Neetel Inside ニートノベル
表紙

賭博天空録バカラス
9.マヨナカトランプ

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 初っ端に躓いた狗が当面のカモになるかと思いきや、なかなか善戦して二度ほどナポレオンを勝ち抜けていた。
 あまり賭けには用いられないナポレオンは親番子番は単なる陣営としか考えられないことが多いが、それでもやはり親が有利なゲームである。
 子番は連続して勝てば積み重なっていくが、大抵は親が勝つ。
 いかにしてナポレオンをやり遂げるか、またいかにして有利なナポレオンを潰すかを重視しなければならない。
 子で一勝した一敗した、そんなものは過程に過ぎないのだから。



 ふと後ろを見ると人が増えていた。
 部活動を終えた部員たちが遊びに来ているらしく、体格のよい生徒が豪快に笑いながらコインを張り取りしている。
 他人に関わっている余裕はないが、引いた札の良し悪しを喋りながらポーカーするのはどうなのだろう。
 彼らにとってはこんなもの、ちょっと高価な遊びに過ぎないのだろうな。
 遊びでは済まされない遊びを続けるため、天馬は手札を見た。

 スペード…4,10、J,Q,K
 ハート…Q
 ダイヤ…3,4
 クラブ…5、A

 切り札候補はスペードだろう。だが枚数が五枚とやや心もとない。
 マイティもなく、正Jを出してマイティ返しなどされたら最悪だ。
 天馬はチラっとプレイヤーたちの様子を盗み見た後、とんとん卓を叩きながら「スペード11」と宣言。

 すぐさま竜が「ハート12」と追いかけてくる。


 天馬と竜の鋭い視線がお面越しに交錯した。
 ちなみに宣言にはマークによる優劣がある。
 スペード>ハート>ダイヤ>クラブの順に弱くなっていき、仮にダイヤが11を宣言した後にクラブを宣言するためには、一枚追加して12を宣言しなければならない。
 逆にクラブ11宣言の後は、ダイヤ以上のマークは11のまま宣言ができる。
 交通整理のようなもので、こうして取り決めておかないと混乱するためだ。
 ちなみにトランプのマークは中世の階級制度を表しているそうだ。
 スペードは軍隊、ハートは教会、ダイヤは商人、クラブは農民。
 強弱によって当時の力関係を示しているのだ。
「12」
「13」
 交互に竜と天馬が宣言を吊り上げていく。
 他の三人は傍観の姿勢を崩さない。手が悪いのか、副官指定を受けそうな札を持っていてナポレオンの邪魔をしたくないのか。
 天馬は自分の札を睨みながら、スペード14を宣言。
 目を伏せたまま沈黙した竜を尻目に、スペードをあしらったペンダントを首に下げる。
「副官はジョーカー」
「ジョーカー? マイティじゃなくていいのかい?」
 ニヤニヤ挑発してくる狗は無視する。
 最強の札とはいえ、よろめきというイレギュラーを有し、またいつでも出せるわけでもないマイティは強さはあれど使い勝手においてジョーカーに劣るのだ。
 それに加えて切り札がスペードである場合、何度もスペード請求されるうちにマイティが炙り出されてしまう可能性もある。
 スペードが切り札の時はマイティよりも裏Jを重要視する上級者がいるのはこのためだ。
 中央の余り札はハート5、クラブ6、ダイヤK。
 ちょっと背筋を伸ばしてカードを見定め、ダイヤK、ダイヤ3、ダイヤ4を戻す。
 図がないために分かりづらいが、これで天馬の手札からダイヤは消え、ダイヤが請求されてもそれ以外のマークを出せるようになった。他者より枷がひとつ外れたことになる。

