Neetel Inside 文芸新都
表紙

ト キ ナ
四/蛾と鉄葉

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      (二十二)


 一九九七年。
 九月。

 夏休みはあまり勉強がはかどらなかった。近所のコンビニに行こうと思ったのは、さっきまで格闘していた問題集の文字列に嫌気がさしたからである。スポーツ雑誌でも立ち読みして、小腹を満たすものでも買って帰る予定だった。
 加瀬太一は歩を進めながら、夕刻を控えた商店街を見渡す。
 と――ぽつりと若い女の後ろ姿が目にとまった。
 長く美しい黒髪が、初秋の風に揺れている。とはいえ、それだけならきっと人混みの一部としてしか認められなかっただろうが、しかし加瀬の興味をひいたのは、彼女特有の歩き方だった。発条(ゼンマイ)の切れかけた鉄葉(ブリキ)の玩具を思わせる、かくっかくっと見ているこちらがはらはらしてしまうような釣合のとれない歩調。
 いわゆる――蹇脚(けんきゃく)。
 きっと右足に障害があるのだろう。右手に装着した一本の杖で半身を支えていた。その杖は、棒の上端から横に取っ手が伸びており、さらにその上には手首がぶれないように固定するC字型の輪がこしらえられている。長く使用されている感じがあるが、全体的な印象から上等なものであることは窺知できた。
 この世には色々な人がいて色々と大変なんだな、と加瀬はこういう人を見たときにいつもそう思うのだけど、それだけだ。憐れんでみたって足を治してあげられるわけでもないし、義侠心だってそうやすやすと売りに出すほど在庫がない。
 だから、周囲の人間と同じように、我関せずといった態度で彼女を追い越そうとしたのだが――なぜだかそこには、話しかけている自分がいた。
「ちわっす、なにか手伝えることとかあったりする?」
 突然そんな行動に出た理由としては、彼女が不自由なからだにさらなる十字架を背負わせるみたいに、重たそうな荷物を持っていたからだったのかもしれないし、なにかほかの感覚的なものが働いたのかもしれなかった。
「……なんでしょう」彼女はゆっくりと振りむく。
 加瀬よりも少し年上だろうか。双眸の動きは落ち着いていて、鼻や口の造形に品がある。肌は病的なまでに白く、痩躯を包み込むのは腰のところが締まった漆黒の長袖ワンピース。それどころかタイツもパンプスも黒一色で喪服かと見まがうほどで、よく見ると、十本の爪もすべて黒色に塗りそろえられていた。
 彼女はもう一度「なんの御用でしょうか」と訊ねてくる。
 覇気のない、生気すらない声だった。
「いや……だから、手伝えることとかないかなーって」
「貴方は誰ですか? どうしてそう思ったんですか? 真意はなんですか? 私がか弱そうだから簡単にひっかけられると思ったんですか? 私をどうなさるおつもりですか?」
 ひとりで勝手に話を飛躍のはやめてほしかった。外れくじだったかもしれない、と加瀬はたじろぎかけるが、すぐさま気をとりなおして言った。「俺はただの高校生で、なんとなく歩きにくそうなあんたが気になって、手助けぐらいならしてみようかなって思っただけで、あんたをどうこうしようとはちっとも思わないで声をかけた次第です、はい」
 質問に答え終えると、彼女は痴呆に似た眼差しで加瀬の顔に視線を這わせていたが、
「わかりました」
 ではお願いしてみようかと思います、と言った。加瀬が旅行用の革鞄をおずおずと受けとると、彼女は商店街を再び歩きはじめる。横にならぶと、軽く呟いた。
「貴方はいいおこないをしました。偽善でも、善です。むしろ人間味があるぶん、そのほうがよっぽどましなのかもしれませんが」
 ある意味、悪辣な言葉だ。
 加瀬は聞いた。「これってどこにむかってんの?」
「ホテルです。ここの近くにあるはずの」
 確かに、この界隈には安ホテルがあった。暮東で独占状態を維持している宿泊施設だ。名勝奇勝の類のない、ありふれた地方の町なのだから当然といえば当然なのだろうけど。
 やがて目的地に到着し、加瀬は言った。「おつかれさん」
「どうもありがとうございました。大変助かりました」
 ここまででもういい、と彼女が言うので荷物を返却する――とそのとき、彼はふと疑問を感じた。興味といってもいいかもしれない。わざわざこんな地方の町に大荷物を担いでやってくる理由を、最後に聞きたくなったのだった。
「そういえばさ」
「はい?」エントランスに入ろうとしていた彼女は振り返った。
「なんでこんな町に? センチメンタルジャーニー?」軽い雰囲気で問いかける。
 すると、彼女はそこで初めて笑顔らしきものを見せ、「似てないこともないでしょうね」と曖昧なことを口にしてから、つづけた。「少し、過去の清算をしに」
 漆黒だと思っていた彼女の髪は、日に透けると灰褐色に見えた。

                  ◇
 
 季節の変わり目に風邪でもひいたのだろうか――午前中に季菜の教室に顔を出してみた茎也だったが、金紗の髪は窓際の光を弾いていなかった。近くにいた濱口靖夫に彼女の所在を訊いてみると、「そういやあ今日は見てねえな、休んでるんじゃね?」というそっけない答えが返ってきただけだった。
 なので、茎也は昼食を手早く済ませ、残りの昼休みで進路指導室に足を運ぶことにした。各大学の過去問が陳列してある書架を通りすぎ、その奥、就職希望者用の資料が用意されている一角までいく。十五分ほど資料を漁ってから、彼は廊下に出た――と。
「進路のことを考えているのかい? あとさき考えずに不退院という闇に首を突っ込んでくるきみに、そんな脳みそがあるとは思わなかったけどな」
 誘木征嗣と鉢合わせた。茎也は苦い顔を隠す。彼の正体を知ってからというもの、不得手な相手だった――とはいえ、これはチャンスと思わなければならない。季菜の欠席の理由はこの男が知っているだろう。
「今日は、季菜はきてないみたいだけど、どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもないよ」誘木はにやつきながら答えた。「ただの休みさ」
「その理由を聞いているんだけどな」
 からかうなよ。そう言って見つめると、誘木の顔から笑みが引いた。白衣のポケットに両手を突っ込みながら、ゆらゆらと近づいてくる。
「へえ? やっぱり愛しの季菜ちゃんのことが心配かい?」
「そうだが」鼻につく言い方に少々苛立つ。「面倒くさいぜ、あんた」
「こっちの科白だよ。きみは本当に首を突っ込むね」
「あきらめろ」
 そう返すと、誘木はいきなり背をむけた。逃げるのかと思ったが、「だったら少し時間をもらおうかな。授業に遅れるのは覚悟しておけよ」と茎也を見ずに言い、歩いていく。
 ついていくと、屋上にむかっているらしいことがわかった。よほど一般人に聞かれたくない話であることが推測されて、茎也の中にかすかに不安が芽生える。階段室の鉄扉を押し開くと、風のうねりが鼓膜に触れた。秋の高い空が見下ろしてきている。
「で、こんなところまでこなきゃいけないような話ってなんなんだ?」
 すると――誘木は判然として言った。
「不退院烏森が殺された」
「……は?」
 言葉の意味が飲み込めなかった。だが、主語と述語を交互にならべていくうちに、信じられない気持ちが膨らんでいった。朱鷺菜や四辻よりもさらに灼々とした眼光を放っていたあの老人が、人の手で絶命するとは思えなかった。
「それが季菜の欠席の理由だ。さすがにショックではあるんだろうね」
「いや……」茎也はかろうじて言った。「それよりどういうことだ。物盗りかなにかか?」
「そんなわけないだろう。仮にも不退院家の当主だぞ。強盗のひとりやふたり、惨殺するなんてたやすいさ。文字どおり八つ裂きだ」
「それなら誰が」
「犯人はわかっている」
 誘木は忌々しそうに犬歯を見せた。まるで茎也が老人を殺害した張本人であるかのような、冷え冷えとした視線をむけながら――あるひとつの名前を挙げた。
「久布白硯(くぶしろすずり)」
 護国十家第四位久布白家の現当主だ、と言った。


