Neetel Inside ニートノベル
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賭博天空録バカラス
16.悪夢の始まり

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 いつもの公園に、細い隙間のような路地からやってきた鴉羽を見つけて、チガがニコニコと手を振った。けれどすぐにその顔は曇ってしまった。
 ベンチに座り込んだ鴉羽の顔色は蒼白で、ただ麻雀に負けた時とは違った弱り方をしていたからだ。
 何も言わずにコーヒーを買ってきてやると、鴉羽はすまなそうに薄く笑った。
 表情を作るたびに、パリパリと音を立てそうな乾ききった肌が彼の憔悴の程度を示していた。
「悪いな」
「いいさ。僕とおじさんの仲だろ?」
 ヘッと鴉羽は自嘲気味に鼻を鳴らして一気に缶コーヒーを飲み干した。
 勝っても負けても必ず口にする味。
 彼にとっては一日の締めくくりを表す苦さ。
 自分がのんびりとここで空を見上げている間も、娘は一人ぼっちだったのだ。
 分かっているつもりだった。分かってくれると思い込んでいた。
「娘にさ、言われたんだ」
 自分の声が震えかけているのを感じながら、鴉羽は重い口を動かした。
「お前なんか家族じゃない――ってな」
「だろうね」
 驚いて顔を上げた。チガはいつもと同じ口調と表情で、冷たいセリフを続けた。
「父親らしいことなんて、してやってないだろう。
 知らなかった、考えたくなかった……そんな言い訳が通用していい理由を『家族』だっていうなら、僕は家族なんていらないな。
 誰の得にもならないもの」
「お前は、まだ子どもだから分からないんだ。
 大人になれば分かるよ。一人で老いていくことの恐ろしさが」
「その罰を受けて当然の人生だろう、おじさんも、もちろん僕も」
「……。おまえは強いな。俺は……」
 一秒ごとに背筋が小さく丸まっていく。
 背中の上に、死神が乗っかっているような気がした。
「俺は死にたくないんだ。ましてや一人で、なんて、考えるだけで力が抜けそうだ」
 罪を打ち明ける罪人のように、鴉羽は項垂れた。
 言葉とは裏腹に、傷みきった前髪の奥にある両眼は何かを見据えたように静かだった。
 それを見届けたチガがベンチから腰を上げる。
「わかった。なら、案内しよう。
 おじさん、僕はおじさんを尊敬するよ」
「お世辞はよせよ。腹ん中じゃ笑ってるんだろ」
「笑われたっていいじゃないか。
 だってもう、本気なんだろ?」
 黒い雲が月を撫でていく。
 その下で二人の悪童がニヤリと笑った。





 休むところが欲しい。足を止めたい。
 ただそれだけを願いながら街を歩いているのに、鴉羽ミハネはもう何時間も彷徨い通しだった。
 行き交う通行人はことごとく自身以外のものを無視し、飲食店は一人きりの客なんてお断りだと拒んでいるように見える。
 自分の身体が街と同極の磁石になってしまったよう。
 反発するしかない。誰も近づいてくれない。
 助けを求めたら、理由がなくたって手を差し伸べるのが人間だなんて、嘘っぱちだ。
 その証拠に、心がこんなにも弱った時に声を聞きたいと思える人間の電話番号が、携帯に一つも登録されていない。
 あ行から記号欄まで目を走らせても、ゴールになんか辿り着かない。
(……馬鹿か、あたしは。なに泣きそうになってんだ)
 袖でごしごしと目を拭う。
 泣いたって無意味だ。だって誰も……
 その時だった。
 手のひらにぶるるっと振動が伝わって、思わず飛び上がってしまった。
 大げさ過ぎた挙動が恥ずかしくなって周囲を見渡すが、もちろん反応ゼロ。
 そっと携帯を開き、電話をかけてきた相手の名前を見てから耳に当てた。
「……あんた、いったい、なにがしたいの?」
『面白いコト』

 こんな冷たい夜にかかってくる電話がこいつからなんて、あたしの人生、どうかしてる。
 そう思ってもミハネは、天馬からの電話をすぐ叩き切ろうとはしなかった。
 少なくとも街頭モニターのCMよりかは、自分の相手になってくれそうだったから。






