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表紙

きつねのお面
きつねのお面

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「きつねのお面」

 小学校に入って、四回目の夏休み。
 今日も朝から公園に行って、ラジオ体操なのだ。
 せっかくの夏休みなのに、毎日体操するのが面倒だっていう男子もいるんだけど、俺は好き。体動かすのって、楽しいじゃん。
「光樹(こうき)君、今年も皆勤賞狙いね?」
「もっちろん!」
 元気に笑って、今日もしっかり、紙にはんこを押してもらった。それから、頭の横につけてある「きつねのお面」を、顔の前に持ってくる。
 右手を腰に、左手を斜め前に伸ばして、ぐっ! と両足を踏ん張った。
「正義の味方、きつね仮面は、遅刻も欠席もしないのだっ!」
「あほぅ」
 すぱーんって、頭を後ろから叩かれた。
 これは決まったと思っていた時の不意打ちって、結構いてぇ。
「きつね、邪魔。はよどけ」
「いてーな。叩くことねーだろー?」
 同じ地区に住んでいる、友達のかっつんこと、戸田勝也(とだかつや)。
 かっつんは、この町からずっと離れた、東京ってとこから転校してきた。最初は仲良くなれるかわかんなかったけど、一年とちょっと経った今では、俺の一番の親友だ。
「きつね。正義の味方なら、まわりのことも考えろ。後ろにまだ並んでるだろ」
「むー!」
 かっつんの言う事は、他の男子より、ちょっと大人っぽい。
 背も高いし、頭もいい。そのぶん、容赦のない突っ込みが痛いんだけど。
「じゃあ、あっちで待ってるからなー」
 列から外れて、すべり台の側まで、一旦退避。そうしたら、俺のことを「きつねにーちゃん」って呼ぶ、一年生が二人、こっちに走ってくる。
「見てみてぇ、仮面リャイダーのきらきらシール!」
「こいつ、一個買っただけで、これ当てたんだー」
「おおっ! それはすごいのだ! いいなぁ、どこで当てたのだ?」
「駄菓子屋の、ばーちゃんとこー!」
「なるほど、今度お小遣いをもらったら、一緒に行くのだ」
「いいよー!」
「あのねぇ、きつねにーちゃん」
「うん?」
「このきらきらシールだったら、きつねにーちゃんのお面と、交換してくれる?」
「残念だが、それはできぬのだ」
「えー、だめー?」
 仮面りゃいだーのきらシールは、ちょっと心が揺れるのだ。
 だけど、俺が被ってるお面だけは、交換できない。
 この世界に一つしかない、母ちゃんが作ってくれた「きつねのお面」。
「……このお面をつけるのを許された者は、このきつね仮面こと――――」
 びしっ!
「日野光樹、ただ一人なのだっ!」
 今度こそ、格好良く、ポーズを決めてみせ、
「あつっくるしいわ、アホきつね」
 すぱーん。
 いたいのだ。さっきのより、力入ってるし。
「かっつーーーん! だから叩かなくてもいーだろおーーー!?」
「アホは叩いて治すに限るんだよ。ほら、暑くなる前に帰ろうぜ」
「仕方ない。それでは二人とも、さらばだっ!」
「うん、また明日ー」
「明日ねー」
 俺は一年生に手を振って、先を歩いていくかっつんを、追いかけた。
 
 太陽の下、田んぼに挟まれた畦道を、歩いて帰る。
 八月になってから、蝉が、みんみんみんみん、とっても元気なのだ。
「あっちぃなぁ、今日も」
「うん。でもさ、夏休みは終わらないでほしいよなー」
「きつね、もしかして夏休みがずっと続けばいいとか、思ってないか?」
「思ってるのだ」
「無理無理。お前が日本のトップになって、そういう法律でも作らない限りな」
「……うーむ、俺は難しいのは苦手だから、かっつんが作ってくれない?」
「やだね。そんなの作ったら、俺だけ休めなくなっちまう」
 かっつんが、にやりと笑う。
 我が親友ながら、あいかわらず、大胆不敵な奴なのだ。
「なぁなぁ、かっつん。昨日の晩飯はなんだった?」
「……いきなり話題、飛びすぎだろ」
「いいじゃん。だって、俺んちの晩御飯、なんとハンバーグだったのだっ!」
「聞いてないから。まぁ、俺のとこはカレーだったな。今日の朝もカレー」
「おぉー、羨ましいのだ!」
「そうか? 続けてカレーって、結構飽きるだろ」
「そんなことはない! カレーは、三日たってもウマいのだ!」
「……それ、結構ギリギリじゃね?」
「そう? あっ、それからさ、昨日のアニメ、見ただろ?」
「見たけどさ。お前ってほんと、話をころころ変えるよな」
「メシ食いながらテレビ見るだろ。それで、思いだしたのだ!」
「俺のとこは、それ禁止」
「えっ、メシ食いながらテレビ見るの、ダメ?」
「うん。でも自分の部屋にテレビあるから。一人で見る方が、落ち着くし」
「えー?」
「ウチは、姉ちゃんいるからな。家族で一緒にアニメ見んの、恥ずかしいんだよ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
「うーん……」
 俺が一人っ子だからかな。よくわかんないや。
 そんな風に、帰り道は毎日、いろんな話をするのだ。
 大抵、俺がなにかを言ったら、かっつんが返事をくれる。そうやって歩いてたら、あっという間に、俺んちに着いちゃった。
「きつね。今日の昼はどうする?」
「そーだなぁ」
 俺んちは古い一軒家で、ちょっとボロい。玄関にかけられた「日野」って表札も、随分黒くなっちゃって、読み辛い。
 かっつんの家は、もうちょっと行った先にあるから、夏休みのラジオ体操の後は、いつも俺んちで、昼から遊びに行く予定を二人で考えた。
「山に果物探しにいくか、蝉取りにいくか、泳ぎに行くか。迷うよなぁ」
「……それ、迷う必要あるのか?」
「うむ。なにをするかによって、持っていく装備が変わるからなっ!」
「それなら、虫網持って、川で泳ぐついでに、魚捕りとかどうだ?」
「おぉ、名案だなっ! かっつんは頭いいなぁ!」
「じゃあ、十二時に、いつもの場所でいいよな?」
「おー、了解したっ!」
「それじゃ、後でな。遅れんなよ。ちゃんと宿題も終わらせとけ」
「もちろんだ!」
「言ったな」
 かっつんが、にやりと笑って、ひらひら手を振りながら帰ってく。
 後ろ姿が見えなくなってから、家の引き戸を開けた。
「ただいまー!」

 夏休みって、本当に忙しくて困る。
 毎日遊べたらいいんだけど、そうもいかないのが、ゲンジツなのだ。
「……うーん。なかなか、手ごわいではないか……」
 午前中は、夏休みの宿題の時間。
 本の表紙には、「夏休みの友(算数四年生)」って書いてあるんだけど。これ、六年生の問題が紛れ込んでるんじゃないのか?
「……わからん。ぜんっぜん、わからん……」
 四年生の問題が、いつのまにやら六年生の問題に。
 これはきっと、悪の組織の陰謀に違いない。たぶん。
「にゃあああぁぁーーーー! わっからーーーんっ!!」
 ぷしゅー。
 頭から湯気がでる。でも、真面目に宿題をしておかないと、母ちゃんから遊びに行かせてもらえないから、頑張らねば。
「おちつけ、おちつくのだ、日野光喜。こういう時こそ、せーしんをとーいつせねば。しんとうめっきゃく……なんだっけ。まぁいいや」
 それからもう一度、むずかしい問題と、にらめっこ。
 算数の問題は、四角形と、三角形が、なんか難しい言葉で書かれてる。
 むむむむむ、なんだろなー。暗号通信じゃないよな、これ。
「……あ、あれ、なんか、いま……? ……あっ、そうか。なるほどっ!」
 ぴこーん!
 きた、きた、きた!
 鉛筆を持った手が、動く、動く、動く。
 とまらないっ! 俺すげぇ! 
 四年生なのに、六年生の問題が解けるとか、天才かもしれないっ!
「……できたっ!」
 俺は夏休みの友を持って、大急ぎで階段を降りてった。
「かーちゃん! かーちゃん! みてみてぇーー!!」
 居間に降りると、お茶を入れて一休みしてる母ちゃんがいた。ぱりっと煎餅を一齧り。
「なによ、うるさいわねぇ」
「ずるいっ! 俺が頑張って宿題してたのに、せんべー食って、テレビ見てるのだ!」
「母ちゃんは、もう一仕事終わったの。午後からは、夏祭りの準備があるし、忙しいのよ」
 言われて、思いだした。
「あれっ、学校の夏祭り、今日だっけ?」
「忘れてたの? せっかく新しい浴衣買ってあげたんだから、ちゃんと袖通していきなさいよ。それで、なに?」
「おうっ! 宿題が終わったから、報告しにきたのだっ!」
「はやいわねぇ、本当に終わったの?」
「ふっふっふ、見ればわかるのだ」
 眉をひそめる母ちゃんに、夏休みの友(算数四年生)を渡した。
 今は疑ってるみたいだけど、読んだらきっと、あまりの素晴らしさに褒めてくれること間違いなし! そう思って、俺も煎餅に手を伸ばした……んだけど、
「なにこれ。光樹、あんたの解答、本と逆さまじゃないの」 
「……ふぇ?」
「ふぇ、じゃないわよ。もしかして、逆立ちでもしながら解いてたの?」
「なんでだよ、そんなことするわけねーだろ」
「じゃあどうして、問題と答えが逆さまになってるわけ」
「むむむ、悪の組織の仕業かな?」
「バカなこと言わないの」
 すぱんっと、母ちゃんの裏拳が軽く入る。
「光樹、ちょっと聞いてもいい?」
「んー、どこ?」
「まず、問1の答え:三角系(変身後)って、どういうことなの」
「えぇと、だから四角を二つに切って、こう、変身するんだよ、ガキャーン!」
「……ガキャーン?」
「そう! これによって、二方向からの同時攻撃が、バババ! チュチューン!」
「…………これ、算数の問題よね」
「そうなのだ! 俺もびっくりしたのだ!」
「……………………ふー」
「あれ? どったの?」
 母ちゃんが、なんかすっごい疲れた顔してる。
 両肩が、ぷるぷる小刻みに震えてる。
 なんか嫌な予感がするなー。
 逃げた方がいいかも?
「光樹」
 母ちゃんの頭の耳が、ぴくぴく動いてる。
 俺が逃げだせないように、ぎゅっと、腕を掴んだ。
「……光樹、ちょっと、そこ、座りなさい?」
「な、なんでっ! 俺、ちゃんと宿題やったじゃんっ!」
「うふふふふ。これで、ちゃんとやったつもりなのね…………?」
 やばいのだ、やばいのだ、やばいのだ。
 横になってたしっぽが、扇風機の「最強」ぐらい、ぶわわわわぁーって、浮き上がる。
「座布団持ってきて、正座っ!!」 
「わふっ!?」
「最初からやりなおしっ! びっしばしっ! 叩きこんでくからねっ!! 一回間違えるごとに、一日おやつ抜きよっ! 正座しなさいっ!!」
「やだーーーーーー!!」
 お茶飲んで、煎餅食って、一休みの予定だったのに。
 いきなり、母ちゃんのスパルタ算数教室が、はじまった。
 もう限界なのだぁ~。ぷしゅしゅしゅしゅ~~。

