Neetel Inside ニートノベル
表紙

愛しの彼女は大魔王!?
憎(にっく)き魔王は愛しの彼女!?

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 二.憎(にっく)き魔王は愛しの彼女!?

まぶたを通して伝わる光が弱まってきたのを感じ、橙也がゆっくりと目を開くと、そこは見知らぬ空間だった。
「え…」
 周囲の様子が、まおの部屋と同等か、それ以上に非現実的に彼の目に映った。
 いや、まおの部屋の方が、まだ現実と理解出来るだけの要素を持っていたのに対し、今いるそこは、およそ現実的な要素の希薄な空間であった。
 黒い空間。しかし真っ暗ではない。なぜかは分からないが、照明がないのにもかかわらず、自分の身体は明かりの下で見ているようにはっきりと見える。
 けれど、服装はさっきまでのトレーナーではなく、真っ黒い格好をしていた。
 掌と足、それから首から上はむき出しのようだが、それ以外は肌に張り付く黒いダイバースーツのようなものに、ぴったりと覆われている。
 空間が黒いのは、壁や床の色が一面黒いせいだった。そして、その黒い壁を、ときおりぼんやりと光る緑色のラインが走っている。その軌道から、この部屋が半球状、ドームのような形をしていることが分かった。直径は六メートル程のようである。
 その部屋の中央に、橙也は立って(・・・)いた(・・)。
 自分は間違いなく、部屋であぐらをかいていたはずである。これはいったいどういうことなのか。
「ようこそいらっしゃいました」
「え?」
 そんな声が耳元で聞こえ、橙也は慌ててそちらを振り向いた。けれど、その先には誰もいない。
「こちらでございます」
 今度は正面から同じ声が聞こえたので、そちらに視線を戻すと、目の前一メートルのところに、さっきまではなかったものが浮かんでいた。
 白く光る球体。いや、光っているせいで輪郭がはっきりしないので、球体かどうかは分からない。とにかく白く光るものが急に現れたのである。大きさは二〇センチといったところだろうか。
「初めに、ユーザー登録をいたします。お名前を正確に発音してください」
 声は女性のものである。けれど、生身の女性のものではない。合成された音声のように、橙也には聞こえた。
「え、あの…?」
「『エ アノ』様でよろしいですか?」
「あ、いや、違います…!」
「初めに、ユーザー登録をいたします。お名前を正確に発音してください」
 今度は余計なことを言わないように、苗字と名前の間もしっかりと開けて口にした。
「柚代、橙也」
「『ユズシロ トウヤ』様でよろしいですか?」
「はい…」
「認証いたしました。ユズシロトウヤ様。ようこそいらっしゃいました」
 とりあえずそう言われ、「どうも…」なんて言いながら頷いてはみたものの、この状況が全く分からない。言葉が通じるようなので、目の前の光に試しに質問をしてみることにした。
「あの、ここは?」
「スタンバイルームでございます」
「はぁ…、ってそうじゃなくて、えーと、どうして僕はここにいるの?」
「トウヤ様が、プログラムを起動されたから、でございます」
「プログラムって、なんの?」
「まおお嬢様のための婚約者選別プログラム、ゲットアスレイブでございます」
「は?」
 淡々と言われた言葉だったが、その内容、特に前半は、橙也にとって流して聞けるものではなかった。
「婚約者、なんだって?」
「婚約者選別プログラム、ゲットアスレイブでございます」
 あるいは、単語の意味をすべて理解していれば、そのプログラム名にもいささか反感を覚えたかもしれないが、幸い、かどうか、橙也の意識はプログラム名の方には向かなかったようである。
「えっと、つまり、大善寺さんの婚約者になる、ってこと?」
「トウヤさまのおっしゃる「大善寺さん」が、まおお嬢様のことを指していらっしゃるのでしたら、そのとおりでございます」
(い、いきなり婚約者って言われても…)
「ただし、このプログラムをクリア出来たら、でございますが」
「く、クリア?」
「はい」
「クリアっていうと、その、ゲームかなにか、ってこと?」
「ゲームかなにか、ではなく、ゲームでございます」
「えええ…」
 なるほど、まおの言っていた「頑張って」とはこういうことなのか。
 橙也は大きくため息をついた。
 というのも、彼はテレビゲームをほとんどやったことが無いのである。父親の古いゲーム機でプレイした、国民的修道女姉妹が活躍するアクションゲームの第一作目、「スーパーマリアシスターズ」の一面をクリアできず、それ以来ゲームには触れたことが無い。
 幼なじみの家で、彼女のプレイを眺めた(眺めさせられた、の方が実は正しい)ことは何度かあったが、そのときもただ見ているだけだった。
 それ以来、橙也はゲームどころか、コンピュータと名のつくものにほとんど触れたことがない。彼の年代にしてはなかなか珍しいタイプの少年であった。
けれど、ここまで聞いて、さすがに橙也にもこの状況が分かりかけてきた。
(つまり、さっきのメガネはこの空間を見せるための機械で、この映像は、コンピュータで作られたもの、ってことか)
 改めてあたりを見渡すと、マリアシスターズのゲーム画面とはずいぶんと違う。今の技術はすごいんだなぁなんてことを考えていた橙也だったが、そこでふと、疑問を抱いた。
「あのさ、僕以外にも、ゲームに参加してる人がいるの?」
「はい、その通りでございます」
「それじゃあその、ゲームで婚約者を決めるってのは、どうなの?」
「どうなの?と仰いますと?」
 質問は具体的でなければならないらしい。
「えーっと、それは、大善寺さんが決めたことなの?」
「トウヤ様のおっしゃる「大善寺さん」が、まおお嬢様のことを指していらっしゃるのでしたら、違います」
「それじゃあ、誰?」
「大善寺剛三郎様でございます」
 なんとなくその名前に聞き覚えがあるような、引っかかるものを感じた。
「それは、大善寺さんのお父さん?」
「トウヤ様のおっしゃる「大善寺さん」が、まおお嬢様のことを指していらっしゃるのでしたら、その通りでございます」
 それを聞いて、橙也は小さく俯いた。
だんだん分かってきた。要はこのなにかよく分からないゲームをクリアしないことには、まおと付き合うことはできないらしい。
けれど、同時に橙也は、まおの言った「わたしには、答えるための権利がない」という言葉を思い出し、憤りを感じていた。
「ねえ、そういうのって、普通本人の意思が尊重されるものなんじゃないの?」
 普段の彼には珍しいくらいに、強めの口調だった。
「それは私には判断致しかねます」
 この答えに、橙也は幾分冷静になった。恐らくこの光はコンピュータのプログラムだろう。確かに、コンピュータ相手にこんなことを言っても仕方がないのかもしれない、と思いなおす。
「とにかく、このゲームをクリアすれば、だいぜ…、まおさんと付き合えるんだね?」
「付き合う、の定義にもよりますが、おおよそトウヤさまの仰る通りかと思われます」
「分かった。それじゃあ、やるよ」
 橙也の目には、普段の彼にはない光が宿っていた。
 好きになった相手を、こんなゲームなんかで縛らせはしない。
 自分がまおを救う。
橙也の脳内には、囚われの姫を救おうと、白馬に乗って颯爽と駆け抜ける自分の姿があった。
これで意外にロマンチストなところのある橙也である。
「それでは、チュートリアルフィールドにご案内いたします」
「チュートリアルフィール―」
 疑問を完全に口にする前に、再び視界が強烈な光に照らされて真っ白になる。
目を開けると、まず高く上った陽が目に入った。正午くらい、だろうか。
次にゆっくりと辺りを見渡す。橙也が立っているのは、どこかの町の、広場のような場所であった。
「ここは…?」
 けれど、その町並みはこれまた現実のものではなかった。
