Neetel Inside 文芸新都
表紙

ト キ ナ
一/金紗の髪

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      (一)


 一九九七年。
 春。

 国道沿いのドラッグストアから出てきた嶋原茎也(しまばらくきや)は、隆々と立つ雲の隙間に輝く太陽を恨み言を言うように見る。気温は高くないのに、日光がやけに強い。
 今年の夏の暑さが予感できるようだった。
 自転車のスタンドを外し、レジ袋をかごに入れ、ペダルを漕いで道路に出る。流れる景色の半分は、田んぼが支配していた。ここ暮東(くれあずま)は都会に近すぎず遠すぎずの、よく言えばバランスのとれた、悪く言えば中途半端な町である。
 やがて住宅が並ぶ区画に入った。その少し外れた場所に、茎也の新しい家がある。新しいといっても、それは彼の新居という意味であって新築ではなく、ものはかなり古い。戦後まもなく建てられたらしい、ところどころにトタンが使われた瓦葺きの木造建築だった。
 塀の裏側に自転車をとめ、玄関の前に立つ――と。
「茎也くーん」
 後ろから声がかけられる。小さく手を振りながら駆け寄ってくる女性を見つけ、茎也は会釈した。「こんにちは、多恵(たえ)さん」
 北野多恵(きたの)は茎也の叔母だ。軽くウェーブのかかった髪を無造作に下ろしている。笑顔を絶やさない、童顔ながら面倒見のいい母のような人だと彼は思っていた。
 母のような――というのも。
 茎也には両親がいない。
 八年前。
 トンネル内で起きた交通事故が、彼から左右の温もりを奪い去った。七台が絡み九人が死亡する大惨事となったその事故の生存者は茎也と数人。しかし、その発端となったと思われる一台は暴れるように内壁に激突し、運転手は即死しており、結局のところ原因は不明ということだった。数々の憶説は、どれも事故の要因を裏づけるものにはいまひとつ届かなかったのである。
 地面が崩落したかような振動と、暗闇の中で彼は意識を失った。
 そして気づけば両親はいなくなっていた。留守番を頼んだあとのように、簡単に彼らは茎也の前から姿を消した。唯一違うのは、彼らはもう二度と家に帰ってこないという点だが――それでも、ひとつ彼が救われた点といえば、すぐに気絶したことによって両親の死の瞬間を直視しなかったことだろう。両親の生きた死体を網膜に焼きつけなかったおかげで、今日も彼はまともでいられるのだから。
 そのあと父方の祖父の家に引きとられ、ふたりで暮らすようになった茎也は、そこで高校二年生までをすごした。のびのびとは言えなかったが、境遇を恨むことはなかった。
 だが二ヶ月前、その祖父が老衰で突然逝去した。帰宅したとき、テレビはつけっ放しで、祖父は椅子に座りすでに永い眠りについていた。足音の静かな、ある寒い冬の日の出来事だった。
 寂しくはあったが、悲しくはなかった。すでに死というものは、茎也の中で身近なものとして存在していた。絶えず彼は、冷たい浅瀬を足を濡らして歩いているような感覚で日々をすごしていた。とはいえ現実問題――ついに彼には保護者がいなくなった。そこで、空き家だった母方の祖母の家を、多恵がここに住んでみてはどうかと申し出たのだ。それを茎也が受け入れ、この町に引っ越してきたのはついこのあいだのことである。
「あら、ドラッグストアに行ってきたの? もう、洗剤とかならうちがあげるのに」
 レジ袋の中身――主に日用品――を見て、遠慮されたのが寂しいのか、多恵は少し頬を膨らませた。可愛らしい仕草だが、彼女は今年で四十路の半ばである。それでも違和感を与えないのが不思議だった。
「あっ、そうそうコレ。筑前煮。容器は洗って返してくれたらいいから」
 多恵は茎也にタッパーを差し出した。中ではしっかりと味の染み込んでいそうな里芋や人参が詰まっている。ほのかに香りがもれて食欲をそそる。
 いちおう、茎也は祖父との生活の中で家事は人並みにできるようになっている。しかしまだ冷蔵庫の中身など自炊の準備が整っていない彼のために、彼女はつくってきてくれたのだろう。素直に嬉しくなった。
「ありがとうございます」
「そんな後生大事そうにしないでよ。食べてくれなきゃ困るんだからね」多恵はひとしきり笑うと、急にあっと思いついた顔になり、今度はシャツの袖を巻くって言った。「なんか手伝うことない? 叔母さんヒマな専業主婦だか張り切っちゃうよっ」
「ああ、それなら大丈夫です。あらかた片づいてますし」
「ふぅん? 茎也くんったら、つまんないの」多恵はあからさまに肩を落とし、それからなにげないふうにつづけた。「奈緒希(なおき)ちゃんも連れてこればよかったわね。あの子ったら、高三にもなってなんか恥ずかしがっちゃってさ」
 奈緒希というのは、多恵の娘で茎也の同い年のいとこの名だった。彼がこの春から新しく通う市立西浦高等学校の生徒でもある。
 しかし、ふたりは特別親しくはなかった。もともと茎也が住んでいた首都圏から北野の実家は離れており、会いにいくことも少なかった。そのうえ、奈緒希は幼少のころ病弱な面があり、そこから生まれる控えめな性格も災いした。挨拶にいっても茎也の目に入らない場所に隠れて、多恵や茎也の両親に背中を押されるまで出てこないことのほうが多いのだった。今回も茎也が引越し後の整理などで忙しかったせいで、いまだに一度も会っていない。
「ま、学校ではよろしくね。わからないことがあったら迷わず奈緒希ちゃんに聞いてね」
 そう言い置いて、多恵は元きた道を帰っていった。とはいっても、茎也の家と北野邸は直線で百メートルも離れていない。茎也は多恵を見送り、きびすを返し家に入った。


 西日本は今日も高気圧に覆われ、晴れた一日になるでしょう――天気予報士の言葉を聞き遂げると、茎也はテレビの電源を切り立ち上がった。
(そろそろ出るか)
 様々な手続きに手間どってしまったために、始業式から一週間ほど遅れての登校だ。茎也のことは、朝のホームルームで担任から紹介される手はずだった。
 二階の自室に上り、通学に使うコールマンのデイパックを背負う。すると、ころんと棚からなにかが転がり落ちた。鉱物が含まれているのか、微妙で暗い星のような光を放つ小石だった。詳細はわからないが、茎也が事故に遭ってからなぜか近くにあるものだ。大切なものなのかもしれないと思い、今まで保管してきた。彼は石をそっと拾い、棚の上に戻した。
 高校への道のりに多少迷うことを考慮して、早めに家を出る。
 昨日とは打って変わって、外気は肌寒い。ぼんやりと空を見上げて歩いていると、どこかから名を呼ぶ囁きが耳に触れた。なにとなく叔母の家を見やると、長い黒髪の少女が上目遣いでこちらを見ていた。
「……おはよう、奈緒希、ちゃん」
 いとこだった。元来、茎也は苗字で人を呼ぶのだが、長年疎遠であったとはいえ親戚であるし、叔母のこともファーストネームで呼んでいるので、いまさら「北野」と呼ぶのも憚られた。慣れないちゃんづけである。
 すると彼女はおずおずと近寄ってきて「お、おはよう茎也くん」と細い声で挨拶した。さっきの妖精が耳打ちするかのような声の主は彼女だったらしい。
「もしかして、待っていてくれた?」
 登校しなければならないのに、いつまでも家の前で突っ立っている理由はほかにない。
「うん、お母さんに茎也くんといくように言われて……」
 多恵は気を利かせてくれたのだろう。きっと奈緒希なら高校への効率の良いルートを知っている。無駄に時間をかけなくて済みそうだ――そう納得した茎也の考えは、一緒に登校して、長い空白の中でふたりのあいだに生まれてしまった距離を縮めてほしいという叔母の願いとはかすりもしなかった。
「じゃあいこうか。俺も転校早々遅刻したくないしね」
「あ……うん」
 ならんで歩き出す。予想どおりと言うべきか否か、奈緒希は口数の少ないほうみたいだが、しかし交わすのが沈黙だけでは味気ない。なにか話題があればと茎也は考えた。
「ああ、筑前煮おいしかったって多恵さんに」
「う、うん、伝えとくね」
 さえぎるように返事をされ、茎也は心の中で肩をすくめる。もしかしたら、俺はあまり好かれていないのかもしれない。奈緒希の桃色の頬を見ながら、そう思った。
 十五分ほど歩き、コンビニのある十字路から緩い坂道を上りはじめると、ちらほら西浦高校の生徒と思しき男女が確認できてくる。男子は学生服で、女子はブレザーだ。灰色を基調とした生地のスカートにチェックパターンのラインが走っている。男女の制服のデザインに格差があるのが特徴だというのが、奈緒希の数少ない話のひとつだった。
 結局、高校への所要時間は三十分もかからなかった。
 正門の脇には桜並木があり、そのむこうに三階建ての校舎が二棟。生徒棟と職員棟だ。運動場は校舎から見ると窪んだ位置にあり、コンクリートの土手を挟んでつづいている。
「俺、職員室に行かなきゃならないからさ」茎也が職員棟を指差して言う。
 奈緒希は慌てたように返した。「あ、じゃあ、またあとでね」
 茎也は昇降口に吸い込まれていく人の波から離れた。
 二つの棟を結ぶ渡り廊下に近づいたとき――紺色のボストンバッグを細い肩にかけたひとりの女生徒が小走りで職員棟から出てきた。
 唐突に接近する茎也とその少女――。
「あ……」なんの前触れもなく、どうしようもなく突然に、ドクンと心臓が跳ねた。
 そしてその瞬間、茎也は目を奪われた。
 いや、五感すべて、命でさえも奪われたような気がした。
 少女も彼に気がつくと、放心したように立ち止まる。
 春一番の風が吹き、さああと葉擦れの音が周囲を駆け巡る。渡り廊下に太陽の光が射し込み、少女の“髪”はそれを受けて眩いばかりに輝きはじめた。頭頂部から、肩まで伸ばしたその毛先まで、その“髪”は本当の色をあらわにしていく。
 ドクン、と再び脈が駆ける。
 その日――。
 嶋原茎也が出逢ったのは、艶やかな金紗(きんしゃ)の髪を持つ少女だった。