 商店街は今日も、買い物客がまばらに行き交っている。茎也は、夕飯の献立作りに頭を切り替えようと試みるが、やはり昼間の話が横入りしてくるのを拒めなかった。
 あのあと――結局、誘木はそれ以上の情報を開示してはくれなかった。事件の背景にそびえ立っているものは、依然として不明のままだ。犯人の名前と所属だけでは全体像は見えてこない。彼いわく、「元々きみにはなんの関係もないことだ。これはいちおうの報告として受け取っておけ。くれぐれも藪を突いて蛇を出すような真似はしないでくれよ」ということだけれど、だからといって袖手傍観していられるはずがなかった。ややもすれば、季菜に危険が及ぶかもしれないのだ。
(くそ、どうしたらいい? なにか、なにかないのか)
 茎也は拳に握りしめ、顔を上げた――そのときだった。
 見覚えのある後ろ姿が目に飛び込んできた。
 追いかけていって「四辻さん」と声をかけると、不退院四辻は気だるそうに振りむいた。サングラスで瞳を隠していたが、間近で見てみると、うっすらと赤い光が透過して見える。
「夕飯の買い物ですか」茎也は顔色をうかがうように聞いた。
「ええ、嶋原くんもそうでしょ」
「まあ、それはそうなんですけど……」
「煮え切らない答えね。なにか私に用事でもあるのかしら」
「はい」少し逡巡してから、思いきって訊ねてみる。「烏森さんが殺された件について、お聞きしたいことがあるんです」
 四辻がわずかに目を見開いた。「あなた……それ」
「誘木から聞きました。でも、肝心なところが謎のままなんです」
「そうなの」四辻は沈思してから、かすかに笑って言った。「誘木もばか。結局はお役人なのね。そういうことなら話してあげてもいいけど、落ち着ける場所がほしいわ」
「俺の家はどうですか?」
「あら、いいの?」きょとんとして見てくる。
「はい。誰かに話がもれてしまうこともありませんし、お茶ぐらいなら出せます」
 四辻は提案に承諾した。道すがら、黙ったままというのもよくない気がして、茎也は口を開いた。「その、四辻さんは大丈夫だったんですか?」
「なにが?」
「いや、烏森さんは殺されてしまいましたけど……。誘木の話を聞くかぎり、季菜は無事みたいだったから、あなたはどうなのかなと思って」
「心配してくれるのね」四辻はおかしそうに言った。「でも、大丈夫じゃないわ」
「え?」
「これっぽっちも、全然」
「それはどういう……」
「まあ、事件が起きたのは昨夜のことなのだけどね――」
 四辻は憂愁の息を吐き出し、記憶の糸を巡らせる。
 正確は時間はわからないが、たぶん丑三つ時だったと思う――彼女は、ぐちょ、という血肉を押し開くような音で目が覚めた。屋敷の奥からだった。当主の寝室までいくと、すでに例の音はやんでいた。
「烏森様?」と言いつつふすまを開けると、和室の中央に烏森がうずくまっていた――といったものの、はじめはそこにあるのがなんなのかよくわからなかった。彼の背中から数本の鉄棒が生えていたからだ。まるで、巨人の手が針山に針を刺したみたいだった。しだいに夜目に慣れてくると、烏森を中心に血だまりができており、建具の内側や漆喰の壁におびただしい量の血液が飛び散っているのがわかった。
 彼が事切れているのは、一目で知れた――と。
 そのとき、かくっ、かくっ、という無機質な音を四辻は耳にした。警戒心をみなぎらせつつ縁側のほうにいってみると、そこから一望できる野原の中に若い女が立っていた。切りそろえられた黒髪を夜風の戯れに付き合わせながら、杖をついている。
「こんばんは。お久しぶりですね、四辻さん」と彼女は慇懃に言った。
 四辻は震える眼差しでとらえる。「あなた……久布白、硯……?」
「ええ。おかげさまですっかり歩きにくいからだになってしまいました。でも、これでも頑張ったんですよ。最初は、もう一生歩けないと思われていたんですから」
「……変わったわね」四辻は低く言った。「まるで死人じゃないの」
「貴女も、少し変わったかしら。あのころは若くて綺麗な方だと思っていたのに、どこか年齢以上のものを感じます。やっぱり赤兄(あかえ)さんのせい? 廃人の世話でやつれてしまったんでしょう?」
「そんなわけ――」
「ありませんよね。だって、慕っていたんですもの。だから介護をつづけられた。でも、それであの人が死んでしまったなんて、ふふふ……おかしな話じゃありません? 滑稽にもほどがありますよ。生きてほしくてそばにいたのに、ね?」
 ――君は……じゃない――
 ある言葉が、四辻の脳裏によみがえる。
「……ばかなこと言わないで。いったいなんなの。烏森様を殺して、どうしたいのよ」
「それは、わざわざ言うことですか? 私たちのこと、わかっているくせに」
 四辻はなにも言い返せない。彼女自身、本心では理解していることだから。
 そんな彼女の様子をくすりと笑ってから、杖つきの女――久布白硯はつづけた。

「復讐ですよ。私は、貴女たちに報いを受けさせるためにやってきたんです」

 瞬間――凄絶な殺意。
 ぎり、と四辻は歯軋りを合図に身構えた。運動神経に命令すればすぐにでも飛びかかれる体勢であるが、それを実行に移すのは得策ではない。なぜなら目の前にいるのは、老懶(ろうらん)の身といえども不退院家の当主を無傷で殺害した女なのだ。護国十家の序列としては不退院よりも下位に属している久布白家だが、彼女が駆使する異能の詳細がわからない以上、当然強い危機感をもって臨むべきだろう。
「そっちの監視役はどうしたの」四辻は訊ねた。護国十家の人間が外に出るには、監視役の許可が必要である。どう考えても今回の硯の凶行は未然に防ぐべきだ。
「篠笥(ささき)さんですか? 融通が利かないから、利くからだにしてあげました」
(排除してきたということね……)
 すると、くすくすと硯の優雅な笑みが夜気に溶けていった。「そんなに怯えなくてもいいじゃないですか。まず、今日はひとりだけ。あのとき愚かな決断を下した老残を葬ることができたので、よしとします」
「まずってことは……次は誰なのかしらね」
「ええ」硯の微笑が深くなる。「あの――穢れた、金髪の雌餓鬼にしようかと思っています」
 と――彼女を中心として凄まじい旋風が吹き荒れた。一面の草原が薙がれ、乾いた音律を掻き鳴らした。四辻はとっさにたもとで顔をかばう。聴覚は風音に支配されているはずなのに、どこか耳元でささやくような硯の声が聞こえた。
「きっと貴女は最後になるんじゃないかしら。ひとつずつひとつずつ、内臓を綺麗にとり分けながら、赤兄さんの廃人ぶりを聞かせてもらおうかと思います」
 では、御機嫌よう。そう響くのと同時に、風がやみはじめる。四辻はあたりを見渡した。硯の姿はどこにもなく、かすかな霊気だけが気配としてあった。
「――というわけなんだけどね」
 四辻は茎也の淹れた緑茶をすすった。彼の家の居間で、ふたりは座卓をはさんでむかい合っていた。壁時計の時を刻む音が、静けさの中にあってささやかに聞こえる。
「やっぱり……季菜に危険が及んでるんじゃないか、誘木め」茎也はうめいた。
「あの人に怒っても、しかたのないことでしょうけど」
 それもそうだと思い、茎也は首肯してつづけた。
「だけど、俺はまだ知らなきゃならないことがある」
「なにかしら?」わかっているというふうに呟く。
「あなたたちと久布白家の関係です」茎也はまっすぐに見つめて言った。「お願いです、教えてください。頼れるのはあなただけなんです」
 四辻はその眼差しを受けとめていたが、「そうね」とふっとどこか遠くを眺めるようにして口を開いた。「不退院と久布白の話――それは、あの子が生まれるところからはじまるわ」

     

      (二十三)


 命には二種類ある――ひとつは祝福され、光の中へ子宮を潜っていくもの。そしてもうひとつは、大多数から必要とされずに現世へ流出するもの。彼女の命をどちらかに分類するとしたら、迷いなく後者に配属されるだろう。
「生まれたぞ、蔀(しとみ)! よくやった、おまえのほしがっていた女の子だ!」
 青年の歓喜が薄暗い和室の中に響く。
 敷布団に横たわる女性に、彼は生まれたばかりの赤ん坊を手渡した。その空間でただひとりだけ瞳が黒色である女性は、その子を小脇に抱え、大量の汗に湿った顔を愛おしそうにほころばせる。それは母性と慈愛に満ちた、母として生まれ変わった女の表情だった。
 しかし、新しい生命の誕生を祝う空気はそこにはなく、重いどよめきが立会人たちから立ち上っただけだった――なんだあれは。どういうことだ。妖しい。不可思議だ。この世のものとは思えん。奇形か。恐ろしい。正真正銘の異物だ。
 なぜなら――その嬰児の髪の色は、目映いばかりの金色に輝いていたのだから。
 疲弊しきった声で女性は夫に訊ねた。
「あの……この子の、名前は……」
「ああ、決めてある。この子の名前は――トキナ」
 トキナだ、と強く命名した。
 ――そうして。
 一九七九年四月十二日八時三十一分。
 彼女はこの世に生を受けた。
 父親の名は不退院赤兄(あかえ)。当時二十三歳。
 母親の名は不退院蔀。当時二十一歳。
 彼女の旧姓は――久布白と言った。


