。
「細かいことは気にすんな。それより、お前らこれからどうすんだ?町に戻るのか?」
「はじまりの地へ行くわ」
 間髪入れず返事をするキリコ。ユウとユキは唖然としている。ノアは1人澄ました顔
でスープを飲んでいる。
「俺も行こう」
「どういう風の吹き回し?」
「やることがあるんでね、それだけだ。それに俺とあんたたちの目的は結局は同じだろ
う?協力できると思うんだけど」
「あんたの目的って何よ?」
 キリコはフォークでレタスを思い切り突き刺す。カチン、と皿の底を叩く音がする。
「物語を終わらせたいだけ。めでたしめでたしってなもんでね」
「どっかで聞いた台詞ね。シンジって子もそんなこと言ってたわ」
「誰ですか?」
 ユキが恐る恐る質問する。キリコは勢いよくユキの方を向く。
「マルセイユで会ったおかしな子よ。言ってなかったかしら?」
「聞いてませんよ」
 ユキは泣きそうな声を出す。仲間はずれの気分になっている。
「イエスさん、あんた色んなことを知ってそうね」
「そうだな。たぶん知ってるんだろう。だが、今は思い出せないことの方が多い」
「何よそれ」
「はじまりの地は」とイエスはキリコの言葉を遮る。「昔日本と呼ばれた場所にある。
まずはそこへ向かおう」
「ふん!望むところよ」
 キリコはレタスをばりばりと食べる。ユキは状況が飲み込めず泣きそうな顔。ユウは
眉根に皺を寄せて事態を静観。イエスは残りのスープを飲み干す。ノアは1人、ごちそ
うさま、と手を合わせている。
 自分の食器を台所へ持っていこうと立ち上がるノアが静まった中、口を開く。
「私もついていく」
 






 続く




     


  4 音


 1

 どうして、神は傲慢であるのか……

 過去幾度も口にし心の中で反芻し、自らを支えてきた言葉。アリサワは窮屈な制服の
胸元のボタンを外し、椅子に腰掛ける。今頃、ハツとヨウジが事を起こしていることだ
ろう、と考えながら水をひと口飲む。

 人の生き死にを決められるほど傲慢な神を許すことはできない……
 悪いの誰だ?悪かったのは何だ?我々の望みは、方法は、それほどまでに神の道と離
れていたのだろうか?
 そして、我の計画がこれほどまでにずれていったのはなぜだ?この世界はなんだ?荒
廃した大地。人々の寿命はさらに制限され、生殖機能は失われている。ヒトはすでに形
骸化しており、その粗悪品が世に溢れている。洪水の機能に問題が発生したとしか思え
ない。それとも神の最後の嫌がらせか……

 思い悩むのを止めたアリサワは、書斎で1人、回想に耽る。人生の栄光。愛した人。
世界が思い通りに動いていた頃。不満はなく、不平も出ず、頂点へ邁進していた頃……
ここでアリサワの夢想に影が落ちる。全てが崩壊した日。最後の、わずかに残った信仰
を粉々にされた日……
 アリサワの胸の内に黒い衝動が生まれる。楽しい回想はいつも長続きしない。思い出
は必ず、アリサワに憎しみを思い出させる。むしろ最近では憎悪が風化しないように彼
自身努めて過去を振り返るようにしている。
 
 和平の最後の可能性を踏みにじったのは神のほうだ!

 机の上に置いてあったコップが破裂した。ガラスが弾け、中に入っていた水がアリサ
ワの制服を濡らした。その事態に動揺もせずに、アリサワは歯ぎしりをする。

 旅人さえ手に入れば、貴様の喉笛を食い千切ってやれる!それももうすぐ。もうすぐ
だ……

 粉々に散らばったガラスの破片が煙のように消える。濡れていた制服も乾き、書斎に
はアリサワの歯ぎしりだけが、かすかに鳴っている。

 2

 議事塔の最上階から見下ろす景色はいつもと異なっていた。普段の議事塔周辺は人も
まばら。閑散としており、時折用事のある者が1人2人と議事塔内に入っていく程度。
あとは重装備のCGが巡回しているくらいのもの。
 しかし、今日は議事塔周辺は銃声と怒号で包まれており、まるでお祭り騒ぎ。男はそ
の光景を見下ろしながら、ニヤリと笑う。先ほどからひっきりなしに机上の電話が鳴っ
ているが、男は無視している。状況報告など不必要。見ればわかる。新生教徒の暴動だ。
しかも、今までにないほどの規模。いつもはCGの一方的な虐殺で終わるが、今回は違
うようだ。相手も重火器で武装。数においてはCGを圧倒していた。議事塔の警備にあ
たっているCGでは対処に苦慮するだろう。
 ただし、と男は思う。それも時間の問題。すぐに各所より増援が駆けつけ、彼らを駆
逐する。議事塔周辺は教徒たちの血に染まるだろう。

 何という愚かな行為、と普通の人間なら考えるだろう。しかし、これを陽動だと思う
人間はそうはいない。こんなやり口わかりきっている。問題は敵の目的。これほどの死
者を出してでも得たい見返り……まぁ、俺の首だろうな。通常、組織のトップをつぶし
たところで体勢に影響はない。少し考えればわかる。俺は独裁者でもなんでもないから。
だとしたら……敵に俺のことをよく知っている奴がいるってことだろう。俺を殺すこと
にどんな意味があるのか知ってる奴がいるってことだ。

 男は首をコキコキとならし、窓から離れ椅子に座る。
「なぁるほどね。俺の悪意を知ってる奴がいるんだな。誰かなぁ?誰かなぁ?懐かしい
奴なんだろうなぁ。でも、駄目だなぁ。1度死んだ俺を殺すなんて、できやしない。こ
こは俺の町だ」
 男は大声で、顔は真顔で、笑う。銃声、悲鳴、怒号、そして男の笑い声。室内には地
上より立ちのぼる、血の臭い。

 3

 ヨウジ自身、この展開は予想していなかった。
 最初は気のせいだと思った。けれど、銃声がして、人々の叫び声が聞こえて……説明
のあった合図とは、この暴動のことだったのだ、と気づいたときはすでにエレベータへ
向かって走っていた。ロビーにいたCGたちは外の暴動鎮圧へ向かい見張りはいない。
何の障害もなくエレベータへ。銃声が聞こえるたび、ヨウジの表情は強張っていった。
 ヨウジは今、中央のエレベータの中でうずくまって、膝を抱えている。最上階までは
まだ遠い。階数表示のランプが進んでいくのを見つめている。

 早くしてくれ!

 最上階まであと4階、というところでエレベータはストップ。照明が落ち、緊急停止
のアナウンス。ヨウジはパニックを起こしそうになる。自動的にドアが開く。ヨウジは
よろよろと立ち上がり、エレベータを出る。降りた先は会議場のある階。ヨウジは内ポ
ケットの銃を触りながら、上階への階段を探す。

 どうしてこうなった?これほど多くの人を犠牲にしてまで、俺は人を殺さなきゃいけ
ないのか?

 ヨウジは階段を登る。逃げ出したい気分を抑えながら。それでも足が先へ進む。

 無我夢中で登り続け、ヨウジは、最上階にたどり着く。目の前にドア。その先に目標
がいる。ヨウジは内ポケットから銃を取り出し、安全装置が外れていることと、マガジ
ンに弾丸が入っていることを確認してから、ドアを開ける。

 4

 ハツは議事塔地下の研究所内にいる。地上の喧騒もここまでは届かず、機械の動作音
だけが鳴っている。

 コンビニの裏から地下水路を通って研究所内に侵入。合図を待ってとのこと。合図は
銃声。地上で何が行われているのかハツはわからずに、案内人に促されて研究所内に入
る。案内人はコンビニ戻っていく。ここから先は1人で行かなければならない。
 渡された地図を頼りに進む。目的の鍵は一番奥の部屋。そこに鍵が安置されていると
いう。

 ハツは興奮を抑えながら進む。恐れていたCGの警備兵もいない様子。研究者もいな
い。合図の銃声に何の意味があるのかもわからないハツは、アリサワの用意の良さに感
心しながら、また、自分が特別な行いをしていることに興奮しながら、先へ進む。

 最奥の部屋へ到着。教えてもらった暗証番号を入力し、ドアを開く。部屋にはたった
1つ、棺のような、カプセルベッドのような、長方形の箱があるだけ。他に鍵らしきも
のは見当たらない。

 なるほど、この中に鍵が保管されてるのね。そしてこれを開けられるのは私だけ!