     

 この町は、少し山の方に向かって歩けば、綺麗な川がいくつも流れてる。
 学校の先生が、社会の授業の時に、「わたしたちの町は、湧水が豊富なんですよ」って、教えてくれた。
 本当は、あまり山奥には行っちゃ駄目って言われてる。だけど、そういうところには、隠れた秘密の泉があったりして、魚がいっぱい泳いでる。
 だからこっそり、大人には内緒で、そういうところで遊ぶのだ。

 お昼になって、俺とかっつんは約束通り、網を持って山に登った。
 川の水が冷たい。勉強が終わった後に遊ぶのは、とっても気持ちいい。
「―――んで、午前中はさ、大変だったわけよー」
「そんなに難しい問題なんて、なかったろ」
「えー、六年生の問題が混じってなかった?」
「んなわけあるか、アホ……っと、静かに!」
 かっつんが、急に慎重な顔になる。水の中に入れていた網を、一気にあげる。
 ざばーっと、水飛沫があがった網の中に、びちびち泳いでる一匹の魚がいた。それをしっかり捕まえて、かっつんが、川をざぶざぶ掻きわけて、やってくる。
「きつね、見ろ見ろ! でっかい魚、捕まえたっ!!」
「おー、やるなぁ!」
「これ、食えるかな?」
「食えるよ。でも、大人がいない時に、火使っちゃダメだからなー」
「そっか、残念だなぁ」
 かっつんは迷った後で、魚をまた、川の中へ逃がしてやった。
 俺は、生まれた時からこの町で育ってきた。
 川とか山とか、それこそ自然にあって、珍しくはないんだけど、都会からきたかっつんには、そうじゃなかったみたいだ。
「あーあ、もったいねぇ。せっかく捕まえたのに」
 山に入った時、いつも大人っぽいかっつんが、俺らとおんなじ、子供みたくなる。言ったら怒るだろうけど、でもそれは、なんとなく嬉しいのだ。
「きつね、そろそろ昼飯にしねぇ? 腹減った」
「うん、食おう食おう」
 余所から来た人が、この町を好きになってくれるのは嬉しい。
 俺も、この町が、山が、川が、大好きだから。

 おべんとうを食べるのは、河原の石の上が一番だ。
 木陰にある大きな石の上が、ひんやり冷たくって、気持ちいい。
「やっぱいいよな、この町。特に夏はやること多すぎて、一ヶ月じゃ、休みがたりない」
「だよなー! 夏休みが二倍に増えればいいのになぁ」
「うん。俺が前に住んでたところ、川で泳ぐなんて、ありえなかったし」
「そうなんだ。じゃあどこで遊ぶんだ? 海とか?」
「海なぁ……。すっげぇ人が多いし、うるさいし、あんまり好きじゃなかったな」
「やっぱ、都会だと人が多いんだ?」
「うん、それにここらの海みたいに、綺麗じゃない。あと、山登りもできなかった」
「山がないのか?」
「ないっつーか、見えてはいたけどさ。車も使わず歩いて登れるなんて、思ってもみなかった」
「ふーん?」
 山に登れないなんて、ちょっと想像できない。
 かっつんの話では、前に住んでいた所は、田んぼとか畑とか全然なくて、凄く高いビルが、いっぱい生えていたらしい。
 それはそれで楽しそうだなって思うんだけど、かっつんは、ここの方が、ずっと楽しいって言う。
「俺、ここのがあってるわ。大人になっても、この町にいたいな」
「よかったじゃん」
「うん。でも、うちは父さんの仕事の都合で、転勤が多いからさ」
「また、どっか行くかもしんねーの?」
「たぶんな」
「そっか、残念だなー……」
「まぁ、仕方ねぇな。俺ら、まだ子供だし」
 そうなのだ。大人のお仕事には、俺達子供が、口だししちゃいけないことが、ある。
 それは、どうにもならないことかもしれない。けど、やっぱ寂しい。
「おにぎり、うまいなー」
「うん」
 大人たちが決めた、守るってこと。大切なこと。
「なぁ、きつね」
「うん?」
「今更だけどさ。なんで、きつねのお面、被ってんの?」
「これは、正義の味方であることを示す、証なのだ」
「はいはい」
 かっつんが、にやりと笑う。
 むむむ、相変わらず不敵な笑みなのだ。
「そろそろ白状しろよ。お前はアホだけど、意味のないことする奴じゃないからな」
「むぅ……」
 俺はおにぎりを持ったまま、両腕を組んで考えた。親友のかっつんになら、言ってもいいかもしんない。
「……どーしても、知りたいかね?」
「あぁ、是非とも知りたいね」
「これを知ったからには、生きてはかえさんぞ……?」
「望むところだな」
 俺たちは、悪の組織の幹部のように、ふっふっふと笑って見せる。
「……仕方があるまい」
 俺は、座っていた石の上へと立ちあがり、朝の体操と同じ決めポーズをしてみせた。
 そして、持っていたおにぎりを、
「受けとるがいいっ!」
 大きな声と一緒に、川の中へ投げた。
「おい……なにしてんだよ。もったいねぇー」
「内緒なのだ」
「は? なにが?」
「俺の秘密は、親友のかっつんとて話せぬのだ。許してくれたまえ」
「……お前の秘密と、おにぎり投げたことと、なんの関係があるんだよ」
「わからん?」
「わかるわけねーだろ」
 かっつんは、やれやれと首を振って、ふーって溜息をこぼした。
 元々は漫画の主人公の真似なんだけど、かっつんがやると、妙に似合う。
「まぁいいや。まだ言えないってんなら、無理には聞かない。ほら、最後の卵焼き。腹一杯になっちまったし、半分食え」
「おぉ、さんきゅー! さすがかっつんは、一番の親友なのだ!」
「卵焼き一個の友情か。安いな」
「安くはないぞ。かっつんの母ちゃんが作る卵焼きは、絶品だからなっ!」

『いいなぁ、いいなぁ、おいしそー』

 川の中、俺がおにぎりを投げた場所。
 頭に皿を乗せた緑色が、ほっぺに米粒をつけたまま、じーっと見てくる。
 
『一口、一口、ちょーだいな』

 ダメ。これは俺の。お前には、おにぎりやったろー。
 口にはださないけど、目で訴える。

『けちけちけちんぼ! 器の小さい奴!』

「なんだとー!」
「うわっ!?」
 しまった。
 かっつんが、眉をひそめて俺を見上げてる。これはマズい。
「……あー、いや、違くて」
 どうやって誤魔化そうか考えていた時、
 
 ばぁん! 