「なあ、お前らいつもここに来るのか」
 と天馬はスペード4を出しながら周囲に問いかけてみた。それまでまったく会話がなかったわけではないが、天馬から話題を振ったのは初めてのことだ。
 オーナーの狗が肩をすくめ、隣の竜に視線をやる。
「いつもってわけじゃないが、大抵いるな」
「大抵? あたしがいる時はいつもいるじゃん」と煙子。
「そうか?」
「よく金が続くな」と天馬が言うと
「負けないから」と二人揃えて答えた。
 そんなセリフ言ってみたいな、と苦笑いしながら天馬は抜け目無くカードの流れを目で追っていた。
 最初のトリックで目立つ点は、早くも竜がスペードを切らしクラブ10を出したことくらいか。
 わざわざ得点札を出したのは、場のスペードで最も高い6を出したミハネにひとまず得点を集め、副官が誰であろうと有利な立場を作ろうとしたためだろう。
 これを『散らし』と言ったり言わなかったりする。
 第二トリックはミハネのダイヤセイム2が失敗し、次は竜のリード。
 が、これもミハネが再びハートのセイム2。今度は成功し一気に二枚増やす。
 続けてミハネはダイヤのAでリード(第一枚目を捨てること。トップバッター)。
 得点札がミハネに偏っている。
 本来ならミハネが副官か、連合軍か分からない状況ではナポレオンは一人に得点札が集まることを嫌う。
 が、天馬は迷わずハートQでさらにミハネにカードを流した。
 四人のうち狗だけが一瞬だけ顔を上げたが、何も言わなかった。
 もしや追い出されるのか、と一瞬だけヒヤヒヤしたが、そんなことはあるまいと思い直す。
 もうミハネがジョーカーを出すところを紹介するまでもないだろう。
 天馬とミハネは、通しをしていた。



 ナポレオンにおける副官指定を受ける札は限られている。
 ルール上はどの札を選んでもいいのだが、おおよそはマイティ、ジョーカー、正J、裏J。この四枚がメイン。
 これらの役札をおおよそ揃えている場合は、切り札のうち自分の持っていない札や、セイム2が指定されることもあるが、滅多にないし、ナポレオンがそれだけ役札を手にしていて負けるのは宣言枚数が相当高く吊り上げられたか、ルールを知らないくらいのものだろう。
 通しは簡単。手札を持つ時に右手なら正J、左手なら裏J。両方持っている場合は両手持ち。
 オールマイティは、手札を持っている小指を薬指の上に乗せているかいないか。
 ジョーカーは一番シンプルに、卓の上に肘をついているかいないか。
 こうしてお互いの手札中の役札を、天馬とミハネは確認し合っているのだ。
 つまりお互いのどちらかに副官指定札があれば、即座に誰が副官なのか判明する。
 ナポレオンの天馬が、いまだ不明だったはずの副官ミハネにカードを流していたのはこれが原因である。
 ゲームの醍醐味そのものを破壊するような所業だが、
「なりふりかまってらんないのよ、あたしは」
 と凄むミハネに、天馬は何も言い返せなかった。
 ルールブックをもらった日の帰り道のこと。民家に挟まれた細い路地にはカレーに匂いと野良猫と二人しかいなかった。
「それにね」とミハネは続けて言った。
「仕掛けはまだあるの」
「点数か」
 手元のルールブックに目を走らせながら言うとミハネは微笑んだ。
「考えてみて。仮にあたしが副官だとする。馬場が連合軍ね」
「どっちが勝っても、プラマイゼロ。それどころかお前がナポレオンだったら、オレが負けても連合軍一人分のプラスになる。財布が同じことの強みだな」
「ね」ミハネが助走をつけて、空き地の立ち入り禁止札を飛び越えた。
「負けるわけないでしょ、これで」
 確かに負ける要素はほとんどない。相当な不運が重ならない限り。
 思わず対戦相手に同情してしまいそうな好条件。
 ミハネはこれを一人で考えたのだろうか。
 それとも誰かに相談したのだろうか。していたとしても父親ではあるまい。
「鴉羽」
「ん」
「本気か」
 天馬の問いかけに、ミハネが振り返った。その時、一陣の風が吹きぬけ、木々から数え切れないほどの鴉が飛び立っていった。
 ミハネに背負われるように、夕日が彼女の向こうへ沈んでいく。
「あたしは正しい。絶対に負けない」
「後悔しないんだな」
「当たり前。馬場こそ大丈夫なの。なっさけないミス、あたしやだからね」
「オレ?」
 ふと背後に気配を感じると、小学生の一団がわあわあ言いながら駆け抜けていった。なにとはなしに、二人で彼らの小さくなっていく後姿を目で追っていく。
「言っただろ。オレが、お前を……」
 再び風が吹き、天馬の声はその勢いに持っていかれてしまったが、ミハネは決意をこめた目で重々しく頷いた。




