Neetel Inside ニートノベル
表紙

賭博天空録バカラス
20.魔王

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 まず、彼のことについて記しておかねばならない。
 ご存知の方も多いだろう、あの男についてだ。
 彼は、一般に人が幸福と呼び表すものをなんでも持っていた。
 財産も、地位も、容姿も、能力も、周囲すべてを愚劣と見下げるに足るものだった。
 誰もが彼を羨み、慕った。その歪んだ精神性と関係なく、彼は人を幸せにすることができた。
 彼のためなら死ねる。
 そんな奴隷気質さえも持たせてしまうほど、彼は完成された存在で、だからこそ彼がパタンといなくなってしまった日、校舎は色を無くしたように沈み込んだ。
 後になって当事者たちは口を揃えて、よくも後追い自殺者が出なかったものだ、と言ったものだ。
 たった一月あまりの間、彼――雨宮秀一がいなくなったことは、学校という小さなコミュニティの中であっても、その基盤が揺らぐほどの衝撃だったのだ。

(あの人は――私にとって、太陽だった。
 入学したばかりの、私に優しくしてくれた。
 なのに、どうしていなくなったの。
 もう、会えないの……?)

 そう思っていたのは、彼女だけではなく、付き合っていた女の子たち、傘下にいた男子たち、果ては教師さえも含まれていた。
 だから、まるで昨日までそうしていたかのように『体育祭』と掲げられたアーチの下を当然のような顔で潜り、少し伸びた髪をオールバックにまとめた彼を見て、周囲の人間は雪崩のように殺到したのだった。




 雨宮秀一が、戻ってきた。

 この日、この異常な記念日に最初に起こった異変は、彼の再来だったろう。




 そして、その帰還を喜びでなく動揺として受け取ったものも少なからずいた。
 雨宮秀一は決して善人ではなかったから。
 その一人は、じっと息を潜めて、たった一人を見つめていた。
 校長の長い話を聞いて鼎があくびをし、門屋が選手宣誓する際に一瞬だけこちらを一瞥し、開会式が終わった。
 そうして解放されたカガミ空奈は矢のように生徒たちを掻き分けて突進し、校舎の中へ消えていく人影を追い詰めた。
「天馬――!」
 振り返った彼は、思ったよりもあっさりしていて、なんだい、と言った。
「なんだじゃありません。どういうつもりですか」
「どうって、トイレに行くつもりだけど」
「とぼけないでください」
 ずいっと天馬を壁際に押し込み、顔の横に両手を突っ張って逃げられないようにする。
「おい、誰か見てたらどうするんだ。どう見ても怪しいぞ、この状況」
「体育祭中は校舎は立ち入り禁止ですから誰も来ません」
 そう言いながらも、カガミはちらり、と背後を振り返った。
 ここはちょうど校舎から入って折れたところにあり、外からは視界に入らないはずだ。
(べつに、見られたって――)
「おい、なんか顔色が悪いぞ」
 まるでその理由を知っているかのような顔をした天馬から、思わず目を逸らしてしまう。
 昨日、鼎の言っていた言葉を思い出しながら。
「私が来た用は分かっているはずです。
 なぜ、彼がここにいるんですか」
 雨宮秀一は、ここにいてはいけない人間のはずだ。
「カガミ、おまえ意外と人を見る目がないんだな。ありゃあ、弟だよ」
「あ……。では、あれは竜二なのですか?」
「お、その辺の事情は知ってるのか。
 そうだよ、あいつと腹違いの弟の竜二だ。一卵性みてえに似てるけどな」
「なぜ彼があんな……雨宮の真似などをしているのですか」
 カガミが朝、彼を発見した時、ちょうど彼は側で目を潤ませている女の子にこう諭しているところだった。
 自分は紛れも無く雨宮秀一で、そんなに疑われても困る。
 微笑みながら、そう言っていたのだ。
「あいつが何を考えているか、ね……」
 窓の外から、喧騒が聞こえてくる。
 もうすぐ最初の競技が始まる頃合なのだろう。
 天馬はふん、と鼻を鳴らした。
「知るもんかよ。ま、雨宮になれたら何でもし放題だしな。
 もっとも、実家はもう人手に渡ってるらしいが」
 無難な答えだ。だからこそ、奥がありそうな気がする。
 カガミは射止めるように、天馬の黒い瞳を見据えた。
「本当に、何も知らないんですか、天馬」
 それまでのどこかとぼけた雰囲気を消して、天馬の顔も引き締まる。
 しばし二人の間に剣呑な空気が流れた。
「――兄貴のことを、知りたいんじゃねえか。
 そろそろ戻れよ。オレはもう少しサボってくから」
「ダメです」カガミは一言で切り捨てた。
「一緒に戻りましょう。せっかくの体育祭をサボるなんて、ダメです」
 だけれど天馬は苦笑を浮かべ、そっとカガミの手を払いのけた。
「いいからさ。お前は楽しんで来いって」
「天馬」
「頼むよ」
 その一言で、カガミはぴしっと凍り付いてしまった。
(どうして、そんな顔で)
 じゃあな、と言い残して天馬は校舎の奥へと消えていく。
 天馬の行き先がトイレと逆方向であることに気づくのと、心配した鼎が迎えに来てくれたのが同時だった。

       

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