『てっ、てっ、てっ、ぽー!? こわーい!』
 
 空砲だ。大きな音が、耳を突き抜けてくみたいに響いていった。
 緑色が、水の中に潜って、すいすい泳いで逃げていく。
「なんだ、今の音。きつね、わかるか?」
「えーと……今日は学校で夏祭りがあるだろ。それの合図なのだ」
「なるほどな。確か五時からだっけ」
「そーそー! 俺の母ちゃんも、出店の手伝いやるって言ってたなっ!」
「俺は行くつもりだけど、きつねはどうすんだ?」
「もちろん、いくとも!」
 よかったよかった。上手く誤魔化せた。
 ナイスだったぞ、空砲うった誰か。かたじけない。
「そういや、今何時?」
「もうすぐ三時だな」
「それは大変だ! よし、間に合わなくなる前に、はやく帰らないとなっ!」
「もう少しなら、大丈夫じゃね?」
「いやっ! ここは万全を期すために、はやく帰るべきなのだっ!」
「……んー、そうだな。一休みしたいし」
「うむ!」
 俺達が、荷物のあるところに戻って、服を着替えてた時だった。足元に、小さな魚が、飛び跳ねてきた。
 驚いて振り返ったら、さっきの奴が、水の中から、顔だけ出している。
「さかな? なんで、こんなとこまで?」
「ま、まったく、ドジな魚なのだ! 飛び跳ねて、こんなところまでっ!」
「……川の中からここまで、結構な距離があるよな……?」
「いやいやいや! こいつは別名、スーパートビウオっていう魚で! 超ジャンプが必殺技なのだっ!」
「マジでか。致命的な必殺技だな」
「うむ、まったくドジな魚なのだ。水の中に戻してくるから、ちょい待って」
 魚を手に取って、急いで川の淵まで戻る。
 かっつんにバレないように、小声で言葉を投げかける。
「ありがと、でもおかえしはいいのだ。今度は、卵焼き持ってくるから」
『ほんと? ほんと?』
「うむ。きつねの一族は、けっして、嘘をつかないのだ」
『きつね、きつね、きつねの子。またきてね』
「約束する」
「―――おーい、きつね。まだ?」
「今いくーーー!」
 駆け足で、かっつんのところへ戻る。 
 やっぱり、親友のかっつんにも、内緒にしておかなくちゃいけない。
 きつねのお面をくれた、母ちゃんとの、大切な約束だから。

     

今日は、学校のお祭りだ。
 澄んだ笛の音と、お腹に響く太鼓の音が、あちこちから響いてくる。
 夏の空は沈むのが遅い。まだまだ明るい空の上。
 夜を待ちきれないお月さまが、ぼんやり浮かんでた。
 
 あたしは、学校の友達と一緒に、小学校の夏祭りに来ていた。
 広い運動場には、白い天幕が所狭しと並んでいて、それが出店の代わりに使われてる。
「あの男子、みたことあるー」
「うん、六年生よね」
 大きいのと小さいお神輿が、運動場の中を練り歩いていく。楽しいけれど、ちょっと変な光景だった。
「それにしても、幸(さち)の浴衣いいなぁ。私も浴衣で来たかったなぁ」
「ちょっと歩きにくいけどね」
 口ではそう言ったけど、褒められて悪い気分はしない。
 いつもは着ることのない浴衣と草履。お母さんが、今日のお祭りのために、わざわざ作ってくれた物で、あたしにぴったり似合ってる。
「ねぇ、なにか食べない? 今日はお小遣いもらってきたから、一緒に食べようよ」
「ありがと、でもいいわ。お母さんの作ってくれた浴衣、汚したら怒られるから」
 本当は、そんなことないんだけど。
 たこ焼きに焼きそば、綿菓子に焼きとうもうこし、それから林檎飴。
 おいしそうな匂いが、あちこちからやってくる。お祭り用に、お母さんから特別のお小遣いも貰ったんだけど、我慢。
 お土産に持って帰って、家でお母さんと、二人で一緒に食べるんだ。
「じゃあ、次、どこ行こっか?」
「そうねぇ……」
 運動場に沿って一回りしたら、大体、お店も一通り見て回ったことになる。お祭りの案内図を広げて見ていたら、友達が浴衣の裾を引っ張った。
「ねぇ! あれ、きつね君じゃない?」
 友達が指差した先、そこには同じクラスの男子が二人いた。
 日野光樹と、去年東京から引っ越してきた、戸田勝也。
 きつねの方は相変わらず、きつねのお面をつけている。それから普段は見ない、水色の浴衣を着てた。
「きつね君、浴衣似合うねぇ」
「……浴衣を着てたら、あのお面も自然に見えるわね。いっそ毎日、浴衣を着てればいいのに」
 あたし達がきつねって呼んでいる男子は、皆からその "あだ名" で呼ばれてる。
 理由は単純明快。どんな時だって、頭にきつねのお面をつけているからだ。
「意味のないことに拘る男子って、あたしは世界で一番嫌いだけどねっ!」
「まぁまぁ。それにしても、きつね君。なに食べてるんだろ」
「……しらないわよ」
 きつねは、両手一杯に、食べ物を抱えてた。
 それだけでは飽きたらず、口先だけで、器用にたこ焼きを頬張っている。その顔は本当に幸せそうで、なんでかしらないけど、すっごく腹が立つ。
「あはは、きつね君、かわい~」
「かわいくないわよ。教養のない、ただの馬鹿じゃない」
「幸ってば、相変わらず男子に厳しいねぇ」
「厳しいんじゃなくて、嫌いなの」
 あたしには、物心ついた時から『お父さん』と呼べる人がいない。
 お母さんが、一人であたしを育ててくれている。
 自動車で、毎朝早くに家をでて、大きなデパートの中にある洋服屋さんで働いてる。
 お仕事で毎日大変なのに、参観日には無理をして来てくれるし、今日だって、お祭りの準備と売り子さんをやってくれた。
「男子なんて、馬鹿ばっかりだもんっ!」
 あたしは、アホの男子と違って、毎日ちゃんと勉強してる。まだ八月になったばかりだけど、夏休みの宿題だって、もう終わったもん。
 どうせ男子なんて、宿題ほったらかして、のんきに遊びにきてるんでしょ。
「……ねぇねぇ、前から聞いてみたかったんだけど、幸ってさぁ」 
「なに?」
「好きな男子とか、いないの?」
「いないわよ」
 女子って、なんでそういう話が好きなのかしら。
 目の前で、戸田に綿菓子を踊らされて、素直にそれを追いかけてる、バカきつね。
 そんなきつねを、好きになれるはずもない。
「……きつねとか、興味対象外もいいところだわ……」
「べつに、きつね君とは言ってないんだけど。戸田君は、頭いいし」
「戸田は、ライバル! あいつはいちいち、なんにでも口だしてきて、うるさいのっ!」
「じゃあなんで、きつね君?」
「ちがうってば! たまたま、ちょうどそこにいたからよ!」
「戸田君も、あそこにいるけど?」
「そーじゃなくってぇ!」
 あたしが弁解する前に、友達がにこにこしながら、口元に手を添える。
「そっかそっか、なるほどね?」
「ちーがーうー!」
「興味ないとかいいながら、しっかり見てるじゃない。幸ってば、素直じゃないよねー」
「いい加減にしないと、怒るからねっ! ほらっ、次に行く場所、探すわよっ!」
 あたしは手提げ鞄の中から、お祭りの案内図を取り出した。
 きつねなんて、男子の中でも、とりわけアホで馬鹿だし、いつも呑気にへらへら笑ってる。ちょっとだけ格好良い顔も、変なお面で台無しだ。
 おまけに毎日「きつね仮面参上!」って叫んでいるんだから、手に負えない。
(うんうん、いいとこなんて、ないよね)
 あたしと変わらない身長で、男子の中ではチビの部類に入る癖に、やたらと足が速くて、運動が得意なところも気に食わない。それから、それから。
「―――幸? ねぇってば、聞いてる?」
「えっ!?」
「いきなり静かになっちゃうから、びっくりしたよ。大丈夫?」
「あ、ごめんね! えと、それで、行きたいところあった?」
「うん、これっ!」
 友達が、指差したところにある文字を、目で追っていく。
「旧校舎の南口で、六時から肝試し大会。豪華賞品あり!」
「…………え」
 怖々と、校舎の一番目立つところにある、大時計を見上げた。
 六時まで、あと十分ぐらい。
「私、怪談とか結構、好きなんだよね~!」
「……ど、どうせ子供騙しよ。た、退屈よ……?」
「あれ、もしかして幸、怖いの駄目?」
「そ、そんなこと! あるわけないんじゃないんだからねにぇっ!?」
 舌噛んだ。いたひ。
「…………幸が苦手なら、止めとこうか?」
「に、苦手……?」
 マズい。
 かちんって、スイッチが入った。
 あたしは、人から馬鹿にされるのが大嫌いなんだ。
 わかってるのに。お母さんみたいに、できないことはないんだって、証明したくて。
「あたしには、苦手なものなんてないのよっ!」
 つい、口が滑ってしまうんだ。苦手とか、無理って言葉を聞くと、ぐつぐつ体が熱くなって、頭に血が昇ってしまう。
「肝試し? 上等よっ! いつだって大歓迎だわっ!」
「やったぁ! それじゃあ、はやく行こうよっ!」
「うんっ!」
 あたしは多分、とっても引きつった顔で頷いてたと思う。だけど心底嬉しそうな友達は、そんな様子に気がついてくれない。
(やだ~~~~~!!)
 本当は嫌。怖いのは、とっても嫌。でも、仕方ないじゃない。
 時々、見えちゃうんだもん。
 黒くて、もやもやしたのが。