 狗が大人しくなったと思ったら、今度は竜がバカヅキし始めた。
 正裏J持ちは当たり前、一度は引いたカードすべてが切り札だったとゲーム後にこぼした回もあったほどだ。
 ナポレオンはどんな策を練ろうととも基本的にはナポゲーであるため、なにもできずに敗北してしまうことも多い。
 その保険として二人は別々のチームになればプラマイゼロを維持できるのだが、ここ数回連続して連合軍側、しかも一方的にやられるだけという最悪のゲーム展開を強いられていた。
 ギャンブルとは面白いもので、ノーレート時には穏やかに流れるプールのような秩序を見せたかと思うと、賭けた途端に台風が直撃することがある。
 笑っていられるのは勝っているものか周りで見ているだけのもので、不運に横殴りを喰らわされる立場のものはたまったものではない。
「ツイてないな、アンタ」
 誰に言っているのか、と思った。見上げると竜が手札をテーブルの下に下げて天馬に凶悪そうな面を向けていた。
「それでよく、生きてこられたな」
「ヘッ、そのセリフ、よく言われるよ」
「分かっているなら、どうしてこんな所に来るんだ」
「おい、ドラゴン野郎。今おまえの無駄話に付き合わなきゃダメか?」
「今聞きたいんだ」
「……」天馬は度重なる不運よりも竜の言動の方が不可解だ、と言わんばかりに胡乱げに眉をしかめた。が、お面を被っているので周りからは見えない。
「いつまでやるつもりだ。負けるまでか。勝つまで、とは言わないだろ。おまえは勝ったってやめやしないものな」
「どうしてわかる」
「おまえは今、俺が勝ち分をチャラにしてやるから帰れ、と言っても帰らないだろう」
 慌てて狗が声を張り上げた。
「そういうのナシだから! 他の人に示しがつかないし」
「黙ってろ」
 お面越しでも鋭さ鈍らぬ竜の眼光に、狗は言葉を詰まらせた。
 どうなんだ、と身を乗り出してくる竜を天馬は物珍しそうにしげしげと眺めた。
「おまえ、そんなこと考えながらゲームしてたのか」
「ああ」
「お前がなんと言おうとも、オレは負けない――が」
 チラチラと横顔に刺さってくるミハネの視線を意識しながら、天馬は言った。
「負けたところで、オレには何も無い。そこがオレとお前の差だ。
 これでいいか? じゃあ続けようぜ。ホラ、ナポレオンくん。カードを捨てたまえ。副官のオレのためにな」
 そう言ってけらけらと天馬は笑った。
 もちろん副官がどうのなんてのはナポレオンの代名詞とも言えるハッタリ、三味線の類で彼の手札に指定札はないのだったが、それでも隣の煙子などはうっかり信じてしまいそうな自然さだった。
 


「カット、上手いな。習ったのか?」
 唐突に話しかけられて、おさげの女子生徒は困ったように首を傾げた。
「ん、喋っちゃいけない決まりでもあるのか?」
 さきほどの会話以降、天馬はやたらと饒舌になっている。
「おい、狗。どうなんだ。彼女の言論の自由について聞かせてもらおう」
「うるさいね、君。どうでもいいだろう。無口なんだよ、彼女は」
「ふうん……。無口ねえ。ま、いいか」
 おさげの女子生徒が滑らかに配ってくれた手札を天馬は扇形に広げた。
 ナポレオンはいまだに竜である。
 イカサマのように続く好調の波だが、それが本場のギャンブルの香りのような気もして、誰も何も言わない。
(基本的に10以上の得点札、トリックを制せられるようなカードは来ない……が)
 セイム2札が二枚ほどあった。しかも宣言マークと同色。
(確かミハネにもらったルールブックによると、セイム2は正裏Jも吸い取れるはず……)
 このゲームで連合軍である自分がするべきことは、可能ならばナポレオンサイドの正裏Jを潰すことだ。
 天馬はそう腹を決め、慎重にカードを選んでいった。
 麻雀と違いナポレオンはドローがない。そのため、ツキは手札とナポレオン時の交換札くらいのもので、あとはすべて理詰めだ。
 変則二人麻雀『十七歩』を天馬は思い出した。
 ゲーム進行と思考の展開はあれにかなり近い気がする。まァあのゲームは運の要素が強すぎるが。
 そうして第四トリック、ミハネのリードで煙子から裏Jがこぼれた。裏Jは副官指定札でもある。
「そゥれ、そんなバカヅキが続くかよ! 吸い取り!」
 バシッと天馬は元気よく2を卓に叩き付けたが、返ってきたのは耳の痛くなりそうな沈黙だった。