 第二次世界大戦以来、護国十家の家系はいずれも寸断の危機に瀕していた。
 若く前途を嘱望された者たちは戦地で次々と倒れ、女でさえも能力の発現の強い者は徴兵された。その戦争を奇貨として、政府は当時抑えきれなくなりつつあった護国十家の弱体化を狙っているようにも思えた。その思惑どおりかどうかはわからないが、護国十家はその大戦を境に急速に規模を縮小していった。
 特に、不退院家と久布白家への損害ははなはだしいものがあった。このままでは家が断絶してしまうかもしれない――そう危機感を募らせた両者は、試験的に互いの家からひとりずつ男女を出し合い新たな子孫を産み落とさせるという、両家の合併に近い関係をつくり出し、勢力を回復させようと打診した。
 しかし、それは前例のない危険な賭けでもあった。古くから護国十家の家々は“血”の純粋さを尊び、近親相姦を繰り返してきた。倫理を逸脱しているという観念は、当初からそこにはなかった。それは、代を重ねるごとに否応なく希釈されていく“血”に対する延命行為だったのかもしれない。そして、その伝統を覆す果てに生まれるであろうものは“混血”といういまだかつてない未知の存在だった。
 当然、それは内々から大きな反感を招くものだった。だが――なりふり構っていられぬ、家系が途絶えるよりはましだ、と当主の烏森は両家の縁談に了承の判を押した。その後、諸々の交渉を経て不退院家に久布白家の女を嫁がせるという決定がなされた。“家”という壁を前に反目し合うかと思われたが、ふたりは順調に愛を育んでいった。生理日をもとに、月の満ち欠けを参考に、日にちすら予定されたふたりの情交は万全を期して行われ、一年後、女児が生まれるに至ったのである。
 その“混血”の子の成長過程において判明した事実はいくつかあるが、主なものとしては――どうやら、トキナには先天的に異なる人格があるようだということだった。
 光と闇。
 蝶と蛾。
 神の悪戯か、悪魔の計らいか――なるべくして生まれたふたつの人格。
 朱鷺菜と呼ばれる人格には妖魔――不退院としての血が覚醒し、季菜と呼ばれる人格には人間――久布白の血が宿っているものとみられた。とはいっても、本来的な護国十家の格の差を反映しているのか、基本的に精神活動における主導権は朱鷺菜が握っているらしいということがわかった。色素不明の金紗の髪については、混血による遺伝子異常か、なんらかの副産物ではないかという見解がなされた。
 ふたつの家門――そのどちらにとっても異質な子ども。
 そんな彼女たちに愛情を注ぐのは蔀と赤兄だけだった。特に蔀に至っては双子を授かったような心持ちだったのだろう、盲愛といっていいものだった。
 しかし、そうして訪れた彼女たちの三才の誕生日――それは、起きた。


 その日は、雲の多い春の日だった。
 中部地方の山奥にある久布白家の屋敷にて、両家は集会を開いていた。トキナの誕生日を祝うという名目であったが、混血の実験体として生まれた彼女の経過報告や、今後の指針を相談する場としての意味合いがほとんどだった――というより、そもそもほとんどの者はトキナを祝おうという意思を持ち合わせていなかった。
 当時十八歳だった四辻も、そのひとり。
「四辻ちゃん、今日もきみは眠たそうだね」
 縁側で山並みを眺めていた彼女は、華やいだ表情を浮かべて振りむいた。そんな顔をできるのは目の前の青年と話すときだけになっていたことは、いつのころからそうだったかなんて覚えていない。
「……赤兄兄さん」
「ひとりでいるのもいいけどさ、トキナの遊び相手もしてくれないかな。やっぱり四辻ちゃんくらいのお姉さんがいてくれると安心なんだよね」
 鷹揚に笑う赤兄を見ながら、心中で肩を落とした四辻は言った。
「まあ、嫌だとは言わないでおいてあげる」
「喜んでいいのかな、それ」赤兄は再び笑うが、そこには苦笑も含まれている気がした。
 しかし実のところ、四辻にとっては最大限の譲歩だった。
 彼女ははじめから、それこそ生まれたときから、トキナという幼女のことが嫌いだった。それは言わずもがな、想い慕っていた人を奪っていったよそ者の子どもだったから。
 そのよそ者――蔀については苦い記憶しかない。
 比較的年が近いことがあってか、彼女はよく四辻に話しかけてくるのだった。お料理をしましょう、お裁縫をしましょう、お散歩をしましょう――できるだけ愛想のいい笑みで、それでいて真に温かい笑顔で、一生懸命家に溶けこもうとしているのが感じられた。だが四辻にしてみれば、それは不愉快の一言に尽きた。泥棒猫に割り当てる優しさはない。しかし、冷たくあしらっても蔀は健気に話しかけてくるのだった。それはどこか自分の醜い感情の外皮をゆっくりと剥がされているようで、四辻はたまらなかった。
(憎たらしい)
 そんな女の娘なのだ。優しくしてやる気ははたしてない。
「やっぱり、四辻ちゃんもトキナになにか思うところがあるのかい?」
 四辻の表情ににじむものを感じとったのか、赤兄が寂しげに微笑みかけてきた。
 彼の言う「思うところ」というのは、いまだに屋敷で耳を澄ませば聞こえてくるささやきのことだろう。出生から三年経った今でも、不退院の一部の者たちはトキナの存在に疑問を感じているというか、忌諱(きい)の念を抱いているのだった。四辻もそのような考えの持ち主だと思われたらしい。彼女はそうではないと否定したくなった。そうではない――ただの八つ当たりなのだ。でも、その複雑な胸の内を洗いざらい打ち明けることなどできるはずもなく、彼女は黙って赤兄を見つめるしかない。
「まあ、きみにかぎってそんなことはないか」彼は自信に満ちた声でつづけた。「でもね、みんながなんて言ったって、俺は絶対に曲げられたりはしないよ」
「……そう」
「トキナや蔀のために、俺はどんな努力も惜しまないつもりだ。あの子は三才になった。きっと、これからが本当に大切な時期なんだと思う。だからさ、俺はどうやっても彼女たちを守るよ。なにせ……愛する妻と子どもだからね」
 こんなこと話すのは四辻ちゃんだけだからな、と恥ずかしそうに赤兄は白い歯を見せる。
「……そう、頑張ってね」
(――愛する人、か……)
 四辻は、その口元に乾いた花に似た笑みを湛えて、呟いた。


 ――そのころ。
 久布白の屋敷から少し離れた林の中に、いくつかの影が蠢いていた。
 不退院家の男女数人だ。彼らの眼光は凄まじく、また着物の色味は墨色で、屋敷内においても周囲と一線を画していることは明白だった。
「昼虚(ひるこ)、見えるか?」
 口髭を蓄えた中年の男が、昼虚と呼ばれた短髪の男に問いかける。彼は答えた。
「ああ、たくさん群がっていやがる。狐狸彦(こりひこ)、ありゃいったいなんだ?」
「我らが尊き血脈に食いつき、卑しく蜜をすする毒虫だな」
「ああ、ああ、そうだ。ああ、そうに違いない」昼虚はうんうんと頷いて、狐狸彦とは逆の方向をむいた。「それならどうするのが道理だ、未翅(みはね)」
「あたしは駆除にかぎると思うな。昼虚おにいちゃんは?」
「いかにも」
 そう言うと、昼虚は振り返る。そこにはひとりの女性が落葉の絨毯の上に座っていた。赤子を模した木偶の人形を押し当てていた右の乳房を隠すと、人形をたすきがけを交差させたかたちで背負う。首の可動部がコキリと鳴る。彼女は虚ろな瞳で言った。
「お乳あげたから、少しのあいだ辛抱しててね。母さんも頑張るから」
「準備は万端か、夕霧(ゆうぎり)」昼虚は目を細める。
「ええ……いつでも」
「なら、いくぞ」
 全員が昼虚のうしろに並んだ。彼は厳かな手つきで腰に差していた日本刀を鞘ごと帯から抜くと、面前に掲げ――鬼気迫る瞳の先に屋敷をとらえつつ、言った。
「誇り高き不退の純血を穢す輩を、正義の浄化をして刀下の鬼とならしめんことを」


 退屈だ。
 四辻は足を崩して、畳の細かい凹凸を指でなぞった。すると、つん、と反対から同じようにしてやってきた誰かの人差し指とぶつかった。自分のものよりずっと小さい、爪の桜色が可愛らしい土筆みたいな指だ。顔を上げると、朱鷺菜がじっと彼女を見つめていた。瞳は赤兄に似ており、金紗の髪のあいだから丸っこい耳がのぞいている。
「なに」
 聞くと、朱鷺菜は黙ってそっぽをむいてしまう。なにを考えているのかわからないところは三歳児らしいと言えばらしいのだけど、四辻は溜息を吐かずにはいられなかった。
 そのまま沈黙を重ねていると、襖を開けて誰かが入ってきた。
「あ、四辻ちゃん。朱鷺菜の面倒見ててくれたの?」
 蔀だった。
「別に、赤兄兄さんに頼まれたから」嫌味ったらしく返す。
 が、蔀は嬉しそうに微笑みをもらして、朱鷺菜の横に正座して言った。「朱鷺菜。四辻お姉ちゃんとなにをお話していたの? 教えてくれない?」
 朱鷺菜は反応しなかった。畳に投げ出した足をぱたぱたとさせているだけだ。それはそうだろう、と四辻は納得した。現に、話と呼べるようなものはなにひとつしなかったのだ。
「じゃあ、ほかにどんな人とお話したの? 誰でもいいから言ってみて?」
 かすかに焦りを含んだ声で、蔀は言う。トキナがこの久布白の家においても孤立してしまうというのは、自分が出身者であるのはもちろんのこと、母として胸が締めつけられる思いがあるのだろう。すると、朱鷺菜は舌足らずな声で言った。
「はなした」
 蔀の顔に緩く光がさす。「そう、誰と話したの?」
「くぶしろの、すずりっていうこ」朱鷺菜は照れくさそうに、もじもじと両手の指を絡ませてつづけた。「あのことはなしがしてみたいっていうから、すこしだけあわせてあげた。そのあとわたしもすこしだけはなした。すずりはちょっとおねえさんだった」
「そっか。楽しかった?」
「うん……たのしかった」
 蔀は嬉しそうに微笑んだ。そして、故意にふたりから目を逸らしていた四辻にも、笑顔をむけてくる。気づかないふりをしていても、蔀がにこにことしているので、しかたなく彼女は目を合わせることにした。「なにか用?」
「四辻ちゃんも、ありがとうね」
 四辻の唇が開きかけて、閉じる。
「トキナの相手をしてくれるの、四辻ちゃんだけだから……」
 だから、ありがとう。蔀はそう言った。
「……そんな」四辻は言葉を濁らせることしかできない。
 すると、蔀はつづけた。母としてではなく、ひとりの女としての声で。
「赤兄さんのことは、ゴメンね……」
「え……」
 四辻が面を上げた。
 その次の瞬間だった――縁側一帯が内部にむかって吹き飛んだ。