     

お祭りに来て、大体夜店も見て回った。
 たこ焼き売ってた母ちゃんからお小遣いもらって、食べたいものも、あらかた食った。
「かっつん。次、どこ行く?」
「そうだなぁ……これ、面白そうじゃないか?」
「どれどれ?」
「旧校舎の南口で、六時から肝試し大会。豪華賞品あり!」
「おー、夏といえば、やっぱこれだよなー!!」
「どうせ子供騙しだろうけどな。まぁ、行ってみるか」
「うん!」
 肝試し大会。これは男なら参加するっきゃないだろう。
 そんなわけで、旧校舎の前にやってきた。
「結構集まってんなぁ」
 入り口前には、男子と女子の、細長い二列が出来ている。列の一番後ろにいたお姉さんがにっこり笑う。
「君達も参加者ね。男の子はこの箱の中から、青い紙を一枚引いてね」
 言われた通り、二つ折の青い紙を一枚取ると、中には「十五」って書かれてた。かっつんは「九」。
「それが君達の番号ね。同じ番号の女の子を探して、一番から順に、中に入ってね」
「えっ、これって、友達と一緒に入るんじゃねーの?」
「もしかして、男女混合ですか?」
「そうっ! 男の子ならやっぱり、女の子を守ってあげないとねっ!!」
「……えー、めんどい」
 なんでか知らないけど、お姉さんは、とっても楽しそうだ。
 かっつんも、流石に予想外だったみたいで、首を傾げてる。
「どうする、かっつん。やめとく?」
「うーん……」
「こら、そんなつまらない顔しないっ! きちんと女の子を守れたら、最後に豪華商品が待ってるのよっ!」
「あ、それ案内にも書いてたな。もしかして俺たち、大金持ちになれちゃったりする?」
「そんなわけねーだろ」
 すぱーん。
 かっつんの手厳しい突っ込みが飛んでくる。
「いってぇな、叩かなくてもいいだろっ!」
「アホは叩いて治さないとな」
「なんだとー!」
「はいはい、喧嘩しないの。でも大金持ちになるのは、ちょっと無理ねぇ。豪華賞品は、お菓子の詰め合わせ袋じゃ、ダメかしら?」
「な……なんだってっ!」
 俺は、自分の耳には、自信があるっ!
 今の言葉を聞き間違えたりは、しないのだっ!
「全然大丈夫! むしろ大歓迎!!」
「……涎でてんぞ。お前、さっきまで夜店回って、めちゃ食ってただろーが。まだたりねぇのかよ」
「フフフ。今更怖気ついたのかね、戸田勝也クン」
「……お前って、本当、調子のいい奴だよな……」
「うむ! もっと褒めてくれたまえ!」
「いや、違くて……お前みたいな奴って、将来、詐欺とかに引っかかりそうだよな」
「そんなことはないぞ!」
 悪の手先の、口先三寸ごときに、このきつね仮面が、ひっかかるはずもない!
 学校でも、そういう話はなんども聞いたし、絶対大丈夫っ!
 自信満々に胸を逸らす。
「……不安だ」
 そうしたら、かっつんが、さらに怪しそうな目で見てきた。なんでだ。
「ほらほら二人とも。参加するなら早く、自分の番号のところに、並んだ並んだ」
「かっつん、やろうぜ! もちろん、お菓子のためだけでなく、男の勇気を見せるためにもなっ!」
「そうそう、その調子よ! きつねクン、君、わかってるじゃないの!」
「だろー!!」
「……わかった、わかったから。恥ずかしいからやめてくれ」
 そう言って、一人ですたすた男子の列に向かっていくので、慌てて後を追いかけた。

 俺達は言われた通り、順番に男子の列に紛れ込んだ。かっつんとは、ちょっと距離があって、話せそうにない。
「暇だなー、まだ、始まらないのかなー」
 一人で、豪華賞品の中身を考えつつ、女子の列を眺めてた。
 今んとこ、知ってる奴は見当たらない。
「そろそろ肝試し大会をはじめまーす。まだ並んでない人は、急いで順番通りに並んでくださいねー!」
 さっきのお姉さんが、メガホンを持って、大きな声で叫んでる。
 校舎にある時計を見上げると、もうすぐ六時だ。
 空はやっと暗くなり始めてる。時計の針が、影の中に隠れようとしてた。
「―――ねぇ、あなた、何番?」
 その時、聞き覚えのある声がして、もう一回、女子の列を見る。
「私ですか? 十四番です」
「ありがと。あ、ちょっと、後ろ空けてもらえるかしら?」
 小走りで、列の間に入ってきた浴衣姿の女子。俺を見た。
「…………きつね?」
「水原じゃん、お前も来てたんだな」
 同じ組の水原幸(みずはら さち)だった。
 頭が良くて、すごく真面目で、小さな先生みたいな女子だ。
 桃色の浴衣を着て、浴衣の帯と足に履いている下駄の鼻緒。
 俺のとちょっと違うなぁ。なんか、女子っぽい花柄模様が咲いている。
「きつね。あんたも肝試しに、参加してるの?」
「そうじゃなきゃ、並んでないだろ」
「どうせ豪華賞品に釣られたんでしょ。男子って単純馬鹿だもんね」
「うっせ。それより水原、もしかしてお前、十五番?」
「あたしと番号が被ってるとか言ったら、殴るわよ」
「まて! 話合えばわかるのだ!」
「必要ないわ」
 慌てて一歩後ずさる。水原は頭は良いんだけど、暴力的なのだ。
 殴るぞって言った時は、容赦なく殴ってくる。身を持って経験済みだ。
「最悪だわ。知らない男子と組むよりは、まぁ、いいかもしれないけど」
「なんだよ、その言い方」
「文句ある?」
「あ――――」
 俺の耳が、危険を察知する。黄色信号。
 まだ間に合う、引き返すのだ。
「ありません」
「…………ふんっ」
 助かった。
 相変わらず、水原は恐ろしい女子だ。なんでもかんでも、自分の思った通りにならなきゃ、気が済まないところがある。
 たぶん、俺は水原から嫌われてるんだろうなぁ。いっつも怒られてるし。
「きつね、あんたと話すことなんて、なんにもないんだからねっ!」
「なんだよー。俺、まだ、なんもしてねーぞ」
「じゃあこれから、なにかするわけ? きつねのすけべ!」
「変なこと言うなよっ!」
 一応、嫌われてるんだろうなって思う原因に、心当たりはあるのだ。
 でも、ちゃんと謝った。謝ったんだけど。
「余計なことしないでよねっ! きつねの鈍感!」――って、顔を真っ赤にして、凄く怒られたのだ。「どんかん」の意味が分からなかったから、家にある国語辞典で調べたんだけど、「にぶい奴」って書いてあるだけで、ますます意味がわかんなかった。
 俺、体育の成績だけは、いいんだけどなー。
 
 それから、水原と顔を合わせられないまま、六時が過ぎた。
「みなさーん! そろそろ六時になるので、説明を始めまーす。今から順番に旧校舎に入ってもらい、四階にある六年生の教室から、魔除けのお札を持ってきてもらいます。男の子と女の子、それぞれが一枚ずつお札を持って帰ったら、豪華商品と交換です! では、最初の組の人、中に入ってくださーい!」
「いよいよだなー!」
 最初の一組が、旧校舎の中に入っていく。楽しみで、少しどきどきしてきた。
 こっそり水原の様子を見てみると、眉をひそめて、怒ったような顔で俯いてる。
(……俺、また怒らせたのかなぁ)
 なんで怒ってるのって聞いたら、また「どんかん!」って、怒られそうな気がした。だから結局、順番が来るまで、黙ってることにした。

     

