あたしは、お母さんと住んでるマンションに戻ってきた。
『ここー、さちしゃんのおうちー?』
肩に乗ってるカマイタチが、こっちを見上げてくる。帰る途中、何人かとすれ違ったけど、誰もこの子に気がついた様子はなかった。
ナギっていう妖怪は、やっぱりあたしと、きつねにしか、見えてないみたい。
『ひの、ふの、みー。よん、かいー!』
「言っとくけど、全部あたしの家じゃないわよ。このなかの、一部屋だけだからね」
ナギが、どれぐらいヒトのことを知っているかわかんない。けど、今の様子だと、家を大豪邸と勘違いしているみたいだから、一応釘をさしておく。
『じゃあ、みんなの、おうちー?』
「そういうこと」
間違ってはいないので、一応、それで良しにする。
「えーと、鍵は……っと」
学校の鞄から、家の鍵をとりだした。
今日は月曜日。時間は、お昼を少し回ったところ。朝ごはんを食べてから、なにも口にしてないから、お腹空いたなぁ。
(お母さんも今頃、職場で、お昼ごはん食べてるのかな)
それでも、もしかしたら。
毎日、心のどこかで、期待してる。
先にお母さんが、家に帰ってるかもしれないって。
この玄関の扉を開けたら、廊下を歩く音が近づいてきて、
「おかえり、幸」
そう言ってくれるかもしれない。だから。
家に帰って、玄関を開けた時、あたしは、必ず言うんだ。
「ただいまー……」
でもやっぱり、返事はなくて。
こんな時間に、お母さんが家に帰ってないってことぐらい、わかってる。
わかってるって思って、ちょっと寂しくなる。
「……」
夏休みなんて、いらない。
一人でいる時間が増えるだけじゃない。
『おかえりなしゃーい!』
「……え?」
あたしの肩から、ナギが、飛び跳ねた。
玄関の靴入れの上に降りる。木彫りの熊の横に置かれた、小さな妖怪イタチ。
こっちを見てる。しっぽを振って、笑ってた。
『ここー、さちしゃんのおうち、ねー?』
「う、うん」
『じゃあ、おかえりー!』
胸が熱くなる。この前の、お祭りの「もやもや」は、怖いだけだったのに。
優しい妖怪も、いるんだなぁ。
体が、ぽかぽかしてくる。なんだか嬉しいな。こういうの。
「――ただいま、ナギ」
今までずっと、おばけっていうだけで、見ないフリをしてきた。でも、きつねっていう男子のせいで、少しずつ、心が変わっていった。
今のあたしは、妖怪のことを、もっと知りたいって想ってる。
まだちょっと怖いけどね。それでもね。
妖怪と、仲良くなれたらいいな。
家に帰ってから、持っていた手提げ鞄を部屋に置いて、流しの前に立つ。エプロンをつけて振りかえると、テーブルの上で辺りを見回してる、ナギが目に留まった。
「ナギ、ごはん作るけど、食べる?」
『たべましゅー!』
大きな黒い瞳を輝かせて、びしっ! と右手をあげる。
何気なく時計を見ると、もうすぐ一時だ。
油断してると、お腹の音が鳴っちゃいそうで困る。今日は学校の給食がなかったから、もうお腹ペコペコ。まぁ、朝礼と掃除しかなかったから、仕方ない。図書室に居残ってたり、きつね達の野球を見ていて、帰りが遅くなったせいだ。
「うーん……」
『すずしー!』
冷蔵庫を開けて、中をじーっと見てたら、いつのまにか足元に、ナギがいる。
そういえば、妖怪って、なに食べるんだろ。
「ナギってさ、食べられないものとか、ある?」
『たべられない、ものー?』
「普通のイタチなら肉食だと思うけど……チーズとかは、無理?」
『ちーず?』
「これなんだけど」
真っ先に目についた、スライスチーズ。
封を切って、机の上に置く。
『……きゅー?』
ナギが、床から机の上に、ひとっ飛び。机の上に置いたチーズを、小さな鼻を動かして「ふんふんふん……」って様子を見てる。なんか、普通の動物っぽい。あっ、食べた。
『はうーっ!?』
「ど、どうしたの?」
『はぐはぐはぐーっ!!』
急に大きな声をだすから慌てたのに。
ナギは、夢中になって、チーズを食べ始めた。気に入ったみたいだ。小さな頭を撫でてあげると、嬉しそうに、鼻を寄せてくれる。