 箱に近づくハツ。指先で触れると電流のような痺れが伝わる。箱の中央にあるボタン
を押すと、箱は静かに開く。冷気が漏れ出す。
 中にはハツと同じ年頃の裸の少年。赤面もせずにその肢体を眺めるハツ。

 これが鍵なの?

 少年は目を覚ます気配がない。
「もしもし」
 ハツが声をかける。すると、少年の頬に赤みが差し始め、体をもぞもぞと動かし始め
た。少年はゆっくりと目を開ける。覗き込んでいるハツの顔を見て、言う。
「あんた誰?」

 5

 少年は、目の前にいる名も知らぬ女を見つめている。そして、苦笑。

 ていうか、どこだここは?死んだよな、俺。つーか、あの子はどこ?俺のあの子は?
まだエッチしてないんだが、股の先を拝んでないんだが……いや、マジで。なんで俺裸?
えーと、えーと、たしか箱舟の中で、シンジと一緒に、シミズをぶっ倒して……そっか
らわかんねーや。まぁ、とにかく、俺は軽い男。だいたい5センチくらい、宙に浮いて
んだ。

 少年は箱から起きる。そして少女の正面に立つ。ごそごそと全裸の自分のまさぐって
言う。
「俺の携帯どこにあるか知らない?」





 続く




     


  5 鍵/道


 1

 こんなのが鍵だなんて何かの間違いだ!

 首の裏を掻きながら、携帯はどこだろう、ときょろきょろしている全裸の少年を見て、
ハツはそう思った。強く思った。間違ってる、と。

 鍵とはもっと神々しいもの。こんな見苦しいものではない。

 ハツは怒りに震える。選ばれた人間である私がこんなくだらない茶番に付き合うなん
て……少年は寝起きのぼんやりした顔で部屋を見回す。
「どこだよ、ここ。辛気くせーな」
「議事塔の地下よ」
 吐き捨てるようにハツは答える。ああ、アリサワさん、私に相応しい仕事じゃないわ
これは!こんな奴がどうして必要なの?
「議事塔?国会議事堂のことか?ここ東京?」
 少年はそう言って笑う。ハツは少年の言葉、態度に我慢がならない。いかにも軽薄な
感じ。
「つか、何で俺ここにいんの?」
「寝てたのよ。その中で」
 ハツは箱を指さす。
「私がアリサワさんに言われて助けに来たの。あなたは鍵なんでしょ?」
「アリサワさん?ウソー、まじかよ。なんだかよくわかんねーけど、もしかして戦いっ
てまだ終わってないの?サヨリやケンジたちはどうしたんだろう。アリサワさんとこに
いるのかな?ねえお姉さんどうなの?」
「そんな人たち知らないわよ。それより服くらい着たらどうなの!」
 ハツは後ろを向く。少年は自分が全裸であることに気づき、うわ、と声を上げる。
「でも着るものなんてないよ」
「ちょっと待ってなさい」
 ハツはそう言って部屋を出て行く。
 戻ってきたハツは白衣を持ってきた。
「これでもないよりはマシでしょ?」
「だっせーな、こりゃ」
 ハツは裸を見ないように、顔を背け、白衣を投げる。少年は白衣を受け取り、こんな
もん着るなんて、とぶつぶつ言いながら着込む。
「さあ、行くわよ」
 少年が白衣を着たのを確認して、ハツは言う。少年は、あいよ、と返事する。
「お姉さんなんて名前?」
「ハツ、よ」
「へ~、俺はカミカワ」
「あっそ」
 ハツはそう答えて、さっさと部屋を出て行く。カミカワは苦笑しながら後に続く。

 2

 堅物って感じの女だな……

 カミカワはハツの後ろをついていきながら、思う。

 思うに処女だ。

 懸命に走るハツ。てれてれとスキップするように続くカミカワ。白衣がひらひら揺れ
る。無人の研究所内に突然の警報音。足を止めるハツとカミカワ。
「どうしたのかしら?」
 ハツは不安に駆られる。注意はひきつけてくれているから大丈夫、と思うものの、想
定外の警報音に怯えている。
「どうしたんだ?」
「わからないわよ」
 ヒステリー女は厄介だ、とカミカワは思う。紙切れを舐めるように見ているハツを眺
めながら、さらに、カミカワは思う。こういう女もオナニーすんのかな?

 コンビニにつながる侵入口まであと少しというところで人の声。

――侵入者を探せ。まだ外には出ていないはずだ。
――敵は鍵を連れ出したみたいだ!
――どうやって起こした!

 ハツとカミカワは物陰に隠れ、様子をうかがっている。ハツの体は小刻みに震えてい
る。カミカワはそれを見て、あ~ぁ、と思う。まったくアリサワさんもこんな子を迎え
に寄越さなくてもいいのに。看護兵か何かかな?まったく、サヨリクラスとまでは言わ
ないけど義勇兵くらいは用意して欲しかったな。
 カミカワはハツの強張って震える体を見て、憐れに思えてくる。そして緊張をほぐそ
うと口を開く。
「なぁ、ハツ、お前ってオナニーとかする?」
 ハツの強烈なビンタ。バチンという音が派手に響く。頬をさすりながら、ニヤニヤ笑
うカミカワ。ハツの顔は真っ赤。
「あんたどこまで阿呆なの!」
「静かにしろよ、見つかるぞ」
 カミカワがからかうように言う。ハツは涙目でカミカワを睨みつける。そして物陰か
ら出て走り出す2人。

 まぁ、緊張はほぐれたな。

 3

「なぁ、お前にどれくらいの道が用意されてると思う?少年、どうだい?どのくらいの
選択肢があると思う?」

 ヨウジは机の前に立ち、椅子に座った男へ銃を向けている。手の震えが止まらない。
銃を向けられた男は平然と構えている。どこかで見た制服。そうだ、アリサワの着てい
るものと同じ。それでも、とヨウジは思う。俺はこいつを殺す。殺す。殺す。

 …………

 最上階の部屋に入った時、机に座っている男を見て、ヨウジは悟った。こいつだけは
必ず殺さなくてはならない、と。目に見えるほどの悪意。どす黒い瘴気が男を取り巻い
ているよう。ヨウジは銃を抜き、机の前に駆け寄り銃を男へ向ける。男は動じずに微笑
みながらヨウジを見つめている。
「新生教の差し金か、ずいぶん若いけど。まぁ、さ、あれだ気負うなよ。いいか、確実
に殺すんなら、口に銃口を突っ込んで引き金を引くんだ」
 そう言って男は口を大きく開き、指さす。
「ここだ、ここ」
「黙れ」
 ヨウジにとって精一杯の言葉。

 …………

「なぁ、少年。考えてみろよ、お前の道を。卑屈そうな面してんじゃねえか。しかも、ヤ
クやってたろ?臭いがするよ」そう言って男は鼻をひくひくさせる。「まぁそういう若気
の至りもアリだよな。なぁ、考えてみれば今の自分じゃない人生もあったんじゃねえかっ
て考えたりしないか?今だってそうさ、俺を殺すか殺さないで道が大きく違ってくるしな。
つーか、アレだ、お前人を殺したことないだろう?新生教も頼りないヒットマンを雇った
もんだ」
 男は笑う。激しく笑う。ヨウジは男の笑い声の大きさに驚き、体をビクッと揺らす。
「びびってんじゃねーよ。つーかお前マジで俺を殺す気なのかよ。そんならそうやって構
えてるばかりじゃなくて、引き金をひかなきゃ始まんねーぞ。銃口向けたって人は死なね
ーぞ。てか、誰に頼まれたんだよ」
「新生教のリーダー」
「何て名前?」
「アリサワ」
「……ひゃははひゃはははひゃははひゃっははっはっはひゃっはははっははははっは……」
 男は急に机の上に飛び乗り、寝転がって狂ったように笑い始める。体をくの字に曲げた
り、机の上を時計の針みたいに回りながら、笑う男。ヨウジは狙いが定まらずに、銃をふ
らふらと揺らす。
 急に笑うのやめた男が机から飛び降り、一瞬のうちにヨウジの銃を掴む。突然のことで
引き金を引こうとしたヨウジだが、引き金の隙間に指を突っ込まれて引くことが出来ない。
「てめーの道は少ないな。もう、どうにもなんねーぞ。なぁ、聞かせろよ、そいつが、ア
リサワさんが俺を殺せって言ったのか?」
 ヨウジは恐怖に震えて言葉が出ない。血走った男の目。ヨウジは小便を漏らす。

