Neetel Inside ニートノベル
表紙

賭博天空録バカラス
4.不安を呼ぶ風

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 胸の中に風が吹いている。とても弱くそよ風にも劣るが、それは心の大地から決して消え去ることはなかった。呪いのように吹き続けている。
 ひゅう、ひゅう、ぶー。
 カガミは鼻をかんだ。
 この感覚のことはよく知っている。闇の中から殺意を向けられている時のものだ。
 昨日まで同じ釜の飯を分け合い、傷を癒し合った相手に撃たれる五秒前に感じるものだ。
 脱力感と緊張感が綯い交ぜになった泥のような気分。
 しかしなぜそれを今、感じるのだろうか。カガミは手首のスナップだけで丸めた鼻紙をゴミ箱へ投擲した。
 花粉症は一向に治まらない。涙よりも鼻水の方が厄介だった。唇の上が赤くなってしまって恥ずかしい。
 鼎が守ってくれているからいいけれど、このことで誰かにからかわれたり、陰口を言われたら自分はきっと身動きが取れなくなってしまうだろう。何も言い返せず俯き耐えるのみ。
 仕事をしている時と違って、クラスメイトというのはどう接していいのか、どこまで親しくしていいのか加減が難しい。
 なまじっかお互いに『役割』というものが与えられていないから、身の振り方に窮してしまう。
 まさかこの自分が、こんな人並みのことを考える日が来るなんて。
 窓ガラスに映る作り物じみた顔をしげしげと見つめる。まっすぐに巻かれたスカーフの位置を几帳面に直してみる。昼休みの喧騒が校庭から遠く潮騒のように響いてくる。
 びゅう。
 風は止まない。
 ふと見ると珍しく天馬が自分の机に座っていた。背後で門屋たちがキャッチボールをして暴れているのを無視して読書に耽っている。
 なんの本を読んでいるのだろう。
 背表紙を机に伏せているので題名が隠れてしまっている。本が傷むな、とカガミは思った。
 久々だし、ちょっと話しかけてみようかと席を立ちかけたが、十日ほど前に見た女の笑顔が脳裏に蘇り、浮かしかけた腰をすとんと落とした。
 恋人がいる男子に話しかけるのはよくない、と誰かが言っていた気がする。鼎だったろうか。いや彼女は「いいじゃんいいじゃんすげーじゃん」と言って煽ってきそうだ。
 それに、天馬自身から会話禁止の命を受けている。従ってやる道理もないが、なんだか自分ばかり折れている気がして面白くない。
 思い返してみると、学校に通い始めてから話しかけるのはいつも自分からで、天馬から近づいてきてくれたことはない。
 彼はやたらと迷惑になるからと関係を固辞するが、本当なのだろうか。
 もしかして、ただ自分のことが――。
 ごお、と風が一瞬強くなる。
 人からどう見られるか、思われるかなんて、考えたこともなかった。
 嫌いになるとか好きになるとか、そんなことに思いを馳せる前に相手の息の根を止めなければ間に合わなかった。
 だからもし、これが人に嫌われる時に覚える感情だというなら。
 じっとしていられず席を立った。
 幸いというべきか、近づく体育祭へ向けての準備で鼎やクラスの女子生徒たちは出払っている。いま話しかけてもそんなに目立たないはずだ。
 退屈そうに視線をページに落としている天馬の横顔を見ていると、じんわりと首筋が汗ばんできた。