 歩きなれた道を通って、仕事場へと足を運んだ。
 特別な工具がなくても開くマンホールを降りて、地下へ立つとかび臭いニオイが鼻をつく。
 ミハネは自分の足音を聞きながら、先ほどの電話の内容を反芻していた。
 あっさりと切られてしまったそれの要求はたった一つ。
『仕事場へいってみろ』
 がちゃり、と切られてしまった携帯のことを忘れて家に帰ることもできた。
 なのに、自分はあっという間に意識を喪失してこんなところに来てしまっている。
 無意識下でさえ、父親に会いたくないと願っているらしい。
 今頃は何をしているのだろうか。
 安物の腕時計を見ると深夜の二時を回っている。
 中にはカーテンを引いて夜通し営業している雀荘もないことはないが、さすがに出歩いていまい。
(……ていうか、あんだけキツイこと言ってやったのにケロっとしてたら、マジ最悪だし)
 罵声を浴びせかけられ、息を呑んで固まっていた父親の情けない姿を思い出して体から力が抜けそうになった。
 頭を振って父の幻想を振り払う。
 そう、彼のことを考えないために、自分は馬場天馬の手のひらの上で踊ってやっているのだ。
 わざわざ自分から墓穴を掘ってしまうことはない。
 どんな悪戯をしかけてくるのか知らないが、適当にあしらって帰ろう。
 勤務日ではないがバイトをしていくという手もあるが、気分ではなかった。
 重そうな鉄扉を身体で押し開けて、中に入る。
 光と音の洪水の中に入っていきながら、あちこちに視線を飛ばす。
 珍しいことにオーナーの狗藤の姿が見えなかった。あの色欲魔のこと、どこかでバニーとイタしているのかもしれない。
 ここのバニーは大半が借金を背負って落とされてきた女ばかりだ。
 業務内容は客にドリンクや軽食を給仕してやることと、別室でのサービス。
 当然ながら拒否権なんて贅沢なものは持ち合わせていなかった。
 生臭い記憶が脳裏に蘇りそうになり、目を閉じた。
 別の方法で金を作り出せるようになるまで、だいぶかかったけれど、今はもうあんなことをする必要はない。
 気を紛らわそうと忙しなく周囲をぐるりと見渡す。
 相変わらず金持ちなんだか貧乏人なんだか分からない雑多な人間が嬌声を上げたりどこかに引きずられていったりしている。
 地底の楽園。
「――そうそう、見慣れない顔だと思ったら、正規の人じゃなかったらしいよ」
 少し離れたところで二人のバニーが話している声が聞こえた。
 この喧騒の中でも囁き声を聞き分けられるようになったのは職業病だろうか。
「え、じゃあお客だったってこと?」
「そういうことになるんじゃない。バニーのカッコしたお客。
 なんかチンチロやってたらしいし……あーあ、あたしもやろっかなー。
 いっつも見てるだけなんてつまんねーし」
「まぁ、ギャンブルで勝てるような運があったらこんなとこ来ないよね」
 ハァ、と二人はため息をつき、こちらを向いている方がミハネに気づいた。
 後輩としてミハネは自然に目礼する。
「ちょうどよかった。狗藤が呼んでたよ」
「そうですか。オーナーはどちらに?」
「あっち」
 バニーの指差した扉を見てミハネは得心した。
 どうやら今夜のオーナーは仕事中らしい。
 限られた人間しか入れない高レート部屋。
 近づくと扉越しにあの音が聞こえてくるような気がした。


 タン、タン、タン。
 パタン――。


 中年親父のゲスな視線を睨んで跳ね返しながら、ミハネは麻雀室の扉を開いた。
 中は部屋自体もそんなに広くない。せいぜい十二畳程度だろうか、卓と壁際にある仮眠用のベッドの他には調度らしいものさえない。
 そんな牢屋のような部屋に四人いた。
 オーナーの狗藤はミハネを見ると気障ったらしく軽く肩をすくめて挨拶したような気になっている。
 普段はディーラー役を勤めているイブキ。
 お下げを垂らした文学少女のような容姿といつまで経っても馴染まない冷えた眼差しで手牌を見据えている。
 その対面に見知らぬ少女が座っていた。老婆のように真っ白い髪をしている。
 けれど、そんなことはどうでもよかった。
 ただ、呆然と突っ立っていることしかできなかった。
 最後の一人が、ちらっとこちらを振り返り、また卓に目を戻した。
 スカートの中で携帯が震えている。左手が勝手に動いて、耳に押し当てた。


『よぉ、鴉羽。親父さんは元気か?
 さて、茫然自失だろうから分かりやすく説明してやろう。
 お前の親父さんは無銭で麻雀打ってる。
 まさかもうハコテンになっちゃいねえと思うが、まァそうなったらお前ら親子は破滅だな。
 自分が何をするべきか、分かるか、鴉羽?
 よォし、特別サービスで教えてやらァ。
 お前の親父さんは博打に嫌われる天才だ。
 お前ら二人分の借金を返済なんか絶対できっこない。
 そうならないためには、お前がどこかから金を持ってきて、親父さんが打つ理由を無くさないといけない。
 まァそんなのすぐに用意できるわけはないわな。
 だが、ここに、一人の馬鹿野郎がいる。
 今までラスばっか引いてきたくせにオリることを知らねェとびきりのバカだ。
 お前や、お前の親父さんと同じようにな。
 そんなオレが……お前と勝負してやろう。
 賭けるのはオレのすべて……すべてだ。
 ま、こないだパクった金の分くらいは即金で払えるかな。
 今のお前からしたら喉から手が出ちゃいそうなほど欲しいだろう?
 お前が勝ったら何もかもくれてやるよ。それで助かるだろう。
 その代わり、オレが勝ったら……一つだけ、言うことを聞けよ。
 ま、その時にお前が生きていたらの話だけどさ。
 おい、もしもし。しっかりしろよ。聞いてるか? オーライ?
 そんなに驚くことでもないだろ。









                    だってこの物語の悪役は……






                    このオレなんだから」


 



 ツーツーツー

 ツ――――――――

       

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