『さちしゃーん! これ、おい、しー!』
「乳製品は、大丈夫なんだね。他に、食べられないもの、ない?」
『たべられない、ものー?』
「なにかあるなら、先に言ってね。って言っても、お母さんがいない時は、火を使った料理をするのはダメだから。たいした物は作れないけどね」
『そうなんでしゅかー?』
「うん、お母さんとの約束だから。というわけで、朝の残りのお味噌汁と、野菜炒め、レンジで温めるぐらいになっちゃうけど、それでいい?」
『たべられないものー、たべられないものー?』
ナギが、随分唸ってる。気軽に聞いただけなんだけど。
頭を撫でて待ってたら、突然思いだしたように、顔をあげた。
『さちしゃん、なぎー、たべられないの、ありまちたー!』
「なに?」
『ひとー!』
「……安心して、誰も食べないから。食べちゃいけないから」
『ねー!』
ナギが両手をあげて、万歳してる。こういうことを、冗談で言ってないところは、やっぱり妖怪なんだなって思う。そういえば、きつねも繰り返し、ナギのこと食べちゃダメだって言ってたし。
「まったく、もう。妖怪ってば、食いしんぼうばっかりねっ!」
ナギとご飯を食べてから、一休み。そうしたら、次は晩御飯の準備だ。
一人の時に、火を使うのはダメなんだけど、包丁を使うのは、去年やっと許してもらえた。野菜を洗って、盛り合わせた器を二人分用意して、冷蔵庫に入れる。それからニンジンとタマネギを細かく砕いて、タッパーに詰めておく。後はお米を研いで、お母さんが帰ってくる時間に合わせておけば、おしまい。
『さちしゃん、まいにち、ごはんつくってる、のー?』
「うん。お母さんお仕事で疲れてるから。あたしができることは、あたしがやらないとね」
『えらいでしゅねー』
「そんなことないわよ。それに……」
あたしのお母さんは、心配性なんだ。
忘れたことなんてない。こうして台所に立っていれば、思いだせる。
「おかーさん、さちもねー、おてつだい、するー!」
小学生になった時、もうお父さんと呼べる人はいなかった。あたしは一年生だったけど、その時のお母さんが、どれぐらい大変なのか、わかってた。わかってたから、手伝えることは、なんでも手伝ってあげたかった。
「ありがと、さっちゃん」
そう言ってくれる顔が、嬉しくて。
でも一年生の時、まだお料理することに慣れてなくて、背も今よりもっと小さかったから、流しからこぼれてきた熱湯が、腕にかかって、火傷しちゃったことがある。
「――――幸っ!」
お母さんが、あたしの腕を強く掴んだその時。熱くてヒリヒリすることよりも、怒られちゃうって思った。怖くて、ぎゅっと目を瞑った。それなのに、
「ごめん、ごめんね……っ!」
涙を浮かべながら、あたしを抱き上げて、それから水道の蛇口を捻って、ずーっと、あたしの腕を水に浸してくれた。その時、思ったんだ。
「……心配、かけたくないから、だから、頑張らなきゃ」
あたしは、お母さんが、大好き。
お母さんみたいに、なんでも一人で、できるんだから。
そうしたらきっと。お母さん、安心してくれる。
『さちしゃんー、やさしい、におい、ですー』
肩に乗ってくる小さな妖怪。
ナギが、ほっぺを、ぺろって舐めた。くすぐったい。
『こーしゃまの、おかーしゃまも、そんなにおい、なのー』
「……そうなの?」
『はいー!』
きつねのお母さん。一度見たら忘れられそうにない、とっても綺麗な――妖怪。
「――――内緒にしておいて、頂戴ね」
参観日の日に、頭の上とお尻に、黒いもやもやが見えた時、そう言われた。優しく微笑んでくれたその顔は、本当に綺麗で、思いだしただけで、ちょっと顔が熱くなる。
『さちしゃん、こーしゃまの、おかーしゃまと、あったこと、ありますかー?』
「うん、お話したことは、ないけどね」
そう言うと、幸が小さく頷いた。
どうしたんだろ。
『さちしゃん』
「なに?
『こーしゃまの、およめしゃまに、なりません?』
「………………は?」
えーと、今、あたし、なに言われ……………………。
ぷしゅ~!