 天馬はかつてこれに似た沈黙を受けたことがある。
 それは生きているのが辛いと母に告げた時であり、妹の友達がうっかり遊びに来ている時にリビングに顔を出してしまった時であり、火炎に背を舐められながら決死のノーテンリーチをかけた時であり――
 おおよそルールを間違えた時だった。
「おい……」天馬は身を乗り出して首をめぐらせた。
「オレは何か間違ったことをしたか。吸い取りだぜ。得点札をよこせ」
「君だろ――」途端に大人しい声になった狗に、天馬は苛立たしげに聞き返した。
「オレが……なんだよ」
「ルール説明はいらないって言ったのは、君だ。僕たちが意図して隠していたわけじゃない」
「役札は、吸い取れねえのか」
「ここではいつも、そのルールだよ」と部外者の煙子まで同調し始めた。
「これはどうみても、あんたが悪いでしょ」
「……」さすがの天馬も言い返す言葉が見当たらず、押し黙った。
「ま、べ、べつにいいでしょ。チョンボって言っても致命的なミスじゃないし。このままセイム2無効でよくない?」
 助け舟を出してくれたのはミハネだ。焦っているのか声が上ずっている。
「うん、僕はそれでいいんだ。ただ、お馬くんが納得してくれないとね」
「うるせえ……いいよ、わかったよ、なしなんだろ。クソッ!」
 これ以上、文句を言っても意味が無い。
 天馬はすごすごと引き下がり、やはりその回も敗北した。
 嵐の中で泥舟を捕まえたと思った途端に、船体が崩壊したような負け方だった。



 地下室ゆえ外の状況は分からない。腕時計を見ると午後九時を回っていた。
 しかし警備員や教師が見回ってくる気配はない。部外者の狗が取り仕切っているところを見ると、実はその辺りとも繋がっているのでは、と天馬は予想した。
 教師にバレるから麻雀はできないなどとミハネは言っていたが、この状況はどう見てもゲーム理論研究同好会の部活風景に
「見える、のか……?」
「ん? なにか言ったかい」
 いいや何も、と天馬は肩をすくめた。思わずため息がこぼれる。
 もうここからいくら挽回しようとも、今までの負けを取り返すことはできない。
 荒稼ぎの作戦は失敗だ。
「本当に、大丈夫かい。だいぶ負けがこんでいるようだけど。……二人とも」
 狗がさも同情したような口調で言ってくるが、二人は無視した。
 汗でぬめる手のひらをぎゅっと握り締める。
 この勝負が終わったら、ミハネにきちんと告げることにしよう。
 オレの本当の気持ちを。



 いつもより入念にカットしたデッキをおさげの女子生徒が分解し終え、天馬は手札を重ねたまま手に取った。
 額に脂汗が浮いているのが自分でも分かる。
 もし今夜をせめてプラマイゼロで終わらせたいのなら、ここから一敗もできない。
 まさか徹夜で営業しているわけはないだろうから、タイムリミットはすぐそこだ。
 どっちだ。
 そろそろと手札を開いていく。
 オレの進むべき道は、どっちだ。

 スペード…マイティ
 ハート…A、K、2
 ダイヤ…A,K,Q,10、2
 ジョーカー

 勝ち札七枚。A、2は序盤なら勝ち札たりえると考えれば九枚。
 ミハネにさっと視線を飛ばす。
 右手で手札を持っていた。正J持ち。
 裏J以外、すべての手が自軍に揃っている。
 そして天馬は、腹をくくった。
「スペード11!」
 天馬ではない。対面の狗だった。
「ダイヤ12」いまさら退いても仕方ない。天馬は押した。
 他に誰も名乗りを上げない。ただ二人を交互に見比べている。



「スペード16」
 一般客はすでに引き上げ、延長戦の趣き漂う校内カジノに狗の済ました声が響いた。
 天馬はじっと狗を睨んだまま目を決して逸らさない。一度外してしまえば、二度と見ることはできない。ガンをつけるとはそういうことだ。
「ダイヤ17」
「17」
 間髪入れない狗の追撃。だが天馬は怯まない。
「18」
「18」
「ダイヤ、19!」
 やけっぱち気味に怒鳴った天馬に、狗はすっとダイヤのペンダントを差し出した。
 だがちっとも嬉しくない。かなり吊り上げられてしまった。
 取りこぼせる枚数は、たったの一枚。
「副官は、正ジャック」
 視界の隅に相棒を捉えながら、天馬は指定した。