足元は舗装されていない道。砂である。その周囲には、石造りやレンガ造りの壁が並ぶ。遠く―太陽の向きから判断するに町の北側だろうか―には、高くそびえる鐘つき台も見えた。
辺りを歩く人たちの格好は、布に穴をあけただけのものをかぶって、腰のあたりを紐で止めているものだったり、はたまた肩口に銀色の装飾を施した、全身をすっぽり包むような紺のマントだったり、中にはがしゃんがしゃん、と音を立てて歩く、金属の鎧を身にまとった者もいる。
「ゲットアスレイブの世界にようこそ」
 声のしたほうに振り向くと、さっきの光が浮いていた。
「これが、ゲーム?」
「全てコンピュータグラフィックでございます」
「へええ」
 あたりを見回しても、そうとは思えない。まるで、そう、本当に中世の世界に来たようである。
 和訳された海外のファンタジー小説をよく読む橙也にとって、ここはまさに、自分の想像から抜け出てきたような世界だった。
「信じられないな」
「トウヤさまの体も、ここではコンピュータグラフィックで再現されております」
「え、うそ?」
 言われて、手を眺めてみた。
「あ」
 確かに、指のしわ一本一本や、毛などは表現されていなかった。爪の先をよく目を凝らして見ると、先端がわずかにかくかくしていることにも気がついた。
「でもさ、この、触った感じは?」
 指を擦り合わせたり、両手を叩いてみたり、体に触れてみたり、それから念のため、髪の毛と眉毛はあるのかも確かめてみる。どれをしても、確かに体に触れる感触があった。
「全てトウヤ様の脳波を読み取って、そのように感じるようにフィードバックしております。また、運動に関しても、通常トウヤ様が行っていることであれば、現実の体と同様に動かすことができます」
 確かに、特に手を動かそうだとか、周りを見ようということを意図的に命令していたわけではない。ごく自然に、体はそのように動いた。
「えっと、それじゃあ僕の身体は、あ、現実の方の身体は、今どうなっているの?」
「開始された状態のままでございます」
 すると、部屋であぐらをかいたまま、この映像を見ているということか。
「すごいね」
「午後九時まで、もう少々時間がございます。ゲームの説明に移りましょう」
「ねぇ、九時になると、どうなるの?」
 まおも、柳も同じようなことを言っていた。
「ゲットアスレイブは、日曜日を除いて、毎晩九時に、全ユーザーに接続権限が発生いたします」
「えっと…、どういうこと?」
 橙也でなければ、この説明を聞いただけで理解できただろう。
「簡潔に申しますと、九時からが本番のスタートということでございます」
「あ、ああ、それならなんとなく分かった」
「引き続き、説明を行ってよろしいですか」
「あ、うん」
「視界左下をご覧ください」
 言われて、橙也は目線をそちらに動かした。
「あれ」
 ほんの少し前まではなかったはずの、横方向に細長い透明のフィルターのようなものが、そこにかかっていた。
 どんなに首を動かしても、視界の同じ位置に、それは付いてくる。けれど、特に妨げになるほどの大きさではない。
「そちらは、ボイスウインドウでございます」
 これにも質問しそうになったが、そのたびに進行が遅くなることが分かったので、ひとまず最後まで説明を聞いてから、まとめて質問をすることにした。
「それでは、私がユーザーキャラクターとして発言を行ってみます。ウインドウにご注目ください」
 橙也は再度視線をそちらに動かした。
「トウヤさん、こんにちは」
 光がそう言うと、さっきまで何も映っていなかった場所に、《アユガイ:トウヤさん、こんにちは》と表示された。
「おー、なるほど」
「こちらは、トウヤ様の半径二〇メートル以内にいるユーザーの発言をすべて記録いたします。これは、他のユーザーに対しても同様です。たとえどんなに小声で話をしても、半径二〇メートル以内であれば記録されます。お気をつけください」
「え、でも、あの人たちは?」
 橙也は彼の先五メートルほどのところで立ち話をする男女を指差した。
「あれはノンプレイヤーキャラクターでございます」
「……」
 質問をするかどうか迷った。が、光は沈黙を疑問と取ったのか、丁寧に答えを返した。
「ノンプレイヤーキャラクターというのは、ユーザーがいない、コンピュータプログラムに従って動くキャラクターのことでございます」
「あ、ありがとう…」
「失礼ですが、トウヤ様は、RPGというジャンルのゲームをプレイした経験はおありですか?」
 その響きには聞き覚えがあった。
「ああ、えっとたしか、ドル箱クエスト」
 彼の幼なじみがプレイしていたゲームである。
「最後のボスが、『地球の半分はすでに私のものだ!』って言うんだよね」
 なぜかその部分が印象に残っているのは、そのシーンをクリアした直後、幼なじみにドル箱クエストごっこを強要されたからである。
 配役は勇者:橙也、ボス:幼なじみ。勝敗は言わずもがなであった。
「そちらは一九八〇年発売のドル箱クエスト―現在では他のシリーズ作品と区別するためにドル箱クエストⅠ(ワン)と呼ばれますが、その最終ボス、ロナルガンのセリフでございます」
「く、詳しいね…」
「ありがとうございます。ちなみに現在ドル箱クエストの最新作はドル箱クエストⅧ(エイト)ですが、こちらは最終ボス、オ・ヴァーマと融和政策を結ぶのが最終目的となっております」
「なんか、時代の変化を感じる…」
「話が逸れてしまいました。その通り、RPGの代表的な作品の一つとして、ドル箱クエスト、略称ドルクエが挙げられます。こちらで例えますと、その中に登場する町人、村人等の役割が、彼らと同等のものであると言えます」
「ああ、クリアに必要な情報をくれたりするんだ?」
「その通りでございます」
 ふーん、と橙也は頷いた。
「それではここまでで、何か質問はございますか」
「えーと、いや、今のところは大丈夫」
 教えてもらったことを思い返し、今のところ特に難解な部分はないと考えた。
「それでは、本プログラムの目玉である機能について、ご紹介いたします」
「目玉?」
「はい、その名も、『ヒロイックボイスエフェクト』でございます」
 心の中で一度復唱する。
「『ヒロイックボイスエフェクト』とは、本プログラムの雰囲気をより深く味わうための機能です。視界の右下をご覧ください」
 そこには、緑色の文字で小さく「OFF」と書かれていた。
「まずはそちらをONにしていただきます。OFFと表示された部分を、二秒以上ご覧ください」
 言われた通りにすると、緑色の文字が赤く変化した。
「赤くなった」
「では、引き続きその表示を見たまま、ONと思考してください」
 その通りに思考を試みると、すぐに表示はONに変化した。文字は赤いままである。
「変わったよ」
「それでは、今から視界中央に表示する言葉を、読み上げて下さい」
 目の前に表示されたのは、「俺が、お前を倒す!」であった。
「これを、読むの…?」
「はい」
 ビックリマークまで付いているが、こんな道の真ん中で、しかもこんな恥ずかしいセリフを叫べるわけがないじゃないか。そう考え、橙也は適当に口にすることにした。
「えっと、お―」
 次の瞬間、彼の意志に反して、その言葉は腹の底から絞り出したような大声で彼の口から飛び出した。
「―れがぁ、お前を、倒ぉぉすぅっ!!」
檜山○之もビックリ顔負けの勇者ボイスである。
橙也は両手で口を押さえ、隣に浮いた光に視線を向けた。
「ちょっとちょっと、どうなってるんだよっ!」
 こころなしか、このセリフもどこか芝居がかっているように、少なくとも普段の自分だったらこんな風には発声しないだろうという調子で聞こえた。
「こちらが、ヒロイックボイスエフェクトでございます。そして申し訳ございません、午後九時を過ぎましたので、メインフィールドに移行いたしました」
「は、メインフィールド?」
 橙也は正面から攻撃的な視線を感じ、そちらに顔を向けた。いつの間に現れたのか、彼の一メートル程前方に、重そうな甲冑(かっちゅう)と分厚い兜に身を包んだ男(顔は見えないが恐らく)が立っていた。