 久布白硯は、とたとたと廊下を疾走し、ある一室の襖を開け放った。
「姉さま!」
 薄い藤色の着物を身にまとった少女に近寄っていくと、彼女は割れ物を愛でるような手つきで硯の頭を撫で下ろした。「こら、硯? 女性は楚々として動くものよ」
「はぁい、姉さま」
 硯は姉の禊(みそぎ)が大好きだった。品行方正で、いつも清純な香りをふんわりと匂わせている。いつか自分も姉のようになりたいと常日頃から思っていた。
 反対に、離れて座っている兄と父のことは苦手だった。兄はいつもいじわるをしてくるし、父は厳格で、家紋に誓って言うが、彼の笑ったところなど見たことがなかった。
「硯ったらどこにいってたの?」禊は硯を撫でつづけながら聞いた。
「えっとね、トキナちゃんとお話してきたの」
 そう答えると、父の顔は牢(ろう)として動かなかったが、兄はとがめるような視線を寄越してきた。姉も一寸驚いたように口を開けたが、すぐに笑顔になって言った。
「そう、それはいいことよね。ねえ、当主様(おとうさま)」
「……そうだな」
 すると、禊は衣擦れの音とともに立ち上がり、硯の手をとった。「硯。私もトキナちゃんとお話がしてみたいわ。連れていってくれるかしら?」
 姉の頼みだ。断る道理は、地の果てを探したってどこにもない。
「うん、いいよ。姉さまついてきて」
 硯が喜々として腕を引っぱった――直後。
 破壊の音が、彼女の鼓膜を殴打した。


 衝撃は唐突に浴びせられた。まるで空襲を受けたかのように視界が暗転したかと思えば、直後に意識は繋がった。なにが起きたのか、瞬時には把握できなかった。
「う……」四辻は鈍く痛む背中を起こして、ひとまず周りを見る。
 そこは、一言で言えば廃墟だった。全体に土煙が舞っていて、本当に爆弾でも投下されたのではないかと思う。建具は折れ、畳は見るも無残なかたちで剥がれていた。どこからか大勢の悲鳴のようなものが聞こえるが、先刻の衝撃でどこか内耳のあたりをやられたらしく、膜を張ったようにしか聞こえなかった。くらくらと眩暈がする。
 と。
 近くで、なにかが起き上がる音がした。見れば、蔀が瓦礫の中から這い上がってきたところだった。暗中でなにかを探るように、弱々しく両手をさまよわせている。
「どうしたの? 急にお日様が落ちて……ねえ、明かりをつけてくれない? 四辻ちゃん、そこにいるんでしょ? きっと、真っ暗だとトキナも怖がると思うから」――言っている意味が四辻にはわからなかった。しかしよく見てみると、蔀の両目からは赤黒い涙が流れ出し、眼球は螺子(ねじ)の緩んだ取っ手みたいにぐらついていた。
 四辻は震える声で呟く。「蔀、あなた……まさか、目が」
 そのとき、部屋にひとつの影が飛び込んできた。木偶の人形を背負った不退院家の女だ。四辻は状況を問おうと口を開きかけた――が、それとほぼ同時に蔀が女の腕をとった。
「よかった、四辻ちゃん。早く明かりを」
「触るな。汚らわしい害虫め」冷たく言うと、女は手にしていた鎌で蔀の胸を貫いた。
 わけのわからないまま絶命し、床に崩れ落ちる蔀を見て、四辻は狼狽する。
「ゆっ、夕霧さん。なんてことを」
 しかし、そこまで言って彼女は気づいた。
 周囲に響き渡る断末魔や、ためらいのない蔀の殺害、そして不退院夕霧という人物――すべての符号が、集約的にひとつの答えを弾き出したのだった。
 ――不退院家には、純血派と呼ばれる派閥があった。
 ほかの言い方をすれば、過激派となるだろう。構成員は昼虚、夕霧、狐狸彦、未翅などの十にも満たない少数派ではあるが、その全員が不退院の血が色濃く表れた手練だった。
 純血派は以前より存在していた括りだったのだが、三年前の“混血実験”以来、言動を活発化させてきていた。最後まで赤兄と蔀の縁談に反対してきたのも、トキナの存在を最も忌み嫌ってきたのも彼らである。彼らは血の純粋さを狂信的なまでに崇敬し、そこに混ざり込む不純物はすべて排斥すべきだと訴えつづけてきた。しかし、それを極端すぎるとして烏森は退けてきた。ときには折檻し、無理やり沈み込ませてきたのだ。
 だが、その結果が――これ。
 久布白家の殲滅計画。
 鬱憤の破裂した彼らは、最悪の選択を採ってしまった。
 屋敷に攻め込み皆殺しにしようだなんて、狂っているとしか思えない。
 四辻は腰を抜かしてしまっていた。しかし、夕霧が鎌をゆっくりと持ち上げながら、四辻の背後に目を落としていることに気づく。振りむけば――ぐったりとはしているが、意識をかろうじて保っているトキナの姿があった。
「だめ……っ」
 夕霧の意図を察知した四辻は、朱鷺菜のからだを引き寄せて胸の中に抱き入れた。そして彼女を守るようにして背をむける。
 夕霧はその背中に怒号を突き刺した。「四辻、邪魔をする気!? その子を渡しなさい! その子はいてはならない存在、穢れた血の結晶なのよ! そんなものをかばってなんになると言うの! 早く渡さないと、あなたごと切り殺してしまうわ……四辻っ!」
 ひっ、と四辻の喉が鳴る。
 恐い。恐い。恐い。脅しじゃない。夕霧の恐ろしさはよく知っている。
 だから、自分でもわけがわからなかった。どうしてこんな行動に出たのか全然わからなかった。なにを迷うことがあるというのだ。むしろ都合がいいじゃないか。こんなものすぐに引き渡して八つ裂きにしてもらおう。清々する。あの女も死んだ。ついでにこの子にも消えてもらえば、あの人は一から出直し。私に夜這いをかけてくれるかもしれないじゃないか。こんな簡単な話はない。こんなうまい話はない。ない――ないはずなのに。愛する人を奪っていった憎い女の娘なのに。いつも疎ましく感じて、何度も死んでしまえばいいと思った幼女なのに。
 それなのに――どうしてこの手は、この子を離そうとしないのだろう!
「その手を離しなさいっ」
「いやっ」
 手が勝手に動く。さらに強く朱鷺菜を抱きとめる。それに応じるかのように胸にしがみついてくるのがわかった。
「四辻っ」
「知らないわよっ」そう叫ぶと、夕霧がたじろぐのを感じた。「私だって知らないわよ! どうしてこの子を守ろうとしているのか、全然わからないのよ! ずっと嫌いだと思っていたのに、いなくなればいいって思っていたのに。こんな、どうして……どうしてなのよ……」
 殺される、と四辻は思った。歯ががちがちと鳴る。もう見ることを諦めた背後で、鎌を振り上げる空気のうなりが聞こえた。
「四辻、呪わないでね」
 ごめんなさい。そう誰かに告げた――その直後。
「夕霧!」
「……ちっ!」
 思わず振りむくと、純血派ではない不退院の男が死角から夕霧を襲ったところだった。彼の薙いだ刃先は、夕霧が即座に避けたため空を斬る――否、かろうじて彼女の背中にくくりつけられていた帯の一端を斬り落とす。それは通常なら有効打にもならないが、夕霧の背負っていた木偶の人形が床に落ちた。
 首を打ちつけ、簡単に頭がとれる。それを見た夕霧は、急速に戦意を失った。
「ああ……私の子が、可愛い私の子があ……っ」
 膝をつき、壊れた人形に手を伸ばす。その空白はあまりにも致命的だった。
「夕霧――反逆者につき、御免っ」
 一太刀の下に斬り捨てる。夕霧の肩口から胸にかけて鮮血が飛び散り、そのままうつ伏せに倒れた。血だまりが死体を中心として花開いていく。
「大丈夫か? 四辻」男は駆け寄ってくる。こくりと頷くと、彼はどこか別のところへ跳んでいった。烏森の指示で、純血派の残党を処分しにいくのだろう。
 四辻は、力なく柱に背をもたれさせた。トキナはどうやら気を失ってしまったみたいだ。そのままぼんやりと呼吸だけこなしていると、誰かが近づいてきた。
 赤兄だった。彼は覚束ない足取りで、蔀のそばにひざを下ろした。「蔀……蔀……」と揺さぶるが、彼女は一言も応えることはない。赤兄は妻の名を低く連呼しながら、死体に顔をうずめていく。そしてその口からなにかがもれた瞬間――
「――――――――――っ!」
 ひとつの慟哭が屋敷の中に響き渡った。
 四辻はただ、その姿を見つめることしかできなかった。