 ナポレオンの引き札はすべて黒色のカス札だったので、交換せずにそのまま戻した。
 すでに手札から勝てる道筋は限られている。ゆえに天馬は迷わずハートのセイム2を出した。
 正J吸い取りの件で揉めたため、確認したところ、『一巡目はセイム2できない』というルールも削除されているらしかった。
 ならば高確率でリードを取れるセイム2だ。
 続くミハネがハート9、狗がハート3、竜がハート8、煙子がハート5。
 得点札なし、引き続き天馬のリード。
 ジョーカー。
 ジョーカーをリードで出した場合、請求マークを四つの中から選べる。
 当然、裏Jを炙り出すためハートを請求。
 ここで裏Jを始末できれば、勝ちの芽は残っている。
 ミハネハート10、狗ハート4、竜ハートQ、
(とりあえずよろめきは処分できたが……)
 煙子と目が合う。
「残念」
「え?」
 彼女はカードを卓に垂直に立て、離した。
 ハートのK。
 裏J炙り出し、失敗。
 続いて天馬のリード。
(一枚だけなら取られてもいいんだ。なんとか裏J以外が9以下にできれば……
 待てよ。今まで出たハートの枚数は九枚。オレの手に二枚。ミハネに正Jが一枚。じゃあ、ハートはもうオレたち以外に持っているのは裏Jだけか)
 ハート7で請求し、裏J以外がカス札……ありえるかもしれない。
 ありえなければ、負けるのみ。
 ふと見ると、おさげの女子生徒が後片付けをしていた。
 コインの数を数え、あちこちのテーブルでばら撒かれたままのトランプをケースにしまっている。
「おい、アンタ」
 一瞬、彼女は身を強張らせると
「……私ですか?」そろそろと振り向いた。本当に自分が呼びかけられたのか、疑わしそうに。
「ありがとう、アンタの達者なカードさばきが見れただけでも、ここに来てよかったよ」
「え……」
「ふふふ……」と天馬は意味深に笑うと静かにハート7を捨てた。捧げるように。
 そこで流れが止まった。ミハネがカードを出さないのだ。
 どうした、と天馬が声をかけても動かない。
 それでも皆に催促され、震える手でカードを出した。
 ハートのジャック。
 裏ジャック――。
(正裏は、同じ色。見分けがつきにくい――)
 頭がじくじくと痛み、天馬はお面越しに顔を覆った。
「アハハ、まァついてない時なんてそんなものだよ。うん、残念。ハイ、終わり――」
 狗がスペードのキングとダイヤのジャックを二枚放り出した。
 キングをミハネのジャックに差し出し、二枚連合軍は獲得する。そして副官は自分である。
 それは紛れも無くナポレオン側の敗北宣言だった。




「――払えない。なるほど。困ったな」
 決着が着き、竜と煙子はとっくに出て行った。
 閑散としたカジノには天馬と、彼に縋って泣いているミハネとオーナーの狗、おさげの女子生徒しかいなくなっていた。
 天馬はブラックジャックの卓に腰掛けながらぼーっとしていた。すべてのことに実感が湧かない。
「まァね、僕もこの仕事長いから、こういうことはよくあるんですよ。大体は親御さんに支払ってもらうんですがね」
「それは困る」
「困ってるのはこっちですよ。ちゃんと負けは清算してもらわないと。それが信頼関係ってもんです」
「今日会ったばかりで信頼も糞もあるか。どけ、オレは帰る」
 狗を押しのけようとして、強烈な一発が天馬の顎を打ち抜いた。悲鳴を上げてミハネが倒れた天馬を抱き起こす。
 狗は拳をぷらぷら振りながら、二人を冷たく見下ろしていた。
「親御さんに話を通されたくないなら、自分で稼いでください。バイト先はこっちで用意しましょう。
 なに、学校をやめろなんてひどいことは言いません。
 ここはギャングカジノじゃなくて、身内で楽しくがモットーですから。
 ただそこを勘違いして無一文でやってくる阿呆には、痛い目を見てもらいますが」
「ギャングじゃない? ヘッ、よく言うぜ……」
 立ち上がりながら手で口を拭うと思ったよりもべっとりと血がこびりついていた。しばらくは口内炎に悩まされそうだ。
「ひとまず今日は家に帰っていいです。中には帰宅した途端に親に泣きついてくれる子もいるんでね、疲れてるでしょうからゆっくり休んでください。詳しい話はまた後日」
「その後日が、お前に来るといいがな……」
 捨てセリフを吐き捨てると、天馬は体を引きずるようにして、ミハネと一緒に出て行った。


