Neetel Inside ニートノベル
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賭博天空録バカラス
29.シマの魔雀 その4

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【イブキ】


 私にとって、理想的な展開になった。
 この中で最もしつこく喰らいついてくる獣がようやく致命傷を被ってくれた。
 嶋あやめの転がったベッドは私のものだったが、ふらふらと力なく倒れこんだ彼女を追い出すのも忍びない。
 せいぜい後少しの間、心地のいい夢を見させておいてやろう。
 喉元に突きつけられた終わりというナイフは、すでに血管に触れている。
 あと一息、ほんのわずかに力を入れるだけで、彼女はリタイヤするのだから。
 そうすれば残る二人は敵ではない。
 長く時を重ねれば、勝ち残るのはこの私をおいて他にはいない。
 けれど少しも嬉しくない。血が躍るような高揚感もない。
 ギャンブルを生業にしているからといって、博打が好きかと聞かれれば答えはノーだ。
 こんなもの、身体は疲れるし何の生産性もない。愚かで無益な遊びだ。
 ただ私にとって、ギャンブルは最も適性のある仕事だったというだけのこと。
 すべては金のためだ。
 生きていくための金、それを得られればいい。
 嶋あやめのように、センチメンタルな勝負事として賭博を捉えたことは一度もない。
 まとまった金を得れば休み、尽きればまた働く。その繰り返し。
 けれど私はどうも、お金に嫌われる節があるらしく、稼いでも稼いでも貯まらない。
 悪銭身につかず、というやつなのであろうか。
 金を置いてある時に限って巣に泥棒が入ったり、スリにトランクごと有り金を持っていかれたり。
 おかげでいまだに足を洗えていない。
 博打の甘美さに淫しなければいつでもやめられる、と思っていたのだがそう簡単に魔王は獲物を逃がしてはくれないらしい。
 だが今度こそやめてやる。
 ここで勝ち残ったら、どこか安いアパートでも借りて、細々と生きていこう。
 贅沢はいらない。ただ、静かに暮らしたい。
 それが私――流れ者のイブキのたったひとつの願いだ。



 
 ――見とれるように自分のアガったW役満をいつまでも手元に残していた鴉羽から、むしり獲るように私は彼の栄光を卓の中へと葬り去った。
 あ、と鴉羽が未練がましく声を上げるが無視する。
 不様な麻雀に付き合わされるだけでも憤激ものだというのに、これ以上この私を不快にさせるようなら、もう白髪が増えぬようにその頭髪を引きちぎってくれる。
 おまえのおかげで、何度計算を狂わされたことか。
 大人しく死ねばいいものを。
 どうやら私の視線から言わんとすることを察したように鴉羽はしおしおと項垂れてしまった。
 しかしどこか表情に緩みがあるのは、六万四千点を手中にかき入れた余熱がまだ残っているためか。
 手牌を把握する前にアガられてしまったので、まさかWまで届いているとは私も思っていなかった。
 ただ同種牌が多い感覚は理牌の時点からあったので、西ポンの時点では、せいぜいトイトイだろうと踏んでいた。
 恐らくシマあやめもそう考えていたのだろう。
 そうして、トップを取るためには彼女は進むしかない状況だった。
 西が狗藤に入っていれば、沈むのは彼であった。
 ここが麻雀の恐ろしいところである。
 理不尽なババをいつ引かされるかわかったものではない。
 この私とて、トイトイを警戒して初っ端から暗刻を崩すという超消極的手法で浮いた中を打たなかったが、暗刻がなく手が柔らかく攻め込んでいけそうだったなら易々と打ち込んでいた可能性はある。
 暗刻崩し、三順でやつの手牌をより鮮明にさせてから手作りに移行しよう。
 その決断が上手くハマっただけだ。
 そして私の経験上、勝負がつくのはこういったほんの一瞬の後先なのである。


「シャワーを浴びたいのだが、一番でいいか」
 私の質問に対して、狗藤が勝手にしろと手を振ってくる。
 端整だった顔立ちはすっかりやつれ、無精ひげが着々と勢力を拡大していた。
 用心棒として雇った流れのギャンブラーにボコボコにされているのだから腐っても仕方ないのだが、人を安易に信用するのが悪いのだ。
 脱衣所は私のベッドの側にある扉から入れる。
 シマの後頭部を横目に見つつ、私は髪を結っている紐を解いた。
 今までは四人とも休憩時はシャワーを軽く浴びる程度だったのだが、ひとつ前の休憩でシマが入浴を希望したので湯が張ってあった。
 なにか入浴剤が溶かしてあるのだろう、湯の色は彼女の髪のように真っ白だ。
 けれど湯に浸かるつもりはなかった。
 一番風呂くらいシマに残しておいてあげよう、などと殊勝な考えがあったわけではない。
 単に早くあがりたいだけだ。のぼせたら大変だ。