 4

「ここだよ、ここんとこ。こめかみのここんところをさ、アリサワさんに撃たれたんだ。
痛かったなぁ。死んだと思ったんだけどね。あの人が撃ったんだ!俺を!俺のここんとこ
ろを!」
 男は指先でこめかみを何度も突く。
「まじで痛くてさ。だってあの人が俺のここを撃ったんだぜ?お前にわかるか少年。信じ
てる人に撃たれる痛みを。いいか、ここんところだぜ。完全に殺す気だ。ここんところを!
撃って!海に落ちて!あのくそアマを殺す寸前で!俺とアリサワさんの世界がすぐそこま
で来てたのに!ここんとこを銃で!アリサワさんが!」
 男の力は強く、握られたヨウジの手が赤くなっていく。ヨウジは痛みと恐怖でうめき声
を上げる。
「全部あの人のせいだ!一から十、百、千、万、億、兆まで、全部あの人のせい!こんな
クソみたいな世界で、俺がこうやって生きてるのもあの人のせい。つまんねえんだクソ野
郎!自分は高みの見物のつもりか!生きてやがったか!この300年、退屈でしょうがな
かったよ!また俺の邪魔をするつもりだな!だが、駄目だ。俺がおめーの邪魔をしてやる。
あんたのお気に入りのものを全部ぶっ壊してやる!物語は中途で終いだ!あの人が望む終
わりなんてクソくらえだ!」
 ヨウジは銃をから手を離し、締め付けられた手を反対側の手でさすりながら、うずくま
る。男は奪った銃をヨウジの額に押し付ける。
「少年よ、道は幾つもないぞ。お前自信が狭めたんだ。どうする?どうしたい?お前の望
みはなんだ?」
 ヨウジは小便を漏らし、涙を流しながら、鼻水で濡れる唇を拭う。
「あの人の、キリコさんの寿命を延ばしてやりたい。だって、そうでもしないと、俺……」
 ヨウジは訴えるように男の顔を睨み返す。男はそれを見て、にやりと笑い、銃を下ろす。
「あ~、そういうことか。なるほど。俺を殺したら寿命が延びるとでも言われたか。間違
っちゃいないが、正しくも無いな。お前らの寿命と俺の死とは関係ないよ。けど、その答
えを俺は知ってる。そして、お前らの寿命を延ばす方法も俺が握ってる」
「それなら……」
 ヨウジは立ち上がり、言葉を続けようとするが、男は窓に向かって発砲しそれを遮る。
割れた窓から強い風が入ってくる。風圧に耐え切れずヨウジはよろける。机に上にある電
話がけたたましく鳴る。
「いいか、少年。帰ってアリサワさんに伝えろ。シミズがあんたの望みをぶち壊すってな。
日本だ。これから俺は、俺達はそこへ向かうってな」
 そう言って男は電話に出る。一言二言答えて、受話器を下ろす。そして今度は天井に向
けて発砲。
「なんだ、お前、陽動か。鍵が狙いか。いや、どっちも狙ってたのかな。一挙両得なんて
アリサワさんらしくねーな。まぁ、いいか。とにかく、お互いに日本に行くしかなくなっ
たってわけだ。どっちが扉を開けようが、結局は同じだ」
 男は窓際に立つ。強風も気にならない様子。下を見下ろして笑う。
「またたくさん死んだな。これだけの犠牲でも、俺は殺せなかったな、アリサワさん!」
 そして男は笑い始める。ヨウジは握り拳を固めて、唇を噛んで、部屋から逃げ出す。小
便で濡れたズボンが重い。階段を駆け下りながら、ヨウジは自分の不甲斐なさ、愚かさを
思って、泣く。

 5

 アリサワはハツが作戦に成功したという連絡を受ける。

 まずまずの成果だ。ヨウジの奴は……まぁ失敗してるだろうな。それでもいい。後は日
本へ向かうだけだ。神の企みはここで阻まれる。

 まずは洪水の機能の回復、その後新たなるハコブネの再生、そして……
「神の打倒。悲願は成就する。我が神の傲慢を正すのだ」

 アリサワは書斎を出て、ハツと落ち合う予定の場所へ向かう。






 続く




     


  6 荒野/世界


 1

 キリコたちは東へと向かって進んでいた。目的地である日本がどの程度遠いのか見当
はついていても、実際旅をすると、永遠に到着しないのではないかという不安に駆られ
る。旅を始めて数日は車内の会話は弾んだが、1週間もすると、話すこともなくなって
いった。
 キリコはイエスから聞いたこと、これまで知り得たこと、それらを頭の中で繋ぎ合わ
せることに必死になっていた。運転はせずに、助手席で膝を抱えて、うんうん、唸る毎
日。そんなキリコに誰も話しかけようとしない。

 イエスは記憶の復活を楽しんでいた。あれよあれよという間に記憶が戻っていく。キ
リコに伝えたこと、伝えなかったこと、言いたい事、言えない事……自分の顔がルーム
ミラーにうつる度に、げんなりとする。

 なんでよりにもよって、お前の姿かね~。まぁ、やっこさん、イエスと言えばこの姿
って決めてるのかな。

 イエスはキリコに多くの情報を与えた。情報、というよりは体験談。初めは目を白黒
させていたキリコも、シンジの名前が出てくると、妙に納得した表情を浮かべた。
「なるほど、興味深い。転生……とても言うのかしらね。うんうん、シンジって子はそ
んな感じじゃなかったけど……でもまだ、情報が足りない。もう少し、もうちょっと、
あと少しで全てがわかりそうなのに……」
 そう言ってキリコは爪を噛む。後部座席のユキが、はいはーい質問、と手を挙げる。
「イエスさんて本名はコウイチロウなんでしょ?前世の名前がイエスなの?」
 イエスは窓を開け、タバコに火をつける。一服し煙を窓の外へ流す。
「いや、違う。この姿をしてた奴の名前さ。どうやら俺は別の体に生まれてきたみたい
なんだ」
「それで、本当の名前は?」
「さてね、なんだかったかな」

 2

 ユウは前の世界がどうとか、この世界がどうとか、『神話篇』の謎とか、そんなもの
には興味が無かった。いや、興味を失っていった、という方が正しい。今のユウにとっ
ての興味は1つだけ。イエスが話してくれた女の子の話。
「たぶん、あの子だけは――他にも前の世界の姿のまま生きている奴がいるかもしれな
いが――まだ旅を続けてる。この世界のどこで、たった1人で」

 そうなんだ、あの子、あれからずっと旅してたんだ。死んでなかったんだ。

 約束、とユウは誰にも聞かれないように呟く。守らなきゃな。

 ユウはサヨリの過去の出来事を知った。ただの高校生だったこと。惚れた男が死んだ
こと。それから兵士として戦ったこと。死ねなくなったこと。旅をしていること。
 サヨリのことを知って、ユウは、決意を固めた。

 やれることは全部やる。あの子を幸せにする。

 ユウは窓の外の荒野を見続ける。もしかしたら、あの子がここら辺を歩いているかも
しれない……人っ子1人いない荒廃した大地……ユウは自分が300年そこを1人で旅
しているところを想像する……300年?想像を絶する長さ。1人で、誰もいない世界
を……

 俺なら、途中で自殺してる……て、そうかあの子は死ぬこともできないんだな。地獄
じゃないか。

「サヨリはさ、キョウジを探してるんだよ。絶対どこかにいる!って信じてさ。俺は思
うんだ。俺がここにいるんだ、あいつだっていてもおかしくない。でも、どこに、どん
な姿でいるのやら……ただ、キリコにシンジが言った言葉。友達を待たせてる、か。も
しかしたら、キョウジは日本にいるのかもしれないな。でも、どうやって日本に入るか
な……」
「どういうこと?」
 キリコが尋ねる。アリサワはタバコを灰皿に突っ込んで窓を閉める。
「新生教、それにCGはもうずっと前から日本を目指してた。だが、入れなかった。バ
リアっていうのかな、とにかく、近づけないんだ。だから新生教もCGも鍵を求めてた。
どこの誰がそんなもの仕掛けたのか知らないけどさ。」

 キョウジって男が少し恨めしい。むかつく。さっさと出てきて、サヨリのとこへ行き
やがれって思う。

 ユウは欠伸をする。旅は長い。先は見えない。ここはどこなんだろう?日本まであと
どのくらい?