夏の空でも、八時を回れば暗くなる。
一人で居間の椅子に座っていたら、玄関の方から、鍵が差し込まれた音が聞こえてきた。
読んでいた本を閉じて、席を立つ。
「おかえり、お母さん」
「ただいまぁ、さっちゃん! おかーさん、もうだめぇ!」
「お腹空いてる?」
「うん! とってもすいてるぅ! ぐ~きゅるるるるぅっ!!」
「じゃあ、火使っていい? 切った食材とご飯で、チャーハン作っちゃうから。冷蔵庫にサラダと、朝のお味噌汁があるからね。よかったら、出来あがるまで摘まんでて」
「あ~ん! なんていい子なのっ! おかーさん、全力で応援してるからねっ! ふれー、ふれー、さっちゃんっ!」
「うん、頑張って作るね」
それから、ちゃっちゃとチャーハンを作った。
食卓について、お母さんと一緒に、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
『いただきましゅー!』
昼間、失礼な発言をした妖怪が、ちゃっかり机の上にいる。さりげなく、べしっと払いのけて、
『あ~~~ん!』
下に、落としておく。まぁ、すぐに戻ってくるんだけど。
『さちしゃ~ん! なぎも、おなか、すいた、のー!』
大きな黒い瞳をきらきらさせて、あたしを見上げてくる。
「……まったく、もう」
お母さんにバレないように、お皿の端を、スプーンでこつこつ叩く。そうしたら、すすすっと寄ってきて、小さな口で、作りたてのチャーハンを食べていく。
『おいしー!』
もう、かわいいなぁ。
この妖怪、ずるい。
「どうしたのー、さっちゃん。ご機嫌じゃない」
「えっ! あっ、うん、今日は上手にご飯ができたから。えへへ」
「ほんとよー! もう、えっくせれんとだわっ! あんびりーばぼー! ビバビバ~!」
「ありがとう、お母さん。ほっぺに、ご飯粒ついてるよ」
「いやん」
恥ずかしそうに、ほっぺのご飯粒を取るお母さん。
それから、食器を置いて、あたしを見た。
「さっちゃん、重大発表があります」
「はい、なんでしょう」
「おかーさん! 明日の朝一番で、出張に……いきたくありませんっ!」
「えっ?」
「こんなにかわいい一人娘がいるのに……あの、バーコードハゲがぁぁッッ!」
お母さん、仁王立ち。
なにもないところに、しゅっしゅって、パンチを繰りだしてる。
『な、なんですのー!?』
ナギが、びっくりして、四つん這いになってる。
お母さんの豹変ぶりに、警戒態勢だ。しっぽをブンブン振りまわす。
「お母さん、落ち着いて」
「うん、大丈夫! お母さん、いつでも、おーるぐりーんっ!」
「お母さん、深呼吸して」
「すー、はー、すー、はー……フゥーーーーーッ!」
「お母さん、はい、お水」
「くわーーーーーーーっ!!」
だだぁん!
ガラスコップに入った水を一気に飲み干して、それを勢いよく机に叩きつけた。
「明日五時に起きて、朝一の新幹線に乗らないといけないとか。もうもうもうっ! ふざけんな畜生ーーー! もぉーーーーーーーっ!!」
「お母さん落ち着いて……どうどうどうっ」
「さっちゃんと離れたくないーーーっ! なにかあったら、やだーーーっ!」
涙で、うるうるしてる。
大変だ。お母さんの心配症が、最高潮に達してる。
あたし、また、心配させちゃってる。
「さっちゃん! 二人でズル休みしようっ!!」
「お母さん、ダメだよ。お仕事でしょ」
「……はうぅ……」
「あたしなら平気だよ。もう一人で、なんでもできるよ」
ぎゅうって、胸が苦しくなった。
あたしは、嘘ついてない。嘘ついてないけど、一人は、嫌だ。
夜になっても、誰も帰ってこない家の中は、冷たくて、寂しくて。
「……幸、おかーさん、お仕事いってきても、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちゃんと夜は戸じまりするし、火も使わないよ。明日は晴れるから、お布団干して、それから部屋の掃除もしちゃうね。ご飯だけど、一日だけなら、スーパーのお惣菜とお弁当、レンジで温めて食べてもいいよね?」