「ふふふ……」
「楽しそうだな、狗藤」
 狗藤と呼ばれた男はお面を外すと、おさげの女子生徒に放り投げた。
 彼女はパシッと片手で受け取ると、それもケースに収める。
 自分の面も外し、これで後片付けは終了だ。
「楽しいですよ。儲けるのは楽しい。そして何よりもあいつの悔しそうな顔!」
「悔しそうな顔、か」
「あなたもそんな顔をしたことがありますか、イブキさん」
「あるさ。今もそうかもしれないな」
「今も? それはどういう」
 と聞きかけた狗藤の背中に呼びかける声があった。
 振り返ると茶髪の女子生徒が扉の側で幽霊のように立ち尽くしている。
「この学校は染髪禁止では?」とイブキが聞くと
「今年の生徒会長は規制緩和に優しいそうで。いやあ素晴らしい生徒会長だ。僕が現役の時に就任して欲しかったな」
「お前は黒髪が嫌いだったっけな……では私は帰るぞ。後のことは知らん」
「ええ、結構です。ありがとうございました」
 狗藤がへらへらと挨拶すると、イブキは脇目も振らずにその場を去っていった。
 バタン、と扉を閉める。二人きりになった。
「さて、話があるんだろ? 聞くよ」
「……あのさ、やっぱ、待ってくれないかな。バイトしてちゃんと返すから」
「へえ、こないだもそう言ってたじゃないか。なんだっけ、もうギャンブルはしない、まじめに働く、だからパパには言わないでェ。
 ……で、もうバイトやめちゃったの? せっかく用意したのに」
「あんなところで働けるわけないでしょ……!」
 狗藤は女子生徒のキンキン声に耐えられないとばかりに耳を覆って苦しむフリをした。
「で、でもね、君さ、バイトやめただけじゃなくてパチンコいったでしょ」
 何か言おうとした女生徒の動きが固まった。
「ど、どうしてそれを……」
「いや僕、成人してるし。大人の情報網ってやつ」
「そ、そんなにやってないわ……よ」
 次第に声が尻すぼみに消えていく。
 狗藤は俯く少女をいとおしげに眺めながら近づいていき、頬を張った。
 女生徒は足を滑らせそのまま横倒しに倒れこむ。
「な、なにす――」
 言葉を完結させる前に、腹に古ぼけた上履きの爪先が突き刺さった。
 予想だにしない威力に嗚咽を上げながら丸まると、狗藤はその側に膝をついて少女の髪を鷲掴みにして引き上げた。
「あうっ……」
「言ったろ。ちゃんと考えて動けって。自分の言動に責任を持てば、大丈夫だって。
 君はなにか一つでも僕の忠告を聞いてくれたかな? ちゃんと返そうって気持ち、あった?」
「それ、は……」
「あわよくばチャラにしちゃおう、だってバクチの負けなんて馬鹿らしいし――。
 悪いけど、僕はこれが仕事なんだ。だからキチンと払ってもらう。絶対にね。
 ただ……君は幸運なんだよ。金を借りた相手が僕でね。普通はこんな優しくないんだよ?」
 そう言って狗藤はポケットからある物を取り出して少女の前でちらつかせた。
 途端に彼女の顔から血の気がスゥ――と消えていく。
「い、いやだ。誰がアンタとなんか……」
「じゃあパパにご相談だ」
「やめてっ! それだけはダメっ!」
「だったらこれしかないだろう? ちゃんと契約書に書いてあげるからさ、何回で完済って。
 ちょっとは君の意見も聞いてあげるよ? ちょっとだけど」
 狗藤は怯えきった少女の心をいたぶり続ける。
「こう言っちゃなんだけどさ……僕って評判いいんだぜ? 大人だしね。
 安心していいんだよ。そうだろ?
 べつにバラバラに切り刻むわけじゃない。
 安心していい時に意地張ったって、損だぜ――」
 徐々に徐々に、冷静な判断力を失わせていく。
 それは吸血鬼が、己の眷属を増やす時に似ていた。