     

      (二)


「東京からきた、嶋原茎也です。なんというか、一年間だけだけどよろしく」
 新参者の少年は短く自己紹介を終える。編入したクラスは三年五組だった。教室を見渡してみると、目を見開いてこちらを見つめている奈緒希を見つけた。
 まさか同じクラスになるとは思ってもみなかったのだろう。それは茎也も同じだったが、面白くてついその様子をそれとなく注視していると、気づいた奈緒希はぱっと開いていた文庫本のページの中に顔を埋めてしまう。耳はほのかに熱を帯びているようだった。
「嶋原くんの席はあそこに用意してあるから」と、担任の示した席はちょうど奈緒希の近くだった。わからないことがあればすぐに聞けそうだ。茎也は席に着く。
 前の席の女子が上半身を回してきて、よろしくねと言った。短いツインテールが揺れる。小動物みたいに瞳の大きな子だ。
「ああ、よろしく」
「私、水木未来(みずきみく)。字が全部下にひろがっちゃって、ときどき自分でもなにから書いたらいいかわかんなくなっちゃうの」彼女は笑った。
「これからいろいろ迷惑かけると思うけど、許してくれ」
「気にしないで? なんでも相談に乗るよ」
「ありがとう。助かる」茎也は愛想笑いを浮かべておいた。
 その後は朝のホームルームがはじまったが、担任の話は茎也の耳にほとんど入ってこなかった。手元には進路関係のプリントがあるから、その方面の話をしているのだろうというのはわかる。が、茎也はまったく別のことを頭上に思い浮かべていた。
 ――渡り廊下で出会った、あの金髪の少女。
 結局、彼女は茎也と見つめ合ったあと、すれ違いざまに頭を下げてそそくさと走り去ってしまったのだ。そこにはかすかな匂いの余韻が残るのみで、彼はなにかを言うことも、振り返ることもできずに立ち尽くしていた。
 やがて教員のひとりが声をかけてくれたおかげで、茎也は今に至るわけだが。
 あのとき――説明がつかないくらいに、自分は彼女に見蕩れていた。あれほどまでに強烈で猛々しい鼓動を感じたことは今までなかった。俺はいったいなにに意識を持っていかれたのだろう。あの金糸を緻密に織り込んだような髪の毛か。和洋の精巧な人形を折衷したかのような整った容姿か。それとも自分の知りえないなにか別のことか。
 そして、あの少女は誰なのか。
 答えの出ようのない疑問が、胸の高鳴りとともにあった。


 やがて一日の学校生活が終わり、教室はざわめきはじめる。ほとんど同時に帰り支度を終えた奈緒希に話しかけようとしたときだった。
「よお。シバハラ」坊主頭の男子生徒が話しかけてきた。昼休みに知り合いになった――確か名前は加瀬太一(かせたいち)と言っていた気がする。人懐っこい顔立ちで、野球部に所属しているのではなかったか。
「シマバラ」茎也が訂正すると、加瀬は悪びれる様子もなく白い歯を見せた。
「わりいわりい」笑んだままつづける。「それより、気になってることがあるんだけど」
「気になっている?」
 ああ、と加瀬は頷いてから「おまえらってどういう関係なんだ?」と言った。茎也と奈緒希を指す。「なんかはじめからふつうに話しかけてたし、下の名前で呼び合ってたよな」
「言ってなかったか? 奈緒希ちゃんは俺のいとこなんだ」
「えっ、本当?」水木が、茎也の答えを聞くなり奈緒希にむかって身を乗り出した。
「? うん、本当、だけど」
 少し身を引いて答えた奈緒希の顔と茎也の顔を探るように半眼で見比べたあと、水木は手のひらを口元に添えて、にししと意地悪そうな笑いをもらした。「まさかあ、嶋原くんの引っ越してきたお家って北野さんち? ひとつ屋根の下とか?」
 突拍子もなかった。奈緒希は湯当たりしたような顔でかたまってしまう。なんとなく茎也は水木の性格がわかった気がした。下世話な話が好きな女の子はどこにでもいるのだ。
「いや」茎也は手を振った。「そうじゃない。ちゃんと別々に住んでる」
「う、うん。別々」奈緒希が事実をかためてくる。いくら親戚とはいえ、男子とそういう意味合いで言われるのはやはり嫌なのだろう。
「ていうか、ふつうに考えてみろよ」加瀬が水木に言った。「一家が親戚の家にまるごと上がり込んでくるなんてこと、ありえないだろ」
「ああ、それも違う」茎也は、死んだ母方の祖母の家に住まわせてもらっていることを伝えた。すると加瀬は怪訝そうな顔をつくって訊ねてきた。
「じゃあ、どうして嶋原ってこっちにきたんだ? 親は一緒じゃないのか?」
「……っ」奈緒希が急所を突かれたように表情をこわばらせる。加瀬は、瞬時にそれが示す意味を悟ったのだろう。茎也のほうを改めてむいたが、それだけだった。
「別に。家庭の事情ってやつだよ」
 茎也は冷然として言った。ひとり暮らしも悪くないさ、とつけ加えておく。彼には事実の説明以外なんら意図はない。しかしむべなるかな、みな黙りこくってしまった。
 どんな想像をしているのだろう。どんな不幸を思い浮かべているのだろう。
 奈緒希は事情を知っているからか、一番辛そうに見える。
 ――誰か新しい人々と出会い、自らの話をするたびに、胸が静かになるようになったのはいつからだろうか。同情も憐憫も慰めも、受けとるのが億劫に感じる。茎也は、それがいいとも悪いとも思わなかった。ただ、そういうふうに成長してきただけのことだった。
「そういえばさ」沈黙を解くのに四苦八苦していた水木が、ようやく話の接ぎ穂を見つけて言った。「嶋原くんはまだこの学校のこと全然わかんないよね? なにか聞きたいこととか、知りたいこととかない? 七不思議もあるよ?」
 「そうだな」茎也は一寸考え込んだ。すぐにある事柄が頭の中に浮かび上がる。「この高校にいる、髪が金色の女の子のことなんだけど。教えてくれるか?」
 すると水木たちは顔を見合わせた。それから、「やっぱり見ちゃったんだね」と口々に言い出した。「転校初日だっていっても、しかたがないかもね」
 その口ぶりから、本当に七不思議にでも触れてしまったんだろうかとにわかに自分の霊感を信じはじめた茎也だったが、別に彼女は幽霊でも幻でもなんでもなく、しっかりと肉体を持って実在している女の子のようだった。
 茎也の反応を面白がるように、水木は自信ありげに教えてくれた。
「その人、フタイインさんって言うんだよ」
「フタイイン?」
 水木は鉛筆とノートを取り出して、漢字を五文字書いた。
「そ、不退院季菜(ふたいいんときな)さんって言うの。珍しい名前でしょ?」
 確かに、フタイインもトキナも聞いたことない名前だ。
 とにかく茎也はその名前を深く銘記しつつ、話をうながした。しかし、彼女についての情報は期待していたよりもずっと曖昧で、ずいぶんと希薄だった。それこそ、学生証に書いてあるような基本情報だけしか聞くことはできなかった。
 だが――不退院季菜にひとりも友人がいないことを聞いたとき、合点がいった。未開封の箱の中身を誰も知らないのと同じだからだ。わかったことと言えば、彼女は小学校からずっと地元で進学しており、そのいずれでも孤独な学校生活を送ってきたということだけだった。自ら進んでそういう環境をつくっているみたいだった。
 どこか両親の亡くしたころの自分に似ている、と茎也は感じた。ふさぎ込み、誰とも関係を持ちたくないと思っていた。似ているということは、どこかが決定的に違うということなのかもしれないけれど。
「わたしの彼氏が不退院とクラスだけどさ」話に加わってきた吉田(よしだ)が言った。「かなり浮いてるんだってね。わからなくもないけど」
 彼女の髪のことだとわかった。同時に納得もできる。いくら人との関わりが薄かったとしても、あの髪の毛ではどうしても目立ってしまう。悪目立ちと言ってもいいだろう。
 それゆえ――生徒のほぼ全員が彼女の顔と名前を知っているのに、くわしい事情を知る者は誰ひとりとしていないという珍奇な話ができあがっているみたいだった。
「やっぱりあの金髪は気になっちゃうよね」水木が言った。「浮いちゃうのもわかるけどさ、でも彼女のほうにも問題があるからなあ」
「どういうことだ?」茎也は興味を引かれた。
「不退院さん、これは地毛だって言ってるんだよ? 外国の血が混じってるわけでもないらしいんだけどね。目とか日本人だし。あんな派手な髪の色してるから、当然しょっちゅう先生に厳しくされるんだけど、いつも申し訳なさそうに俯いてそう言うんだ」
「へえ」
「さすがに、体育の岩村(いわむら)先生が髪を引っぱったときはひどい! って思ったよ。いじわるな子なんかは、からかっているみたいだし」
 水木はまるで自分のことのように口を尖らせる。
「まさに言いわけの定型句。髪の毛染めたやつはみんな言うぜ。大人しそうな不退院ちゃんが言うのは意外だけどなあ」と、横から口をはさむのは加瀬だ。
「そういうところもちょっとわからないよね。不退院さんって」奈緒希が呟く。
「で、嶋原くんはどう? 地毛だって信じる?」
 水木が、クイズ番組の司会みたいに訊ねてくる。
 ここで嘘をつく理由もなく、茎也は素直に答えることにした。
「ああ、信じる」
「ほんと?」水木が目を丸くする。
「別に、嘘じゃない。あれだけ綺麗な髪なんだぜ。信じてしまうよ。作りものじゃああはならない。地毛だって聞いて逆に納得したくらいだ」
 事実、彼はあの金紗の髪をひどく美しいと感じた。それはなんだか薄気味悪いほどに。
 そんな茎也の様子から、水木はなにかを感じとったらしい。
「嶋原くん、もしかして不退院さんに一目惚れしちゃった?」
「それは」まだわからないし、唐突すぎると思った。だが、茎也の口からは独り言のように言葉が抜け出した。「そうかもしれないな」
 数秒かからずに、彼女の絹のような髪の流れが思い起こせた。髪の毛の一本一本の隙間に光が染み渡って、ゆたのたゆたに春の風を受けていた。――好き。好きなのかもしれない。けれど、それともまた違う感情が小さく揺れているのを感じた。
 どうしてか、少しだけ頭に痛みが走った。