「……さっちゃんっ!!」
お母さんが席を立つ。ぎゅーって抱きしめられた。
「絶対、お嫁さんには行かせないわよーーーっ!!」
ぎゅーってされると、ちょっと照れ臭いし、恥ずかしい。だけど、それ以上に嬉しかったから、そのまま、ぎゅーってされてた。
寂しいけど、辛いけど、一人の夜は怖いけど。
たった一日だけだもん。仕方がないよね。お母さん、お仕事なんだから。
お母さんと一緒に、お皿の後片付けをして、ちょっとだけテレビを見た。
それから、一人でお風呂に入って、着替えて、自分の部屋で一人、布団に潜った。
扉がトントンってノックされる。
「おやすみ、幸」
「おやすみ、お母さん」
返事をして、暗闇の中で、目を閉じる。
すぅ、と一つ息を零した時だった。
『ふわふわー!』
布団の隅っこが、もぞもぞ動いた。肌に触れて、ちょっと背中がぞくってする。
「ナギ、くすぐったいから、あんまり動かないで」
『さちしゃん、おかーさんのこと、だいすきなんでしゅね』
「……え? あ、うん。あたしには、お母さんしかいないから」
『おとーさんは?』
「いないよ。前はいたみたいなんだけど、覚えてないや」
『そうでしゅか』
「うん」
それから、ナギは、あたしのほっぺを少し舐めてくれた。
気を使ってくれたのかな。妖怪なのに。
「ありがと」
元々は、あんなに怖かった、おばけの妖怪。
しっかり目を凝らせば見えたかもしれない「もやもや」を、怖いからって理由で、ずっと避けてきた。でも、今は違う。違うから、きっと、こうして見えている。
『さちしゃん。おひるにね、いったこと、おぼえてるー?』
「……お嫁さんの話なら、しらないわよ」
言ったら、ナギが首を傾げて「きゅ?」って鼻を動かした。
『さちしゃん、こーさまのこと、すきじゃないんでしゅか?』
言われて、顔が真っ赤になる。
ぎゅうって、胸がしめつけられていく。
「あ、あのねっ、ナギっ! ……そーいうことは、気軽に言っちゃダメなのっ!』
『そうなんでしゅか? すきって、きいちゃ、だめー?』
「……ダメじゃ、ないけど……でもね。お嫁さんになるのは別問題っ!」
『そうなの~?』
『す、すきなだけじゃ、ダメなんだからねっ! ほ、ほかにも沢山、必要なものがあって……っ! そもそもっ、あたしもきつねも子供だから、今すぐには決められないっていうか……」
あたし、なに言ってるんだろ。
もう、ごちゃごちゃ言葉が混ざっちゃって、わけわかんない。
『そうなんでしゅかー』
撃沈しちゃったあたしに向かって、ナギは、なんでかしらないけど、得意気だ。
『それなら、こーさまのおよめさんー、やっぱり、なぎなのー!』
「……え?」
『なぎー、こーしゃまの、いいなづけ、なのですー!』
布団からでて、むふんっ! と腕組みをしてみせる。
あたしの目の前ににいるのは、イタチの妖怪。推定身長は、十センチ弱。
「…………かわいー」
『きゅー!』
よしよしって、頭をなでたら、ほっぺを舐めてくれるところも、かわいい。
「あのね、ナギはかわいいんだけど、きつね――光樹のお嫁さんになるのは、ちょっと無理だと思うわ」
『どうしてー?』
「だって、一応アイツって、ヒトの姿してるじゃない。これからどんどん大人になっていくし、ナギは、ヒトにはなれないでしょ」
『うーん……』
ナギが、しょぼんって落ち込む。あたし、今、すごく嫌なこと、言ったかも。
「あ、あのね……っ!」
慌てて布団からでる。
なんか、さっき、きつねが……取られちゃうって思ったら、トゲトゲした言葉が、いっぱいでてきた。最低だ。
『ねぇ、さちしゃん』
「うん、ごめ――――」
『わたくしが、ヒトの姿だったら、コウ様のお嫁に、相応しいとおっしゃるのですね?』
「……ん?」
黒くて大きな瞳が、見つめてくる。
含むような、微笑み。
吸い込まれそう。
「ナギ?」
『これより童の姿は、ヒトにも見える姿に変わりまする。けっして、驚かれてはなりませんよ。貴女のお母様に、見咎められたくはないでしょう」
