Neetel Inside ニートノベル
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賭博天空録バカラス
15.とある忘れられぬ夜に

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 徹夜明けで身体が重い。
 早く帰りたかったけれど、きっとおなかを空かせているだろうと思って、帰り際に僕はドーナツ屋さんに寄った。
 十字路の角にある店は今日も学生たちに占領されてしまっている。
 アルバイトさえ学生を採用しているため、第二の教室のような有様だ。
 僕はショーケースからとびきり甘そうなものを指で示していった。
「おい、ラッキー」
 聞き覚えのある声に振り返ると、どことなく猿に似た少年が笑顔で手を振っていた。
 彼の向かいには髪の長い少女が透明な眼差しをこちらに向けて座っている。
「そんな甘いもんばっか喰ってると糖尿病になるぜ」
「いいんだよ、その分頭を使ってるからね」
 門屋はまったく信じていない顔でけらけら笑った。実に失礼だ。
「カガミさん、こんなヤツと付き合うのはよした方がいいよ。木登りし始めるから」
「ちょおまっ、変なこと言うなっての!」
「ちょっと見てみたい」
「ええっ?」
 意外と冗談が通じるらしいカガミさんに慌てている門屋を微笑ましく思いながら、僕はそっと店を出た。
 どうやら例の噂は本当らしい。
 生徒会長の白垣と門屋の二人、体育祭で勝った方とカガミさんが付き合うって話。
 白垣のことだから本人の了承も得ずに勝手に決めたのかと思ったけれど、あの様子なら特にカガミさんは嫌がっていなかったし問題なさそうだ。
 他人事とはいえ、新しい幸福が生まれるのかと思うと妬ましさより祝いの気持ちが湧き起こってきて思わず苦笑してしまう。
 これじゃお人よしだのアンポンタンだの言われても仕方ない。
 それでも僕は、できることならあの能天気な門屋に失恋なんてしてほしくなかった。
 悲しみは少ないに越したことはない。
 あれは伝染するから広がらない内に止めた方がいい。
 横断歩道を渡ると、見慣れぬ制服の集団とすれ違った。
 この辺りに遊び場はないから、他校の生徒はあまり見かけないので少し不審に思ったが、まァ関係ないかと思って通り過ぎた。
 それよりもドーナツが溶けてしまわないかが、最大の関心事だった。




 ただいま、と口にすると奥からおかえりー、と間延び返事が戻ってきた。
 それだけで今日一日の疲れが抜けていくようだ。
「ドーナツ買ってきたよ。甘いの平気だったかな。電話して聞こうかとも思ったんだけど」
 シマは僕の言葉なんて耳に入っちゃいないようで、箱をふんだくると幸せそうにパクパク食べ始めた。
 その仕草があまりにも無邪気で無防備で、逆に僕は少し危うささえ覚えてしまう。
「僕が留守の間、なにかあった?」
 シマは口をもごもごしながら天井を見上げて考えていたが、
「もごごごももごごごも」と答えた。
「飲み込んでから喋らないと喉に詰まるよ」
「……ん」ごくん、と白い喉が上下し嚥下する。
「なんにもなかったよ。お金もホラ、そこにあるし」
 見ると確かに今朝と変わらぬ位置にコンビニ袋が転がっている。
 僕はそれよりも、ゴミ箱の中にくしゃくしゃになったお札が入っていることに目がいった。
「君のお金だから好きにしてもらっていいけど、さすがに捨てるのはどうかと思うよ」
 眉をひそめてシマを責めると、彼女はきょとんと目を瞬かせた。
 僕が指でゴミ箱を示すと、ああと微笑んで説明してくれた。
「それ、お札チョコの袋。さっきコンビニ行って買ってきたんだ」
 そういえばそんな商品があったな。昨日まで貧乏だったから、お菓子のコーナーはあまりなじみがないけれど。
 指についたチョコを舐め取っているシマの向かいに僕は腰を下ろした。
「でもなんか、やけに人気だったよ、お札チョコ。最初見たら一個もなくってさ。別の棚に一個だけ紛れ込んでからよかったけど」
「ふうん、誰か好きな人がいるのかな。でもそれさ、普通のチョコだろ? なんでそれだけ人気なんだろう」
「みんなリッチな気分になりたいんじゃない? ……あ、ラッキー。牛乳ちょうだい」
 両手でおねだりする彼女に僕は笑顔で答えてやった。
「ごめん、水道水しかないんだ」
 女の子にゴミを見るような目で見られるのは、ちょっとだけ気持ちよかったりする。