「こ、この人は、えーっと、ノンプレイヤーキャラクター?」
「いいえ、ユーザーキャラクターでございます」
 光がそう言い終わるのとほぼ同時に、正面の甲冑男が声を発した。
「てめぇ、そんな薄っぺらい装備で俺と張り合おうってのか、あ?」
「へ!?」
 言われて身体を見下ろすと、橙也の格好は先ほどの空間で見につけていた、真っ黒なものではなかった。
 なぜさっき身体を見回したときに気がつかなかったのか。
今彼が身につけているのは、薄い布で乱雑に作られたハーフパンツのようなもの、同じくタンクトップのようなもの、そして、サンダル。以上。
「いや、これは違うんだ…!」
 またしてもどこか芝居がかったような自分の声に、どうやら発言は全て大げさな言い回しに変更されるらしいことを理解したが、それでどうなるわけでもない。
(逃げよう…)
そう考え、後ずさる橙也の視界中央に、いつの間にか「かかってこいよド三流!」の文字。
 「勘弁してください」と言おうとした際の「か」に、ヒロイックボイスエフェクトが作動した。
「かかってこいやぁ!ド、三流ぅっ!」
 傍目には清々しいくらいに言い終えて、橙也が見たのは、兜越しにも血管が浮き上がるのが見て取れるような怒気。
 周囲に現れた、先ほどまではいなかった人々も、今の声で二人に視線を向けていた。
「ほぅ…」
 しゃらり、と音をさせながら、甲冑男は背中に差していた大ぶりの両刃の剣を抜き取った。体の前でそれを両手に握ると、鋼の手甲が触れ合い、金属音が響く。
「今日は、ゲームオーバーだな」
「ち、ちがうんだぁぁぁああああ!」
 これまた芝居がかった口調で叫ぶと、橙也はくるりと振り返り走り出した。
「待てやコラァっ!」
 がしゃんがしゃん、という重い音が追ってくるのが聞こえ、橙也はさらにスピードを上げる。
 光が同じスピードで橙也の顔のすぐ脇についた。
「初回プレイからあそこまで勇敢なセリフを口にする方には、初めてお目にかかりました」
「君が言わせたんだろっ!」
「確かに、私のプログラムには、ゲットアスレイブの世界をより盛り上げるために、その場の状況に適したセリフが七万語の中から、自動的に表示される機能も備わっております。しかし、実際にお読みになったのはトウヤ様です」
「あれを言おうとしたんじゃないんだってぇ!」
 そんなことを言っているうちに、気がつけば背後の重い音は幾分か遠ざかっていた。走りながら背後を見ると、男は依然追っては来ているものの、その距離は一〇メートルほどに開いている。
 重い鎧があだになったらしい。足取りにもどこか疲労が見て取れた。ほどなくして、男は足を止めた。
「た―」
 ついつい口にして、しまったと思ったときには後の祭り。
「―らたら走ってんじゃねぇよ、ドンガメェっ!」
 「助かった…」の「た」であった。
 膝についた手を持ち上げ、再び走り出す甲冑男。
「だからどうして余計なことするんだよぉっ!」
「あくまで自動的に表示されるだけであって、実際にお読みになったのはトウヤ様です」
「わかった、もうそれは分かったから、どうにかしてくれよっ!」
「どうにかする、と言うのが、ヒロイックボイスエフェクトを解除する、という意味でしたら、先ほどの手順を逆に行うことで、機能を解除することができます」
「それを先に言って!」
 当然車など走らないのだろう。幅四メートル少々しかないその狭い道を、人を避けて走りながら、橙也は視線を右下、赤でONと書かれた部分に向ける。ほどなくして色が緑に変わり、橙也は頭の中で「OFF、OFF、OFF、OFF、OFF!」と連呼した。
 表示がOFFに変わる。ひとまずはこれで安心である。
「なかなかタフですね」
 そう言う光に応じる。
「え、そ、そうかな」
「いえ、今のはトウヤ様に対して申し上げたわけではございません」
「へ?」
 ようやく、背後に金属音が近づいていることに気がついて、橙也は再び走りながら背後を振り返った。
「待ちやがれゴルァァァァァ!」
「うわあああああああ!!」
 五メートルほどの距離に、男は迫っていた。
 橙也もスピードを上げる。けれど、ここまで二〇〇メートル以上をほとんど全力で駆け抜け、いい加減に息も上がりかけていた。
「なんで、体力まで、再現されてるんだよ…」
「最新技術でございますから」
「分かった…。とにかく、何とか、してくれ、よ…」
 息も絶え絶えにそう言うも、対する光の答えは、橙也にとっての助けにはならなそうであった。
「何とかする、と言うのが、現状を打開する方法をトウヤ様に提案する、という意味でしたら、残念ながらそれはできません。私の役割はあくまで機能面におけるトウヤ様のナビゲートであり、ゲーム内での物理的干渉、攻略法の提供等、トウヤ様が他ユーザーに対して有利になるサポートを行う権限はございません」
「つまり、自分で、切りぬけろって、こと?」
「簡潔に申し上げれば、その通りでございます」
「うおおおおおおおおっ!」
 橙也は自分に気合を入れるために叫んだ。わずかにスピードが上がり、もうほんの数メートルのところにいた甲冑男との距離が再び開いた。
 左右を見渡すと、石造りの家と家との隙間、数十センチほどのそれが目に入り、橙也は思い切ってそこに滑り込んだ。
 身体を横にして、進む。
がちゃん、と激しい音がして、そちらを見ると、予想通り、甲冑男が隙間に引っ掛かっているところだった。
「待ち、やが、れぇ!」
「ホントに、ごめん、なさいぃ…」
 お互いに息を切らしながらそんなことを言い合って、何とか橙也は反対側の通りに抜け出ることが出来た。
 今走ってきた通りよりもさらに細い、いかにも裏通りという様子である。陽は差しておらず、人も見当たらない。
 近くにあった大きなタルの陰に、橙也は身を潜ませた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 とにかく酸素を取り込もうと、首を上向きにして呼吸を繰り返した。次第に鼓動が収まってくるのが分かる。
「お疲れ様でした」
 淡々とそう言う光を、橙也は睨みつけた。
「誰のせいだと思ってるんだよ…」
「ヒロイックボイスエフェクトに原因があるとお考えでしたら、先ほども申し上げました通り―」
「分かった、僕が悪かった」
 また長くなりそうな彼女?の発言を遮って、橙也は頭を下げた。
「分かっていただけたようでなによりでございます」
 ようやく鼓動が落ち着いたところで、橙也は辺りを見渡してみる。タルが置かれていたのは道の脇、民家と思われる石造りの家の、ちょうど壁が窪んだ部分である。ゆっくりと頭を出して、左右を覗いてみると、誰も見当たらなかった。
「とりあえず、逃げきったかな…」
 再びを身を隠して、ようやく橙也は大きく息をはいた。
「それでは、今のうちに、本プログラムの目的をご説明いたしましょう」
 そういえば、と橙也は思った。機能の説明はさんざんあったものの、肝心のゲームの目的については、いっさい知らされていなかったのである。
 橙也は再びタルの陰に身を潜ませると、光の話に耳を傾けることにした。
「本プログラムの最終目的は、この世界を支配しようと企む大魔王を討伐することです」
「だ、大魔王?」
「ただし、最終ステージである大魔王の居城に入るためには、とある三つのアイテムを集める必要があります。その名称、入手法に関しては、私からお教えすることは出来ません。トウヤ様自身で、情報を集めていただく必要がございます。
 また、こちらのアイテムには復活期間が設けられており、例えばAというユーザーが、このうちの一つのアイテムを手に入れたとします。すると、そのアイテムは翌日を含めた三日の間は復活いたしません。次に取得可能となるのは四日後になりますので、お気を付けください」
 後半はすでにほとんど耳には入っていなかった。
 大魔王を倒して、囚われのお姫様を助け出すなんて、まさに自分が思い描いた通りのストーリーじゃないか!