 3

 ユキは自分がこれまで見ていた夢のことを思い出している。だが、口には出さない。
イエスの話を聞いて、ユキは気づく。それはサヨリという女の子だったのだ、と。だが
なぜ私がそんな夢を見るの?
 ユキの疑問はそこに尽きる。なぜ、私が?

 そしてキリコが投げかけた、疑問、推測。ユキは思う。とにかく、私は世界を救わな
ければならない。世界はこのままではいけない。そのために私はここにいるんだ。洪水
というシステム、〈大きな声の神〉、そして〈旅人〉……私はまず、できることを探さ
なくてはならない。まずはサヨリ、という女の子に会おう。それから始まる。

 ユキはノアの方を見る。ノアは頬杖をついて窓の外を眺めている。ノアは日本を目指
して出発してから、また話さなくなった。そもそもどうして旅に参加しようと思ったの
かも教えてくれない。

 変な子よね……

 ノアはいつも何かを考えているよう。それは恋をしているようにも見えたし、憎くて
たまらない相手を思い出しているようにも見えた。そんなノアにユキは積極的に話しか
けたが、すべて生返事。心ここにあらずとはこのこと。

「ねえ、何考えてるの?」
「うん」
「ノアちゃんってば」
「うん、そうね」

 ユキはノアに話しかけるのを諦める。ずっと座りっぱなしで尻が痛い。外はもう真っ
暗。
「今日はこのくらいにしとこう。飯といこうか。腹が減ったよ」
 イエスが車を止める。外は夜の冷気で寒いくらい。イエスとユウが火を起こし、ユキ
とノアが夕飯の準備を始める。
 スープを作りながら、夜空を見上げるユキ。そして、ハツとヨウジのことを考える。

 2人とも元気かしら?

 4

 キリコはスープをすすりながら、考える。

 イエスの話しは信じるに足るだけのものだ。実際、あたしはシンジに出会っている。
そしてあの手帳。あたしたち研究者がいかに多くの勘違いをしていたのか、わかった。

 まず、この世界は、誕生して300年程度しか経過していないということ。

 あたしたちは中央に偽の歴史を与えられていたのだ。そして、おまけに、300年程
度しか経過していない、という事実から導き出される答え……あたしたちは地上に降り
たことはなく、ずっとあのハコブネという町の中で生きてきたということ。元々地上に
いて、ハコブネに移ったというのは大嘘。そもそもハコブネの中にしか人間はいなかっ
た!

 次に、前の戦争において、旅人は1人しか姿を現さなかった、ということ。

 正確には旅人であると思われる少年が途中で死んでしまったということ。死ぬことは
あり得ない旅人が死ぬというのもおかしな話だが……そしてサヨリと呼ばれる少女が戦
い、戦争は終わり、洪水がやってきた。洪水後も少女は旅をしている。キョウジという
少年を探して……

 そして、この世界は新しい世界ではないということ!

 イエスの話によると、洪水とは世界をまったく新しく作りかえる機能を持っているの
だそうだ。だが、そうすると、今の世界はどうだ?荒廃し、何も生まれない。まるで世
界は止まっているようだ。そう、おそらく、前回の洪水は不完全だったのだ。だから、
世界は不完全なままで出来上がってしまった。理由は不明。それを神の意思と呼ぶかど
うかは宗教の問題。とにかく、この世界は中途半端なのだ。あたしたちはそんな世界に
生まれてきたのだ……

 これだけわかっただけでも大発見だが、まだ多くの謎は残っている。あのシンジとい
う少年は一体何者なのか?イエスの話しではただの高校生のようだが……それに日本を
覆うバリア。誰がそれを行ったのか?……どうしてハコブネという町は作られ、世界を
漂っているのか?……あたしたちの寿命はなぜ短いのか?いや、そもそもあたしたちは
あたしたちが思っているような「ヒト」なのだろうか?

 キリコはスプーンを置き、口をナプキンで拭う。

 とにかく、日本へ行けば、さらに核心に近づけるはず……

 5

 ノアは夜の闇の中、車の後部座席に身を横たえながら、静かに目を閉じている。眠気
はまだやってきておらず、意識は冴えていた。隣に寝ているユキは夢の中のようで、微
かに寝息が聞こえる。助手席ではキリコが大鼾。ノアはこれからのことを考える。

 あの人を止める方法……神よ、あの人を許してあげてください……

 そう、ノアは祈る。
 しばらくして、睡魔がやってきて、ノアの意識を優しく連れ去っていく。






 続く




     


  7 2人/独り言


 1

 ハツとカミカワは追っ手から逃れるため、研究所内を走り回った挙句、迷子になって
いた。ハツはもらった地図を見てはいたが、現在地がどこかすらわからなくなっていた。
「まぁそう焦んなよ。落ち着けばなんとかなるって」
 カミカワの言葉はハツの耳には届かない。ハツは今、恐怖に支配されている。このま
まCGに捕まったらどうしよう、殺されたらどうしよう……後ろ向きの思考は判断力を
鈍らせる。ハツはすでにこれから先どうやればいいのかわからなくなっていた。何も考
えられず、とにかくここから逃げ出したい、とだけ思っていた。
「とにかく動こう。出口を探さなきゃ」
 地図に見入っているハツの肩にカミカワは手をかける。振り向いたハツの顔は真っ青。
がちがちと歯を鳴らしている。
「怖いの?」
 カミカワがそう尋ねると、ハツは無理矢理笑った。
「大丈夫、よ。私は選ばれた人間なんだから。こんなピンチなんでもない」

 完全にびびってんじゃん。つーか、どうしたもんかね。

 ハツに呆れるカミカワ。
「とにかく、行くぞ。その地図こっとに寄越せよ、俺が見るから」
 カミカワはハツから地図を奪う。ハツは、やめて、と抵抗するも、力なくうな垂れる
だけ。
「俺、こんなとこで死にたくないんだよね。だからさ、来いよ。ほら、立てよ。とっと
と出て行こうぜこんなとこ」
 カミカワはハツを立たせる。
「ほら、こっちだ」
 ハツは涙を拭い、カミカワの後についていく。

 2

「ねえ、地図見てわかるの?」
「大体な」
「本当に?」
「俺はな、マルセイユの地図を暗記してた男だぞ。これくらい屁でもない」
「マルセイユ?」
「知らないのかよ。冗談だろ?まだあそこで戦争やってんじゃねえの?それとも完全に
箱舟つぶしたのかよ」
「知らない」
「アリサワさんも変なの寄越したな」
「ねえ、アリサワさんと仲良いの?」
「別に。ただ日本からずっと一緒にいただけさ。一緒に逃げたんだ。そんで富士に行っ
て、フランス行って、箱舟って感じかな。俺はあんま話したことないんだけどな。ほら
あの人リーダーだろ?俺みたいな下っ端とは話す機会があんまりなかったんだ。車に乗
ってた頃もあんまり話さなかったしな」
「リーダーね。たしかにそうね。でも私とはたくさん話してくれる。信頼してくれてる
の。特別だって、言ってくれた」
「ふ~ん。俺には普通に見えるけどね。まぁお前が銃を2挺提げてたら普通じゃないっ
て思うけどな。狙撃銃と小銃をさ」
「私は世界を救うのよ」
「勝手にすれば」