 硯は、薄闇の中で目を覚ました。
 なにが起きたのかはわからない。だが、瓦礫の下敷きになっていることは把握できた。まずは脱出しなけばと思うが、からだはぴくりとも動かなかった。足だ。右足が、硯の意思から乖離している。ただ、その代わり痛いとも感じなかった。
 瓦礫の隙間からのぞいた部屋の中に、影が揺らいだ。「昼虚殿どういうことか」と野太い声が聞こえる。父だ。兄の遺体を抱えた父が、何者かと対峙している。
 しかし、それを認識した刹那――彼の首が綺麗に飛んだ。
 ごろごろと鞠みたいに硯のすぐそばに頭が転がってきた。怒りに顔の歪んだ父と目が合う。硯から悲鳴は出なかった。股から生温かい液体が広がっていくだけだった。
 次に目に入ったのは禊だった。
 父を殺した人物になにかを言いながら、こちらへとあとずさってくる。硯は心の中で、姉さま姉さま姉さま、と何度も叫んだ――逃げて、逃げて姉さま。
 禊は異能を発揮しようと両腕を伸ばした。しかし、それらは意外に軽快な音を発して一瞬で宙に舞う。そして彼女が激痛に犯される前に、こんどは上半身と下半身が真っ二つに刎(は)ね飛ばされた。奈落が突然外れたときみたいに、彼女の胴体が墜落する。
 あまりに非現実的で嘘みたいな現実。
 父が、兄が、そして姉が――惨殺された。
 瓦礫の下にいたのが功を奏したのか、何者かは硯に気づくことなくどこかに走り去っていってしまった。薄闇の中に、ふたつの赤い光の残像を置いて。
 どこからともなく、断続的に悲鳴が再生再生再生再生再生再生再生再生再生されていく。その不協和音の中に、ずりゅ、ずりゅ、というなにが這う音が交わった。
 音源に視線を移す。人体の神秘だ。およそ人間らしいかたちを失った彼女が、どうして動いているのかわからない。禊が硯のもとへと擦り寄ってくるところだった。
 おそらく、硯がそこにいることを知っていたのだろう。だから逃げなかった。守ろうとした。畳に赤い筆を下ろしながら、彼女は瓦礫の狭間から硯の顔をのぞき込んだ。いつも和やかに笑んでいた表情は、すぐ背後まで近づいてきている死の影に怯えるように、ふるふるとわなないているだけだ。しかし瞳だけは、強烈な光を湛えている。
 硯はその瞳に頷いた――わかりました、と。
 わかりました。姉さまの望みどおりに、私があの人たちを皆殺しにして差し上げます。
 足に刻まれた憎悪の証をうずかせながら、そう誓った。

     

      (二十四)


「夕霧さんのように、すべての純血派を粛清したことで事件は終局を見た。でも、久布白家はほぼ全滅。不退院家も大きな打撃を受けて、両家は禍根を残したまま離れていったわ」
 その後、四辻は前後不覚となった赤兄に添うようになった。身の回りの世話をし、話しかけた。けれど、心の廃れた彼がたまに呼ぶ名は決まって「蔀」だった。四辻を死んだ妻だと思い込んでいたのだ。でも、彼女はそれでよかった。そばにいられることが幸せだった――のに、ある日赤兄は自ら命を絶った。突然、正気にもどったかのようにまっすぐに見てきて、『きみは、蔀じゃない』と言った二日後のことだった。
 よみがえってくる冷たい記憶を押し殺して、四辻はつづけた。「それ以来、十数年音信は途絶えていたのに。ここでその禍根が芽吹いてくるなんてね、おかしい話でしょう?」
「復讐か」苦しげに茎也は言った。「なんとかならないんですか? 烏森さんを殺された気持ちはわかりますが……説得をするとか、久布白硯におとなしく帰ってもらう方法は」
「知ってる? 家族を奪われた憎しみっていうのは、この世のものじゃないのよ。あの世からの贈り物なの。内包している条理自体が別物。だから、常識なんてものを当てはめる型ははじめからないし、そもそもこんな話すら詮がない」
 茎也は口を閉ざした。四辻はつづける。
「それに、久布白だって所詮は人間の類似品よ。姿形は限りなく人に近いけれど――似ているということは、どこかが決定的に違うということ。護国十家という時点で認識を改めるべきだわ。久布白硯は、けっしてとめられない」
「だけど……」
「今回ばかりは嶋原くんは関わらないほうがいいかもね」四辻はそう誘木と似たようなことを告げたあと、まっすぐに見すえて言った。「へたしなくても死ぬわよ」
「絶対ですか」
「そうとは言いきれないけど?」ふふっ、と四辻は口元を緩める。
「だったら俺は大丈夫ですよ」茎也は立ち上がり、学生服を羽織った。「お願いです。季菜のところに連れていってください」
「人間のあなたになにができるのかしら?」
「正直、わかりません。けど、このままなにもしないでいることはできない」
「そう」四辻はあきれたように微笑みながら、サングラスをかけた。「いい彼氏ね」
 どうやら了承してくれたらしい。家を出てから茎也がついていっても、四辻はなにも言わなかった。結構長い時間をあの居間ですごしていたみたいで、空はとっくに夜の色に染められ星屑が雑然とひしめいていた。弓張月が白く浮かんでいる。
 夷越山のふもとまできたときだった。ちょうど誘木が下りてきた。四辻の姿を認めると、苛立たしげな表情で近づいてくる。「おまえ、どこにいってたんだっ?」
「彼の家に招待してもらってたのよ」
 四辻が茎也のほうに手をむける。そこで、誘木ははじめて彼を認識したようだった。
「嶋原……あれだけ言っただろう? この事件には関わるなと」
「まあ、知ってしまったものはしかたないと思うぜ」茎也はわざとらしく肩をすくめて、つづけた。「それより、そんなにあわててどうしたんだ? まさか……」
「ああ、そのまさかだ。トキナが屋敷の中にいない」
「もしかして、拉致されたとかか?」
「違うと思うわ」四辻が静かに言ってきた。「きっと朱鷺菜が出ていったのよ。なにか考えていたふうだったから、もしかしてとは思っていたけど――」
「けど?」
「――久布白硯と対決するつもりなのかもしれない」
 茎也は息を呑んだ。焦りが全身を焼く。
「とにかくだ」誘木が舌打ちしながら言った。「彼女を見つけ出さなきゃならんことには変わりはないだろう? 地道に足で探すしかないだろうが、しかたがない。嶋原、おまえは西のほうにいけ。俺は南だ。四辻は……とりあえず待機しておけ」
「わかった」
 言うが早いか、茎也は走り出した。人気のない場所を中心に捜索することを考える――なぜなら護国十家は、妖魔は、あくまで俗信でなければならないからだ。噂は噂のまま。与太は与太のまま。人の耳に触れても、人の目に触れてはならない。
 茎也は速度を上げる。
 自分がなにをしようとしているのか、なにになろうとしているのか、そして、なにが突きつけられようとしているのか――それらいっさいを考えることもないまま。