 やっぱり明日には出て行くよ、と彼女はあっさりと告げた。
 僕は一瞬間だけ黙り込んで、うんわかった、と答えた。
 そうなることは当然だ。できるだけ気持ちよく見送ってあげなければいけない。
 僕は改まって彼女に向き直ると深々と頭を下げた。
「本当にありがとう。君のおかげで借金が返せた。何度お礼を言っても足りないよ。
 これも何かの縁だから、困ったらいつでも頼ってきてくれ」
 シマも布団の上で向きを直すと、同じように頭を下げた。
「こっちこそありがと。短い間だったけど面白かったよ、君。
 お詫びといっちゃなんだけどこのバニー衣装を」
「いらない」
「えー……」
 残念そうにウサ耳を引っ張るシマが面白くて僕は笑ってしまった。
 不思議な女の子だ。側にいるだけで元気が出てくる。
 ミハネにも会わせてあげたい、と思った。
 そうしたら、彼女の顔から一片の影さえなくなるような気がして。
 会話がやみ、僕たちは狭い部屋の中で自然と見つめあう形になった。
 蜂蜜色の飴のような瞳に、何もかも見通されている錯覚を感じる。
 寝よっか、と彼女は言い、電気を消した。
 暗闇の中で、激しく脈打つ鼓動は、彼女に聞こえてしまっただろうか。



 僕は布団を一つしか持っていない。
 当然、どちらかが冷たい畳の上に転がるしかあるまい、そしてその役目は紳士たる自分が相応しいと思っていたのだが、彼女はへらへら笑ってこう言った。
 一緒に寝ればいいじゃん、と。
 そして僕の隣には今、彼女の足がある。
 なるほど逆さから布団に入ればそういう雰囲気は醸し出されないが、これはこれで危険なポジションではなかろうか。
 どちらにせよ、僕には行動する勇気も野蛮さもなく、シマもそれを分かっていたのだろう。
 時々親指をこすり合わせている足を眺めながら思う。
 彼女は結局、何者だったのだろう。
 聞けば答えてくれそうではあったが、彼女がその質問をどんな気持ちで受け取るか計りかね、僕はとうとうその疑問を胃の中で溶かしてしまった。
 シマはシマ。それでいい。
 でも。
「シマ……起きてる?」
「ん」
「ごめん、起こした?」
「んーん」
「よかった。……ちょっと聞きたいんだけど」
 天井の木目に向かって僕は聞いた。
「僕、トロイかな」
 視界の端で、シマが少し頭をもたげたのが見えた。
「誰かに、そう言われたの」
「好きな人に、今朝言われたんだ。
 トロイ人は嫌いだって。消えて欲しいって。
 悪いところがあるなら直したいから、もしシマが何か気づいたことがあったら、教えて欲しいんだ」
「君は自分で、どこかトロイと思う?」
「……分からない。鈍いってことなのかな」
「そうだね、君は特別に頭が悪いわけじゃないから、そういうことを言われたんだと思うよ」
 僕は生徒になった気持ちでどうすればいいか尋ねた。
「別にどうも」
「え?」
「君が好きな子はね、お前なんか私のことなんにもわかってないんだぁって言いたかったんだよ。
 でも、人は人の気持ちを真に理解することなんてできない」
「それは違うよ。分かりづらい時もあるだけだ」
「そうかもしれない。でもその子は、そう思っていない。
 わかって欲しいと思っていながら、わかってくれるわけがない、と思ってる。
 そんなの誰にもどうしようもないよ」
「……繰り返しで申し訳ないけど、どうすれば?」
「だから、べつに、どうも。
 君にできることは、ない」
「……」
「あのさ、もうちょっとラッキーは自分勝手になった方がいいよ」
「そうかな」
「そうすれば、今の自分のこと、よくわかると思うから」
「……それは、どういう意味?」
「それは、君が考えなくちゃいけないこと」
 それきり、シマは何も言わなくなった。規則正しい呼吸だけが返ってくる。
 僕は布団を少しだけたくし上げて、目を閉じた。
 小さな頭の中で彼女の言葉が乱反射している。



 朝、強い朝日に目が眩んで僕は瞼を開けた。
 いつもの天井、いつもの部屋、いつもの僕。
 たった一晩の同居人の姿はなかった。
 札束の詰まったコンビニ袋もバニーの衣装もなくなっていて、まるですべてが夢だったかのよう。
 僕はそれで、なんとなく分かってしまった。
 


 あんなにも太陽にそっくりな女の子なのに、

 シマが生きるのは夜の世界なのだ、と。

       

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