 カミカワは地図を見ながらどんどん進んでいく。幾つもの部屋を越え、CGに見つか
らないように隠れながら。ハツはカミカワの背中を見ながら、自分の情けなさで泣きた
くなる。どうして自分はこなんにも弱いのか!進むカミカワは殺しても死にそうにない
くらいマイペースで、強く見える。
「出口までもうすぐだな」
 カミカワとハツは部屋に入る。おそらく出口の近くであろうと思われる部屋へ。

 3

「たぶん、この部屋の奥のほうから出口に行けるはず」
 2人が入った部屋はこれまでの部屋とは違い、大きな水槽が幾つもあり、その中には
君の悪いことに胎児が入っていた。臍の緒のように伸びたコードが胎児の臍に刺さって
いる。
「あ~こんな映画観たことあるな。なんだっけ、そう「マトリックス」。人間乾電池み
たいになってんだよな。ってか、それにしても、これは悪趣味。ここの連中人体実験で
もやってんのかよ」
 カミカワは胎児の浮かぶ水槽を指でつつく。中の胎児は――当然だが――無反応。
「気持ち悪いよ、さっさと行こう」
 ハツが白衣の裾を引っ張る。カミカワはもう1度水槽を指で叩いてから、先へ進む。

 部屋の奥へ到着。一見行き止まり。
「どうするの?」
「上を見ろ」
 ハツは言われたとおり上を見上げる。上には通気孔。
「ダクトを通れば出口まで一本だ」
 カミカワは近くにあった机を引きずってくる。そして机にのぼり、ダクトをこじ開け
る。
「ほら、いくぞ」
「ありがとう」
「あ、何だって?」
「なんでもない」
 2人はダクトに入る。もぞもぞと体を動かして前進。
「ここだ」
 そう言ってカミカワは通気孔を蹴破り、外に出る。そこにはハツが入ってきた侵入口
があった。
「ここよ!」
 表情が柔らかくなるハツ。それを見て、やれやれ、と思うカミカワ。
「さ、行こう。そして早く着替えたい。こんな格好はごめんだ」
 2人は出口に入っていく。

 4

 アリサワさん、俺はずっとあんたに憧れてた。あんたは俺と違って人望がある男だっ
し、頭が切れた。後輩には優しいし、男気もある。
 隊の中ではみ出しちまった俺に話しかけてきたのはあんただけだった。あんただけは
俺を認めてくれた。
「シミズ、お前は頭の切れる奴だ。だが、やり方がまずい。ストレートすぎんだよ。も
うちょっとその切れすぎる頭を使え」
 あんたはいつもそうやってアドバイスをしてくれたな。俺があんなクソみたいな組織
を続けられたのも、あんたがいたからだ。あんたがその内天下をとって、世界を変えて
くれると信じてたからだ。

 だが……

 あんたには野心ってもんがなかった。成り上がろうって覇気がなかった。だから俺が
あんたをトップにしてやろうと思ったんだよ!時代はあんたに追い風だった。運よく箱
舟事件が始まって、馬鹿どもがみんな死んで、あんたがトップに立った。だが、あんた
は軟弱になっちまってた。あのガキどものせいで!
 そして、そして……

 男はハコブネの機関部へ連絡する。
「日本へ向かう。奪われた鍵も、そこへ向かうはず」
 連絡を終えた男は椅子に座り、目を閉じる。

 サヨリ……ぶっ殺してやるよ……

 5

 ヨウジは長い階段を降っていた。エレベータは死んでいたから、階段を降りるほかな
かった。ヨウジは打ちのめされていた。もうどこにも行く場所がないと思っていた。キ
リコたちには見捨てられ、アリサワに頼まれた暗殺も遂行できず……

 汚名返上なんてできやしねー。もうこのまま町のどっかに消えて、誰にも会わないよ
うにしようかな。

 ヨウジは階段を降りていく。ロビーがある階についても、さらに下階へ降りていく。
降りていく方が、今の気分だ、とヨウジは思っている。
 階段は終わりがないように思える。どこまでも降りていって、このまま地獄まで行け
るのではないか、と思えてしまうほど。

 穴があったら入りたい、そのまま穴に引き篭もりたい。

 ヨウジは長い階段を降りながら、キリコのことを考える。そして涙を流す。

 あ~俺、格好悪いなぁ……

 階段が終わる。ヨウジの目の前に扉。扉を開くとそこは見覚えのある場所。下層遺跡。
しかも、あの、船着場。
 ふらふらとヨウジは歩いていく。CGはいない様子。広間の先には光。誘蛾灯に吸い
寄せられる蛾のように光へ向かうヨウジ。隙間を抜け、光に包まれる。踏みしめた大地
の乾いた感じ。ここは、外なんだな。ぼんやりと上を見上げると、そこにはハコブネ。
東へ移動している。
 ハコブネが頭上から離れると、日差しがヨウジの顔に落ちた。

 さて、どこに行こうか。ヨウジはその場に大の字に寝そべる。そして寝る。何も考え
ないでいいように、逃げるように、ヨウジは眠る。








 続く




     


  8 東へ


 1

 ハツとカミカワは研究所を脱出し、コンビニの事務所内で食事をしている。コンビニ
弁当をがつがつと食べるカミカワ。ハツの箸は動いていない。ただペットボトルの茶を
ひと口ひと口ゆっくりと飲んでいる。
「食べねえのかよ」
 カミカワはから揚げを頬張りながら言う。
「ちょっとね。喉、通らない」
「ふ~ん」
 何か言いかけて止めたカミカワは、ふんふん、と肯いてまた箸を動かし始める。

 カミカワは弁当を平らげ、ハツはペットボトルの茶を飲みきった。
「そろそろ時間よ」
「それにしてもさ、こんな服しかなかったの?」
 そう言ってカミカワは自分の姿を事務所の端においてある姿見にうつす。微妙なサイ
ズのデニム、黒と白の7分丈ラグランスリーブ。
「もっと、こう、びしっとした奴がいいんだけど」
「文句言ってないで、さっさと行くわよ。電車の時間まで5分よ」
「はいはい」
 2人は裏から事務所を出て、地下鉄へ走る。

 2

 中央から南区への電車の中は乗客で満員。カミカワとハツはドア付近で身動きがとれ
ずにいる。
「おいおい、こんなとこで待ち合わせかよ」
「そうよ」
「人多すぎだろ」
「知らないわよ」
 時刻は5時過ぎ。人が多いのは時間帯のせいではなく、中央での暴動のせい。それぞ
れのブロックで足止めをくっていた人々が一斉に地下鉄へ乗ってきたからだ。
「うぜえなあ」
「大人しくしときなさいよ」
「ここどこなんだよ。何でこんなに人がたくさんいるんだよ。みんな箱舟になったか殺
されたんじゃねえのかよ」
「知らないわよ」
 2人が言い合っていると、急な停電。電車も止まる。人々がざわめき、怯え、車内の
空気が重くなる。
「どうした?」
「停電かしら?」
「さ、行こうか」
 暗闇の中から声。ハツだけ反応する。待っていた人の声。会いたかった人の言葉。
「アリサワさん!」
「早く、ドアは開いてるから」
「え?アリサワさん?どこ?」
 2人は誰かに手を引っ張られて、電車の外に出る。2人が降りると車内に灯りが戻り、
ゆっくりと動き始める。電車はそのまま行ってしまう。2人はぼんやりとその姿を見送
る。
「さ、行こう」
 いつの間にやら、2人の背後に人影。暗くて顔は見えない。
「アリサワさん、わたし……」
「よくやったな。とにかく話は後だ」
 人影は壁にそって、電車とは反対の方向へ進む。ハツは後に続く。カミカワはう~ん
と首を捻りながら、後についていく。

「どこへ行くんですか?」
 歩き始めてすぐに、ハツが尋ねる。声が反響する。
「この先に外界への出口がある。このために用意したものだ」
「外ですか。それで……」
「シベリア鉄道だ。それで東へ向かう」
「シベリアテツドウ?」
 ハツは言葉の意味がわからず、首を傾げる。
「そんなのも知らないのか、お前」
 カミカワが最後方から笑う。
「東だ。東へ行くんだ」
 人影が言った。