 そんな若者的興奮が、彼の胸中には渦巻いていたのである。
「以上で説明はすべて終了となりますが、なにかご質問はございますか」
「特にないです!」
 すでに彼の脳内では、邪悪な魔王を倒した自分に、美しい白いドレス姿のまおが、「柚代くん、ありがとう…」なんて言いながらしなだれかかっているシーンが再生されていた。
「それでは最後になりますが、これからトウヤ様と行動を共にさせていただきます、私のグラフィックを設定していただきます」
 ほとんどその内容を聞いていなかった橙也だったが、急に視界を埋め尽くしたたくさんの文字に、小さく「うわ」と声を上げた。
「これは?」
「設定可能な私のグラフィックタイプ一覧です」
「え、こんなにあるの?」
左上から順に視線を動かしてみる。妖精(フェアリー)、魔法使い(ウィッチ)、踊り子(ダンサー)といった、いかにもファンタジー色の強いものから、次第に看護師(ナース)、給仕(メイド)、しまいには兎(バニー)耳娘(ガール)なんて、なぜ無理やり読み方を振る、と突っ込みたくなるようなおかしなものまで並んでいた。
「様々な趣味嗜好に対応するために、一〇〇種類のグラフィックが用意されています」
「はぁ…」
 様々な趣味嗜好と言われても、橙也は残念ながらそちらの方面にはいささか疎い。結局決めかねて、こう口にした。
「その、お任せは出来るの?」
「はい、それではこちらなどいかがでしょうか」
 光が言うと、多数並んだ文字の中から、一つがピックアップされ、大きく表示された。
 そこには「女子(スクール)○(ガー)生(ル)(後輩(ヤング))」と書かれていた。
 なぜ「○」になっているのか、とか、だからなんで無理やり読みを振るのか、とか、突っ込みたいところはあったが、とにかくすぐにでもまおを救うための旅に出たかった橙也は、「じゃあ、それで」と、投げやりに返事をした。
「かしこまりました」
 そう言うと、光は収束を始めた。
「え…」
 周囲を覆う光が次第に弱まり、その中央に人の形が形成されていく。あるいは光が強くて見えなかっただけで、元からそこにあったのかもしれない。
 そのまま五秒ほど眺めているうちに光は完全に消えて、代わりにそこには、人形のようなものが浮かんでいた。
 女の子である。黒いブレザーと、赤いチェックの入った短いスカートを履いた、ショートカットの女の子。よく見ればその服装は、彼の高校指定の制服姿であった。
 ただし、彼女のサイズは通常の人間のそれではない。身長は一五センチほど。見る人が見れば、そういうフィギュアだと認識するのではないだろうか。
「あの…」
 橙也が声をかけると、女の子はぱちっ、目を開いた。そして満面の笑みを作ったかと思うと、次の瞬間、彼女は橙也の眼前にびゅん、と迫り、黄色い声を上げた。
「トウヤ先パイっ、ありがとうございますっ!」
「え、せ、先パイ?」
「この後輩タイプ、あんまり選択してくれる人がいなかったもんっすから!」
「は、はぁ…」
 上機嫌にそう言いながら、くるくる目の前を飛び回る彼女を、橙也は眺めた。
「君はさっきまでのその、光ってた君とは違うの?」
 すると彼女は空中でぴたっ、と静止し、橙也に身体を向きなおした。
「いいえ、一緒っすよ。これが、今の私のグラフィックタイプっす」
 確かに、声には先ほどまでの面影が残っているものの、機械的だったしゃべり方と比べると、どうにも違和感を拭いきれない。
 大体、グラフィックどころか、性格まで変わっている。
「おっとぅ、そう言えば、まだ自己紹介してなかったっすよね」
 そう言って、彼女は右手を顔の上に運んでしゅたっ、と敬礼のポーズを作ると、
「わたし、プログラムナビゲーターのアユガイっす。以後よろしくっす!」
 ウインクをしながらそう言った。
「う、うん、こちらこそ」
 そう言えば、その名前にはどこか聞き覚えがあった。たしか、あれは…。
「ああ、ボイスウインドウ」
 思い出して小さくつぶやいた。
 そう、「聞き覚え」ではなく「見覚え」だったが、まだ彼女が光だったときに、確かにボイスウインドウに、「アユガイ」と表示されていたのを思い出し、あれがこの子の名前だったのかと、橙也は納得する。
「なんっすか?」
 それを質問と取ったのだろうか。アユガイが顔を、というか顔を含めて体ごと寄せて、首を傾げる。
彼女のその仕草が可愛らしくて、不覚にも顔を赤らめてしまう橙也である。
「ああ、いや、今のは違うんだ。えっと、アユガイ、さん?」
 相手はプログラムなのだが、こうも人の形を、それも、客観的に可愛いと評価できる女の子の外見をされていると、どうにも気になる。橙也は上半身を後ろに引きながら尋ねた。
「トウヤ先パイは先パイなんっすから、アユガイ、でいいっすよ」
「じゃ、じゃあ、アユガイ…」
「はい、なんっすか?」
「ちょっと気になったんだけど」
「はい?」
 そう、先ほどからまだなにか引っかかるものがあった。
「ナビゲータのアユガイ、って、どっかで聞き覚えが―」
「おー、いけないっす!そんなこんなでもう九時二〇分っすよ!」
 しかし、橙也の言葉を無理やり遮るようにして、アユガイが叫んだ。
「え、え?」
「プログラムは一〇時までっすからね。今日中にちょっとはレベル上げときましょう!」
「き、聞いてないぞ!」
 これには目を見開く橙也だったが、
「すいませんっす…以後、気をつけるっす…」
 俯いてしょんぼりそう言うアユガイを、それ以上追及することが出来ず、ついでになにやら頭に引っ掛かっていたことも忘れて、しまいには「分かったよ…。とりあえず行こう」と口にしていた。
 これに彼女は顔を上げてぱっ、と目を輝かせると、
「先パイはやっぱり、優しいっす!」
 そう言って橙也に頬ずりをし始める。
「ちょっと、ちょっと!」
「もうー、照れ屋さんなんだから、先パイっ!」
 たまらずタルの陰から飛び出す橙也であった。
「と、とりあえず、町の外に出ればいいんだよね…?」
 赤面を隠すように、辺りを見渡すふりをして、アユガイから顔をそらしながらそう問いかける。
「そうっす!まずは町の近くの弱いモンスターを倒してステップアップ!していきましょうっ!」
「それは、攻略法の提供にはならないわけ?」
 彼女を横目に見ながらそう聞くと、アユガイは少し考えて、「まぁ、許容範囲じゃないっすか?」と答えた。
 なんだか、先ほどまでと比べるとアバウトになったような気もするが、いいのだろうか。
隠れていた場所を抜け出して、とりあえず左に進んでみることにする。
が、一歩目を踏み出したところで、背後にかつ、という音が聞こえ、橙也はゆっくりとそちらを振り向いた。
 立っていたのは、橙也と同じような格好をした男。が、体形は彼とは似ても似つかず、筋骨隆々であった。頭はスキンヘッドにしており、凄味を感じさせる風貌である。
「あ、あの…」
 男の視線が敵意を孕んだものであることに気がついて、橙也は男に声をかけた。
「見ーっけ」
「も、もしかして…」
 返事の代わりに、男は右手に持っていた剣を地面にこすらせた。じゃり、という音が鳴る。
 ボイスウインドウに目を移すと、今の彼のセリフと、さっきの鎧の男のセリフの発信者が一致した。「リュウジ」そう書かれている。
 橙也は振り返り、走りだした。
「待てやぁっ!」
「なんでぇっ!」
 後ろ向きに、足を組みながら橙也のわずかに前方を飛ぶアユガイが、閃いたというように目を見開いた。
「あ、きっとあの人、先パイの声がウインドウに入る辺りをぐるぐるしてたんっすよ」
 そう言われて思い出す。どんなに小声で話しても、半径二〇メートル以内にいれば記録される。
「なんでそんな機能付いてるんだよぉっ!」
「そんなこと私に言われても分かんないっすよ。にしても、しつっこい男っすねぇ」
 すでに分かっていることだが、アユガイに助けを求めることは出来ない。自力で逃げ切るしかないのだが、どうやら向こうは身体つきを見るに、それなりに鍛えているらしい。
加えて、鎧を脱いだのは大きいようだった。
 狭い道だが、障害物はなく、純粋な走力と持久力の勝負になる。
 距離は離れるどころか、徐々に縮まってきた。
(もうダメだっ…!)