 旧校舎の中に入ってからも、水原はずっと口を開かない。
 怒られたことは沢山あったけど、こういう風にずっと黙っているのは珍しい。
 一発殴られるのを覚悟して、言ってみる。
「あのさぁ、水原」
「なによ……」
「帯から、手、離してもらっていい? すっげー、歩きにくい」
「……それぐらい、我慢してよね……」
「なにそれ。俺が悪いみたいに言うなよ」
「そうよ、きつねが悪いの。ぜんぶ、きつねが悪いんだからねっ」
 振り返らなくてもわかるぐらい、俺のすぐ後ろに、背後霊みたいにくっついてる。
 こういう時、なんて言うんだっけ。
「えーと、りふじん?」
「まったくよ。ほんと、理不尽だわ……っ!」
 あれれ、なんで水原が怒ってるんだろ。わかんなくなってきた。
 やっぱり、俺が悪いんだろうか。
 仕方がないから、引っ張られるように歩いてた。慣れない下駄を履いてるし、足元も暗いから、ほんと、すっげー歩きにくい。
「水原、なんか元気ないけど、大丈夫? 腹でも痛いの?」
「……平気……」
 俯いて、とても平気には見えない顔で言う。一応、殴られなかったことにほっとして、また歩きだす。うーん……なんか、しんどい!
「あ、あのさっ!」
「……なによ」
「ほら、思ったより、怖くねぇよな。まだ外も結構明るいし」
「…………」
「入口も出口も一緒だから、最初の組とすれ違ってるしなー。皆余裕じゃん」
「……きつねの、どんかん……」
「うえっ!?」
 なぜだ。また怒られてしまったぞ。だけどいつもならここで、間違いなく飛んでくるパンチがない。水原の両手は、俺の帯から全然離れなかった。これ、本当に水原なんだろうか。
「もしかして水原って、双子だったりする?」
「……なんで? そんなわけないでしょ」
「違ったか。じゃあ悪の組織が作った、水原そっくりの、人造人間……」
「意味わからないわよっ! きつねのばかっ!」
「いたっ!」
 爪先で蹴られた。
「きつねのばかっ、ばかっ、ばかっっ!」
「いたいいたいいたい、いたたたたーーーっ!!」
 だめだ。やっぱり本物っぽい。
 帯から片手だけ離して、ぼこすか殴ってくる。残る片手もしっかり帯を掴んでるから、逃げられない。しかも背面攻撃なので、防御不可。水原無双。
「ごめんっ、ごめんってば! 降参なのだっ!」
「なによ! 謝ったって、許してあげないんだからねっ!」
「うー……でも、いい加減仲直りしねぇ? 水原が、俺のこと嫌いなの知ってるけど。俺はそんなことないからさ」
 そう言った時、急に帯が引っ張られた。
 きゅう……って、ちょっと、息が止まった……っ!
「なにすんだよっ!」
「き、きらいじゃ、ないっ!」
「うん、だから言ってるだろ。俺はお前のこと、嫌いじゃないんだってば」
「あたしだって、嫌いじゃないもんっ!」
「……そうなのか?」
「うん……」
 おかしいな。それならなんで、こんなに怒られなきゃいけないのだ?
 全然わからぬ。なにがいけないんだろう。
「きつね。もしかしてあたしが、アンタのこと、嫌いだって思ってた?」
「うん――――いってぇっ!?」
 背中を、思いっきり叩かれた。なんでか知らないけど、滅茶苦茶怒ってる。
「ほらっ! さっさと歩きなさいよっ!」
「……りふじんなのだ……」
 結局、水原にまた帯を掴まれて、亀みたいに歩いてくしかなかった。後ろの組には、どんどん追い越されてく。
「水原ってさ、おばけがこわ……いてててててっ!」
「おばけなんて、怖いわけないでしょ!」
 帯を掴んでいた手で、背中をひっかかれた。
 くそぅ、乱暴女め!
「別にいいじゃん。怖いのが苦手なら、素直にそう言えよ」
「な、なに勘違いしてんのよっ! あたしに苦手なものなんて、ないんだからねっ!」
「……お前ってさ、わかりやすいよなー」
 なんかこれ、さっき、かっつんから言われた気がする。
 とうとう俺も、かっつんぐらい賢くなったみたいだな。ふっふっふ。
「なに笑ってんのよっ! きつねの癖に、生意気っ!」
「ふーん。じゃあ、俺の帯から、手を離してくれますかぁ?」
「こ、これはっ! きつねが迷子にならないようにしてあげてるのっ!」
「四年生にもなって、自分の学校で、迷子になどならぬわっ!」
「きつねは、バカだからっ!」
「そこまでバカじゃねー! 大体それなら、お前が先に歩けばいいだろ!」
「や……やだっ!」
「なんでだよ! 怖くないんだったら平気――」
 言い過ぎたと思った時には、遅かった。
 水原が、ぎゅっと口を噛んで、泣きそうになるのを我慢してる。俺の浴衣の帯を、両手いっぱいに掴んでる。
「怖くないもんっ! あたし、おばけなんて、怖くない……っ!」
 これはやばい。女子を泣かせたりなんてしたら、大変だ。
 後で間違いなく、かっつんに溜息こぼされて、先生には怒られて、最後に母ちゃんのげんこつ百連発が待っている。
「え、え、え、えーと……そのっ!」
「こぁくない、こぁくないんだもん…………うぅっ!」
 いかん、これは泣いてしまう。
 参ったな、どうしよう。頭なでたらいいのかな。いや、それは逆効果の気がする。
 うあー、わからん! 助けてくれ、かっつん!
「……あ」
 どうしようかと思ってた時だ。水原の目が、大きく開かれた。青冷めた表情で震えてる。
 俺の後ろを、じっと見ていた。片手が指さしているところを、目で追う。
「……」
 通路の曲がり角から、ひらひらと踊る白いなにかが、見えた。
 まだ六時なのに。でるには、ちょっと、早いと思うんだけど。
 突然、俺達の前に、現れた。

     

「う~らめ~しや~!」
 白い布を被った、おばけが参上。
 左右にゆらゆら揺れてるけど、しっかり両足が見えている。
「……えー?」
 たぶん、目と口なんだろう、黒い油性のマジックで、顔の部分にでっかく、ぐりぐりと三つの丸が塗り潰されてる。
「……こんなの、全然怖くないのだ……」
 一年生だって驚かないぞって、思ったんだけど。
「いやああああああああああああああぁぁぁぁっっっっ!!!」
 水原の悲鳴。
 耳が「きーん」ってして、思わず両耳を「ぺたん」って伏せる。
「おばけーーーーー!!」
 ばふっと、水原にひっつかれる。なんかびっくりするぐらい柔らかい。
「わわわわわっ!?」
 ご馳走とは違う良い匂い……とか思ってたら、背中に回された腕に、思いっきり爪を立てられた。
「痛い痛い痛いっ! やめろ水原! 落ちつくのだっ!!」
 みしみしぼきぼき。
 背骨がなんか、変な音立ててます。
「ぎゃーーーーっ! 助けてーーーーーっ!!」
「おー、いいねぇ。そこまで素直に驚いてくれると、おじさん嬉しくなるねぇ」
 おばけが両腕組んで、うんうん頷いてる。
「た……たすけ……!」
「うーむ、他の子供たちも、君たち二人ぐらいに、驚いてくれるといいのだが」
「………た」
「最近の子供は、いかんねぇ。私が小学生の時はもっとだな……」
「…………」
「いかんよー、実にいかん。いかんいかん」
 だめだ、これは。
 俺はたまらず、きつねのお面に手を伸ばす。
 ここで「変身」すれば、きっと母ちゃんにもバレる。バレたら怒られる。
 でも、ここで、水原にやられるよりは……っ!
「おばけなんて、だいっきらいっ!」
 きつねのお面に手をおいた時。
 水原の両手が、帯をがっしり掴んだまま、ぐいっと後ろに振り被った。
「うむうむ、そっちのお譲さんも、実によい怖がりだ」
「こっちこないでっ!」
「よきかな、よきかな。それ、う~らめ~しや~」
「やだああああああああああああぁぁっっ!!」
 その時、俺の両足が、ふわり、って……浮いた。
 なんつーパワー。百万馬力?
 冗談じゃないのだ!
「おばけは、地獄に落ちろーーーっ!!」
 水原は勢いをつけて、手に持った「俺」を、思いっきりぶん投げた。
「だあああああぁぁぁっっ!?」
「ぬおおおおおぉぉぉっっ!?」
 
 ぼごっ!