 東か……と、それを聞いたカミカワは思う。帰るんだな……

 3

 新生教の暴動は翌日、新聞各紙のトップを飾った。CGと会わせて2千人以上の死傷
者を出したこの事件は、近年稀に見る惨事だった。テレビ局はこぞって特番を組み、新
生教の暴動の理由や、これまでのCGとの争いを繰り返し流した。
 人々は事件を知り、恐れ、今後のCGの捜索と新生教のテロに怯えた。事を重く見た
中央政府はすぐさま記者会見を行った。中央議事会のトップは次のように語った。

「恐れるなかれ、善良なる市民よ。このたびの事件は一部の狂信者たちによって行われ
た歴史上最も野蛮なテロ行為である。今後、セントラル・ガードは警備を強化すること
になるが、けっしてみなさんの生活を阻害するものではない。新生教に関わりのない、
みなさんは安心していただきたい。
 このたびの事件で、新生教がどういった組織であるか改めておわかりいただけたと思
う。我々は非道をけっして許さない。新生教がこの世から消滅するまで、我々は戦いを
止めない。これは善良なる市民を代表する議事会の宣戦布告である。
 我々は善良なる市民の盾と矛となり、命を賭して戦い抜くことをここに宣言する」

 迫る議事会選挙へ向けての、票稼ぎと見る向きもあったが、概ねこの宣言は好意的に
迎えられた。市民にとっては自分の生活がすべてだったし、政治家たちにとっては自分
の座っている議事会の席がすべてだった。市民にとっては自分の利益を損なう他者は排
除されるべきだと思っていたし、政治家達にとっては票田の確保のために必死だった。
 それから新生教に対しての取り締まりは強化され、人々は互いに互いを監視しあうよ
うになっていった。他人を信じることができなくなり不安とストレスで麻薬に逃避する
ものが激増し、新生教徒の濡れ衣を着せられたものが検挙されるたびに恐怖と悪意が培
養され、外を歩く人の数が減っていき、繁華街は開店休業を強いられ、町は荒廃の道を
辿る。

 4

 男はハコブネの機関部にいた。下層遺跡の機関部ではなく、議事塔の中層にある機関
部。町の移動を司る場所。進路は東へ向いている。男は機関部の中央に座し、机に足を
乗せて鼻歌を歌っている。
 男は町の現状を笑う。

 出来損ないどもはどうにもならないな。いつまでたっても、相変わらず愚かだ。

「ハコブネの調子はどうだ?」
 鼻歌を中断し男はモニターに向かって作業しているCGに声をかける。
「すべて順調です。動力安定。速度も一定に保たれています」
「そうか」
 ハコブネが進んでいく。男は日本に近づいているのを楽しんでいる。

 ゆっくりでいい。ゆっくりでいいんだ。楽しみはもうすぐなんだ。

「取締りに対する市民の暴動が起こっています」
 男に音声通信が入る。
「放っておけ。現場の連中がなんとかするだろ」
「はい」

 必死だな、どいつのこいつも。だが、俺ほど必死な奴なんていない。

 男は鼻歌を再開する。ミッキーマウスクラブマーチ。機関部内に不気味に響く。

 5

 ハコブネが過ぎ去って、たった1人、ヨウジは荒野で不貞寝していた。浅い眠りと覚
醒を繰り返し、頭痛がひどい。

 あ~ヤクやりて~な~……なんてな。もう2度とごめんだ。あんな目に遭うのは。

 風もなく、陽も落ち始めていて、オレンジ色の光が斜めに倒れこんでいる。荒野は火
をつけられたように赤く染まり、そこらに転がる大石小石の影が長く伸びている。静寂。
夜はすぐそこまでやってきている。
 ぐ~、とヨウジの腹が鳴る。

 こんな時でも腹が減る。どんなときでも人は腹が減る。あ~、なんだろう。また、ちょ
っと泣きたくなってきた。

 ヨウジは腕で顔を覆い、ぐっと力を入れて、目を閉じる。闇が降り始め、ヨウジを包
む。
 完全な闇。静かな夜。
 寝転がるヨウジは、近づく足音に気がつかない。

「誰?」

 細く高くよく通る声がヨウジの耳に届く。ヨウジは腕をどけて、暗闇に目をこらす。








 続く




     


  9 道


 1

「生きている遺跡?」
 シベリア鉄道に向かう車の中、後部座席に座っているハツが声を上げる。
「前の時代からあって、唯一生きている遺跡、それがシベリア鉄道だ。理由はよくわか
らないがな」
 アリサワはハンドルを左手で持ち、右手でタバコを吸っている。窓は開いていて、夜
の空気が後部座席にいるハツとカミカワの火照りを冷やす。
「それに乗って東へ向かうんですね」
「ああ、そうだ。まずは俺達が行く。あとから教団の連中がやってくる」
「大勢でいかなきゃいけないんですか?」
「そうだ」
「どうして?」

「戦争でもするんだろ」

 それまで2人のやりとりを聞いていたカミカワの一言。それを聞いて、アリサワは笑
う。
「大げさだな、カミカワくんは」
「そうっすかね。だって前もシベリア鉄道に乗って戦争に行ったでしょ、アリサワさん」
「眠ってる間に、色々あったんだよ」
「そりゃ、話を聞いてたらわかります。あれからもう、ずいぶん経ったんですよね。ア
リサワさん、雰囲気変わりましたね」
「時間が経てば人も変わるさ」
「人は300年も生きませんよ」
 車内が静まり返る。ハツは蚊帳の外。2人のやりとりをはらはらしながら聞いている。

「あんた、本当にアリサワさんだよね?」

 2

 3人がシベリア鉄道に着いたのは日付が変わる直前。カミカワには懐かしく、ハツに
は奇怪なものに見えた。それはあまりにも新しかった。昨日建設されたと言われても信
じてしまうほどに。
 
 これが前時代の遺跡?
 
 ハツは首を傾げる。洪水の影響があるようにも思えないし、古びていない。下手をす
れば町を走る地下鉄よりも新しく見える。
「本当に前の時代のものなんですか?」
 ハツの問いにアリサワは答えない。無人のホームをただ、進んでいく。
「そうだよ。俺が乗った時とちっとも変わってない。いや、それどころか、新しくなっ
てるみたいに見えるな」
 カミカワはそう言うと、ハツの肩を思い切り叩いた。驚いたハツは飛び上がって悲鳴
を上げる。
「何すんのよ!」
 怒るハツを真剣な顔で見つめるカミカワ。
「この世界は、おかしい」
「……何が?」
「さあ」
 黙るカミカワ。そこへアリサワの声。
「さ、早く乗れ」 
 アリサワはすでに列車に乗り込んでいて、2人に手招きをしている。ハツとカミカワ
は駆け足で列車へ飛び乗る。2人が乗るとドアが閉まり、出発の汽笛が鳴る。静かに滑
るように列車は動き始める。

 3

「動かしてるの誰なんだ?」
 3人は客室に座っている。外の景色は黒く塗りつぶされている。室内の電灯は時折明
滅し、そのたびに、ハツは体を揺らす。
「幽霊だよ」
 アリサワが答えるとカミカワは笑う。
「あんた冗談なんて言ったっけ?」
「我々がここを見つけたとき、ここは無人だった。だが不思議なことにすべての機能は
生きていた。昔と変わらずね」
「意味がわからないな」
「ある意味、すべてがオートマティックなんだ。自動的に動いている。誰を乗せるわけ
でもなく、ね」
「気味が悪いな」
「ああ、そうだ。結局理由はわかんないのさ。俺にもな。ただ、こう考えることはある。
思い出とか感傷とか、そういった誰かの意識の残滓がこれを生かしているのではないの
か、ってね。懐かしいものや大切なものはとっておきたいものだろう?」
「誰が?」
「それは君がよく知ってるんじゃないのか?」
「……サヨリ、か」
「可能性としては彼女が1番なんじゃないか?」
「なんで、あいつなんだ?」
「旅人、だからじゃないのかな。まぁ、彼女自身もこんなことになってるとは知らない
だろうが」
「なんなんだよ、そりゃ」
「そのうち、わかるさ」
「サヨリの奴もまだ生きてるのかよ」
「おそらく」
「ふん」
 客室内は険悪な雰囲気。ハツは居心地が悪い。