 そう思ったときだった。ほんの三〇メートル程先に、陽が差しているのが見えた。隙間から人が歩いているのも見える。どうやら大きな通りに出るらしい。
(あそこまで行けば、まけるかもしれない…)
 そう考えて、橙也はもう一度、力を振り絞った。スピードが上がる。直後、背後でがきん、という激しい金属音。
 小さく振り返ると、男が剣を地面に振りおろしているところだった。橙也を睨みながらそれを持ち上げて、舌打ちをするのが聞こえた。
 背筋がぞっ、となり、橙也はさらにスピードを上げた。幾分開いた今がチャンスである。通りに出る前に、出来るだけ距離を稼ぎたい。
 しかし、残り数メートルで通りに出るという状況で、橙也の前に影が割り込んだ。
「っ!ごめんなさい、どいてーっ!」
 そう叫ぶと、影は振り向いて、「おっと」と言いながら道を開けてくれた。が、橙也は通りとの石の段差につまづいて、思いっきり前に転倒してしまった。
「先パイっ!」
 アユガイの声が耳元に聞こえた。
 足の方向から、しゃん、と剣を抜く音がした。
 やられる…。
 だが、次に聞こえてきたのは、どこかで聞いた覚えのある声だった。
「わりぃ、見逃してやってもらえねーかな?」
「あ、ふざけんなよ?」
 うつ伏せた身体を戻して上半身を起こすと、銀色の剣に陽が反射して輝くのが見えた。
それは、橙也に背中を向けた男が抜いたものらしい。リュウジと、剣で道をふさいだその男とが、何やら言い合っているようであった。
「あと何分?……サンキュー」
 背中を向けた男は、顔を左に向けて、一人言のようにそう呟いた。
「三五分だって。この時間を有意義に使う?それとも、その格好で、俺とやり合う?」
 最後は冷たい響きで、男はリュウジに問いかけた。
「ぐっ…」
「ね、お互い賢く行こうよ」
 今度はうって変わってフランクな様子で男がそう言うと、リュウジは大きく舌打ちをして、橙也を睨みつけ、今来た道を戻って行った。
「あ、あの、ありがとうございます」
 立ち上がり、礼を言う。が、彼の返答はいささか橙也にとっては困る内容であった。
「ただじゃねーよ?二〇〇〇ゴールド」
 その響きから、彼がお金のことを言っているのだということは橙也にも理解できた。
「え、えっと、まだ僕始めたばっかりで、お金は全く、その…」
 慎重に、男の背中に向かってそう告げる。
無言。
 これはまたまずいことになりそうだと、橙也が様子をうかがっていると、急に目の前の男は大声で笑い出した。
「あっはっはっはっはっは!!」
「あ、あのぅ…」
「ボイスウインドウ」
 男はまだ笑いながらそう言う。
橙也はウインドウに目を移した。
そこに書かれていた名前を見、橙也は一瞬考えて、彼の背中に向かって叫んだ。
「か、金(かね)治(はる)!?」
 そう呼ばれ、彼は一メートルほどの細身の剣を背中に収めると、くるり、と振り返る。
「よっ!」
 右手を上げた男は、格好こそ普段の彼とは異なるものの、そのつんつん頭と人のよさそうな笑い顔は、紛れもなく、橙也のよく知る人物だった。
「お前がいるとは思わなかったよ、橙也」
そう言って瀬良金治(せらかねはる)は、にかっ、と笑顔を作って見せた。

     


 道の端、手近なところにあった段差に腰を下ろすと、橙也は金治の格好を眺めた。
ところどころに十字の意匠の刺繍が施された、やや厚手の生地で出来た白い服。神聖なものであるという印象を抱かせる。だが、それだけではなく、外部に露出する部分からは、鎖を編んだようなものが顔を出していた。恐らく打撃を受け流すための配慮だろう。動くとときどきじゃらり、と音がした。
 腕には厚手の手袋。足元も、長めのブーツで覆われており、橙也の格好よりもずっと頼もしい姿に見える。
 金治が腰を下ろすのを待って、橙也は彼に礼を言った。
「ありがとう、助かったよ」
「なに、気にすんなって」
 彼はそう言うと、また笑った。
 瀬良金治は小学校時代からの友人である。学年は一つ上だが、特にそうしたことを気にせず付き合える相手であった。
 金治が高校に入ってからは機会は減ったものの、彼と、もう一人の幼なじみを交えて三人で出かけることもよくある。
「ところで―」
 金治が呟く。
「―いや、なんでここにいるのかってのも、分かり切ってるしなぁ…」
「ってことは、金治も?」
 橙也が顔を覗き込むと、こんどは苦笑いを浮かべた。
「ああ、まおに告白した」
 胸がどくん、と高く鳴った。
「金治も、ってことは、お前も、だよな?」
「う、うん」
 小さく頷くと、金治は「だよなぁ~」と言いながら寝転がった。
「なぁアユガイ、大魔王を倒したやつが、クリアなんだろ」
 そのままの姿勢で、彼はアユガイに声をかけた。が、彼女は答えない。
 顔の脇に浮かぶ彼女に、橙也は言った。
「アユガイ、呼んでるよ?」
「あー、違うっす、あれは、カネハル先パイについてるアユガイに言ってるんっすよ」
「え?」
 ほぼ同時に、金治は顔だけを動かして橙也を見た。
「いや、違うよ。俺のアユガイに言ったの」
「どういうこと?」
 この疑問は、金治に対して。
「お前、聞いてねーの?アユガイ、説明してやってくれよ」
 今度は、橙也の隣にいるアユガイに対してだったらしい。
「はいっす。各ユーザーには一人に一体、私と全くおんなじプログラムがついてるんっすよ。ただし、それはその人にしか見えないし、声も聞こえないんっす」
「説明、終わった?」
 人差し指を立てながら自慢げに語るアユガイに「へえ」と相槌を打ち、金治に向かって頷いた。
「ってことは、金治にはこのアユガイは見えないんだ?」
 顔の横にいるアユガイを指差すと、金治は「ああ」と言った。
「お前にも見えないだろ?」
 金治が空中に手を伸ばし、親指と人差し指で何かを掴む動きをした。
 その手を橙也の方に突き出して見せるも、そこには確かに何も見えない。
(ある意味、見える気はするけどね…)
 頭を掴まれてじたばたする女の子の姿が。
「あーあぁ、どうすっかなぁ」
 指を開いて、金治はため息をついた。
 彼のため息の理由はもちろん分かる。この状況はすなわち、友人と好きな女性を争うことになってしまった、ということなのだから。
「なぁ、お前はさぁ、なんでまおのこと、好きになったの?」
 俯いていた橙也に、金治はそんなことを問いかけた。
「僕は、その…」
 初めはためらいながらも、ぽつぽつ、と、橙也は今までの成り行きを、彼に語った。
「ひゅーひゅー、橙也先パイ、男らしいっすねぇ~」
 告白のくだりに、前時代的な冷やかしを交えて、アユガイが茶々を入れる。
「う、うるさいな!」
「じょーだんっすよぅ。そんなに怒らなくってもいいじゃないっすかぁ」
「も、もう、一応マジメに話してるんだからさ…」
「あー、お前らしいわ」
 金治は笑いながら、そう言った。
「そ、そう言う金治はどうなんだよ!」
「ん、俺?いや、去年は全然気にしてなかったんだけどね。ほら、どうせお高くとまってんじゃねーの?なんて思ってたんだけど、同じクラスになってみたら全然そんなんじゃないんだなこれが」
 金治とまおが同じクラスだったということを聞いて、橙也の鼓動はまたいくらか早くなった。そういえば、まおのクラスの話なんてしたことが無かったなと思い至る。
「なーんかいっつもぽつーん、としてたからさ、気になって声掛けてみたの。そしたら、まぁ案外喋るじゃん?それから、ちょくちょく話するようになって。まぁ、あとはお前と、大体一緒。………うるせーな!」
 最後のは橙也同様、アユガイに冷やかしを入れられたらしい。
 橙也は彼の人となりをよく知っている。顔は確かに二枚目とは言えないかもしれないが、誰に対しても遠慮がなくて、だから同時に誰に対しても公平な態度で接することが出来る、瀬良金治はそういう魅力を持った男なのである。
 それだけに、橙也の心は余計に痛みを訴えた。
 負けたくない気持ちはもちろんある。自分がまおを好きな気持ちは、紛れもなく本物なのだから。
けれど、まお本人の気持ちはどうなのだろう。図書室でわずかな時間だけ話をする自分と、毎日その数倍以上の時間を共にしている金治。
自分には見せない笑顔を、金治に見せているまおを想像すると、あの部屋で自分に向けられた、「頑張って」という言葉も、単なる社交辞令だったように思えてしまうのだ。
「たださぁ…」
 金治が起き上がったので、橙也は知らず知らず俯けていた顔を、彼に向けた。
「俺たち、まだ高校生だろ?いきなり婚約者、とか言われても、それはそれでちょっと重い感じがしないでもない」
 神妙な顔でそうつぶやく金治の横顔を、橙也は無言で眺めた。
「ただな、実際には、まおとの婚約のために、実際にあいつのことをどんなやつなのかも知らずにこのゲームをしてる奴らがほとんどだろ?