 おばけと正面衝突だ。
 鈍い音がして、俺の頭が、おばけの鳩尾とぶつかる。
「だぁふっ!?」
 口から盛大に息を吐きだしたおばけ。そのまま後ろに倒れてく。
 床とぶつかって、ごちんっ! と痛そうな音を立てる。
「ぐ……ぐふぅっ……!」
 俺は、しっかり中身の入ってるおばけの上に落ちたから大丈夫。けど、おばけの方は、仰向けに倒れたまま、ぶつかった鳩尾を抑えて悶絶してる。……痛そう。
「きつねぇっ!」
「おわぁっ!?」
 水原が泣きそうな声で、さっき投げ飛ばしたみたいにして、おばけからひっぺがす。そのまま帯を掴まれて、ずるずる引き摺られてく。……もう、どうにでもしてー。
「きつねぇ、大丈夫? 呪われたりしてない?」
「いや、まぁ、大丈夫……だといいけど……」
 時々「ぐふっ! ぐふっ!」って、不気味に跳ねているおばけが、怖い。
「つーか水原、呪いってなんのこと?」
「バカきつね! おばけに触ると、呪われちゃうって、知らないのっ!」
「……へー」
 呪われると思ってて、それでも俺を投げ飛ばしたんだ。
 恐るべしなのだ、水原女子。
「うぅ、おばけこわかったよぅっ!」
「……そーだなぁ」
 お前のがこえーかも。とは、ちょっと言えなかった。
 水原ってば、女子だし、泣いてるし、また、投げられると困るし。
「おばけ、まだ動いてるぅ~! トドメ、刺しちゃおっか?」
「水原、お願いだから、落ちつくのだ。深呼吸して。そうそう、吸ってー吐いてー……」
 すーはー、すーはー、すーはー。はぁー。
「……大丈夫?」
「……うん」
「よかった。本当によかったのだ」
「なによ、大体きつねが頼りなさすぎるのよっ! 男子なんだから、しっかり守ってっ!」
「いきなり投げ飛ばされたのに、どうしろって言うのだっ!?」
「なによ、きつねのバカバカバカっ! あたしはおばけが怖いんだから、仕方ないでしょっ!」
「だから怖いなら、最初から言えっていっただろー!」
「ふんっ! おばけが苦手で悪かったわねっ! どうせあたしは、夜中に一人でお手洗いに行けないわよっ! 文句あんのっ!?」
「そんなの知るかよっ!」
「なんで知らないのよっ!!」
「知ってるわけあるかーーー……ってぇ、いてええええええっ!?」
 グーパンチが飛んできた。
 水原が真っ赤な顔をして、学校の兎みたいに震えながら、俺を睨んでる。
「う~~~~っ!!」
「よ、よせ! 話し会えばわかるのだっ! 暴力はよくないっ!!」
 殴られたのは俺なのに、謝るのも俺。
 くそぅ、女子って、ずるいぞ!
「あたしの秘密を知ったからには、死んでもらうわよっ!」
「落ちつけっ! べつにおばけが怖くても悪くないっ! 俺だっておばけは怖いのだっ!」
「同情なんて、嬉しくないわっ!」
「そんなつもりじゃないってば。本物の幽霊は、あんな偽者より、もっと怖いんだぞ」
「……偽物?」
「うん、偽物」
 首を傾げる水原に、後ろで悶えている、足のあるおばけを指差した。
「ほら、よく見るのだ。ちゃんと足があるだろー」
「……ほんとだ」
 水原の表情が、少しずつ、落ち着いていく。
 握り締めた拳が開かれて、一安心。
「本物の幽霊は、俺達とは、全然違う生き物なのだ」
「そうなの?」
「うむ。あいつらは本当に厄介だからなぁ……怖くない方が、変なのだ」
「……きつね」
「うん?」
「もしかして、本物のおばけが、見えるんじゃないでしょうね?」
 ぎくり。
 やばい、言いすぎた。
「……やっぱり、見えるんだ」
「そ、そ、そ、そんなことないのだっ!」
 水原が、涙で赤くなった目を、じーっと細めて、こっちを見てくる。
 冷や汗が、だくだく流れた。
(これはマズいぞ……)
 連中の姿が見えることは、言っちゃいけない。
 きつねのお面をくれた母ちゃんとの、約束だから。
「嘘ついたら、許さないから。見えるんでしょ、おばけ」
「おばけ、というか……」
 どうしよう、どうしよう。
 水原が、こっちを見てる。
 目を、全然逸らしてくれない。
「……えーと、ほら、さっきも言ったじゃん。おばけ、俺も怖いんだってば」
「聞いたわよ。見えるから、怖いんでしょ」
「見えない。見えないのだ! おばけなんて、見えてない! だから、怖いのだっ!」
「……嘘ついてない? 本当に、見えない?」
「う、うん……」
 じっとり睨んでくる目に、心臓がどくどく鳴ってる。
「そっか……」
 水原はちょっと俯いて、目を閉じた。
 持ってた手提げの鞄から、綺麗なハンカチを取りだして、涙を拭う。
「そっか、見えないんだ」
「うん、ごめん……」
「謝らなくてもいいわよ。幽霊なんていないんでしょ。それなら、やっぱりあたしに苦手なものなんて、ないんだわっ!」
 水原が、笑った。
 無理して笑ってる。俺が、嘘ついたから。
 なんだか、悲しくなってくる。ちょっと泣きそうかもしんない。
 胸が痛むのだ。
「ちょ、ちょっと! しょぼくれた顔しないでよねっ! あたしが、おばけなんて怖くないってこと、証明してあげるからっ!」
「えっ?」
「そもそもおばけなんていないんだから、四階のお札、一人で取ってこれるもんっ!」
「……へ?」
「きつねはおとなしく、階段のところで待ってなさいっ!」
「なんでー! めんどくせー!」
「うるさいっ! 勝手についてきたら、またぶん投げてやるからねっ!」
 水原って、どこまでも勝手な女子だ。
「またおばけがいるかもしんないし、ついてった方がいいだろー」
「ダメ! おばけがいたって、どうせ偽物なんだから、大丈夫っ!」
「でも……わふっ!?」
「大丈夫だって、言ってるでしょっ!」
「叩くことねーだろー!」
 水原が、ずんずん階段をのぼっていく。
「……本当に行っちゃったし」
 言われた通り、階段を昇っていく水原を、見送るしかなかったのだ。

     

「はぁ……」 
 手持無沙汰になって、一人、きつねのお面をいじってた。なんにもすることがない。階段の手すりにもたれかかってると、欠伸がでてくるぐらい、暇なのだ。
 お菓子を待ちきれないお腹が、きゅーって鳴る。
「はやくお菓子が食べたいのだ……」
「――きつね」
「うん?」
「まだこんなとこにいたのかよ。遅いぞ」
「かっつん!」
 上から、かっつんが降りてきた。隣にいるのは一年生かな。とっても小さい。
「はやく取ってこいよ。これ」
 二人の手には、青と桃色のお札が見える。かっつんが軽く手を振って、その手に持った魔除けのお札をひらひらさせる。
 注意して見てたけど、そこには、俺や母ちゃんの苦手な、本物の「力」は感じられなかった。ちょっと安心した。
「そっちは、もう終わったんだ?」
「あたりまえだろ。むしろお前こそ、なんでまだここにいるんだよ。上でこっそり驚かせてやろうと思って、待ってたのに。いつまでも来ねぇし」
「だって、水原が勝手に、一人でお札を取ってくるって言うんだぞ。俺はここで待ってろってさ」
「やっぱりお前の相方、水原だったんだ」
「うん、あれ、知ってたのか?」
「さっき階段で、すれ違ったんだよ。水原、すごく怒ってたけど、喧嘩でもしたのか?」
「俺はなんもしてねーもん。水原が悪いっ!」
「……水原も、おんなじこと言ってたぞ」
 かっつんが、にやっと笑う。
 見慣れてたはずの笑い方なんだけど、なんかすっげー楽しそうに見える。
「ほんっと、わかりやすいよな、お前ら」
 そう言うと、かっつんがお得意の「ふー」の溜息。それから「やれやれ」って、ポーズをしてみせる。
「俺には、全然わかんねーんだけど」
「だろうな」
 かっつんが、漫画にでてくる博士みたいに、片手を口元に添えて笑う。
 やっぱり妙に似合ってるんだけど、うーん、腹立つなぁ。 
「きつね、お前ってほんと、朴念仁だよな」
「ボクネンジン?」
「にぶい奴。鈍感ってことだよ」
 また、それか。
 俺って、そんなに頭悪いのかなぁ。
「なんで鈍感って言われるのか、教えてくれよ、かっつん博士」
「己の力で気付かねば、意味がないのだよ、きつね仮面」
「なんだよ、かっつんのケチっ!」
 そう言うと、かっつんは腹を抱えて、楽しそうに笑った。
 隣のちっちゃい女子が、そんな俺達のやりとりを、不思議そうに見ている。
「ほら、こんなとこでぼさっとしてないで、さっさと追いかけろよ」
「だからぁ、ここで待ってろって、水原が言ったんだってば!」
「大丈夫だって。やっぱりお前のことが心配だった、とか言っとけばいいんだよ。たぶんな」
「たぶんかよ」
「でも、このままここにいても、降りてきた水原に殴られるぞ。間違いなく」
「間違いなく!?」
「たこ焼き一つ、賭けてもいいぜ」
「……うーん」
 迷ったけど、階段を登ることにした。やっぱり心配だったっていうのも、嘘じゃないし。なによりかっつんの助言は、結構あたるのだ。
「じゃ、いってくるのだ!」
 頼りになる親友の言葉に、下駄を脱いで、一段飛ばしで階段を上っていく。
「かっつん! 終わったらお菓子もらうとこで待ってて。後で花火見ような!」
「……あ、ちょい待ち、きつね。四階の廊下さ、妙に滑ってたから気をつけろよな。水原にも言おうとしたんだけど、あいつは人の話、全然聞かねーからさ」
「わかった、ありがと」
 手を振って別れてから、俺はもう一度、一段飛ばしで階段を上ってく。
「……でも」
 廊下が滑りやすくなってるって、どういうことなのだ?
 誰かが飲み物でも零したのかな?
 うーん、でも校舎に入る時に、食べ物は持って入っちゃいけなかったし。なんでだろ。
 旧校舎は普段、ほとんど使ってない。夏休み中の大掃除だって、来週の登校日のはずだ。 夏休みに学校に行くなんて、しかも掃除をするだけなんて。すっげー面倒くさいって思ってたから、ちゃんと覚えてる。水原も、
「面倒だからって、さぼるんじゃないわよ、きつね!」って、言ってたもん。