                 ◇

 不退院朱鷺菜は、電柱にもたれかかりながら弓張月を見上げて、ひとつ吐息をもらした。
 制服のポケットから黒い鋏をとり出し、指を軸に刀身をくるくると回しはじめる。指や回転を入れ替えながら器用にもてあそぶ。準備運動をひととおり終え、右刃と左刃を合わせると舗道のほうに首をもたげた。
 その視線の先では――夜陰から久布白硯が歩いてきていた。
 きっと、あの日からずっと久布白家の葬列はつづいているのだろう。彼女は壊れた右足にいくつもの棺桶を引きずりながら、歩いてきたのだろう。黒をまとっている理由も、そう考えればすんなりと納得できる。
 だが――そんなことは関係ない。
 敵であるのなら、敵というのなら、迎え撃つ。それだけだ。
 朱鷺菜は久布白硯をにらみつける。しかし、その鬼気を殺ぎ落とすかのように、彼女の品よい声が流れてきた。「もしかして、こんなところではじめる気ですか?」
「いやか?」
「まだここは人が通るかもしれません。貴女も護国十家のはしくれなら、それぐらいわかりますよね」不敵な笑みを見せ、歩いていく。「ここのむこうに無人の廃ビルがあったはずです。今晩はせっかくの秋の夜長。たまには散歩などよろしいんじゃございません?」
 朱鷺菜は、硯の背中に視線を這わせた。一刺しすれば簡単に片づけられそうだが、油断や隙といったものは微塵も感じられなくて、迂闊に飛び込むことを躊躇させる。
 おとなしくついていくと、廃ビルが見えた。二階に上がり、錆びついたドアを開ける。元はオフィスかなにかだったであろう空間が広がった。ガラス片などの廃材が散在している。
 硯は奥のほうへと足を伸ばしながら、くすくすと微笑をもらした。
「ねえ。貴女はあの死体を、見た?」
 烏森の変死体のことだろう。朱鷺菜は冷然と返答した。
「ああ、一目でわかった。きさまにお似合いの、悪趣味な殺人嗜好だ」
「ひどい言われようですね。勘違いなさらないで? あれは私の意思じゃないの。本当はもっと穏便に罪を悔いて頂きたかったのに……残念。しかたがないんです」
 嘘をつけ、と心の中で毒づくと、硯は振り返った。
 生気の欠落した黒目が、朱鷺菜の赤い瞳を見すえる。
「忘れられないんです。貴女がたの、その眼が。脳裏にこべりついて、いつまで経っても私の記憶から剥がれ落ちてくれない。だから、その眼を見るたびに、あの日の姉さまたちが殺されたときの映像がよみがえってきて、私は私でなくなってしまうんです。本当は、姉さまのように淑やかな女性でいたいのに、相手を血に染めてしまう……」
 しかし、そう言う硯の表情に自身を嘆いているような気配はなかった。むしろ快感に悶えるような、淑女とはほど遠い娼婦に似た笑みを浮かべている。
 朱鷺菜は舌を弾いた。護国十家の中でも、指折りの異常者がそこにいる。
「だったら、今もそうなのか? 憧れの姉さまとやらがあの世で泣いてるな」
 軽く挑発したつもりだった。
 すると硯の顔から笑みが失せ、一瞬きょとんとした眼差しをむけたあと、言った。

「――なぁんだ。早く御死にになりたかったのなら、そう言ってくださればいいのに」

 唐突に大気が冷却され、殺気が室内を駆け抜ける。朱鷺菜はそれを薙ぎ払うかのように鋏を一度振るうと、タイルを蹴って硯へと突進した。
 その間に考える――おそらく、硯の足は機動力など望めまい。ならば先手必勝。相手の力の正体がわからずとも、それを駆使する前に黙らせればいいだけの話だ。
 硯の間合いに踏み入り、白い喉元めがけて鋏を突き出す。むこうはなにひとつアクションを起こせないでいる。完璧に“とった”と思った――ところが。
「なっ」
 朱鷺菜は目を見開いた。金属音とともに腕に響くのは、人体ではありえないかたい感触。なにかに刃を防がれたと思ったのも束の間――下腹部を強い衝撃が襲った。
「ぎぁうッ!」
 朱鷺菜は後方に吹き飛ばされるが、結果的に硯から距離をとるかたちになる。どうやら、なにかに殴りこまれたみたいだった。内臓へのダメージはわからない。
「フフフ。犬みたいな声を出して、だらしがないですよ?」
「いったいなにを……」朱鷺菜は面を上げた。
 そこでは――物体が、宙に浮いていた。
 足場用の鉄板と鈍色の鉄パイプだ。硯を護衛するかのような動きを見せるそれらが、今の一連の攻防を演じたことは一目瞭然だった。
「調子にのるなよっ」
 朱鷺菜は立ち上がって再びせまった。予備動作なく振り下ろされる鉄パイプを避けて、顔面にむかって鋏を伸ばすが、やはり鉄板に防がれる。すると、鉄パイプが脇腹を狙って振り上がってきた。彼女はそれを食らう――ふりをして、乗る。その軌道とエネルギーを利用して硯の背後の壁にとりつくと、背中めがけて跳んだ。
 完全な死角だったが、またしても鉄板によって防御されてしまう。このままでは埒が明かないと思い、朱鷺菜はすぐさま硯から身を引いた。
 すると、周りから様々な廃材が集結し、二枚の鉄板を上下の顎(あぎと)に模した巨大な猛犬の頭がかたちづくられ、逃がすまいと追ってくる。すべての噛みつきを避けきって十分に距離をとると、猛犬の頭は主人のところにもどって再び盾のかたちとなった。
「驚いたな」朱鷺菜は言った。「いつの間に第六感なんか身につけたんだ?」
 第六感――すなわち超能力。
 目の前で起きている現象は、極めて典型的な観念動力(サイコキネシス)の異能だと考えるのが妥当だろうし、事実まっさきに閃いたのはその可能性だった。しかし、朱鷺菜はその解釈に腑に落ちないものを感じてもいた。
「第六感だなんて、やめてください。人間、五感の今でさえギリギリなのに、これ以上感覚なんて増やされたら気が狂ってしまいますよ」硯は、含み笑いを闇に溶かした。
「……それはおかしな話だな」こめかみを伝う汗を感じながら、朱鷺菜は冷たく笑んで硯の頭上を指さす。「こんなもの、とっくにきちがいができあがっているはずだろう?」
 十数余の廃材鉄材角材その他諸々が浮遊していた――さすがに驚きが表情ににじむのを拒めない。これほどの数の物体に念を巡らせるなんてことは基本的に不可能だ。脳の神経が焼き切れる。護国十家の中には超能力に特化し名を馳せた一族がいたのだが、観念動力の申し子をもってしても一桁が限界だったと聞いている。
(となると、やはりなにか裏がありそうだな……)
 次に、久布白家について考えてみる。元々、彼らは超能力の類に目をむけるような家系ではなかった。先祖代々受け継がれてきたのは、祈祷術や霊媒術だったのだ。それは現代においても変わらないはずだし、たとえ硯が霊力を放棄したとしても、たかだか数年でここまで能力を磨き上げるのは無理としか思えない。
 と。
 そこまで考えて、朱鷺菜の目尻がぴくりと吊り上がった。
(いや、まさか)
 ――元が祈祷師や霊媒師の一族?
 ――この現実が観念動力の原理では理解されえない?
 なら、それが本当はまったく違う法則の下に働いているとしたら?
 彼女の中にあるひとつの仮説が浮かんだ。最悪の仮説だった。

     

      (二十五)


 朱鷺菜は忌々しげに口を開いた。
「まさか、きさま……外来種を持ち込んだのか」
 外来種――つまり、古来より日本国に存在していない類のもの。
 西洋魔術やブードゥーなどの異文化圏の異能を扱うことは、伝統を重んじる護国十家の家々においては当然に禁忌とされてきた。なぜならそれは、植物や動物と同様、自然界のバランスを崩してしまうのと同じように、能力の特質や均衡を壊してしまうから。
 しかし。
「ええ、それがなにか、悪いことでしょうか?」
 久布白硯が駆使しているものは、完全な掟破りだった。
 ――騒がしい霊(ポルターガイスト)。
 独逸(ドイツ)由来の外来怪異。
 いくつもの物体が無差別に動き回る現象だ。観念動力と類似しているようにも見えるが、実際のところそれよりも圧倒的に凶悪である。なにせ、それは本来的に生者の業ではない。言うなれば、現世に遺された黒い感情の嵐である。
 そんなものだが、そんなものだからこそ、久布白硯は自らのからだにとり憑けたのだ。制御できているのは立派だが、とはいえ、そもそも正気の沙汰とは思えなかった。精神であれ肉体であれ必ずどこかが壊れる。彼女の中身がズタボロになっていることは容易に想像できた。女として人間として、すでに望みを捨てているのは間違いない。
「悪いもなにも、きさまには誇りというものはないのか。外来霊なんかに頼って、みっともないとは思わないのか」
「誇り、ですか? そうですね、姉さまならきっと許さなかったでしょうね。兄さまもお父様もおばさんもおじさんも。でも、その人たちはもういない。みぃーんな、極楽浄土に逝ってしまいましたから」硯は気がついたようにつづけた。「ああ、そう。嫌味ですね? そうなんですね? だって貴女たちが家族を私から奪っていったんですもの。復讐するためには誇りなんて枷は外さなければならなかったんですよ。私は間違っていますか? 金糸雀のお嬢さん」
「……ほざけ!」
 朱鷺菜は鋏を逆手に持ちかえ、走り出した。オフィスデスクが丸ごとむかってくる。それを驚異的な跳躍力で飛び越え、蹴りの一撃を鉄板の盾に叩き込む。さらに彼女は攻勢に出ようとするが、二枚の盾が数センチの隙間をつくったのを認めた瞬間、すぐさま姿勢を落とした。
 わずかな差――朱鷺菜の肩口があった場所を、隙間から飛び出した鉄パイプが通り抜けていった。しかし、串刺しを免れたと思ったのも束の間、
「もっと、もっと舞ってごらんなさいな。妖蛾の末裔なんでしょう?」
 五月雨がごとくガラス片が降り注いできた。朱鷺菜は横にかわそうとするが、残った右の足首を切り裂かれる。ぷしゅっ、と鮮血が噴いた。
「ちょこざいなっ」
 朱鷺菜は再び硯に挑む。そして後悔を噛みしめた。この廃ビルには、硯の武器となるものが多数散らばっている。下調べは済ませていたのだろう。まんまとおびき出された自分が恨めしいが、だからといって場所を移そうとほんの少しでも意識を外せば確実にやられる。
 不利な状況はつづき、体力だけがしだいに削られていった――と、踏みこんだ右足首に痛みが走ったのはそのときだった。ほんの少し重心が行き場を失う。
 その隙を硯は見逃さなかった。
「つーかまえた」
 作業用のロープがすばやく朱鷺菜の両手首を縛り上げ、からだを強引に開かせる。
「強度実験でも、してみましょうか?」
 そして――大型のコンクリートブロックが無防備な腹部に高速で射出された。臓腑のつぶれる音とともに朱鷺菜は吹き飛ぶ。床をバウンドし、部屋の端まで小さなからだは止まらなかった。壁に背中を思いきり叩きつける。
「げえっ、げおぉ、げほっ」
 ブラウスの胸元が血に染まる。口腔内を錆びた鉄の風味が満たしていく。呼吸が妙に苦しいのは衝撃のせいだけではないだろう。たぶん、肋骨がいくつか折れているはずだ。
(……まいった。こいつは、さすがにまずい)
 身体の隅々が苦痛に嘶(いなな)く。それでも朱鷺菜は二本の足で立ち上がった。
「フフフ、本当に怖い目。血を吸ったような、赤い瞳。赤い瞳。赤い瞳」
 硯がポルターガイストの陣形を解いて近づいてくる。
「この期に及んでまだそんな眼をしていられるだなんて、感服してしまいます。ですけど、だからこそ貴女の泣き叫ぶ顔が見たい。無様に命乞いを繰り返す姿が見たい」
 と――ロープが死角から伸びてきて、朱鷺菜の上半身と首を縛り上げた。大男のような凄まじい力で締め上げられる。「がっ……ひぎっ、ぎいい」と必死でロープを引き剥がそうとするがびくともせず、意識が断絶しかけたときだった。するりと緊縛から解放された。
「考えてみれば、その状態じゃ命乞いは聞けませんよね」
 あはははと笑う。加虐を愉しんでいるのは明白だった。
「だったら、これならどうでしょうか?」硯は片手を水平に伸ばしてきた。だが、周囲には牙を剥いてきそうな物体はなく、ただのポーズにしか見えない。
「……?」
 そして朱鷺菜が眉をひそめたときだった。
 硯は――命じた。
「金糸雀よ、啼いて御覧」