 馬鹿な考えだと分かっている。不安になったからすぐ確かめるなんて、母がいなくなった途端に泣き出す子どもと同じだ。
 それでも勇気を振り絞ったカガミが天馬の前に立つのと、教室の扉が開くのが同時だった。
 暴投気味のボールをジャンピングキャッチした門屋が「あ、生徒会長」と呟いたがカガミは気づかない。
「天馬」
 呼びかけると天馬は怪訝そうに顔を上げた。夜遊びでもしていたのか、目元に墨で塗ったようなクマができている。
「あん?」
 不機嫌そうな声で返す天馬はいつもの彼のままで、カガミはほっとした。
 彼は本当に不快に思っている時は梅干のようになるまで眉根をしかめるのだ。
 十日以上も話していなかったから話題には事欠かない。
 さあ何から話そうか、とカガミが身構えると、予期せぬ襲撃を受けた。
 背後から肩を掴まれ、その場でぐるんと綺麗に回転させられる。何がなにやら分からない。
 男子生徒が顔中にびっしりと汗を浮かべていた。
 見知らぬ顔だ。細面で色白だが、やたらと眉毛が濃い。なぜか白熊を思い出した。
 よく分からないが、これも高校生にはよくあることなのだろうか。カガミは常識知らずな自分を呪った。
 確かなことは、いま自分は最高に機嫌が悪くなったということ。
 ちょっと痛い目に遭わせてやろうか――とカガミの目が細められた時、
「かかか加賀見くく空奈さん!」白熊がドモりながら声を張り上げた。
「はい?」
 トサカに来ていることが伝わっていないのだろうか。こういう時、表情で意見を伝えられないと不便する。
「つつつつ付き合ってくださいっ!」
「え」
 答える前にドモりの白熊はカガミの手を取り、ぎゅっと目を瞑ると、おもむろに顔を近づけ、
 ぶちゅ。
 キスった。
 全身の毛を逆立てて轟かせたカガミの絶叫は四方八方を貫通し、校庭の隅で花壇の手入れをしていた用務員、須田京太郎の耳まで貫いた。腰が抜けた。
 だがそれでも白熊の暴走は止まらない。カガミの手を引いて連れ出そうとする。
「たたたた頼むっ! もうげげげ限界なんだっ!」
 こっちのストレスも限界だ、とカガミは叫びたかったがそれよりも早く白熊の脳天に硬球が直撃した。
 心配しなくてはいけないような音がしたが白熊はくじけない。
「ななな何をするっ!」
 見るとボールを投げた姿勢のまま、野球部セカンド門屋が顔を真っ赤に染め上げてコメカミに血管を浮かび立たせていた。
「何かしたのはてめえだああああぁぁぁぁぁっ!」
 キャッチボールの相方、野球部ショートの早瀬が唖然として門屋を見つめている。彼もまたこの状況のついていけない一人だった。
 カガミは救世主の到来にホッとしかけたが、
「俺のかがみんに何しやがらぁぁぁぁぁぁぁ!!」
(……。俺の?)
「おおおおオマエのじゃななないだろっ! かかかカガミさん!」
「……はい?」
「こここここっちだ!」
「あ、ちょっと」
「待ちやがれ白垣ィィィィィ!」
 白垣と呼ばれた白熊はカガミの手をがっちりホールドしたまま駆け出した。門屋が二人の背中を猛然と追いかけて来る。
 そんな大騒ぎの中で、カガミはただ一人を見つめていた。
 その一人は手元の本に目を落とし、微動だにしなかった。
 興味ない。全身でそう伝えられたカガミの足から、白熊から逃れようとする力がふっと途絶えた。
 心の荒野を乾いた風が渡っていった。