     

      (三)


 まだ四時前だと言うのに、宵の口かと思うほど空は暗かった。見上げれば雲の厚さが波打つように変わっているせいで微妙な明暗が生まれ、海底から水面を眺めている魚のような気分になる。煙雨が霧がごとく漂い、町並みを覆っていた。
「あそこのおっきい建物がコミュニティセンターで、近くには郵便局とかがあるよ」傘の下から水木が言ってくる。「嶋原くん、わかった?」
「ああ、だいたい覚えた」
 水木が茎也に町の案内を申し出たのは、小一時間前のことだった――生活に必要な店舗との往復路しか知らない茎也としてはありがたい話だったので、依頼した。奈緒希と吉田も誘ってみたのだが、奈緒希は吹奏楽部の練習があるということで、吉田は彼氏の濱口(はまぐち)という男子と帰るということで、結局ついてきたのは誘った覚えのない加瀬だけだった。
「ゲームセンターとか、娯楽施設みたいなものはないのか?」茎也はアーケードを見渡しながら言った。昔ながらの商店が立ち並び、真新しいにおいを放つものはない。
「残念ながらないんだよね。田舎だから当然だけど」水木が笑いながら言い、それからふと思い至った顔になった。「もしかして、不退院さんときたいとか思った?」
「今からデートの算段かよ」加瀬がにやつく。
「勝手なこと言うなって」茎也は苦い顔をした。不退院季菜のことを訊ねた日から数日経つが、ことあるごとに水木たちは彼女と絡めて話を振ってくる。
「でも、好きなんでしょ?」
「あのときはそう言ってしまっただけで、実際はよくわからない」茎也は息をついた。
 それは本心だった――水木の言うことを否定できない部分もあるけれど、肯定をするには確定材料が少なすぎる。ただ、不退院季菜に胸が揺さぶられたのは確かだった。
 しだいに市街地から外れていき、田園が風景の主役になりはじめた。建築物がなくなって遠くまで見渡せるようになる――すると、煙る視界のむこうに黒い山がぼんやりと居座っているのが見えた。新緑に彩られているであろう山影は、今はおぼろげに浮かんでいる。
 茎也は山を眺めながら呟いた。「なあ」
「なあに?」水木が振りむく。
「あの山はどういうところなんだ?」
「えっと、あの山だよね」彼女は記憶を探る。即席とはいえ案内役としてのプライドが働いているらしく、少し時間をかけてから言った。「確か夷越山(いこしやま)って名前だった気がする。なんの変哲もないふつうの山だよ」
 それがどうかしたの? と聞き返してきたので、茎也はなんでもないと首を振った。考えてみると、どうして訊ねようと思ったのかもわからなかった。なにかが気になったのか、どこかに違和感を感じたのか――だが、それすらもわからないので詮ない話なのかもしれない。
 それから再び町外れを歩いていると、同じ構造の建物がドミノのように並んでいるのが目に入った。前を歩いていた水木が、いきなりからだを茎也のほうに回した。
「とうちゃくっ」元気よく宣言する。「ここが最後の案内ポイント、暮東公共団地だよ」
 彼女は団地へとつづく階段を上りきり、スカートを翻して振り返る。
「水木、どういうことだ?」意味がうまく飲み込めず、茎也は聞いた。
「私ここに住んでるんだ。それでね、実は……」
「実は、なんだよ」加瀬が言う。
「ひとりで帰るのが怖かったから、男の子にボディーガードをしてもらおうって思ってついてきてもらったの。案内なんて建前。ごめんね、付き合わせちゃって」
 水木が胸の前で両手のひらを可愛らしく合わせた。
 一杯食わされた茎也は、しかし、文句を垂れるふうでもなく水木に聞いた。
「どうして今日はまた、ひとりで帰るのが怖かったんだ?」
 すると水木はきょとんとした顔つきになった。「嶋原くん、知らないの?」西の方角を指さしてつづける。「となりの池寄(いけよせ)町で通り魔殺人事件があったんだよ」
「へえ……初耳だ」
 茎也は節約のために、極力マスメディアには手を出さないようにしていた。とはいえ、となり町で通り魔事件が起きた――しかも人殺し。確かに恐ろしいことだと頷ける。
「ほら、この天気じゃない? 暗くてなんかイヤだなーって思ったから」
「そうか。それならしかたがないよな」
「いやいや待てよ嶋原。俺たちあいつにはめられたんだぜ? 少しぐらい文句言ってもいいじゃねえかよ。つか俺が言いてえ」加瀬が唇を尖らせる。
「別にいいじゃないか。俺は案内してもらえてよかったよ」
 ということだ水木――そう茎也が言うと、水木は一寸驚いたようにしたあと、
「あっ、うん。今日はありがと……また明日ね」
 加瀬もね、といささか早口に言って、棟の入口に小走りに駆け込んだ。そのツインテールを見届けてから、茎也と加瀬は歩きはじめる。
「なんだよ、結局あいつに騙されただけかよ」加瀬はいまだに不満顔だ。
「そんなに口を曲げるなよ。一生ひょっとこみたいな顔になっても知らないぞ」
「できてんなあ……と言うより、嶋原は優しいのか気がねえのか、どっちなんだろうな」
「さあ」茎也は素っ気なく答える。
 それはきっと、後者だ。