おれはさ、あいつの家だとか、金だとか、そういうことを考えてるやつには、絶対にまおを渡したくないって思う。ガキの考えって言われちまえばそれまでだけどさ」
 なるほど、まおの家は相当な資産家であるようだし、考えてみれば、そういう連中がこの中にはいるのだろう。金治の珍しく見せる厳しい表情に、橙也も「うん」と頷いた。
「でも、お前は別」
「え?」
「俺はお前がどういうやつか、昔からよく知ってるし、今のお前の話を聞いてやっぱり思った。お前がまおと付き合うことになったとしても、俺は全然構わない」
 この言葉に、橙也は目を丸くした。
「だから、ひとまずは、手を組もう」
 そう言って向けた金治の顔は―
「どうせ、自分が自分が、ってやつらしか、この中にはいないんだ。だったら、俺たちは足を引っ張り合うんじゃなくて、手を組んで攻略して行こう。そんで、最後にどっちがクリアすることになっても、そんときは、恨みっこなしだ」
 ―また悪戯っぽい笑顔に戻っていた。
「婚約とかなんとか、そういうことを考えるのは後回しでいいじゃん。とにかくさ、俺たちは純粋にあいつのことが好きなんだから。だから、このゲームをクリアするのは、絶対に俺かお前、な」
 金治の言葉に、橙也は先ほどまでの自分を恥じた。
 自分が相手よりも劣るだとか、そういうことじゃない。
 互いに本気で一人の女性を好きになってしまったのだから。
 互いに認め合って、全力を尽くす。
 橙也は、金治という友人がいたことを心からうれしく思った
「……うん!」
 笑顔で応じると、金治に差し出された手を、力強く握った。
「よっし、じゃあ今日のところは、お前のレベル上げから始めるとするか」
「あ、その前にさ」
 金治に続いて立ち上がり、橙也はずっと疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「大善寺さんの家って…」
 そこまで口にしたところで、鼓膜を突き破るような爆音が、辺りに響き渡った。
「な、なんだ!」
 金治が耳を塞ぎながら、音のした方向へ振り向く。それはちょうど、彼らがいる通りの先、恐らく最初に訪れたあの広場の方向だった。
 遅れて、衝撃波のようなものが飛んできた。砂ぼこりが巻きあがり、視界が狭まる。
「ぐっ」
 橙也は飛んでくる砂や小石が目に入らないように、腕で顔をかばった。むき出しの腕が痛いが仕方がない。アユガイも「あいたたた!」なんて言いながら、橙也の体の後ろに身を隠した。
「金治、これは?」
「分かんねぇ、俺も初めてだ」
 砂ぼこりが止むと、周囲のキャラクターが一斉に移動を始めた。ある者は広場に向かって。ある者は反対方向に。
 どうやら、広場に向かっているのがユーザーキャラクターらしい。目の前をさっきのリュウジにも負けず劣らずの重そうな鎧を着込んだキャラクターが何人も走り抜けていく。
 対して、反対方向に逃げるように走っていくのは、町人と思われる風貌のキャラクター達。これはノンプレイヤーキャラクターであろうということが分かった。
問題は、その中の一人が口にした言葉である。
「ま、魔王だーっ!魔王が来たーっ!」
 そう言って、薄っぺらい布の服を着た中年の男が目の前を通り過ぎて行った。
 橙也は金治と顔を見合わせた。
「おい、今…」
「うん、魔王って…」
 広場に顔を向けた瞬間、今度ははっきりと、その音の原因が見て取れた。
 青白く光る雷鳴がほんの一瞬、広場中央で輝いた。遅れて、さっきよりもさらに大きな音が響く。橙也も、金治も、今度はあらかじめ耳をふさいで体勢を低くした。
「アユガイ、どういうこと?」
 飛んでくる砂から顔をかばいながら、体の後ろに隠れるアユガイに問いかける。
「わ、私にも分かんないっす!」
 再度砂ぼこりが止んだのを合図に、橙也と金治は走りだした。
 もちろん、広場に向かってである。
 今度は、引き返してくるユーザーキャラクターともすれ違った。一様に武器も持たず、逃げるようにして引き返してくる。「助けてくれ~!」「勝てるわけねぇよ~!」などと言う声も聞こえてきた。
 橙也は後ろに向かって走っていく彼らを見送りながら金治に問いかけた。
「ど、どうする?あんなこと言ってるけど…?」
「やってみなきゃ分かんないっしょ。実際に死ぬわけじゃないんだ、とりあえず、当たって砕けてみようぜ」
 その返答に金治らしさを感じるものの、橙也は小さく息をはいた。
「あー、あのさ、そういえばこの世界で死ぬとどうなるの?」
「お前のアユガイ、それも説明してないのか?」
 そう言われ、橙也はアユガイに視線を向けた。
「あ、あのっすね。そう、それは、先パイが追っかけられてたせいであって…」
「とりあえず、説明してくれる?」
「うう、りょーかいっす…」
 そこまで言ったところで、目の前二〇メートルほどのところまで迫った広場に、三度(みたび)雷鳴の輝きが閃いた。
「橙也!」
 金治に身体を押さえつけられ、体を落とす。さっきよりも短い間隔で、音と衝撃はやってきた。
「くぅっ、えっとですねぇ!自分のライフポイントよりも大きなダメージを受けると、その日はゲームオーバーっす!翌日にならないと、接続することは、できないっす!」
「ちなみに、ダメージ受けると、痛いの?」
「多少は痛いっすけど、例えば剣で斬られても、実際にそうなったときみたいに痛くはないので、安心して欲しいっす!」
 そこまで聞いて、橙也は幾分安心した。刃物で斬られた経験はないが、さぞかし痛いだろうことは想像に難くない。
「というわけで、じゃんじゃんやられてオッケーっすよ!」
「いや、さすがにそれは…」
けれどひとまず、あの雷を受けても、それほど痛いわけではないらしいということは分かった。
「よし、行くぞ!」
 視界がクリアになったところで、金治が立ち上がった。橙也もそれに続く。
広場に駆け込むと、中央に重装備のキャラクターが押し寄せていた。二〇人はいるだろうか。どうやら彼らが中央で囲んでいるのが、噂の大魔王らしい。
辺りには強烈な衝撃で抉れたような跡が多数。周囲の家屋も、衝撃に、あるいは雷鳴の直撃によって、ほとんどが倒壊していた。
「こいつはすげぇな」
 明らかに余裕ではないと分かる笑いを浮かべながらも、金治はひゅぅ、と口笛を吹いた。
 まさかそれが合図ではなかっただろうが、集まったキャラクター達が一斉に、輪の中央に向かって駆け出した。
 しかし、直後四度目になる雷鳴の光が弾け、体勢を整えていなかった橙也は、衝撃に数メートル後方へ吹っ飛んだ。
「うわっ!」
「橙也っ!」
 金治の声が前方から聞こえたが、彼は彼でその場から動かないようにするのが精一杯のようである。
 強烈に地面に背中を打ちつけたと思ったが、痛みはそれほどでもない。なんとかうつ伏せになると、橙也はそのままの姿勢で衝撃が止むのを待った。