 +++++



「……なんかあったの? 今すっげー勢いで何人か出てったけど」
「知るかよ。ただの茶番だ」
「ふうん。なーんか羨ましいな。楽しそうで」
「まったくだな。まぁいい。ライトなムードは奴らの仕事だ。オレたちは……」
 天馬は席を立ち、読んでいた本をミハネに放り投げた。
「勝負といこうや」



 +++++



 宮野玲はいつものように仕事を片付けていたが、突然鉛筆を手の中で握り締めてばっきり折った。三本目だった。
「だから、俺の方が先だ!」
「ちちちちち違う、僕だ!」
 先ほど生徒会室に入り込んできたかと思ったらこの有様である。部外者なら叩き出しているところだが闖入者の一人が生徒会長なので始末に終えない。
 仕事もせずにどこへ行っているのかと思ったら女子生徒を連れ込み恋敵までくっつけて帰還。
「俺はな、かがみんが転校の手続きしに来た時にもう惚れてたんだ!」
「うううううるさい! 僕はその日のああああ朝に歩いてる時だ! かかかか勝ったのは明白だ! どどどどっかいけ!」
「いかねぇぇぇぇし!!!!!」
 この手の喧嘩は簡単には終わらない。喧嘩自体を楽しみ始めているからだこの馬鹿二人は、と宮野はため息をつくと所在なげに立ち尽くしている女子生徒に目をやった。
 噂の美少女転校生のことは宮野も耳にしている。
 どこで誰とくっつこうが構わないが自分に迷惑をかけるのだけは遠慮して欲しい、と心中で毒づく。
 バン!と白垣が机を叩いた。
 周囲の役員たちはそよ風程度にも二人の相手をする気などなく黙々と仕事をこなしている。
「わわわわ分かった! そこまでいいいい言うならしょしょしょ勝負しようじゃないかっ! 宮野くんっ!!」
 こいつ早く死なねぇかな、と宮野は舌打ちして顔を上げた。
「なんでしょうか生徒会長。部屋の中ではお静かに」
「こここここれが黙っていられるかあああああああっ!!」
 宮野の隣で一年生の小林美穂が俯いて「死ねっ死ねっ」と呟き始めたが白垣会長は止まらない。
「今年の体育祭は、紅白個人別にしたまえっ!」
「はあ? 何言ってんですか。早く帰ってください」
「ぼぼぼぼ僕は二組だ! 門屋は四組だ! これが何を意味するか答えよ矢島くんっ!」と急に話を振られた矢島が窓の外を眺めながら
「偶数っす」と答えた。
「ちっげーよ!」門屋が割って入ってきた。「紅白はいつも偶数奇数で分けてるだろーが!」
「このままでは僕と門屋が同じ組になってしまう!」
「だからなんですか」宮野は半ば理解していたがそれでも確認してみた。
「どっちがカガミさんにふさわしいか!」
「体育祭で決めてやらァ!!」
 二人は息ぴったりに宣言すると意味不明に吼え始めた。とうとう野生に帰ってしまったらしい。
「先輩……」と小林美穂がうるうるした目を向けてきて、宮野は胸を痛めた。
「静かに仕事がしたいです……生徒会らしい……地味な……」
「まったくもって同意見よ……」
 けれど宮野と小林に差があるとするなら、宮野はもうすでに教師宛に変則体育祭の詳細を報告する書類を作成し始めているところである。
 さすが幼馴染っすね宮野先輩、と矢島が言ったけれど次の瞬間、宮野に裏拳を喰らい昏倒したので彼の意識はここで途切れてしまった。
 動かぬ肉塊となった矢島を満足気に見下ろすと、宮野は大騒ぎしている二人の横からカガミに声をかけた。
「カガミさん。なんか二人で騒いじゃってるけど放っておいていいの? いやまあ白垣は一度言い出したら聞かないから変則体育祭はやるだろうけど……でも付き合うだの付き合わないだのは、ちゃんとしときなよ?」
「ちょおまっ、外野は黙ってろよ!」
「うるせぇ門屋、野球部試合禁止にすんぞ」
「すいませんでした」
「ねえ、カガミさん……って聞いてる?」
 カガミは足元を見たまま石化したように動かない。他人のフリをしてこの場に関わりたくない、というわけでもなさそうだ。
 宮野が消しカスを固めてぶつけてみると、唇がわずかに動いた。
「……ぃ」
「え?」
「勝手に……してください……」
 白垣が鼻血を垂らした。
「きききき聞いたか門野! 勝手にしろとの仰せだ!」
「ああ聞いた! つまり、マジで、体育祭で勝ったら……!
 うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!」
 予想していなかった返事に宮野は慌ててカガミの腕を揺さぶった。
「ちょ、ちょっと。あんた大丈夫? 正気? あたしならこの二人に勝手にされるくらいなら核を使ってでも抵抗するわよ」
 けれどカガミは力なく宮野の手を振り払うと、何も言わずに出て行った。
 後にはどこか空回りした喧騒だけが続いている。

       

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