 本当にごめん。見えなかったの、緊張してて。
 ほら、同じ赤で、カードを並び替える時に直し忘れちゃった。
 ごめんね。あたし本当に使えなくて、こんなんじゃ馬場一人でいった方がよかったよね。
 ごめん、ごめんね……。
 ごめんなさい…………。

「言いたいことはそれだけか」
 自分の声が、やけに冷たく聞こえた。
「……ごめん。何度謝っても、言い足りないけど……」
 学校の正門脇、通用口の鍵を開けてそこから出ると、天馬は立ち止まった。
 ミハネもつられて立ち止まり、しばし見詰め合う。
 真夜中の学校に、月の光が降り注いでいた。青い夜だった。
 天馬はミハネの瞳に浮かんだ月色の涙を無感動に眺めながら、告げた。
「オレは、最初からお前のことが好きじゃなかった」
 叱られた子供のようにミハネの肩がびくっと震えた。
 天馬はそれを見ても何も感じない。砂漠の心は、とっくの昔に干上がっていた。
「告白されて、最初どうしようかと思った。
 嬉しくなかったわけじゃないけど、戸惑った。どうしていいかわからなかった。
 理由がわからなかった。オレを好きになる理由が、理解できない」
「それは……なんていうか……フィーリングっていうか……」
「オレはたぶん、最初っから気づいてたんだと思う。
 お前がオレを好きじゃないってことに」
 ざぁ――と風が吹いた。
「馬場、あたし、こんなことになっちゃったけど、馬場のこと……」
「分かっていたのに、オレはお前を遠ざけようとしなかった。
 偽りだって認めたくなかったってのもある。
 人並みの幸せが、欲しかったのも嘘じゃない。
 でもあの時、ああ、こういうことか、って思った」
「……あの時?」
「お前に、おまえの親父のことを打ち明けられて、賭けのことを持ち出された時……
 オレは安心したんだ。ああ、これで闘えるぞ。
 平和なんかに、寝ぼけていなくて済むんだ……って」
「…………平和なんか?」
「もういいだろ、鴉羽。やめようぜ、嘘をつくのは。
 お前は今日、狗のヤツにも役札の位置をバラしていたろう」
「……」
「目的は、オレを債務者にして働かせること。金を得ること。
 そして親父さんを助けることだ」
「違う」
 ミハネの目に、もう涙は浮かんでいなかった。
 きっとその場にもう一人誰かがいたら、二人の表情が瓜二つだということに気づいたかもしれない。
「あたしはただ、間抜けを引っ掛けてお小遣い稼ぎをしようって、狗藤に誘われただけ」
 それまでと打って変わった態度に、天馬は少しだけ寂しそうに顔をしかめる。
「クドウっていうのか、あいつ」
「そうだよ。すっごい頭いいんだから。自分の賭場とか持ってて、こんな学校のチンケなカジノモドキなんか目じゃなくって、アンタなんかと大違い」
「お前の親父さんも、あいつから金を借りてるのか?」
 キッとミハネの目の色が変わったかと思うと、天馬は本日二度目のアッパーカットを顎にもらっていた。
 女子とは思えぬ鋭い拳は、天馬の目では捉え切れなかった。
 臓腑ごと吐き出すような声でミハネは叫んだ。
「あたしに、親父なんかいない……アンタに喋ったのも全部ウソ!
 だから……二度とアタシに話しかけるなっ……!」
 火さえ起こせそうな激しい視線をひとしきり天馬にぶっかけると、ミハネは踵を返して去っていった。
 しばらくそのまま大の字に転がったまま、天馬は口元に手をやる。
「あーあーあー、思ったより血、出てら……」
 だがこうして寝てるわけにはいかない。
 よろよろと立ち上がるとふらついてしまい、自分の打たれ弱さに苦笑してしまう。
「まったくなっさけないぜ、ホントに……だが」
 ミハネの消えた道を見透かすように天馬は目を細める。
「言ったろ、鴉羽。
 おまえは、オレが……












 楽にしてやる」

       

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