 帰路の違いで加瀬と別れた茎也は、再び商店街に参上していた。スーパーに寄って、冷蔵庫の中身を補填しておこうと思ったのである。そして――必要なものを順次に頭の中に並べ立てつつ、アーケードに横道から入ろうとしたときだった。
「……あれは」
 金紗の流れが目に入った。
 茎也と同じように、高校からの帰途ついでに食材を買ったのだろうか――不退院季菜は、膨らんだスーパーのレジ袋を提げて歩いていた。商店街の通行人が、ちらちらと彼女の頭を見ている。中には露骨に視線を這わす者もいた。やはりあの金色の髪は、どこにいても衆人環視の的になるようだ。
 茎也の足が勝手に動いた。徐々に近づく、淡白かつ穢れのない可憐な横顔。
 声帯の震えを、どこか彼方に感じた。「――不退院さん」
 びくりと季菜の足が止まる。そして、瞳に驚きを映しながら振り返った。透明度の高い、ぱっちりとした二つの明眸に己が姿をとらえられ、茎也は生唾を飲み込む。
「あなたは……」
 はじめて耳に触れた季菜の声は、鈴の鳴るようだった。彼女もあの渡り廊下での一件を覚えてくれているのだろうか、記憶の残像を結びつけている途中のような眼差しだ。
 茎也は慌てて話を繋げた。「あ、ああ。俺は嶋原。三年五組の嶋原茎也だ。ついこのあいだ転校してきたんだけど。その、不退院さんとは一度会ったよな?」
「あ……うん。覚えているよ」そう答えて、季菜の目にあれ? という疑問の色が差した。「どうして私の名前を知っているの?」
「いや、クラスのやつらに聞いたんだ。その、きみのことが気になって」
「えっ」
 季菜の頬に困ったように朱が浮かんで、自分が口にした言葉の意味を反芻し、茎也はふいに気恥ずかしく感じた。彼女の反応につられたと言ってもいいかもしれない。
「悪い。意味わからないよな」
「い、いえ……」季菜は俯いた。
 アーケードの真ん中でふたりは押し黙る。とはいえ、ここで置物みたいにしていてもいたずらに周囲の目を引き寄せるだけだし、季菜もそれは望まないだろうから、茎也はひとまずの提案をした。「なあ、ちょっと話さないか。歩きながらでいい」
「あっ……はい」季菜は顔を上げておずおずと歩き出した。
 傘をさしてアーケードから出る。とたんに、頭上を細い雨がつついて消えていく静かな音律が生まれる。それを聞いていると若干落ち着いた。
 茎也は、季菜の手に提げられているレジ袋を一瞥して口を開いた。
「その袋の中身は今日の夕飯か?」
「う、うん。家の人に頼まれて」
 家の人。
 家族。
 クラスメイトの話では、その仔細は謎に包まれているらしい。それ以外の私生活も、全貌すらつかまれていない。学校の生徒にとっては宇宙や深海と比較されるほどの未知なる領域だ。かといって、ここで色々と訊ねるのも躊躇われた。詮索屋はいつだって嫌われる。
 だが、それ以外のことなら許されるかもしれない。
「不退院さんは、いつもこんなふうに帰ってるのか?」
「こんなふうにって?」
「それは……まあ、ひとりで。友だちとかは」――いない。そういう話だったが。
「なくていいの」無感情な瞳で答える。「そのほうが、ずっと正しいから」
 正しい? 気楽だとか、性に合うとかじゃなくて?
「その、寂しくはないのか」
「どうかな。寂しいっていう気持ちが、私にはよくわからないから」
「わからないってどういう」
「そのままの意味。不明。たぶん、私は寂しい状況にいるんだろうね。でも、私にはそれがもともと組み込まれているから。寂しく感じられない」季菜は静かに言った。「ほら、真っ暗闇だと目をつむっていてもそうじゃなくても変わらないよね? 私はそれと一緒」
 自己を認知していようがいまいが同じ――不存在と存在がイコール。
 薄い、と思った。
 彼女は自意識というものが希薄だ。たとえば、今も降り注いでいるこの雨粒が殴る蹴るの暴行に変わったところで、彼女の淡白な態度に変化は生じないのかもしれない――そんな極論すら浮かんでしまうほどに、自己すら他人として等閑視している。それはなにか生き方以前の問題、後天的以外の事柄があるように思えた。
 茎也は思った――みんなの言うことは間違いじゃなかったのかもしれない。不退院季菜という少女は、どこかおかしい。常に人間的な齟齬(そご)がつきまとうのだ。しかし、そんな浮世離れした空気を放つ彼女に、惹かれはじめているのも事実である。
 ちょうど市街地と耕地の境目あたりで、季菜は立ち止まった。その拍子に揺れた金色の髪は、この雨中でもなおくすまずにいる。
「このあたりでいいです。私はこっちにいくから」
「? 家みたいなものはないと思うんだが」
「いいんです」
 ふいに拒絶じみたもの感じて、茎也は足を止めた。ゆっくりと小柄な背中が離れていくのを見る。しかし、自然と口が動いた。「待ってくれ、不退院さん」
 彼女は振り返る。
「また、学校でも会えないか。廊下ですれ違ったときでもいいから。……きみが嫌なら、しかたがないと思って諦めるけどさ」
 かすかに驚いた表情をつくった季菜だったが、「いいですよ」とも「ごめんなさい」とも受け取れる笑みを浮かべてぺこりと会釈した。そして再び歩きはじめ、しだいに霧雨と夜にむかう町の色にまぎれ、しまいには見えなくなってしまった。
「……明日か」ひとり呟いた。明日の土曜日は授業がある。
 とはいえ、このまま突っ立っていても学生服が濡れるだけなので、茎也は元きた道を戻ろうとした――ところで、静電気に似た違和感が首筋に走った。
(なんだ?)
 彼は振り返り、傘をかたむけて視界を広くする。
 気づかなかった。
 ――そこには、黒い山が佇んでいた。
 さきほど水木に教えられたばかりの場所だ。風に溶け込んで漂ってくる、むせ返るような濃い緑の臭いがなぜだかひどく不快にさせる。それは、さっきまでとなりにいた女の子の匂いを食べてしまうくらいに、強く香った。

                   ◇

 その夜――夢を見た。
 蒸し暑い。
 熱気に溺れるようだ。なのに喉が渇いてしかたがない。
 誰かを待っていた。どうしてか、きてくれるような気がした。
 それだけの夢だった。

                   ◇

 大きな咳をして、目が覚めた。初めての体験だった。
「ごほっ、こほ……?」
 眼球が重い。あおむけにしていると、視床間脳に沈んでいってしまいそうに重い。
 レースのカーテンを通った朝日が部屋に射し込み、宙に舞う埃がうっすらと見える。どうやら夜通し降りつづけた雨は絞りつくされたようだった。茎也は布団から身を起こし、頭蓋骨に響く熱い重低音を感じながらに思う。
(……まあ、確実に風邪をひいているな)
 あの夢はただ熱にうなされていただけだろう。
 原因はなんとなく目星がついた。雨と季節の変わり目だ。
 錆びついた関節をやっとのことで動かして、寝室を出て階段を下った。とりあえずコップ一杯の水で口と喉を潤す。その瞬間はだいぶ楽になった気がしたが、すぐに熱した砂袋を背負わされたような感覚が舞い戻ってくる。
 茎也は居間に寝転がった。こち、こち、と時を刻む円盤に視点を移す。八時に差しかかろうとしていた。すでに登校しなければならない時間だ――と。
 雨戸をノックする音が聞こえた。この控えめな感じは見なくてもわかる、奈緒希だ。時間になってもなかなかやってこないから、迎えにきたのだろう。クレセント錠がかかっていないことに気づくと、彼女はローファーを脱いで上がってきた。
「あっ、あの、おはよう、茎也くん」
「おはよう奈緒希ちゃん」寝転がったまま応える。
「どうしたの? 顔色悪いよ?」
「ああ……なんていうか、風邪ひいたみたいだ」
「えっ? ち、ちょっと見せて」奈緒希はしゃがんで額に手を当てた。「すごい熱だよ。今日は寝てなきゃ」
「わかった。だから悪いけど、今日はひとりで学校に行ってくれないかな」
 しかしそう伝えても、奈緒希は動かなかった。始業のチャイムは一刻一秒を争うというのに、唇を真一文字に結んでなにかを逡巡しているようだった。
 そして言った。「く、茎也くん、お布団ってどこ?」
「え?」
「その、今日は――私が看病するよ」

     

      (四)


 天井の木目がうねる。発熱は治まる気配を見せはじめていたものの、いまだ息をするのにも意識を使い、まどろみに入るのさえ至難の業だった。
 ぼんやりとした頭の中に、お世辞にも軽快とは言えない包丁のリズムが台所から流れてきていた――栄養をとらなければ治るものも治らないということで、奈緒希が雑炊をつくってくれているのだ。今は、それを布団の中で待っている状態である。
 黒髪をハーフアップに結い上げた姿がそう遠くない位置に見える。狭い台所の中で灰色のスカートが細かく翻る。しばらくするとコンロのつまみを回す音が聞こえた。火を止めたみたいだ。奈緒希はエプロンで手を拭くと「できたっ」と両手で小さな拳をつくって、ささやくように宣言した。それから茎也のほうを見る。
「茎也くん、できたよ。その、食べる?」
 いまさら食べる食べないを問うのも卑怯な気がする。自分のからだも彼女の味方らしい。茎也は欲望に忠実な胃の声を押し返しながら、いただくよと返した。
 座卓で向かい合って食べていると、奈緒希が言った。
「な、なんだかな変な感じかも」
「そうか? ふつうにおいしいと思うけど」雑炊を口に運びながら茎也は言う。
「ううん、そうじゃなくて……なんていうか、緊張する」
「なんで。奈緒希ちゃんは結構ここにきてたんだろ」
「そうだけど……ここはおばあちゃんの家だけど、茎也くんの家でもあって。茎也くんの家なんだけど、あばあちゃんの家だったわけで……」
 確かにここは慣れ親しんだ祖母の家だ。そのはずなのに、そこに茎也がいるだけで、そして自分が彼とふたりきりでいるだけで、まったく違った感じがして不思議と心臓が早鐘を打つのだった。
 茎也は笑った。「わからないこともないけどな。俺はすごい久しぶりだったから、ここに引っ越してきたときは全然知らない家みたいに思えた」
「そうなんだ。ここには茎也くんとの思い出がたくさんあるけど……幼稚園のときとか、小学生低学年のときとか、あとは八年前――」
 そこまで言って、奈緒希の声が尻すぼみに消えた。
 顔を上げる過去。
「……ごめんね」彼女は忸怩(じくじ)たる思いに俯いた。「そうだったね。その夏休みの帰りに伯父さんと伯母さんは……」
 それは八年前、茎也の両親が交通事故で亡くなったという事実の記憶と記録。長い空白のはじまりだった――しかし、次に彼が口にした言葉は思いがけないものだった。
「ごめん」
「えっ」
 手を止めて茎也はつづけた。
「俺、憶えていないんだ、あの事故の日のこと。それに、その前後のことも。それよりずっと前のことならぼんやりと浮かぶんだけど。あの夏のことが全然思い出せないから、奈緒希ちゃんとの思い出がそこだけない。だから、ごめん」
「そんな……」
 事故で記憶の一部を喪失していたなんて――はじめて聞かされた。というより、茎也自身はじめて話したことなのかもしれない。奈緒希(いとこ)だからこそ教えてくれたのかもしれなかった。
「お茶でも注ぐよ」と茎也は言って、台所の冷蔵庫へ歩いていく。大きいはずの背中がひどく小さく見えた。奈緒希はどうしてか、その背中を優しく包み込みたい衝動に駆られたが、手が足がからだが、悲しいほどに動かなかった。