 素肌を打ちつける砂粒の勢いが弱まってきたのを感じ、ゆっくりと顔を上げると、まだ辺りには砂ぼこりが舞っていた。広場中央はそのせいでよく見えない。が、さらに手前に、甲冑の男が数人倒れ込んでいるのが分かった。橙也がそれに気づいた直後、彼らは一様にすぅ、と姿を消した。
「くぅ~っ、こいつは最初っからクライマックスだぜ~っす!」
「あれが、ゲームオーバー?」
 何やらわけのわからないことを叫びながら背中にしがみつくアユガイに問いかける。
「そゆことっすね!」
「おい橙也!大丈夫か?」
「うん、何とか…!」
三メートルほど先でしゃがんでいた金治が立ち上がる。橙也も起き上がり、彼の隣に駆け寄った。
 金治の視線の先、まだ晴れない砂ぼこりの中に、黒い影が浮かんだ。ゆっくりと、こちらに歩いてくるのが分かる。
(あれが、大魔王。ゲームとは言え、大善寺さんを閉じ込めてるやつ…)
 橙也は拳を思いっきり握り締めた。
 いくらゲームは素人といっても、今の雷を見せられれば、さすがにかなう相手ではないことは分かる。けれど、今日は一発、そう、たったの一発でいい。
 始めて間もない自分が、いきなり最終ボスに相対する機会を得たのだ。なら、せめて一発。今日はあいつに拳を入れてから、ゲームオーバーになってやる。
 そう橙也は決意した。
「来るぞ」
 金治がそう言って、改めて橙也は拳の感覚を確かめた。
 しかし、視界が晴れる直前、魔王の背後に黒い影が浮かび上がり、橙也は息を飲んだ。
「……!」
その次の瞬間である。
 振り返った魔王が右手を広げると、瞬間、まだ周囲を覆っていた砂ぼこりは、魔王の掌を中心にしてぱっ、と綺麗に拡散した。後ろに迫っていた甲冑の大男は、その掌から放たれたらしい何かによって、一〇メートルも吹っ飛んで地面に落ちると、まもなくすぅ、と消え去った。
 遅れて、さっきよりも弱い衝撃が来る。今度はわずかに目を細めるだけで対応できた。
 だから橙也が次に驚いたのは、この声である。
「あっはっは!この程度でわたしにたてつこうなんて、一〇〇年早いわ!」
 高笑い。それはまぎれもなく、女性の声だった。
(ま、魔王って、女だったのか…)
 後ろ姿を眺める。確かによく見れば、長い黒髪が今の衝撃によって高く舞っていた。ゆっくりと、それは重力に従って落ち、彼女の背中を覆う。
「さて、と。残るは―」
 先ほどの高笑いよりは幾分押し殺したようなこの声に、橙也は聞き覚えがあるような気がして、ゆっくりと、けれど芝居がかった動作で振り返る魔王を注視した。
「―あなたたちだけね。トウヤ、カネハル」
 その顔を見た瞬間に、橙也は叫んだ。
「大善寺さん!?」
 その声、普段の調子とは違うものの、けれど五メートルほど先に立つ彼女は、紛れもなくまおであった。しかしその格好は、普段の制服姿でもなければ、今日、彼女の家で見た清楚なワンピースでもない。
 濃い紫を基調にしたその衣装は、どこか禍々しい印象を受けさせる。確かに、彼女が魔王だと説明されても違和感のない格好であった。
 これも一応、ワンピースだろう。けれど、彼女の部屋で見たノースリーブとは違い、袖が付いている。それは手の先に向かうに従ってゆったりと広がっていた。
 裾は彼女が普段履いている制服のスカートよりもさらに短い。
さらに、太股まで伸びた黒のハイソックス。ほぼ裾にかぶる場所まで伸びるそれは、同時に彼女の衣装の裾の短さを際立たせてもいた。
 さらには、体のいたるところに巻きつけられた黒のレザーベルト。クモの巣状に広がったベルトが、衣装の上から足を、腕を締め付けることで、どこか淫靡な印象を受けるのである。
 極めつけは、胸元。首もとから鳩尾(みぞおち)の辺りまで、大きく楕円形に開いた胸元を、これまた太いベルトが十字を描いて横切っていた。
正確には、縦のベルトはチョーカーの様に首に巻かれたベルトから、腰のあたりに巻かれたベルトにかけて伸びているため、漢字の「王」の形に似ているだろうか。
結果、縦のベルトによって両胸の間は大きく開かれ、横のベルトによって押し付けられた胸が、その大きさをより主張する。
 全体に露出が多いわけではないのだが、それ以上に、橙也にとっては赤面もののデザインであった。
 結局橙也には、彼女の顔を見るしか選択肢が残されないことになる。
 けれど視線を向けたその顔は、普段の彼女の無表情とは全く違っていた。まして、ときどき彼の脳内に登場するまおが浮かべる、優しい笑みでもない。
 目にかかるかというところで切りそろえられた前髪が、俯き気味の角度のせいで、ほぼ完全に右目を隠す。左目だけが、わずかに髪の隙間から見えた。
 その目に宿る輝きが、明らかに普段の彼女のものとは異なるのである。
それは破壊を楽しむ喜悦の光。
 右端の薄くつり上がった唇が、それが勘違いではないことを橙也に伝えてきた。
「金治、どういうことだよ!」
「お前、これも知らなかったのか…?」
 それから小さくため息をつくと、金治はまおに向かって叫んだ。
「まお、手加減しねーぞ!」
背中に差した剣を抜き、体の前に両手で構える。
対して、視線で応じるまおに動き出す気配はない。
「ちょ、ちょっと!」
 橙也の静止にも耳を貸さず、金治はじり、とまおとの距離を詰める。
「先パイは、手を貸さなくていいんっすか?」
 いつの間にか橙也の肩にちょこん、と座っていたアユガイが、耳元でそう言った。
「そんなこと言ったって…」
 そのわずかな瞬間だった。
ざっ、と地面を蹴る音。アユガイに向けた視線を正面に戻すと、剣を振りかぶり、まおに迫る金治の姿があった。
「だ―」
 橙也が叫び切るよりも早く、まおの手が動いた。
 それはまさに刹那。紫の光を帯びた右手の指先が、中空に何かを描きだす。
 魔術を紡ぐ、古代文字。
 まおが人差し指と中指を身体の正面にかざすと、文字は消え去り、代わりに彼女の正面には円形の魔術陣―絶対障壁―が浮き上がった。
「―いぜんじさんっ!」
 ばきぃぃぃぃぃぃぃぃぃんっ!という、耳をつんざく甲高い音。火花のように辺りに飛び散るまばゆい光。
 金治の振り下ろした剣が、まおの障壁に激しく打ち付けられたのだった。
 間近に展開される、力のぶつかりあい。
 けれど、それも長くは続かなかった。
 両腕で視界をかばっていた橙也は、未だ垂れ下がったままのまおの左腕、揃えた人差し指と中指の先端に、紫色の光がぽぅ、と灯るのを見た。
「か、金治っ!」
 言い切ったときには、すでにまおの編んだ術式は完成していた。
腕を垂らしたまま、指先だけの動きで紡いだわずか数文字の古代文字。それは次の瞬間、強烈な力を帯びた魔術へと変わる。
 野球のサイドスローの動きを小ぶりにしたような動作から放たれた三発の魔術弾。
 拳大のそれは、一つ残らず強烈なボディブローを、金治の身体に叩きこんだ。
「がっ、はっ!」
 鈍い音がして、金治の身体がわずかに浮きあがる。そのまま二メートルの距離を飛んだ彼は、地面を滑り、橙也の目の前で止まった。
「おいっ、金治っ!」
 目の前に倒れ込んだ彼を軽く揺すると、硬く閉じられた瞳がゆっくりと開いた。