 私だけが何も知らない。2人は過去を共有している。

 ハツは怯えている。何も知らないということがこれほど怖いことなのか、とハツは思い
知る。不安で仕方がなく、外の景色に頼ろうにも、真っ暗。アリサワを見るのもなんだか
気が重く、カミカワに話しかけるのも気がひける。一分、一秒が長く感じる。このまま永
遠にこの室内に閉じ込められるように気がする。

 4

 散歩に行ってくる、とカミカワが客室を出て行ってからも、ハツはアリサワに話かけら
れないでいる。聞きたいことはたくさんあるのに、言葉が見つからない。最初の言葉が。
「君はやはり特別だったね、CGも成し得なかった彼の覚醒を成功させるなんて。俺の見
込んだとおりだ」
 ハツの気重な心内を見透かすような笑顔でアリサワがハツを見る。ハツはその時初めて
アリサワの目を見た。これまでは話すことで精一杯でそんな余裕はなかったからだその目
は、底の見えない色。本心が見えない。

 私はこんな目の人を信じてきたんだ……

 そして、ハツは初めて、アリサワのことを怖いを思う。
「あの人が鍵なんですか?」
「そうだよ。彼が、鍵だ。この世界で彼は唯一の人間なんだ。彼でないと、日本のバリア
は解くことができない。いや、違うな、彼だけがバリアの干渉を受けずに中に入れるんだ」
「どうして?」
「知りたいかい?」
「……ええ」
「昔の話をしよう」
 それからアリサワは過去にあった戦いのこと、箱舟事件のこと、日本での出来事を、ハ
ツに話した。その話しぶりは自分が経験した、という感じではなく、まるで本で読んだ知
識を披露するように、ハツには思えた。
「そして、彼はその時代の生き残りだ。しかも特別なね。彼は半分なんだよ。ヒトとハコ
ブネのね。日本のバリアはヒトしか通ることができない。半分であっても、彼はヒトの血
の方が濃いんだ。だからCGやわれわれは彼を覚醒する方法を探していた。そこで君を見
つけた」
「ちょっと待ってください。私たちだって、ヒトですよ」
 それを聞いてアリサワは大笑いする。その姿にハツは怯える。何か良くない出来事を見
ているようだ。
 不意に笑いをやめたアリサワは口の端にうっすらと笑いを浮かべて、ハツに言う。
「君たちはね、イエスとハコブネのハーフなんだよ」

 5

 食堂車のテーブルには皿が用意してあり、カミカワが席に着くと、皿の上にパンとスー
プが現れた。

 ここまでくるとホラー映画だな、こりゃ。

 カミカワはパンをちぎって口に運ぶ。懐かしい味、と思いたいところだが、昔ここで食
べたパンの味を思い出せない。思い出せるわけがない、とカミカワは思う。

 300年!そんなに俺は寝てたのか。俺はあそこで死んだんじゃなかったのか、あの野
郎と戦って。

 シベリア鉄道へ向かう車内で説明を受けた時、ショックというよりおおがかりなお笑い
コントに巻き込まれているような気がした。馬鹿話だ、とカミカワは思う。大笑いだ。た
だの冗談だろう。つまんねえ喜劇だ、こりゃ。

 その上、俺はあいつに何かをやらされようとしてる。何ができるっていうんだ。つーか
あいつは何者なんだ?姿はアリサワさんだけど。何か違うんだよな。別人みてーだ。携帯
もないし。ああ、あの子はもうずっと昔にいなくなっちゃったんだろうか……
 300年のあいだに何があった?あの町はなんなんだ?この世界はなんでこんなに荒廃
してるんだ?この世界で何が起ころうとしてんだ?どうして日本へ行くんだ?

 カミカワの頭の中を無数の疑問符が飛び回る。どれ1つ回答を導き出せない自分に腹立
ち、カミカワは両手でテーブルを叩く。

 日本、か。サヨリの奴もそこにいるのかな?……行くしかないか。そして確かめるしか
ないな。俺の役目を。

 カミカワはパンとスープを平らげる。そして席を立ち、背伸びをして、欠伸をする。頭
を切り換えていこう、とカミカワは思う。頭を硬くしてたら駄目だ。俺は軽い男だ。それ
でこそ道は開ける。
「さて、300年ぶりのオナニーでもして、寝るか」
 誰にともなく、そう言ってカミカワは食堂車を出る。









 続く




     


  10 日本


 1

「そろそろ尻の皮がずる剥けになるっす」
 ユウが不満を漏らす。もう何日も車に揺られているが、日本へ着く気配はない。どこ
まで行っても荒野、荒野、荒野。ユウに限らず車内のみんなが果てのないドライブにげ
んなりしていた。ただ、1人イエスを除いては。
「そろそろさ。中国も抜けて、もう韓国ってところだ」
 軽快にハンドルを切るイエス。その表情は明るい。記憶がほとんど戻ったことも楽し
いし、何より故郷の地に帰るという喜びがあった。

 なんだかんだで、俺のふるさとだ。

 イエスとは対照的に、ユキは浮かない顔。日本へ近づくごとに胸の中の不安が増して
いくからだ。何かが足りない、私たちはじゅうぶんではない、そういった感覚がユキの
胸のうちを暗くしていた。
 ユウはというと、とっとと着いてほしい、という単純な思いだけ。そして、早く彼女
に会いたいという願いのみ。寝ても覚めてもそればかり。約束を守ろうとする意志が先
行し、ヨウジやハツのことを思い返しもしない。
「とにかく、早く着いてほしいっすね。つまんないから」
 そう言ってユウは窓を開け、流れる風を、口を大きく開いて受け止める。

 2

 キリコはタバコをくわえてぷらぷらさせながら、手帳を読んでいる。もう数えられな
いほど、読んではいたが、それでもまだ、そこから何かを救い上げようと必死になって
いた。
「ねえ、旅人は2人いるの。でも旅人だと思われているキョウジって子は死んだんでし
ょ?」
 手帳を閉じて、イエスに話しかける。イエスは、ああ、と返事をする。
「でもね、『神話篇』によると、旅人は〈死〉をもっていないのよ」
「そうなのか、でもサヨリは死んだって言ってたぜ。わたしだけにはわかるの、とか言
ってたけど」
「そこなのよ。引っ掛かるのは。死ぬはずのない旅人が死ぬだなんて。それにキョウジ
って子が死んでから異常な力をサヨリって子は身につけている。なにか、引っ掛かるの」
「まぁ、俺だって死んだと思ってたら、こんなんだしなぁ」
「あんたのは転生って感じでしょ?」
「なんだか宗教じみてるな」
「でも旅人は死んだ」
 イエスはタバコに火をつけて、窓を開ける。吐き出される煙が細くなって窓の外に伸
びる。
「こう考えてみればいい。キョウジが死んでから、サヨリは旅人になった、と。どう?」
「どういうこと?」
「いいか?キョウジが死ぬまで、サヨリは普通の女の子だったんだ。でもいきなり力を
得た。たしか旅人は大きな力を持ってるんだよな。ほら3度目の世界で旅人は姿を隠し
たんだろ?〈大きな声の神〉も見つけられなかったって。それまで、旅人はいなかった
んだ」
「でも旅人がいないと世界は存続できないわ」
「う~ん。そう言われるとつらいな。ただ、さ。キョウジってのは不思議な男でさ。頭
が切れて、なんだか雰囲気のある男だったんだ。だからさ、キョウジは旅人だったと思
うんだ。そういう力を持ってたように思う。サヨリとは違う力だけどな。でもそれも力
だ。そして入れ違いでサヨリが旅人になった。別に2人いなくても世界は存続するんだ
ろう?」
「う~ん、前例がないんじゃないかしら」
「それだよ。だからさ。前例がない。何が起こるかわからない。だからさ、洪水の機能
が不完全になったんじゃないか?イレギュラーだよ」
「でも、キョウジって子は高校生だったんでしょ?それじゃ彼が生まれるまでは旅人は
世界にいなかったことになるんじゃない?」
「だからさ、隠れてたんだよ。そしてキョウジの代で覚醒した。旅人は人の中に隠れて
いたんだ」
「ん~、ご都合主義って感じだけど」
「後付ってのが好きだろう?学者って」
「好きじゃないわよ。そんな都合の良い考え方」
「じゃあ、あんたはどう思うんだ?」
「あなたの意見と同じかな」
「ほらみろ」
「でも嫌なの、こういう安易でオカルトな結論」
 イエスはタバコを窓の外に放り投げた。
「こんな世界にオカルトもくそもないだろう」
「だからタバコのポイ捨ては駄目だってば!」
「悪かったよ」