                  ◇

 熱に埋もれる意識の最中。
 一瞬、幻(ゆめ)を見た。
 赤い空。アカイソラ。
 朱い孔。アカイアナ。
 紅い。アカイ。
 あの少女の金髪が、絹布のように長く流れていた。
 ……長いはずがない。彼女は、肩までしか髪を伸ばしていないはずなのに――。

                  ◇

「……あ、茎也くん」
 目を覚ますと、奈緒希の顔があった――確か昼食のあと、彼女は一度家に戻ったはずだ。しかし茎也のほうもまもなく眠りに落ちたので、その後のことはよくわからなかった。
「えっと、今何時かわかるか」茎也は上体を起こす。
「五時くらいかな」
「奈緒希ちゃんはいつ戻ってきたんだ?」
「たしか二時だよ」
「正味三時間か……悪いな。別にもう放っておいてくれてよかったのに」
「いいよ。私がしたいんだもん」奈緒希は微笑を崩さずに言った。「それにしてもよく寝てたね。茎也くんって寝顔は昔のままなんだね」
 恥ずかしいからやめてくれ、と呟いてから茎也は居間を見渡した――しかし確かに、本当によく寝たものだ。ほんのりと暖色に彩られ、ところどころに陰が落ちはじめていた。外から小学生らしき舌足らずな声が響いてくる。
 ――鮮/烈/な/夕/暮。
 ズキン、と。さきほどの夢が脳裏をよぎったが、すぐに頭痛に掻き消された。
「わぁ、茎也くんいっぱい汗かいたね」奈緒希は立ち上がりつつ言った。「ちょっと待ってて? 着替えとタオルを持ってきてあげるから」
「あ、ああ悪い」
 甲斐甲斐しい――というか、どこか楽しそうだ。母性本能を刺激されたというのはよく聞く話だけれど、それが奈緒希に当てはまるのかどうかの判断は、自分にはできない。
 そんな益体のない思考を重ねていると、奈緒希が戻ってきた。
「はい、茎也くん」
 茎也はタオルを受けとる。そのままシャツを脱ごうとしたところで、はたと気づいた。
 奈緒希が部屋にいる。
 含みのある視線を送ると、彼女は「……?」と小首をかしげた。
「なあ、奈緒希ちゃん……俺、服を脱ぐんだけど」
「ん? そうだね。気持ち悪いもんね」
「それはつまり、俺が裸になるということなんだけど」
「――えっ? あっ、ご、ごめんなさい!」
 ようやく理解したみたいだ。奈緒希は一気に紅潮し慌しく立ち上がると、廊下の障子の裏に逃げ込んだ。がたかたとそのむこうでも動揺しているのがうかがえる。
「なんか、悪いな」茎也は脱いだシャツをタオルと交換する。
「う、ううん。大丈夫……」
 それっきり言葉はつづかない。
 しかし、どこか気まずい静寂の紗幕に、細い声が一点の穴を通した。
「……ねえ、茎也くん」
「なんだい奈緒希ちゃん」
 なにかを迷っているのだろうか、そんな気配が漂っていた。だが障子に映る彼女の影が揺らいだかと思うと、言った。
「本当に、不退院さんのことが気になるの?」
 きっと奈緒希本人も気づいていないだろう、その切実な響き。
 彼女自身わからない彼女の胸裡の奥底を、茎也が知るよしもなかった。
「ははは、みんなそれを聞いてくるな」
「ご、ごめん」奈緒希は反射的に謝ってしまう。が、茎也はつづけた。
「……でも」
「でも?」
「どうしてだろうな。彼女に初めて会ったときに、今までにないなにかを感じた。俺は彼女が、不退院さんが赤の他人に思えない。町ですれ違うだけの人々と、一緒に思えない。なぜそう思うのかもうまく説明できないんだけどさ」
「……そう、なんだ」
「奈緒希ちゃんも水木みたいに知りたくなるのか?」
 そう聞きつつ、着替えを終えた茎也は廊下に出てくる。座り込んでいた奈緒希と目が合った。彼女は曖昧な笑みを浮かべて言った。
「ううん。たぶん、違うと思う」


 月曜日はふつうに授業を乗り切ることができた。
 土日を費やして、どうにか風邪の菌を追い出すことに成功したみたいだった。ときおり細かく咳が出るものの、彼らの末期の抵抗に憫笑(びんしょう)が誘われる。それはひとえに、一生懸命介抱してくれた奈緒希のおかげだろう。
 最終の六時限目の終わり、社会科の教諭で三年五組の副担任でもある小佐々木典子(こさざきのりこ)が教室を見渡して言った。
「ちょっとみなさんに頼みたいことがあります」
 なんの用だろう。雑談が収まっていき、つまらなそうな瞳が小佐々木に集まる。キャリアが長いらしい彼女はそれを泰然と受け止めて、眼鏡を指で直しながらつづけた。
「この教室からひとり、社会科準備室の整理を頼みたいのですけど」
「えー」
「やだー」
 拒絶と反抗が各地から上がる。この手の反応は慣れっこなのだろう。小佐々木がそれらを無視して適任者を選びはじめた、そのときだった。
「そんなのやるもんですかーっ」と言った水木の声が妙に教室に残った。なにかの陰謀としか思えない。しん、と示し合わせたように教室内が静まり返る。さもありなん、小佐々木の目が水木のほうをぎろりとにらんだ。
「や、やば……」
 水木が頬を引きつらせるのと同時に、小佐々木が指名を告知する。
「――じゃあ、嶋原くんにお願いできるかしら。あなた転校してきたばかりだから、この学校の中身あまり知らないでしょう。いい機会よね」
「ああ……はい」茎也は頷いてしまう。
「じゃあ放課後よろしく」
 白羽の矢が立ったのは、水木――の後ろに座る茎也だった。颯爽と小佐々木が出て行ったあとの、振り返った水木の笑みには力がなかった。

     

     (五)