「やっぱり、まだかなわねーな」
 苦しそうにしながらも、笑顔を浮かべた彼は、ゆっくりと上半身を起こした。橙也も肩を貸す。
「もうちょっとレベル上げて、橙也と一緒にちゃんと乗り込むから、そんときまで、やられんじゃねーぞ…!」
 まおに向かってそう言うと、彼の姿は足もとに転がっていた剣と共に、消え去った。
「あわわわ、せ、先パイっ!来ちゃう、来ちゃうっすよ!」
 金治の重みが消え去った腕を眺めていた橙也は、アユガイのその言葉で顔を上げた。
 変わらない表情をしたまおが、そこにいた。
 見上げる角度になったことで、先ほどは見えなかった彼女の両目がよく見えた。
 より輝きを増した喜悦の光が、橙也の瞳に突き刺さる。
「大善寺さんっ!」
 橙也は立ちあがった。
「どうして、大善寺さんがこんなことっ…!」
「どうして…?」
 笑いを押し殺すような低い声。
「トウヤ、あなたなにか勘違いしているんじゃないの?」
 続いたこれは、高笑いの混じったような甲高い響きだった。
「わたしは、誰?」
「だ、誰って…?」
 ごくり、と唾を飲み込んだ橙也に、一拍置いてまおは告げた。
「大魔王」
 にや、と口元をゆがませたまおの指先が、再び淡い光を帯びた。それはほんのわずか前、金治を葬り去ったあの―
「う、うわっ!」
 ―魔術弾。
 どん、どんっ!という鈍い音を伴って飛来するそれを、橙也は左に走ってかろうじて回避した。
「あはははっ。ほら、もういっ…ぱつ!」
「だ、大善寺さんっ!ちょっとっ!」
 逃げ回るしかない橙也に、まおは絶やすことなく魔術の塊を浴びせかける。どれもかろうじてかわす橙也を見るその目は、実に楽しげに輝いていた。
「せ、先パイっ!このままじゃやられちゃうっすよ!」
「そんなことっ、言ったって、うわっ…!」
身体の前方を通過する軌道を、ブレーキをかけてかろうじてやり過ごす。
「い、一か八か、戦ってみましょうよっ!」
「そんなことっ!できない、よっ!」
「マオ先パイのことが好きだからっすか?」
 そんなことを言われ、こんな状況だというのに、顔を赤くする橙也。
「そ、そうだよっ!悪いかよっ!」
「いや、悪かないっすけど、マオ先パイを倒さないとクリア出来ないわけで…、うわっとぉ!」
 頭上を通り過ぎる弾(たま)をかわして、アユガイは橙也の頭にしがみついた。
「ほーらっ、いつまで保(も)つかしら?」
「くっ…!」
 アユガイの言うことはもっともだった。
 まおを中心に、彼女の周りをすでに半周。これ以上続けても、体力がなくなるのは目に見えている。
 奥歯を強く噛みしめて、橙也はまおを見た。
(く、そっ…!)
 危うく倒れ込みそうになった体を、腕をバネにしてむりやり起こす。
 次に飛来した弾(たま)をかわした直後、左足を踏ん張って、橙也は身体の軌道を無理やり変更した。
 薄く笑んだ彼女の視線が、橙也のそれと交錯する。
「覚悟を決めた?」
 まおの右手に光が宿る。それが編まれるよりも早く、橙也は彼女に向かって全力で走り出した。
「うおおおおおおおおおおおっっっ!」
 けれど、やはり早かったのはまおの方である。まだ三メートルの距離を残したまま、まおの右手が先に動いた。
「先パイっ!」
「うわあああっ!」
「ゲームオーバー♪」
 ―には、ならなかった。
 紫の光弾が、橙也の頭上を強烈な音を伴って後方に飛び去った。
 ここに来てから走りっぱなしだった足がとうとう悲鳴を上げ、彼の意志に逆らって、一瞬かくん、と橙也の身体を押し下げたのである。結果、橙也はそのまま前につんのめり、大きな弧を描いて前方に転がることになった。
 どん、と強い衝撃を伴って、橙也は再び背中を打ちつけた。
「あいたたた…」
 薄く開けた瞳に最初に飛び込んできたのは―
「う、うわっ…!」
 ―なんと見事な絶対領域。
 慌てて立ち上がると、すぐ目の前に、まおの身体があった。
「あっ…」
 こうして目の前に立つのは、恐らく初めてである。正面から見下ろすその身体が驚くほど小さくて、橙也は息を飲んだ。
 彼女の表情は、髪に隠れて全く見えない。
「せ、先パイっ!今がチャンスなんじゃないっすか?」
 アユガイの言うとおり、どうしてかまおは動かなかった。けれど、こうして目の前に立つ小さな彼女を見て、橙也は思った。
(やっぱり…)
「やっぱり僕はっ…!い、いくらゲームだからって、あなたを傷つけることは、できませんっ…!」
「………だから?」
 返答があった。
「だから、だからっ…!」
 まさに勢いが成させた行動だった。
 目の前に立つ彼女の背中に手を回すと、橙也は力強く、まおの身体を抱きしめた。
「……!」
 頭のすぐ後ろで、アユガイが息を飲むのが分かった。
 ゲームだというのに、髪の毛の一本一本までがさらさら、と優しく橙也の手を撫でた。
 ゲームだというのに、抱きしめた身体は彼女の柔らかさを余すことなく橙也に伝えてきた。
 ゲームだというのに、彼女から立ち上る甘い香りが、優しく橙也の鼻孔をくすぐった。
 ゲームだというのに、今日何度目になるか分からない激しい鼓動が、橙也の胸の中で暴れまわった。
 何秒経っただろうか。
「トウヤ…」
「は、はいっ…!」
 頭の下から聞こえたまおの声に、橙也の鼓動はまた一段高まった。
 勢いでやってしまったことに気がついて、橙也は慌てて身体を離す。
 正面五〇センチのところにいるまおが、ゆっくりと、俯けた顔を上げた。
「また明日」
「…へ?」
 橙也がサディスティックな笑みを認識した直後、彼女は紫の光を伴った右手を、体の前で激しく動かした。
 その一秒にも満たない間に描かれた光の文字は、直後一瞬にして激しい力の迸りを生む。
 雷(いかずち)を伴って現れた魔術陣が、彼女のしなやかな腕の動きに従って、橙也の頭上にスライドした。
「せ、先パイっ!それじゃあまた明日、お会いしましょうっ!」
 そう言って、ものすごいスピードで背後に飛び去るアユガイを、「お、おい…」と言いながら見送る。
 恐る恐るバチバチ…、と音を立て始めた頭上を見上げると、魔術陣からは今にも何かが降ってくる気配が見て取れた。
「あのぅ、これ…」
 苦笑いでそう尋ねた橙也に対する返答は、言葉ではなかった。
 打ち上げ花火が目の前で爆発したのかと思うような、かつて味わったことのない光と爆音。ほぼ同時に、しびれるような痛みが頭から足の先までを駆け抜けた。
「みぎゃああああああああああああああああああああああああっっっ!」
 ばたん、と、どこか近くでそんな音が聞こえたような気がした。
「おにい!?ちょっと、おにいっ!!」
 強烈な光が晴れるよりも早く、橙也の意識は、ブラックアウトした。

       

表紙

ローソン先生 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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