「…………えっ?」
ナギが、くるんって、宙返りした。
うっすらと、部屋の中に白い霧が立ちこめた。
甘い香りが広がっていく。
そして、内緒話をするような、囁く小さな声が。
耳に、届いた。
「――――改めて、ご挨拶をさせて頂きます。わたくし、霊峰石鎚山より参りました、凪と申します」
少し茶色の、細くて長い髪の毛。
柔らかくって、微かに触れたところが、気持ちいい。
日に焼けた肌。淡い桃色の着物が似合ってる、かわいい女の子。。
やんわり、微笑んだ。
「妖怪ゆえに、字はありませぬが、天より神通力を承り、次代の、あやかしきつねのご当主であらせられる、光樹様の許嫁を命じられております―――以後、お見知りおきを」
綺麗な着物をきて、ぴしりと正座をして、頭を下げられる。
それを見て、パジャマ着てぽかんとしてる自分が、なんか恥ずかしくって。
「え……えぇと、こ、こちらこそっ!」
なんて、同じように、慌てて正座して、頭を下げる。
「…………えーっと」
「うふふふふー」
口元を、着物の裾で隠した、含んだ笑い声。
「幸様。驚かれました?」
「……驚いたっていうか、詐欺だわ」
「うふふ。それは褒め言葉ですわ。相手を騙し、驚かし、その慌てる姿を見て喜ばしいと思うのは、女と妖怪の、専売特許ですもの」
ナギがまた笑う。なんか、すごく楽しそうなんですけど。
「それにしても、残念ですわ。幸様が、身を引かれるとは、想いませんでしたから」
「……え?」
「せっかく、良い競争相手が見つかったと想いましたのに。これではわたくし、遠慮なくコウ様を頂いてしまうしかありませんわ。なにせ、許嫁ですからね」
「……!」
ナギの見た目は、あたしやきつねと、そんなに変わらなく見える。
同じ小学校の子だったら、あたしは六年生相手にだって、物怖じなんてしたことなかったのに、今は、気圧されちゃってる。
「幸様」
「な、なによぅ!」
陽に焼けた、二つの腕が伸びてくる。
抱くように、顔を包まれる。
ナギの顔と、笑う唇が、すぐ目の前にある。
「もう一度、よくお考えになって。時間は悠久に見えて、その実、限りなく乏しいもの。まだ子供だからと想って、お心を決めていなければ、一生分の後悔をされてしまうかもしれませんわよ?」
透き通るぐらいに、きれいな黒い瞳に、あたしが映ってる。
真っ赤な顔して、頭から湯気を「ぷしゅー」ってこぼしてる。
「べ、べつに……ナギが許嫁なら、それで、いいじゃないの!」
「いいえ。許嫁とはいっても、単なる形式上のものですわ。最後の決め手となるのは、コウ様のお心一つだけですよ。ですからね、幸様……」
紅い唇が、耳元で、息を吹きかけてくる。
くすぐったくて、どきどきする。
「もし、貴女が本心を告げてくださるのなら、わたくしは、コウ様の秘密を、貴女に伝えましょう」
「……その秘密って、学校できつねが、うっかり口を滑らしかけたやつ?」
「はい」
「どうして、知ってるの?」
「コウ様は、一番の秘密とおっしゃっていますが、霊峰、石鎚山に住む妖ならば、知らぬ者はおりませんので」
ナギが、にっこり笑う。
なんだか、胸がすごく、すごく、痛い。
「…………」
あぁ、やだなぁ。
ヒトが大事にしてる秘密を、聞くなんて。
そんなの、あたし、大っ嫌いなのに。
でも、目の前の「女の子」が知ってる秘密を、あたしが知らないことの方が、すごく嫌。そう思っちゃう自分も嫌で、苦しくて。
「……聞きたい、ですか?」
「うん……」
きつねは、どう思うかな。あたしが、そんなこと考えたって思ったら。
嫌われちゃうって思ったら、怖くなった。でも、それ以上に、知りたかった。
「それでは、お話致しましょう。しかしその前に、一つお聞かせ願えますわね」
「……なにを?
「幸様、コウ様のこと、好きですか?」
黒い、二つの眼が、あたしをじっと見てる。逸らさない、逸らせない。
顔が、あつくなる。心臓が苦しい。膝に乗せた手を、強く握りしめる。
「うん」