 ホームルームののち、古ぼけた最後のチャイムが自由を解き放つ。
 少年少女の喧騒があふれ出し、各々が各々の理由をもって色彩が薄くなりはじめた教室をあとにするが、茎也にはそれも叶わず、小佐々木に呼ばれ腰を上げた。
 宮内(みやうち)や田邊(たなべ)などの同級生に、「ご愁傷様、嶋原くん」「小佐々木はああいうやつさ」などと声をかけられるが、茎也はとっさに返事ができない。
「嶋原くん? 行くわよ」
「わかりました」茎也はむき直り、リュックを背負って歩き出す。
 渡り廊下には部活動にいそしむ十代の声が響いていた。聞いているだけでも楽しくなってくる。無気力無遅刻無欠席を信条としていた茎也にしてみれば、詮無い話なのだけど。
「まあ」前を歩く小佐々木が説明しはじめた。「やってほしいのは蔵書の整理ね。簡単な作業だから、ふたりならそんなに時間はかからないと思うわ」
「ふたり?」
 選ばれたのは自分ひとりだったはずだ。茎也はちょっとあたりを見回した。
「うん? 言ってなかったかしら。私がほかに授業を受け持っているクラスから、もうひとり引き抜いておいたのよ。だから、その子とでよろしくね」
「ああ、はい」
 めったに誰も近寄らないだろう。職員棟の片隅に社会科準備室はあった。そんな薄暗い廊下の突き当たりに、ひとつの輝きが灯っているのを発見して、茎也は目をみはった。
 不退院季菜が待っていた。小佐々木は、五組のほかは三組でしか教鞭をとっていないらしいから、たぶん彼女はそこの所属なのだろう。
「不退院さん」
 茎也が声をかけると、窓の外を眺めていた季菜ははっと我に返った。可愛らしく目をぱちくりさせてくる。小佐々木が軽く振り返りながら、「あなたたち知り合いなの? なら話は早いわね」と怜悧(れいり)な顔を見せた。
 彼女は茎也と季菜を後ろに立たせると、準備室のドアを開錠した。
「うわあ……久しぶりね、この部屋も」
 通された室内は、心なしか饐えたような臭いがした。室内の両側には、天井近くまで上背のある函架がそびえている。ダンボールや堅苦しい装丁の書物がそこかしこに積まれていた。「けほっ、けほっ」と季菜が咳き込むのが聞こえた。
「まあちょっと埃っぽいけど、窓でも開けたらずいぶんとマシになると思うわ」
 小佐々木はふたりをさらに招き入れる。整理の方法を簡単に教えてから言った。
「あとは頼んだわよ。終わったら鍵は職員室に持ってきて? ――じゃあね」
(……小佐々木?)
 去り際に季菜に対してどこか加虐的な笑みを浮かべたことが気になったが、当の本人が反感らしきものをまったく示さないので、茎也も深く考えないことにした。
 ふたりきりになる。
「まあ、やるしかなさそうだな」
「あ……うん」
 とりあえず上着を脱いで、彼らはシャツとブラウスだけになる。換気のために窓を滑らせると、ひゅうと期待どおりの乾いた涼風が澱んだ空気を一掃していく。
「……気持ちいい……」
 そう、心地良さげにもらしたのは季菜だった。
 風にたなびく金髪と、やわらかな横顔。
 この幾度目かもわからない衝撃に、茎也の胸は震えた。
 ――やっぱり、すごく、綺麗だ。
「さあ、はじめよう? 嶋原くん」
「あ、ああ」
 見蕩れていた茎也の視線に気づきもせず、季菜は蔵書を手にとる。茎也もそれに倣い、小佐々木に言われたとおりに書架に収めていく。
 つかんだ、その中のワンタイトルに目を引かれた。
『日本の歴史と伝承』――漠然とした表題だ。おとなしく働いている季菜に悪いとは思いながらも、好奇心からページを開く。鵺だの夜刀神だの白面金毛九尾の狐だの、どうやら妖怪にまつわる伝説が主な内容らしい。鳥山石燕が描いたと思しき妖怪の絵も載っている。
「……へえ」
 偶然開いたページに、ここ暮東の町の由来らしき記述があった。なんでも中世のころ、ここから東の空に太陽が沈むのが見えたと言うのだ――だから、暮れ東。
 ちょうど絵巻が載っていたが、茎也は眉に唾をつけたくなった。あまりに非現実的だ。地球の自転の法則をあっけらかんと無視している。
「どうしたんですか?」季菜が覗いてきた。
「ああ、ごめん。すぐつづけるよ」
 本を閉じてしまうべきカテゴリを探す。
 だが、季菜が自分の手元を注視していることに気がついた。
「ん? この本がどうかしたか?」
「あっ、その……いえ、なんでもないです」さっと身を引く。
「?」
 歯切れの悪い返事に軽く首をかしげたが、もともと彼女にはそういう部分があので、深く考えさせられることはなかった。
 その後も作業はつづいたが、なかなか終わりは見えなかった。振り返ってみても、蔵書の山はさほど削られていない。小佐々木も人が悪い。どこが簡単な作業だ、と茎也は騙されたような気分になった。
「やっぱりこういう雑用は面倒だよな」
 ついぼやいてしまう。季菜は言った。
「私は別にいいよ。慣れちゃったから」
「慣れたって、どういうことだ?」胸に引っかかるものを感じた。
「私の髪の色がおかしいからかな、先生たちはよく私にこういうことさせてくるの」
「雑用ぜんぶか?」
「ううん。わからないけど、たくさん」
 茎也は、季菜は教師陣に快く思われていないという水木の話を思い出した。先刻、小佐々木の表情に垣間見えた嗤笑――それは、彼女なりの季菜に対する苛めを象徴するものだったのではないか。あのときの彼女の目は、ある種雄弁だった。
 嫌がらせ、か。
「今日は、嶋原くんが手伝ってくれて嬉しかった。いつもなら私ひとりだから……」
「そんな……」
 ――どうしてだろう。
 雑務に押し込む女教師。
 髪をつかみ上げたという体育教師。
 嘲笑を放る生徒たち。
 どうして人々は季菜を……この女の子は、こんなにも良い子なのに――。
 きらきらと輝く金紗の髪。それが彼女を苦しめているのだとしても、それでも、茎也は言わなければならないような気がした。いや、自分だけは伝えたかった。
 素直に、そう思ったことだから。
「不退院さん」
「え?」
「俺は、きみの髪は、とても綺麗だと思う」
 ふいを突かれたように季菜は口をつぐむ。そして片手で拳をつくって胸に添えた。
 ちらり、と上目遣いに目の前の少年を見る――ずっと周りに気味悪がられてきた自分の金色の髪を彼は、綺麗だと言った。とてもまっすぐな瞳で、そう言った。
「あっ、その……そんなこと言われたことなかったから、だから、その……」
 季菜は口元をまごつかせたあと、頬を桜色に染めて、はにかむようにふわりと笑った。
「本当に、嬉しい。ありがとう」
 はじめて見た、彼女の心からの笑顔だった。
(……ああ、これだ)
 茎也は胸の高鳴りの意味を知った。
 けれど思えば、今にはじまったことじゃなかった。渡り廊下で鉢合わせたあの日から、すでに決まっていた――わかっていたのだ。
 自分の心が、ひとりの少女に略奪されていることなど。

     

      (六)


 社会科準備室に満ち溢れていた斜光の粒が徐々に陰に吸われていく。気がつけば、人の気配は校舎の中にほとんどない。東の山肌から立ち昇る宵の匂いだけがあった。
 茎也の胸中には、温かいものが灯っていた。誰かのことを思うなんて――あの事故の日からずっと忘れていた、ずいぶんと懐かしい感情のように思われた。それは確かに、不退院季菜という少女がもたらしてくれたものだった。
 当の季菜はというと、夢心地の茎也をよそに奮闘していた。
「……っ……っ」
 本棚の上段に整えなければならない一冊があったのだ。しかし彼女の小柄なからだでは、背伸びをしても届きそうにない。茎也に頼めば楽々と入れてくれるだろう。でも、季菜は無理をした。今は顔を合わせるだけで、赤くなってしまうような気がした。
 季菜はいっそう強く本棚にからだを寄せる。
 しかし――グラリ、と。
「あっ」
 季菜が頭上の異変に気づいたときには、もう遅かった。

 ガタガタ! バタバタガタッ!