 目を閉じて水滴が弾ける音に耳を傾ける。
 私の身体から滴り落ち、タイルの溝を通って水が排水溝を流れていくのが聞こえる。
 もっと耳を澄ませば、向こうの部屋で鴉羽が鼻をかんだ音も、狗藤が神経質に眼鏡を磨く音も、その様子も、彼らの筋肉が収縮する音だって分かる。
 部屋にバニーが入ってきた。
 盆に乗せたボトルをグラスに注いで、狗藤に差し出す。彼はそれを乱暴に奪い取ってラッパ飲みにした。
 ごきゅ、ごきゅ、と彼の喉仏が動くのが、聞こえる。
 そうしておもむろに歩いていく。卓の側に立ち、空いている方の手で散らばっている牌をひとつ摘まみ上げる。
 彼の手で表面を揉むように盲牌された牌は、唐突に卓に打ちつけられた。
 澄んだ音が響き渡る。
 七萬を見た彼はチッと舌打ちをひとつ零して、八萬だと思った、と呟いた。勘が鈍ってやがら。
 私はシャワーを止め、鏡の中に映る自分を見つめた。
 今まで誰にも打ち明けたことはない。
 理解されたいとも思ったことはない。

 卓に牌が打たれれば見なくても分かるし、その衝撃が卓上を伝わってヤマへ届けば、少々の時間を必要とするけれど、その反響からヤマの中身も聴こえてしまう。
 特殊な音波を水中へ放って、深海を泳ぐ魚影を探知するソナーのように。
 だからこそ、さっきのシマがしっかり握りこんだ牌は手のひらに邪魔されて分からなかった。
 麻雀牌のわずかな彫りの違いから何の牌かが聴こえてしまうほどの異常聴力。

 ――牌を聴けること。
   それが私の秘密、
      私の才能、
      私の――孤独。




 幼い頃から、自分は誰にも求められなかった
 誰かにいじめられたわけでもない。
 誰かに見下されたわけでもない。
 ただ、他人よりも興味を惹いたり、愛されたり、そういった経験が私にはなかった。

 ある時、唐突に気づいてしまった。
 いつも自分と分け隔てなく話してくれる家族。
 彼らとの会話は、いつも自分から始まり、向こうから投げかけられたことは記憶上に存在しなかった。
 まさか冗談だろう、私も忘れっぽいやつだな、そう思って試しに何日も喋らないまま過ごしてみた。
 それきりだった。
 父も母も、なんとも言わない。自分を見ようとしてくれない。
 何事もなかったかのように、流れていく生活。
 誰も困らず、何も失われていない。
 なのに私は、どうしようもない喪失感に胸を食い破られそうだった。
 嫌われているわけではない。
 ただ、愛されていたりは、決してない。
 とうとう怖くなって、ねえ、と母に話しかけるとすぐ振り向いてくれた。
 けれど、それはなんの安心にもならなかったのだ。
 きっとみんな、と幼い私は思った。
 私が死んでも、見向きもしないのだ、と。
 
 イブキという名の自分をパーツ分けすれば、決して短所ばかりというわけではなかったろう。
 容姿は母に似て秀麗だと父親に認められたこともあるし、寝癖ひとつつかない艶やかな黒髪も、乾いた性格に反して大きくクリクリと動く可愛らしい両目も、短所などと呼べば世の女性たちから総スカンを喰らうこと必定だ。
 では自分には何が足りなかったのか。
 ここで、自分には愛される才能がない、そんな思春期の子どもらしい悩みを持っていれば、私もまだ人間らしかったかもしれない。
 今より少しだけ背の低かった頃の私は、屋敷の屋根に登って広い庭を眺める。
 その向こうに続いている丘陵を見渡す。
 顎を上げて、見果てぬ天空を仰ぐ。
 世界はこんなにも大きいのに、私は誰からも求められていない。
 いや、そもそも。

 この世界は、なにかを求めていたりするのだろうか?

 それきり家を飛び出した。もう何年も戻っていない。
 誰も探しに来なかったし、私もまた、家というものを必要としていなかった。
 並大抵の危険は耳を澄ませれば聴こえてきたし、その力を反転させれば、人からモノを奪うのも簡単だった。
 たとえば博打。たとえば盗み。
 そんな風にして、ただ生きた。
 目的もなく希望もなかった。
 この世はなにも求めていない。
 脳が肥大化した我々人間が勝手に意味やら意義やら、複雑なものを作って支えにしているだけ。
 世界はただあるだけであり、それ以上、なにも求めていない。
 だから私はあり続けた。死を回避し続け、命を明日へ繋げ続けた。
 なにも楽しくなかったし、また苦痛でさえなかった。
 どこまでもいっても終わらぬ砂漠のような無味無臭。
 それが私にとっての『生』だった。