 ペキュ、という不思議な音。

 違和感を覚え手元を見る。
 右手の薬指の爪が――なくなっていた。
 丸々一枚、剥がされた。
 ――き、
「きゃぁぁぁぁぁああああぁぁあああああああああああああああッ!?」
 悲鳴が夜気を切り裂いた。痙攣する指の先から柔らかそうなピンク色の肉が見え、血液がじわりと染み出してくる様子を、朱鷺菜はただただ見つめながらひざから崩れた。
「あら、意外に可愛い声で啼くのね、貴女」
 見ると、自分の爪が血を滴らせながら中空に浮かんでいる。もはや、人の手を離れたそれはポルターガイストの力の及ぶ範囲にあるらしい。
「き、きさま……」
「どうですか? こんなこともできるんですよ? でも、どうしてでしょう……人のからだって難しいわ。せいぜい末端を引き剥がすのがやっと。やっぱり人間は、人間の根源的な部分はそういうふうにできているのでしょうか」
 良心の桎梏(しっこく)、か。
 朱鷺菜は心の底から、この女が坂崎亜郎でなくてよかった、と思った。反社会性人格障害者の彼ならば、おそらく四肢くらいなら簡単に引き千切られそうだ。
 剥がされた爪は硯の鼻先にまで上昇する。それを、彼女は舌を伸ばして絡めとり口の中に含んだかと思えば、パキ、ペキ、と角質の割れる音をもらしてごくりと嚥下した。まるでそれが最高級に美味な食材であるかのように、恍惚とする。
「……採れたてはうまいか? このきちがい女め――」
 つづけかけた朱鷺菜の声は、
「減らず口」
 振り下ろされた鉄パイプによって途切れた。


 カランカラン、と鉄パイプの転がる音が廃墟の片隅に響き渡った。パイプの先端から跳ねた飛沫がタイルに赤い彩を落とす。
「ねえ、これでおしまい?」
 そこには――血溜まりに浮く金髪の少女。
 後ろ手にロープで縛られ、さらにひざのあたりも拘束された状態で、ポルターガイストの力によって宙吊りにされていた。唇から体液を滴らせながら、ヒュー、ヒュー、と干上がった呼吸を繰り返している。制服のブラウスやスカートは破れ、露出している部分は例外なく傷に塗れている。それは一言でいえば、拷問だった――鉄材角材廃材が殴打を重ね、ガラス片金属片が雪肌を幾条も裂いていた。
 ふいにロープが解け、朱鷺菜はうつ伏せに倒れる。その際についた手の、元々は十本揃っていた小さな爪も、右手からは人差し指、薬指、小指。左手からは中指、薬指――計五本の指から消え去っていた。
 満身創痍。虫の息。もはや意識を繋いでいるのがおかしなくらいの状態。
「いたぶるのも飽きてしまいましたね」硯は子どもが次の遊びを考えるように言った。「だったら復讐の一環として、私の足でも舐めてもらいましょうか」
 硯は黒のパンプスを脱ぎ捨て、スルスルとロングスカートを捲し上げると、タイツをまとった細い足を朱鷺菜の顔にかざした。
「さあ、私の呪われた足を舐めてくださいよ。貴女がたがこんなふうにしたんですから。私をこんなからだにしたんですから。懺悔のひとつでもしてもらわないと……ほら」
 顔に押し当てるが、反応する素振りすら見せない。もはやそんなこともできないくらい衰弱しているのか、と思いはじめた矢先だった――朱鷺菜の唇がもぞりと動き、プッと血の混じった唾を足に吐きかけた。そして、霞んだ眼差しながらも、確かに不敵な笑みを見せた。
 硯の目に、火花が散る。
 この期に及んで――!
「巫山戯(ふざけ)ないで、この雌餓鬼っ」
 杖で朱鷺菜の顔を殴り飛ばした。鉄パイプなどではなく、自らの腕を振るって――そのせいで少しバランスを崩したが、彼女の表情は新しい感覚に打ち震えていた。
「なに、これ? すごい……これ、伝わる感触が、すごい」
 そしてその感覚は、瞬時に感動へと変化を遂げた。
「あは、あはははははは! すごい、すごい! あはははは、あはははははは! こんなの知らない! ずっと知らなかった! あははははははははははははははははははは!」
 硯は足元に転がる肉の塊を何度も杖で叩きつづけた。それは、肺の中の酸素を絞りきるまで終わらず、哄笑がやんだあとは乱れた息遣いだけが静けさを揺らしていた。
「……もしかして、死んじゃいました?」金髪の少女の矮躯はかすかな上下さえ示さない。けれど、硯は笑って肩に杖をあてがい、仰むけになるように転がした。「まあ、そんなわけありませんよね。人じゃないんですもの」
 ――生きている。
 胸を必死に動かしている様は、翅のもがれた蛾を思い出させた。
 硯は白けたような瞳を近くの鉄パイプにさしむけると、それは滑らかに浮き上がり、朱鷺菜の心臓に先端の標準を合わせた。「これで、終わりにします」
 返事はない。当たり前だ。今の彼女には呼吸すら苦痛だろう。
「トキナ。貴女さえ生まれてこなければ、あんなことにはならなかった。たったひとりの混血という存在が、なにもかもをめちゃくちゃにしてしまったんですよ。それは、貴女自身がよくわかっていたはず。そのことをよく噛みしめながら……逝ってくださいね」
 硯は目を細めた――あとは、たった少し意思を込めるだけですべてが終わる。