 突如、なにかが雪崩れる音が爆ぜた――季菜が何度も棚に身を当てたため、その上に置かれていたごた箱が、もともと危うかったバランスを崩したのだ。
 茎也は愕然として振り返った。そこには、授業で使用するのであろう器具がいくつも散乱していた。中には、落とされたら危険なのが明白なものまである。
 その中心に、季菜がぐったりとうなだれて座り込んでいた。
「不退院さんっ」
 茎也は駆け寄ろうとした――そのときだった。
 ズクン、と。
 茎也の全身は、得体の知れない感覚に動かなくなった。
 四肢は指先まで凍り、呼吸すらままならない。急速に体中の機能が朽ちていくみたいだ。世界が塗り変えられたかのような、絶大な違和感を覚える。ごくり、と喉が蠕動する。
(なんだ? 急に、いきなり……)
 ――聞こえる。感情のもっと奥、本能と呼ばれる声が脳髄に響く。
 退ケ、退ケ、退ケ退ケ退ケ退ケ退ケ退ケ退ケ退ケ退ケ退ケ退ケ退ケ退ケ。
 なにをばかなことを。彼女は怪我をしているのかもしれないんだぞ。
 動け――動クナ。動け! ――動クナ!
 前髪が垂れているせいで、彼女の表情はうかがえない。陰がおちて真っ暗だ。まるで彼女の顔が仄暗い空洞になってしまったかのような幻視に網膜を乗っ取られる。
 どれほど時が流れただろうか、ギシリと季菜の頭がわずかに持ち上がった。
 そして。
「く……、……ゃ……」
 やおら彼女の喉から絞り出された低い声。
 なにかわからず、返事もできない。
 しかし――すると、ついに精神が折れようかというときに、全身を縛り上げていた感覚がふっと消え失せた。どこか、猛獣が巣穴に戻っていったあとのように緊張が解ける。
 茎也はここぞとばかりに息を吸い込んだ。「ハアッ、ハアッ……!」
(なんだったんだ、いったい……)
 呼吸が落ち着いてくると、いつのまにかあたりは夜の姿をしていた。少し、肌寒い。
「痛……」
 どきりとするが、季菜の声だった。
 茎也はおそるおそる訊ねる。「不退院さん……怪我、したのか?」
「あ……うん。擦りむいちゃったみたい」
 待っててくれ。茎也はそう言って、蛍光灯のスイッチを押した。しばめかすように明滅してから、白い光が室内を照らし出す。
「あ、ありがと……」
 そこにいる少女には、なんの変化も見られなかった。茎也はほっと胸を撫で下ろした。そして、驚くくらいに安心している自分がいることに気づく。
「大丈夫か?」
 近寄って見ると、季菜の初雪みたいな肌に擦過傷ができていた。短めのスカートから覗いた太ももにも、青痣ができているように見える。
「これは痛そうだな。なにか絆創膏でもあればいいんだが」
「そ、それなら私の鞄に入ってるはずだから……」
「悪い。開けていいか?」
「あ、おねがいします……」
 紺色のボストンバックに手をかける。サイドポケットのジッパーを開くと、ふだんならお目にかかれないような代物が飛び込んできた。
 小物の中にまぎれて、鋏が眠っていた。濡れたように黒光りしている。しかし茎也が眉をひそめたのは、刃が内側だけではなく外側にもあることだった――つまり、『切る』だけではなく『斬る』こともできる。独特の形の柄も手伝って、まるで短刀じみた様相を醸し出していた。便利といえば便利だろうが、あきらかに市販品ではない。
「あの、あった?」季菜が、もじもじと目だけで後ろを見ながら言ってきた。持ち物を見られるのが恥ずかしいのだろう。
「あったよ」
 茎也は鋏から目を剥がし、絆創膏をとる。それはしかし、面積的に頼りなかった。
「これじゃあ無理だな」茎也は立ち上がった。「保健室にいこう」
「え、でも……まだ終わってないよ」
 それだけの傷を負っていて、まだそんなことが言えるのか――以前感じた彼女の希薄さを思い出さずにはいられなかった。
「これでいいよ、もう。あとで小佐々木さんになにか言われたら、俺が散らかしたあげくにきみをむりやり連れ出したって言っておいてくれ」
 茎也は季菜を抱き起こすようにした。きゃ、と小さな声が聞こえた。
 社会科準備室の惨状を放置し、茎也は鍵をかけた。傷口に障らせないため、季菜はブラウスの袖をまくったまま、ブレザーを肩に羽織っている。
 一階に下りたあたりで、「おい」と男の声がふたりの肩を叩いた。
「きみたち、なにをしている?」
 白衣をまとった教師がこちらに近づいてきていた。薄くひげが生えており、くたびれた雰囲気がある。茎也は思い起こす――確か名前は誘木征嗣(いざなぎせいし)。理系の教室で化学分野を教えているはずだ。
「あっ、誘木、先生」季菜が微妙に声をこわばらせた。
「もう外は暗いぞ。不退院……と、転校生の嶋原か」
「ああ、はい。小佐々木先生の頼み事で社会科準備室にいました」
「なるほど」
 そう呟くと、誘木はふたりを交互に熟視しはじめた。解析されているみたいで、茎也は訝しむ気持ちを隠せない。すると誘木は、彼に照準を合わせて訊ねてきた。
「……なにか、起きなかったか」
 模糊としてだしぬけな質問だった。ますます意味がわからないが、ひとまず答える。
「不退院さんが怪我をしたんです。今から保健室にいくところです」
 ――本当は、あの金縛りに似た体験を言おうとも思った。しかしあまりにも荒唐無稽な話だったし、自分でもよくわからないことだらけだったからやめた。
「どうして」
「え?」
「どうして怪我をしたのかな」
「ああ」茎也は少しうんざりして言った。「がらくたが落ちてきて」
 そこまで聞くと、「そうか。保健室はじきに閉まるから、早くいきなさい」と言って誘木は職員室に入っていく。茎也と季菜は保健室に足をはやめた。
 ――その後ろ姿を、戸の小窓から覗いた誘木の瞳が追っているのも気づかぬまま。

     

     (七)


 小佐々木典子の雑用から一週間がすぎ温かくなるにつれ、若芽が産声を上げていった。
 ある日の昼放課、茎也は三年三組の教室の前にいた。加瀬や田邊に男だらけの昼食会の誘いを受けたが、彼はそれをなるべく波風立てずに丁重にお断りした。
 教室から出てきた濱口靖夫(やすお)が彼に気づいた。
「よー、嶋原。オメーこんなところでなに突っ立ってんだ?」
 濱口はクラスメイトの吉田の彼氏だ。よく教室にくるので、彼女を介して知り合った。頭の悪そうな顔をしているが、茎也としては意外と話しやすい相手である。
「今から歩美(あゆみ)と飯食うんだけどよ、一緒にくるか?」
 ちなみに、吉田の下の名前は歩美という。
「悪いな」茎也は一言断ってから濱口に問いかけた。「不退院さんはいるか?」
 濱口は疑問符を頭の上に浮かべたが、すぐに「いるぜ? 呼ぶか?」と返してきた。確認がとれれば十分だったので、彼を制止して、茎也は教室に足を踏み入れる。
 窓際の列の最後尾に季菜は座っていた。教室内にはいくつかグループができていたが、彼女はひとりで小ぶりな弁当箱を広げようとしていた。その孤独な姿が似つかわしいとすら思うのは、彼女の金髪がどこか厭世的な輝きを湛えているからだろう。
「不退院さん」
「えっ……嶋原くん?」季菜が目を丸くして言った。
「今、時間あるか?」
「えっと、うん。大丈夫」
「話があるんだ」
 それとなく周囲の視線が集まってきていた。季菜が居心地悪そうだったので、「場所を変えようか」と言って茎也は歩いていく。季菜も立ち上がり、スカートの裾を直しながら彼の背中を追って教室を出ていった。
 茎也は屋上に季菜をいざなうと、開口一番こう言った。

「不退院さん――俺は、きみが好きだ」

 告白だ。季菜の心の準備などお構いなしの、直球勝負だった。
 当然、彼女は見たこともないような表情を浮かべて、彼を見上げた。
 ためらいがなかったといえば嘘になる。しかし、確信した想いを温めつづけた果てに我慢できなくなった彼は、一刻も早く打ち明けたかった。ただ、その想いを頼りに季菜にむき合おうとした。
 季菜の瞳は――ただ揺れている。
 茎也はつづけた。「その、変だと自分でも思うけど……きみをはじめて見た日に、こう、胸に飛び込んできたんだ。きみと、どこかで会った。知り合って日が浅いのに、ずっと前からきみを知っていたような気がする」
「…………」
「もちろん、それだけじゃない。俺は今、不退院さんが好きなんだ」
 見つめ合ったあと、季菜はゆっくりと唇を開きかけた。しかし、すぐに閉じてしまう。そしてまた開いて、閉じるを繰り返す――迷いを示すように。
 なにに対してかなんて、だいたい想像はつくけれど。
 それでも、彼女はようやく息を小さく吸った。両手をおなかのあたりでぎゅっと握りながら、それはなにかを掻き抱くような、切なげな、けれど美しい声だった。
「……私も、です……」
「え?」
「私も、最初に嶋原くんと出会ったときに感じたの。私はこの人を知ってる――すごく、大切な人なんだって。そうしたらいきなり心臓が苦しくなって、怖いくらいにからだが熱くなって、逃げ出しちゃったんです。そのあともずっと、治まらなかった……」
 一句一言に迷いながらも、彼女は静かに吐露した。理由はわからないけれど、茎也と同じように内側で繋がれた感覚を、その身に宿していたのだ。
「不思議だよね。こんなにも胸が温かくなること、今までなかったのに」
 ――もしかしたら……運命なのかもしれないね。
 季菜は目を細め、そう恥ずかしそうにつけ足した。