 ―――きつねのお面の上に、なにか小さな物が落ちてきた。

 こつん、と音を立てて床に落ちたそれ。拾い上げて、みた。
「……豆?」
 顔をあげたら、階段の手摺りの隙間から、同じ豆がぱらぱらぱら。落ちてくる。
「他にも、おばけ役の人がいるのかな? だけど、なんで豆なんか…………」
 思い浮かぶのは、一つだけ。
 不思議なことが起こった時、
 そこにいる。
「―――ッ!」
 手に持った下駄を隅に投げ捨てて、二段飛ばしに切り替えた。
 上から、豆粒が、沢山落ちてくる。笑い声がする。
 全力で階段を上った。二階、三階、最後の踊り場、全部まとめて、一気に上りきる。
 四階の廊下。茶色の豆粒が一杯、散らばってた。
「……水原っ!」
 焦って息があがったけど、歯を食いしばって、気合いを入れたっ!
「だっしゅ!」
 魔除けの札のある、六年生の教室の方に急ぐ。
 最後の角を曲がると、四階の廊下の先に、水原が見えた。
 横になって倒れて、足首を抑えてる。

『ゆかいだな、すってんころりん、ころんだね♪』
『鬼は外、福は内なんて、許さんぞ♪』
 
 いた。豆の入った笊を掲げて、踊ってる。
 赤と青の小さな鬼だ。腹を抱えて、ケタケタ意地悪に笑ってる。
「―――水原、大丈夫かっ!?」

『にいさんよ、またまた客が、おいでだよ♪』
『これはまた、ちいさなヒトの、こぞうだね♪』

 くるっ、とこちらを振り返る二匹の小鬼。
 目玉が一つしかなかったけど、その目は意地悪そうに、細められている。
 だけど怖くなんて、ないっ!
「許さぬ……!」
 むしろ、体の血が煮えたぎるみたいに熱い。
 母ちゃんからもらった血が、頭に、すぅーって昇ってく。
「許さぬぞ、悪党めっ! 正義の怒りを受けてみろっ!」

『おやおやおや、見えるのか? 人じゃなくて、きつねの子?』
『やぁやぁやぁ、聞こえてか? 人じゃなくて きつねの子?』
「当然だ! 貴様らの、あくぎょーざんまいなど、お見通しなのだっ!」
『うれしいね、わしら "妖怪" の、仲間だな♪』
『おかしいね、二つの匂い、混じってる♪』
「こんなことして喜んでる、お前等と一緒にするでないっ!!」
 腹の底から、思いっきり声がでた。
 きつねのお面は、絶対絶命のピンチ以外、使っちゃいけない――――母ちゃんの言いつけが頭に浮かぶ。
 ここで力を使えば、後で、きっと怒られる。
 でも、無理だって。俺は正義の味方「きつね仮面」なんだから。
「女子供をいじめる悪い妖怪は、成敗っ―――とぅっ!」

     

 あたしは、小さい頃から見えていたそれを、黒い「もやもや」って呼んでいた。
 そういう呼び方をしている理由は、他の誰にも見えなくて、正しくはなんて言うのか、わからなかったから。
 まだ小さかった頃、夜にお手洗いへ行こうと思った時に、その「もやもや」が見えた。
 とっても怖かった。
 お母さんは、気のせいだよって言ってくれたけど、絶対、そんなことないもん。
 「もやもや」は、きっとおばけなんだ。だからあたしにしか見えないんだ。
 ずっとそう思ってたのに……頭の上とお尻に「もやもや」が見えてしまった男子がいる。
 日野光樹。
 いつもきつねのお面をつけている、変な男子だ。
 最初は気のせいかと思って無視してたんだけど、参観日の日、きつねのお母さんを見て、気のせいじゃないって知った。
「―――あら、あなた?」
 きつねのお母さんは、とっても綺麗な人だった。
 テレビで見る女性の歌手も霞むぐらいの、すっごい美人。
 男子も女子も、他のお母さんも先生も、初めて見た人は、ぽかんと口を半空けにしてしまう。だけどそれだけじゃない。
 きつねのお母さんも、頭の上とお尻のあたりに「もやもや」したのが見えたんだ。
 呆然と見ているあたしを見て、きつねのお母さんは、にっこり笑った。
「―――内緒にしておいて、頂戴ね?」
 あたしは訳もわからず、ただ頷いた。
 そもそも、誰に言ったところで、信じてくれないと思うけど。
 でも、あたしが「もやもや」の事を誰かに喋ったら、きつねが遠くに行っちゃうかもしれない。
 それだけは、いや。
 
 廊下の先に「もやもや」が見えていた。
 六年生の教室の前、お札を取ってくる扉の前で、意地悪するように揺れている。
 じぃっと目を凝らせば、踊っているような気もする。
「……怖くないもん……」
 小さいから平気だって、自分にいい聞かせる。
 あたしの膝下ぐらいまでしかないんだから、近くまで行って、蹴っ飛ばしてやればいい。
 きつねに偉そうな事を言った手前、階段を降りていくなんて、できっこないし。
「よしっ!」
 覚悟を決めて、六年生の教室に近づいていく。なんだか妙に廊下が滑る。雨で濡れてる感じじゃなくて、小さな物を一杯踏みつけているみたい。
 気持ち悪いなぁ、なんだろう。
「もやもや」に、一歩、一歩、近付いて行く度に、胸がどきどきする。
 唇をぎゅっと結んで、それでも近づく。あとちょっと。
 最後の数歩まで近づいて、あたしは「もやもや」を睨みつけてやった。
「そこ通るんだからっ、あっち行きなさいよっ!」
 片足を振りあげた、その時だった。
 ざらざらって、なにかの音が聞こえるのと一緒に、足元がふらついた。
「――やっ!?」
 履き慣れていない下駄と浴衣のせいで、立っていられない。
「きゃあっ!」
 足首が変に方向に、ぎゅうって、曲がっちゃう―――痛い!
「………っ!!」
 すごく痛い。
 捻った足首に手を添えるだけで、電気が走ったみたいになる。
 額から冷たい汗が流れていって、目頭が熱くなってくる。涙がでてきた。
「―――水原、大丈夫かっ!?」
 後ろから、きつねの声がした。
(やだ、あの馬鹿。下で待ってろって言ったのにっ!)
 こんなみっともないところ、絶対に見られたくなかった。
 歯を食いしばって起き上がろうとしてみたけど、駄目。痛くて立てない。
「……許さぬ」
 いつも呑気な、人の気も知らない、きつねとは思えない声。
 背筋が、ぞくって震えた。
 本当に怒ったその声が、自分に向けられているのがわかって、悲しくなった。
「……ぁ、う」
 ごめんって謝ろうとしたんだけど、捻った足首が凄く痛くって、声がだせない。
 早く謝らないといけないって、思うのに。
 嫌われたくないって思ってるのに、一緒にお喋りとかしたいなって思うのに。
「許さぬぞ、悪党めっ! 正義の怒りを受けてみろっ!」
 きつねの声が、びりびりと、空気をつんざくように響く。……って、誰が悪党よっ!
「当然だ! 貴様らの、あくぎょーざんまいなど、お見通しだっ!」
「…………?」
 きつねがなに言ってるか、わかんないんだけど。
 でも良かった。あたしが嫌われてるわけじゃないんだ。
 捻った足首は本当に痛いのに、顔が少し緩んでしまう。安心してしまう。
「きつね仮面、変身っ!!」
 良かった。きつねが馬鹿で、本当に良かった。
 いや、良くないってば。
 だって、変身とかバカなの? 
 あんた今年で十歳でしょ……っていうか、あたし、本当に足が痛いんだってば。なにを呑気に変身してるのよ。バカきつねっ! 鈍感っ!!
(もーーーー!)
 なんか段々と、腹が立ってくる。
 バカきつね、後で絶対、殴ってやるんだからねっ!
 足が治ったら、まず最初に蹴ってやる。柔らかそうなほっぺたも抓ってやるんだから。
 それから、たこ焼きに焼きそば、綿菓子に焼きとうもうこし、林檎飴も買わせてやらなきゃ。あっ、フライドポテトも食べたいし、喉渇くからジュースも必要よね。
 えーと……慰謝料って言うんだっけ、こういうの。
「きつね仮面っ! 参上っ!!」
 やかましいわ。このっ、
「バ……っ!」
 足が、どんどん痛くなってくる。
 ぎゅーって歯を食いしばる。
 耐えきれそうにない、いたいよぅ。お母さん。
「~~~~~ッ!」
 痛くて、痛くて、たまらなかった。嫌な汗がたくさん流れだしていく。だから、
 だから、あたしの側を通っていく風が、とっても、心地良く感じたんだ。
「…………風?」
 旧校舎の窓は、全部閉まっていた。たぶん、しっかり鍵もかけられているはず。
 その旧校舎の窓が、なにかを怖がるように、悲鳴をあげた。
 風がどんどん強くなっていく。勢いを増していく。
 窓の外から吹き込んだ、突風じゃない。部屋の内側で生まれた風が、吹き荒れてるんだ。
 なに、なにが起こってるの?
「くらえっ! さいしゅーひっさつおーぎすぺしゃる! てんこー……!!」
 バカが、なにか言ってるけど、無視。
 どんどん、どんどん、風が強くなっていく。目に見えるぐらい、渦巻いている。
 お月さまに照らしだされた、廊下の黒い影。
「もやもや」が、白い風に吹き飛ばされた。
 一気に、廊下の隅まで流されて、消し飛ぶ。