 耳を澄ませる。
 どんな小さな音でも聴きとってみせるが、
 その中に、私の名を呼ぶ声だけはないんだ。





 誰かが脱衣所にいる。
 そいつは勢いよくユニットバスに飛び込んできた。
 ハッと私の意識は急激に現実へと引き戻される。
 何者かの接近は思ったよりも速くて、振り向いた私は突撃してきた身体によって、湯船の中に叩き込まれてしまった。
 ごぼっと水中で息を吐き出してしまう。
 侵入者の身体がすぐ側にあった。
「ぷはっ」
 私は水面に顔を出して、ごしごしと平手で顔を拭った。
「あっはっは」
 侵入者はあっけらかんと笑う。
「やっぱり湯船にドボンするのは気持ちイイなぁ。ね、そう思わない、イブキ?」
「……なんの真似だ。シマ、あやめ」
 先ほどまでの消沈ぶりはどこへやら、シマはニコニコしながら濡れた髪をかき上げた。
 バスルームの照明をまともに浴びた凛々しい顔立ちが光っている。
 私はできる限り相手を睨みつけたが、実年齢に比べていささか幼い私の顔では十分な威力を発揮しなかったろう。
「シマでいいよ」と彼女は言った。
「あ、それとも下の名前で呼びたい? しょうがないなぁ――」
「シマ」と私はことさらに強い発音で強調した。
「人を背後から襲うとは、噂ほど騎士道精神に溢れるやつではないようだな」
「そんな、襲うだなんて人聞きの悪い。わたしはただ、お風呂は一緒が楽しいって思っただけ」
 悪びれた様子も見せず、シマは口をすぼめてみせる。
 なにがいけないのかわかんない、と顔に書いてある。
 そこでようやく私は、彼女も自分もなにも身に着けず、真白い湯に浸かっていることを思い出した。
 できるだけ不自然にならないようにゆっくりと、肩が隠れるまで湯に沈み込む。
 ぶるっとシマが犬じみた所作で髪の水気を払った。
 その飛沫がまた私の目に入って顔を拭う二度手間を被った。
「悪いが、人と一緒に湯に浸かる趣味はない。出て行ってくれ」
「やだ」
「や、やだ?」こいつは子どもか。
「おまえ、本当になんのつもりなんだ」
「どういうつもりだと思う?」
 ユニットバスは大きく、私とシマが入ってもまだ余裕があったので、彼女はぷかーぷかーと左右にクラゲのごとく揺れている。
 水中から伝わってくる心音も血流も正常。
 少なくとも暗殺しにきた、というわけではなさそうだ。
 では、恐らく。
「手を組もう、言いに来たのだな、シマ。
 確かにこのメンバーで私とおまえが組めば軽々とあの二人を料理できるだろう。
 ふむ、今のおまえは深手を負っているが、それも私がサポートしてやればすぐ復調しよう。
 コンビを結成すれば、鴉羽のツキの風向きも変わってくるかもしれないしな。
 よし、いいだろう。配分は、私が七割、おまえが三割でいいか」
「やだ」
「む、わがままだな。まァいい。五分五分にしてやろう」
「やだ」
「どこまで強欲なんだ」
「十割全部わたしのだ」
 私は身構えた。
「イブキ、悪いけどわたしはコンビを組みに来たんじゃない。
 宣戦布告に来たんだ」
 愚かなことを、と私は鼻で笑ってやった。
「分かっているはずだ。私には牌が分かる。
 万にひとつも私は負けない」
「その思い上がった幻想を、木っ端微塵にしてあげる」
 いつの間にか鼻が触れ合うほどの近さで、私たちは睨み合っていた。
「おまえは……」
「なに?」
 いや、わざわざ言うのはよそう。私は口を噤んだ。
 どうせ教えたところで無意味だろう。
「なんでもない。それより早くあがってくれないか」
「あ、わたし長風呂なんだ。ごめんね、先にあがっていいよ?」
 そう言ってシマは顔を覆った。
 人差し指と中指の間からバッチリ黄金の瞳が覗いている。
 私が、熱いお風呂が苦手なのを、きっとこいつは分かっているに違いない――

【/イブキ】



 タオルで髪をごしごし拭きながら出てきたシマに、おや、と鴉羽が顔を上げた。
「イブキが先に入っていたんじゃないのか」
「ああ、まだ入ってるよ。出てきたら始めようか。
 さ、場所決め場所決め、っと」
 なにがあったのかすっかり上機嫌かつ入浴でタマゴ肌を取り戻したシマは調子っぱずれな鼻歌を唄いながら東南西北をガラガラとかき混ぜる。
 それを狗藤が冷めた目つきで眺めていた。
「フン、ガキどもめ。おまえらなんかにしてやられてるかと思うと、我が身が哀れになってくるぜ」
 その言葉の真意がとこにあったのか。
 顔を真っ赤にして、おさげを結わえる気力もなくしたイブキが戻ってくると、シマは四枚の牌を指し示した。
「イブキってすごくシャイなんだね。気にしなければいいのに」
「……おまえ……許さん……」
 ふらふらと頼りない足取りで近寄ると、彼女は一枚の牌を掴み取った。
 それを皮切りに鴉羽、狗藤と引き、残った牌をシマは握り締める。

 (こんな冗談で、イブキにダメージを与えたつもりはない)
 (彼女の上をいかなければ、わたしの負けだ)
 (もう後はない。退路は行き止まり。味方はいない。
  道なんて――)










 (――勝ちへの道しか、見えないっての!)

       

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