 3

 アリサワ、カミカワ、ハツはシベリア鉄道の終点に到着した。荒野にぽつんと真新し
い駅があるのはとてもシュールだ、とハツは思う。悪夢に出てくる風景みたい。
「さ、行こう。日本までもうすぐだ」
 アリサワは駅の近くに放置されてあったジープを指さす。
「あれで行くんだ」
「使えるのかよ」
「だから言ったろ、ここはすべて幽霊によって管理されてるんだ」
「その言い方、ぞっとしないね」
 3人は車に乗り込む。アリサワが日よけを開き鍵を取り出す。
「よくわかったね」
「ベタなところに鍵はあるもんだよ」
 アリサワがキーを差込みくるりと回すとエンジンが始動した。
「さ、出発だ」
 ジープはゆっくりと動き始めた。そして東へ向かう。

 駅が遠くなるのを見ながら、ハツはキリコたちのことを思い返している。

 みんな、怒ってるかしら。

 キリコの威勢の良い講釈や、ユキの笑い声、ユウのだるそうな話し方、ヨウジの軽い
感じ……すべては懐かしく思える。それも今は遠い。ハツはあの時みんなと行動を共に
していたらどうなっていただろう、と想像する。
「後悔してるのか?」
 アリサワがルームミラー越しにハツを見ている。その目は笑っているように見える。
「いえ。ただ、みんな元気かなって」
「ああ、キリコさんやユウくん、ハツさんは元気だろうよ。もしかしたら同じ方向を目
指しているかもな」
「ヨウジは?」
「さぁ、彼は死んでるかもしれないな。殺されたかも」
「誰に?」
 ハツは眉をしかめる。
「CGのボスにさ」
「どうして?」
「彼にCGの親玉を暗殺するようにお願いしたんだ。もちろん君の作戦を成功させるた
めの陽動みたいなもんだけどね」
「そんな」
「だって君は大切だからね」
 アリサワはにやりと笑う。
「私……」
「君が気に病むことはない。すべては世界を救うためだ。そうだろう?」
 ハツには答えられない。ハツは、今ここではっきりと、思う。アリサワに利用されて
いるのだ、と。だが、それは口に出せない。それを言ってしまったら、すべてが終わる
ような気がするからだ。こうなってもまだ、ハツは、特別でありたいと、願っている。

 4

 アリサワたちは日本に到着する。正しくは、日本のすぐそばに。目の前には緑が広が
っている。荒野と緑の境目がくっきりと見える。バリアってやつか、とカミカワは思う。
「どうだい、あそこから先はこの世界になって誰も侵入したものはいないんだ。我々が
近づけば、弾かれる」
 アリサワはジープを止めて、外に出る。300メートル先には生い茂る木々。
「で、俺にどうしろと?」
 カミカワが頭を掻きながら車を降りてくる。ハツはジープの側面に身をもたせて日本
を眺めている。
「中に入って、このバリアを、フィルタを解除してきてほしい」
「中は広いんだろ?」
「大丈夫、ジープを使えばいい」
「運転なんて久しぶりなんだけどね」
「やれるだろう?」
「やらないといけないんだろう?」
 カミカワとアリサワは睨みあう。表情を先に崩したのはアリサワ。満面の笑みで、言
う。
「君だって、知りたいんだろう?彼女たちのこと。俺だって知りたいんだ」
 カミカワはお手上げ、という風に両手を挙げてぶらぶらさせる。
「わかったよ。ここで待ってろ」
 カミカワはアリサワからキーを受け取ると運転席に乗り込む。
 ジープのエンジンが動き出すと、ハツは車体から離れる。ジープを境界へ近づいてい
く。ジープはなんなく境界を過ぎて、木々の中に消えていく。
「本当にバリアなんてあるんですか?」
 ハツの問いにアリサワは笑う。
「試してみるか?」
 ハツは肯いて境界へ近づく。ほんの数センチのところまで近づいて、ハツはおそるお
そる手を伸ばす。
 バシッ
 ハツの耳の奥に音が鳴り、体が後方へ弾き飛ばされる。わけのわからぬまま、土にま
みれたハツは、体を走る痛みに我慢できず、うめき声を上げる。
「イエスとハコブネのハーフでは入れないんだ。そういう仕掛けなんだよ」
 アリサワは、地面に倒れ呆然としているハツを見て、笑う。

 5

「なぁ、あんたどこまで歩くんだよ」
「もう少しよ」
「そう言ってもうずいぶん経つよ?腹も減ってるしさ。もう動けないよ」
「もう少しよ。あと少しで鉄道が見えてくるから」
「本当かよ」
 ヨウジは、外套を着込み、銃を1挺提げた女の後を歩いている。
 
 荒野で不貞寝したヨウジを起こしたのは彼女だった。最初はヨウジも、それから女も
互いの存在に声をなくすほど驚いた。ヨウジにしてみれば外界を女が放浪してるなんて
思いもしなかったし、女にしても、この世界に自分以外の人がいるとは思っていなかっ
たからだ。
「何してんだ?」
 これがヨウジの最初の言葉。
「故郷へ帰るのよ」
 これが女の言った「誰?」に続く2度目の言葉。
「それで、あなたは何をしてるの?」
「見りゃわかんでしょ。不貞寝してんだよ」
「あ、そう」
「日本に行くんだって?」
「ええ、そうよ」
「なんで?」
「それがわたしに必要なことだから」
「いいねぇ、生きる理由ってやつがあって!」
 ヨウジは自分が今みっともない顔をしていると、自分でわかっている。それでもこの
女を前にすると絡みたくて仕方がなくなってくる。
「俺なんか、もう、けちょんけちょん、よ。何にもない。仲間には見捨てられたし、小
便漏らしたし……あ~あ、死にてえよ」
 ははは、とヨウジは力なく笑う。女は無表情でヨウジを見つめている。
「なんだよ?何見てんだよ。そんなに俺が滑稽か?」
「別に。それじゃ、わたし急いでるから」
 女は会釈をして進み始める。ヨウジは顔を真っ赤にして、吠える。
「格好悪くてごめんよ!ださくてごめんよ!どうせ俺はジャンキーだよ!悪かったな弱
くて……くそぅくそぅ……俺だってなんとかしてえよ、ちくしょう……」
 女は足を止める。
「生きてるから、まだなんとかできるんじゃない?なんとかしたいことがあるんでしょ
う?」
 女はヨウジを見つめる。ヨウジは不意に涙を流す。
「なんで泣くの?」
「泣いてないし」
「あら、そう」
「日本に行くんだろ?」
「ええ」
「俺も行く。そこにみんな集まってくるはずなんだ。必ず」
「それじゃ、行きましょう」
「ああ」
 ヨウジは涙を拭いながらとぼとぼ歩きと、そして顔を上げて、女の後を追う。

「ほら、着いた。って良かったぁ、まだあったんだ。シベリア鉄道」
「なんだそりゃ」
「いや、確信がなかったのよね」
「そうなのかよ」
「なかったら、ずっと歩きだったわね」
 そう言って女はからからと笑う。
「ふざけんな」
 見ると、列車がちょうど駅のホームに入ってきた。
「さ、行きましょう。ここは食堂車もついてるから」
「え、マジで。それは助かる」
 2人は列車に乗り込み、食堂車へ向かう。女は食堂車に着くと外套を脱いだ。ヨウジ
は女の着ている制服に見覚えたがあった。
「アリサワと一緒だ、それと、あの男と」
「アリサワさん?あなた、アリサワさん知ってるの?」
「おいおい、俺の名前はヨウジだ。言わなかったか?」
「聞いてないわよ」
「お前の名前は?」
「サヨリ」
 そして、遠くで汽笛が鳴り、列車がゆっくりと動き始めた。






 続く




       

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