                   ◇

 一九九七年。
 初夏。

「季菜」
「茎也くん」
 昇降口に出ると、季菜が柱にからだを預けて待っていた。茎也の姿を認め、花咲くような笑顔を見せる。落ち合ったふたりはそれぞれ靴を整えてから、帰途の空の下に出た。湿り気のある熱気が半袖の腕にまとわりつく。
 六月だった――茎也と季菜がいわゆる恋人同士になってから、二ヶ月がすぎていた。
「今日は晴れてよかったね」
「ああ、雨の日がつづいたからな」梅雨の晴れ間の太陽を見つつ、茎也は答えた。
 正門への道を歩いていると、後ろから自転車にベルを鳴らされた。
「あちーなあ、真夏はまだ先だぜ嶋原ぁ」
 田邊だった。一日一回は必ずふたりの関係を茶化してくる困り者だけれど、どこか憎めないところがある。愛嬌のある猫目で、笑うと目がなくなるからだろうか。
 彼の背中を見送ると、こんどは横から明るい声が聞こえた。
「バイバーイ。嶋原くん、不退院さん」
 目をやると、気さくな性格の宮内と、澄ました顔にこなれた感じのショートヘアがよく似合うクラス委員の沼田(ぬまた)が並走していた。確か、彼女たちは陸上競技部に所属していたはずだから、このまま校外に走りに出るのかもしれない。
 季菜はぎこちなく会釈するだけだった。ふたりが去ってから「や、やっぱり……こういうのは慣れないね」と一連の冷やかしに対してもらす。
 季菜と茎也――ふたりの関係は校内では有名になっていた。
 転校間もない男子と学校一不思議な女子が付き合いはじめたという噂は、またたく間に広がった。ふたりは大々的に公言していないものの、それは確然たる純然たる事実として認識されるようになってしまっている。正直、あまりいい気分ではないけれど。
「慣れるっていうのも想像できないけど。大丈夫、そのうち気にならなくなるさ」
「ううん、いいの。だってみんなに言われると、私が茎也くんの彼女なんだって、すごく実感できるから」そう衒う様子もなく言う季菜に、茎也はふいに鼓動を速める。
 照れ隠しに、季菜の金紗の髪をすくって撫でてみた。それは梳くと指どおりがよく、それでいてしっとりと指に吸いつくようで、瑞々しい。するとはじめは、なんだろうというな目を見せた彼女だが、しだいに心地良さげに目を細めて、幸せそうに笑った。
「私ね、周りにからかわれて昔はこの髪が嫌いだったけど、今は好きだよ。茎也くんがこうやって触れてくれるし、綺麗だって言ってくれるもの」
 茎也もつられて笑みをこぼした。「そうか……よかった」
 あの告白の日から、ちょっとずつ季菜は年ごろの女の子らしくなっていった。
 明るくなったと言い換えてもいい。
 ひどく大人しく、それが自明の理であるように孤独を選んでいた四月――世界から一歩引いて、心の表面に冷めた膜を張っていたあのころと比べれば、彼女は変わった。
 はじめのころに感じた自己意識の希薄さ、自己領域の窮屈さは徐々に過去のものになりつつある。そう、茎也は思っている。その変化は彼といるときにしか表われていないが、それでも自分と出会えたことがきっかけであるのなら嬉しいと思う。
 坂の下の十字路を曲がり、帰り道はアーケードの中を通る。
「悪い。少しスーパーに寄っていっていいか?」
 朝の冷蔵庫の中身を想起して、茎也は言った。季菜は「うん、いいよ」と頷いたあとに、可愛らしくあくびをした。彼女自身ふい打ちだったのか、恥ずかしそうに目を伏せる。
「寝不足はからだによくないぜ」茎也は笑った。
「そ、そんなことないよ。おかしいな……ちゃんと寝てるはずなのに」
 季菜は小首をかしげた。
 スーパーの店内は、冷房がきいていて涼しかった。茎也が野菜の目利きをしていると、前を同棲しているらしいカップルが仲睦まじげに歩いていく。その様子を軽く目で追ってから、季菜が遠慮がちに言ってきた。心なしか頬が桜色だ。
「……ねえ。こんど、茎也くんの家にごはんつくりにいってもいい?」
 一瞬、茎也の心臓は跳ねた。「あ、ああ。季菜がしたのなら、是非きてくれよ」
「ほんと? ほんとにいいの?」
 自分から申し出ておいて、逆に驚いたように聞いてくる。
「当然だろ。期待して待ってる」
「えへへ……約束だよ?」
 季菜は俄然、上機嫌になって食材売り場をあちこち物色しはじめた。気が早すぎるようにも思うが、茎也自身、季菜の手料理が嬉しくないわけがないので変なことは言わない。
 スーパーから出てしばらく歩くと、ちょうど市街地と耕地の境目あたりで季菜が振り返って言った――どこか感情の伴わない声で。「ありがとう、ここまででいいよ」
「……ああ」
「じゃあまた明日。学校でね」季菜はそう言うと、背をむけて歩いていく。しだいに彼女の小柄な姿は見えなくなり、茎也は見送るのをやめてきびすを返した。
 ――ふたりが別れるのは、いつも同じ場所だった。四月の雨の日とまったく同じ道の同じポイントで、まるでそこが行き止まりであるかのように季菜は帰途を別つのだ。実際のところ、茎也の家は方向が違うので彼女が気を使ってくれているとも考えられるのだが、それでも漠然とした違和を感じずにはいられなかった。
 それがときどき、彼を不安にさせる。
 付き合うようになっても、茎也は季菜のことをほとんど知らなかった。いや、知るファクターがないと言うべきだろうか。どこに住んでいるのかも、生活の程度も、家族構成もなにひとつ知識として有していない――けれど、彼女から話されない限りは知る必要もないと考えていた。人の事情は、そうやすやすと見ていいものではない。不安も謎も、恋愛の醍醐味だと思ってしまえばそれまでだ。
 十字路に戻ってくるころには、太陽は山間に沈みかけ、そこから放射線状に広がる薄い雲と空は、赤色に染め上げられていた。視線を地にもどすと、高校へとつづく坂の上から見知った顔が下りてくるのがわかった。
 鉢合わせると、奈緒希は顔を上げた。「あ……茎也くん」
「やあ、奈緒希ちゃん。部活の帰りか?」
 奈緒希は茎也のやってきた方面を見た
「今日も、不退院さんを送ってきたんだね」
「ああ、まあね」
 どちらからともなく、ふたりは並んで歩きはじめる。奈緒希は管楽器の入った黒革のケースを持ちなおし、それからちらりと茎也の横顔を見た。
 二ヶ月前――三組の部活仲間が興奮して話しかけてきたときには、何事かと思った。
「ねえねえ、ナオちゃん! 転校生の彼ってどんな人なの? いとこなんでしょ?」
「そうだけど……茎也くんがどうかしたの?」たじたじと奈緒希は応えた。
「今日の昼休みさ、あの不退院を連れてどっかいっちゃったんだけど、告白とかしてきたんじゃないの? それとなく探り入れてみてよ! っていうかもう告白確定だよね!」
「え……」
 茎也が――不退院季菜に告白した?
 にわかには信じられなかった。信じたくなかった。けれど、彼は確かに季菜に心を惹かれているような気配を見せていたし、季菜を連れていったというのなら、それはまごうことなき彼のかたい意志のもとにあったのだと思えた。彼はいたずらにアクションを起こすような人間じゃない。奈緒希自身がよく知っていることだ。
 結局、彼女が探りを入れるまでもなく、噂は教室を包み込み、しだいに疑いようのない事実を形成していった。水木や吉田、宮内などが祝福という名のからかいを浴びせる中で、奈緒希は静まらない動揺を取り繕うように、「おめ……でとう」と言うことしかできなかった。うまく笑えているかはわからなかった。
「――うまくできてるかい?」
「え……っ?」茎也の声に現実に引き戻された。
「部活。コンクールが近いんじゃなかったっけ」
「あっ、うん。毎日練習たいへんだよ」
 前に話したことを覚えていてくれた――少しだけ頬が熱を持つのを感じた。
「パートリーダーなんだろ? 部活で頑張れるっていうのはすごいと思う。俺はまあ、長いことなににもやってないからね。不精者だよ」
 ぴたりと、奈緒希のローファーが止まる。並んでいた斜影が数歩ずれる。
 そんなことないよ。そう呟いてから、奈緒希は再び歩みはじめた。
「……そんなことない。だって茎也くんには、不退院さんがいるもん……」
「そうか? まあ、そうか」小恥ずかしそうに頭を掻いて、茎也は言った。
 微笑みながらも、奈緒希は頬が風に冷めていくのを感じていた。
(――……いやだな。羨ましい、なんて)
 気がつくと、北野邸の前に到達していた。奈緒希は、いつもと同じように小さく手を振りながら茎也を見送る――だが、そこには彼を呼び止めている自分がいた。
「ねえ、茎也くん」
「ん?」と、振り返る。
「明日も……私たち、一緒に登校していいのかな……」
 それが正しいことなのかわからなかったけれど、彼女はずっと胸の奥底で渦を巻くいやらしい感情を取り除きたかった。うごめいて、折り重なって、そうまでしてしまいには特定の感情を形つくらず解けてしまい、また胸の中でくねりはじめる意識を――しかしそう願うと、その意思すらもいやらしく思えてきてしまう。今も足元で揺らめく影法師のように、それはぴったりとついてくるのだった。
 ――茎也くんには恋人がいて、みんなそれを知っているのに、私は毎朝どんな顔をしてあなたのとなりを歩けばいいのだろう……。
 すると、目を丸くして茎也は答えた。なんでもないことのように。
「どうして。別にいつものようにいこう」
 じゃあ、また明日。
 そう鷹揚に笑いかけてくる茎也に、かすかに喉がつまるのを、奈緒希は感じる。


 帰宅した茎也は居間に入り、畳に背中を倒した。
 深く息を吐き出すと、季菜の顔が浮かんできて頬が緩む。
 この二ヶ月間で知った彼女の表情。
 笑った顔。少し眠たげな顔。困った顔。照れた顔。ちょっとむくれた顔。
(――俺は、季菜と付き合っている)
 ようやく現実味を帯びてきたこの事実を噛みしめる。
 これからどうしようか。なにかしたいとは思うのだが、考えが漠としていた。ただ、とりとめのない幸せな空想しかしていないような気がする。もっと計画的にならなければならないみたいだ。せっかく季菜はそばにいてくれるのに、これでは失礼の一言に尽きる。
 もうあと一月もすれば、夏休みに入るころだ。どこか季菜とふたりで出かけたい。資金は潤沢というわけでもないが、水木たちに近場の遊園地でも紹介してもらおうか。海でもいい。遠出して都市にいくのもいいかもしれない――いや、それらは二の次だ。
 とにかく彼女と一緒にすごしたい。
「……季菜」
 その名を唱えるだけで、胸が満たされるような気がする。
 茎也は信じて疑わなかった。季菜といるこの日常が、永遠につづいていくのだと。
 そう、思った。


 その夜。
 二ヶ月前に池寄町で起きた通り魔殺人事件は、『連続』という狂気を語頭に迎え入れた。

       

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