『のわあああぁぁあああぁぁあ~~~~~!?』
『ひょえええぇぇぇええぇぇええ~~~~!?』

 その時に、不思議な声を聞いたような気がした。もうわけわかんない、なんなのよ。
 捻った足首があまりにも痛くって、まともに考えられなかった。
「水原」
 でも、きつねの声だけは、はっきり聞こえた。
「だいじょうぶ?」
「……遅いわよ」
 どうにか顔を上げると、きつねのお面を付けた男子が、手を伸ばしてくれている。
 頭の上とお尻に、黒い「もやもや」が見える、おばけの子。
「……き、きつね……?」
「なんだよ? ……あっ、お前、その足ちょっと見せてみろっ!」
 捻った足首を抑えていた手を、きつねに払いのけられる。
 その代わりに、ひやっと冷たい手が添えられる。
 顔が、真っ赤になった。
「なにすんのよっ、ばかっ!」
「いたっ! た、叩くなってば! 治してやるからっ!」
「どーやって治すって言うのよっ!」
「痛いの、痛いの、とんでいけー!」
「バカーーーーッ!!」
 すっごく恥ずかしい。なにそれ。
 あたしたち、もう十歳なのよ。四年生なのよっ!?
「いーから、いーから、そのまま動くんじゃねーぞ」
「うるさいわねっ! はやく保険室に……って……」
 きつねが手を添えていてくれると、不思議と痛みが引いていく。
 そんな気がしたわけじゃなくて、本当に楽になっていく。
「動かないで、そのまま」
「……う、うん」
 暴れていた熱が、嘘みたいに冷えていく。
 真っ赤に腫れてたところが、小さくなって、元の肌色に戻った。
 信じられない。
「よし、こんなもんかなっ」
「……うそみたい」
「でも、ぜんぶ治ったわけじゃないから。保健室行って、ちゃんとした手当てしてもらわないと駄目だから」
「……うん」
「反対の足でなら立てる?」
 頷くと、きつねは腕の下から肩を通してくれる。
 あたしは寄り添うように起き上がって、捻った足を少しだけ床につけてみた。
「立てる……」
 まだ少し痛みが走ったけれど、さっきと比べると全然平気。
「まだ歩いちゃダメなのだ! ほら、おんぶ。保健室まで連れてってやるから」
「だ、だいじょ――」
「大丈夫だって言っても、連れてくからな」
 言葉が途切れたのは、きつねに言われたからだけじゃない。
「……きつね、あんた」
「うん?」
 あたしに背中を向けている、きつね。
 見間違えかと思ったけれど、頭のてっぺんから、茶色の「耳」が生えている。それから浴衣の隙間からは、おんなじ色の「尻尾」が一本。なにこれ。
「どうしたんだ? ほら、早く背中乗れってば」
「う、うん……あ、でも先にお札手に入れておかないと、お菓子もらえないわよ」
「そんなの、どうでもいいのだ。お前の怪我のが先っ!」
「……」
 きつねは馬鹿の癖に、こういう時だけ、しっかり優しい。
 前に、あたしがこっそり悪口言われてた時も、たまたま男子トイレから現れて(男子トイレっていうのが、格好悪いけど)、あたしの代わりに怒ってくれたのだ。
 あの時も、お礼を言おうと思ったんだけど、
「でも俺は、水原も悪いと思うけど」って言うから、
「余計なことしないでよっ!」って言ってしまった。
 だけど次の日、友達の戸田と一緒に、上手に仲直りさせようとしてくれて、嬉しかった。
「……男子って、ずるいよね」
「なんか言った?」
「……べつに」
 身長だって、あたしとほとんど変わらないくせに、その背中が妙に広いんだ。
 背中に乗る時、重くないかなって心配したんだけど、
「よいしょっ!」
 きつねはあたしを乗せて、軽々と立ち上がってみせる。
 すぐ目の前の、きつねの耳。触ってみると、ふわふわしてた。
「わふーーーっ!?」
「わっ!? びっくりさせないでよっ!」
「ご、ごめん。でも水原が……いや、なんでも……」
 ふにふにふに。手触り良好。
「きゅーーーーーっ!?」
 頭の上のふわふわ耳は、やっぱり本物みたいね。
 ほどよくあったかくて、気持ち良い。あと、この反応が面白い。
「……水原、お前、見え……」
「あら、なんのことかしら? もしかして、秘密があったりするのかしら?」
「い、いや……なんでも――――きゅううううううっ!?」
 うん、この尻尾の方も上々ね。
 ぴくぴく震える耳もかわいけど、ぶわっと膨れる尻尾の方が、好みかも。
「見えてんだろお前ーーーーーーーッ!!!」
「見えてるわよ。きつねの耳も、尻尾もね。やっぱりあんた、おばけだったんだ」
 そう言うと、きつねの耳が項垂れた。
 ご主人様から怒られて、しょんぼりした犬みたいで、かわいい。
「ほらほら、目指すは保険室よ」
「……わかってるのだ……」
 それでもあたしを背中に抱えて、しっかりした足取りで歩いてく。
 うーん、項垂れたきつねって、新鮮で、かわいーかも。えへへ。
「……あ、あのさ……気持ち悪くない……?」
「なにが?」
「……ほら、耳とか、尻尾とか……わふーーーー!?」
「なんでよ、気持ちいいじゃないの」
「さわんなーーーーー!!」
 わぁ、いいなぁ。
 なんかいいなぁ。こういうの。
「ねぇ、きつね。それ、みんなには内緒?」
「うん……できたら、絶対、誰にも言わないで。特に母ちゃんには、絶対にっ!!」
「どうしよっかな~♪」
 なんだか、とっても楽しい。
 きつねの知らない秘密を、あたしだけが知ってる。この耳と、尻尾。
「お、おい馬鹿! くすぐったいから触んなってばっ!」
「ダーメ。すぐに助けに来なかった、罰なんだからね」
「やめれぇーーーーーっ!! 落とすぞっ!?」
「落としたら殴るからね。それよりあんたってさ、本当にきつねだったのね」
「……うん」
「もしかして、きつねのおばけ? あ、わかった。あんたが悪いことしたせいで、一家全員きつねの呪いを受けちゃったんでしょ」
「ちがうぞっ! 俺は正義の味方だから、悪いことなんてしないのだっ!」
「本当かしら~? さっきは、嘘ついたじゃないの」
「あ、あれは仕方なくて……でもいつもは、嘘もつかないのだっ!」
「じゃあ、きつねのおばけじゃないなら、なんなのよ」
「俺は、正義の味方、きつね仮面! だがその正体は、妖怪 "あやかしきつね" なのだぁっ!」
「あやかしきつね?」
 きつねの足が、ぴたっと止まる。
 顔は見えなかったけど、絶対に「しまった!」って顔をしてるんだ。
 本当、単純馬鹿なんだから。
「あ、あやかしきつねって言うのは…………正義の……あだだだだだっ!」
「正義の味方が、嘘ついていいと思ってんの? あたしの顔に三度目はないわよ? ほらほら、白状しなさいよ」
「うぅ……」
 きつねの耳と尻尾が、面白いぐらい項垂れた。口が、ぱくぱくって苦しそうに喘いでる。でも嘘ついたから、許してあげない。
「喋ったこと、母ちゃんにだけは……絶対内緒なのだ……」
「わかったわよ」
 きつねがぶるっと震えた。
 お母さんのこと苦手なんだなぁ。あんなに美人なのに。
「あやかしきつねっていうのは、妖怪なのだ。言っとくけど、おばけじゃないぞ。ちゃんと生きてるからな」
「妖怪? お母さんもお父さんも?」
「母ちゃんだけ。父ちゃんは水原とおんなじ、普通の人間。機械の工場で仕事してるんだ。けどな、俺と母ちゃんほどじゃないけど、妖怪とか幽霊の姿が見えるんだ。なんとなく、黒くて、もやもやっとしたのが、見えるんだって」
「それ! あたしと一緒!」
「やっぱりか。じゃあ水原も、俺の頭とお尻に、黒いもやもやが、見えてんの?」
「えーとね、前はそうだったんだけど。今はしっかり見えてるわよ」
「……えっ?」
「犬みたいに三角の尖った耳と、ふわふわのしっぽ。あたりでしょ?」
 得意気に言ってやる。あんたの秘密なんて、お見通しなんだからねっ。
 うーん、すっごい気分いい。
「……見えるの、か?」 
 きつねがの足が、また止まった。石みたいに固まって、全然動かない。
「どうしたの?」
「べ、べつに、なんでもねぇよ?」
 きつねはごにょごにょ言って、もう一度あたしを背負って歩きだす。
 なにを言おうとしたのか気になったけど、その前に、あたしも言わなきゃいけない事がある。
「あのね、きつね――――ありがとう。それから、ごめんね」
「なにが?」
「なにがって…………やっぱ鈍感」
 溜息がこぼれた。いつか、気が付いてもらえるといいなぁ。

       

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Neetsha