 はずだった。

「やめてくれっ!」
 ドアを押し開いて少年が部屋に入ってきた。
 嶋原茎也――彼がふたりのもとに辿り着いた瞬間だった。
 しかし。
「誰!?」
 硯はとっさに鉄パイプをポルターガイストで投げた。回転しながら飛んでいったそれは、茎也の頭部に直撃する。彼は床に倒れた。
「……なんでこんなところに」
 硯は茎也に視線を絡ませた。表面的な怪我より内部への衝撃が強かったみたいだ。頭から流す血は少量ながらも、完全に気を失っている。学生服を着ているから、きっと近くの高校の生徒なのだろう――と。
「……高校の制服? へえ、そうでしたか。フフフ、間違っていたらごめんなさいね。もしかして、あの殿方は貴女の恋人だったりするんじゃございません? 正確には、貴女じゃないほうの、ですけど」背後からの返事はない。だが、硯は酷薄な笑みを浮かべた。「あーあ、残念。私たちの正体を見られてしまったからにはしかたがないですよね。誠に心苦しいですけど、あの方にはここで口を封じて貰わなければなりません。ねえ、そうでしょう?」
 硯はうしろを振り返った。
 だが――いない。
 血溜まりの中に、仇敵の醜態はなかった。
(え?)
 再び茎也のほうをむくと、なぜかその傍らで朱鷺菜がこちらに背をむけて片膝をついていた。彼の頭を優しく爪の欠けた手のひらで押さえると、ゆらりと立ち上がる。
 どうしてか、全身が総毛立った。
「貴女、どうして」――瀕死のはずなのに。
「……は、……ない」
「な、なに?」
「――茎也は、殺させない」
 朱鷺菜が正面をむける。とたん、硯の表情はこれまでにないくらいに憎悪に染まった。
 なぜなら目の前の少女の双眸は――あの家族を殺した男と同じように。
 毒々しく、禍々しく、瞳の中で真紅の劫火が渦を巻いていたから。
「う、く……うぅあああああああああああああああああ!!」
 脳裏にあの地獄のような光景が再生し、悲鳴とも雄叫びともつかない声を上げた。数多の廃材が連射され、朱鷺菜の位置をえぐる。硯は粉塵の舞う中に目を凝らそうとした、そのときだった――突然目の前に朱鷺菜の冷徹な顔が現われた。
(速い!?)
 硯は急いで鉄板の盾の陣形をつくる。紙一重で、鉄板のむこうから重機でもぶつかったかのような轟音が聞こえた。まるで少女の腕力とは思えない。
「いったい、なにを」
 攻めに転じなくては。
 鉄パイプを振り下ろす。直撃するが、それは有効打でもなんでもなく、朱鷺菜が右腕で受け止めただけのこと。そして――彼女はその手でパイプをつかむと、左手の鋏を使って九十度にそれを折り曲げた。まるでガラス細工の成形。たった数秒で、武器は使いものにならなくなった。
「だからって、いい気に……っ」
 硯は、くの字型になった鉄パイプを朱鷺菜の首をかっさらうようにして飛ばした。当たれば確実に頚骨をへし折れる――だが、彼女は身をよじりしながら回避する。
 そして、一回転して裏拳の要領で鋏を滑らせてきた。盾は間に合わないが、この距離なら顔を引くだけでかわせるはずだ、と硯が首を仰け反らせた瞬間――朱鷺菜は握りを解き、その中指を鋏の柄に通した。握った分の威力を犠牲にしたわずか数センチのリーチの伸び。だがそれは遠心力と本来のスピードにより、刀刃の一振りと化す。
「……!?」
 風切り音。
 硯の前髪がはらはらと宙を舞う。遅れて、視界に血がこぼれ落ちてきた。「ああうう」と額を押さえて、硯は闇雲に前方を薙ぎ払う。血を拭って視線を走駆させると、暗闇の中にふたつの赤い光点が見えた。あたかも鬼火のように昏く灯っている。
 唐突に。
 本当に唐突に。
 胸にある疑念が浮かび上がってくる――あれはいったい、なんだ?
 自分が相対しているものは、ヒトの形をしているのか?
 だって、あれは。
 あれでは本当に――人外の妖魔だ。
「…………」
 硯は自らの息が震えていることに気がつかなかった。額から血がまた垂れてきて視界が覆われる。だから、すばやく目元をこすった――と。
 朱鷺菜が目の前にいた。
 硯はパニックを起こす手前の精神で念じる。
「と」
 最初と同じだ。
「と」
 守りに入れば怖くない。
「と」
 怖くない。怖くない。
「と」
 怖くない――はずなのに!
「閉じろォッ!」
 骨肉をプレスする音が聞こえ、そして硯は見る。一本の腕が鉄板の隙間にねじ込まれており、さらに片手を追加して盾をこじ開けようとしているのを。
「ひっ」と硯の喉が縮み上がる。「その手を、その手を離しなさい! 離しなさいよ!」
 もはや半狂乱になり、杖の柄の部分で殴る。爪の剥がれた痕から血が弾ける。それでも、その指は離れようとはしなかった。するとしだいに硯の体力は底をつき、攻撃は弱々しくなっていき停止に至る。呼吸を乱しながら彼女は、開かれていく盾のむこうを見て呟いた。
「この、化物」
 その言葉で集中を切らしたのだろう、鉄板は落下し硯は丸裸同然となる。朱鷺菜は彼女を蹴り倒して馬乗りになると、無感情な眼差しを薄い胸元にむける。そして、そこに刃を刺し入れようと腕を上げたときだった。
 痛い――と、硯が呟いた。
 足が、痛い。
 あの春の日の記憶と重なる今――深い心の傷が、集積された憎しみが、その象徴である壊れた右足に幻の感覚をもたらした瞬間だった。彼女はもぞりとからだを震わせ、杖を捨て、両手で掻きむしるように右の太ももをつかんだ。小さな女の子みたいに言う。
「足が、痛い。痛い。足が痛いの。足が痛い、足が痛い足が痛い、足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が痛い足が」
 ドン、と――叫びのリフレインが停止する。
 ためらいなどない一撃。
 朱鷺菜が鋏を胸に突き立てたのだ。とはいえ、それは致死傷ではない。心臓の少し上、ちょうど大動脈を挟むようなかたちで刃が留まっている。
 朱鷺菜は口を開いた。「……きさまは、憶えているか」
「な、にを……」
 朱鷺菜の眼が、わずかに寂しそうに揺らぐ。
「あの日、あの子と話をしたあと、きさまが私と話したことを」
「…………」
「きさまは言ったんだ……『いつかみんなで、笑いながら貴女の誕生日会をしたいね。それで、もっと私たちが仲良しになれたらいいね』って」
 憶えていないか、と再び問いかける。しかし、
「……知らない。憶えているわけないじゃない、そんなこと」
「そうか」指に力を込めようとした。
「――待って」硯はちらりと意識を失っている茎也に視線を寄越し、つづけた。「貴女にひとついいことを教えてあげます……」
「なんだ」
 硯の顔に漂うのは、皮肉めいた微笑。
「貴女と彼。きっと、いえ必ず、壊れてしまう。フフ、彼もいつか気づくことになる。となりにいるのが人のカタチをした化物だって。言っときますけど、これは親切ですよ? 私が貴女にする……最初で最後の、親切……」

 ちょきん、と。朱鷺菜は硯の大動脈を切断した。

 ふっと彼女のからだから力が抜ける。その、今わの際に呟いた。
「仲良し、じゃなく、て……家族になれたらいいねって、言ったん、ですけど、ね」
「…………」
 廃墟に静寂が訪れる――とたん、硯の束縛から解放されたポルターガイストが暴走した。廃材が空中でぶつかり合い、窓ガラスが吹き飛ぶ。それらの音の暴雨は、どこか久布白硯の死に対する慟哭のようにも感じられた。
 とっさに朱鷺菜は茎也をかばって覆いかぶさった。背中をなにかが削る。……いつまでそうしていたかわからなかったが、ふと顔を上げると室内の混乱は治まっていた。あの外来霊がここに棲みついたのか、よそへいったのかは知らないけれど、どちらにせよ脱出が急務だ。
 昏倒している茎也の額から、こめかみ、頬、あごへと無事を確かめるように手のひらで撫で下ろす――が、さきほどの硯の言葉が脳裏を這った。『壊れてしまう』――それは不安にも属さない些細な感情の分子だったが、頭の中で蛆がごとく増殖していくような気がした。そんなもの、所詮は最期の悪あがきだと知っているのに。

                  ◇

「おい、にーさん。なにでそんなところで寝てんの? 風邪ひくぜ?」
「う……」
 茎也はゆっくりと瞬きし、上体を起こした。
 すぐに「あっ、起きた」「なんか悪いって、早くいこうよ」「おう、むこうで大変なことがあったんだってさ」と二種類の声が聞こえる。見ると、小学生の男女がコンクリート塀からこちらに乗り出していたからだを下ろし、道路を駆けていくところだった。重なり合うふたりの嬌声が、どうしてかひどく懐かしく感じる。同時に、頭痛がした。
「ここは」
 茎也はあたりを見回してみた。見間違えるはずもなく、自宅の庭だ。そして、自分が横になっていたのは縁側。どうやら、通りすがりの小学生に寝相を見咎められたみたいだった。確かに、縁側なんかで眠りこけていたら変に思うだろう。学生服を着たまんまだったらなおさらだ。
 空を見上げてみると、太陽が見えた。高さからして、昼ごろ。
 昼ごろ?
 夜は――すぎた?
「!?」
 茎也は飛び起きた。すぐさま縁側から家の中に入ろうとするが、内側から鍵がかかっており開けることはできない。舌打ちをして、玄関の方から回り居間になだれ込む。急いでテレビをつけるが、旧型だから反応が悪い。なにもかもがじれったく感じる。そして、ようやく画面が明るさを帯びはじめ、荒い画素で映し出されてきたのは――
 原稿をとり寄せる険しい表情の女性キャスター。
 地方放送のニュース速報。

『速報です。昨夜未明、皆尾市暮東町の元テナントビルの一室において、女性の遺体が発見されました。ビルを訪れた男女四人が発見し、通報したとのことです。女性の身元はいまだ判明しておりませんが、胸に鋭利な刃物で刺された痕があることから、警察は殺人事件の可能性が高いとみて調査を進めています。なお、女性は杖を使用していたとみられ――』

 もう、その後の内容は耳に入ってこなかった。
「…………」
 茎也のひざが力が失い、リモコンは畳の上に転がる。二の句が告げない。きっと、なにを言っても巨大な局面の流れに押し流されてしまう。
 その流れは運命の歯車を狂わせる。
 八年前と同じように。

 ――俺の彼女は、人殺しだ――

       

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