きつねの約束

 俺の父ちゃんは、普段はあんまり喋らない。
 お休みで家にいる時は大抵、居間で難しそうな本を読んでたり、新聞を広げてる。
「とーちゃん、なに読んでるんだ?」
「政治・経済・株価、その他もろもろ、金になりそうなもんを、ちょいちょいとな」
「カブカ? 漬物にしたら、ウマい?」
「半々だな。寝かせりゃ美味くなったり、不味くなったり、どっちかだ」
「ふーん?」
 時々、俺も横からのぞいてみる。だけど、数字がいっぱい並んでるだけで、なんのことやら、さっぱりなのだ。
「いいんだよ。光樹にはまだ……悪い、電話だ―――はい、もしもし。日野です」
 父ちゃんの携帯電話は、お休みでも遠慮なく鳴リ響く。
 そしたら、父ちゃんは急いで腰をあげて、
「はい、その件につきましては……」
「えぇ、了解しました」
「ただちに、そちらに向かいます」
 すごい早口で、喋るんだ。
「悪いな、父ちゃん急の仕事が入った。光樹、パソコン、勝手に使うなよ」
「わかんないし、面白くないし、使わないってば」
「そうか。じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
 俺の父ちゃんは、お仕事してる時は、格好いいと思う。
 それにしても、大人って、大変なのだ。かっつんの言う通り、夏休みがないんだから。今日は日曜日なのになー。

 夏休みが終わっちゃうまで、あと二週間ぐらい。
 明日は、小学校の大掃除がある。朝にラジオ体操したら、家に帰らず、そのまま学校へ行かなくちゃ行けない。でも、掃除だけして帰るのもつまらないから、かっつんと一緒に、一つの計画を実行中なのだ。
 俺の部屋。持っていくのを忘れないように、枕元にはバットにボール、それからグローブが並んでる。
「うむっ! これで明日の装備はカンペキだなっ!」
 それから、勉強机の上にある目覚まし時計を手に取った。今は夜の八時を少し超えたぐらい。ちょっと寝るには早いなぁ。居間に降りて、テレビでも見よっかな。
「……ただいまぁー」
 そう思ってたら、玄関が開いて、父ちゃんの声がした。
 部屋をでて、階段を降りて、出迎える。
「おかえりー」
「おー、ただいま……疲れたぜ……」
 父ちゃんは、大きな溜息をこぼして、ふらふら靴を脱いだ。そんで、俺の頭をくしゃくしゃってして、居間に入って、あぐらをかいた。うむ、かなりお疲れの様子。
 俺は台所の冷蔵庫から、ビールを一瓶、カルピスを一瓶取りだした。瓶を軽くぶつけて、「かんっ」って音を鳴らす。
「父ちゃん。いっぱいやりますか?」
「おぉー、いいねぇ」
 父ちゃんの趣味は、お酒なのだ。
 俺は子供で、まだお酒が飲めないから、父ちゃんに付き合う時は、カルピスかラムネになっちゃうんだけど、まぁ、子供だから仕方があるまい。
「あけるよー」
 ビールの蓋を、栓抜きで、きゅぽんっ!
「おっとっとっとぉ~!」
「おー、いいねー!」
 父ちゃんのグラスのなかに、とくとくとくとく、注いでいく。
 泡立って、溢れるぎりぎりのところまで。
「うむっ! 完璧なのだ!」
「ありがとう、んじゃ、いただきます」
 ぐびぐび、きゅーっと、一気飲み。
 ぷはー。
「ウマいっ!」
 お酒を飲んだ時の父ちゃんは、すっごい幸せそうなのだ。いっつもビール一杯で顔を真っ赤にする癖に、やめられない、止まらないーのだ。
 俺も、ちょっとだけ、お酒をわけてもらったことはあるんだけど、あんまりおいしくない。どう考えても、ラムネとかの方が、おいしーと思うんだけどなー。
「こーきー! とーちゃん、もー、仕事したくなーーーい!!」
「ダメ。もっと頑張るのだ!」
「いやだー、父ちゃんはもう、光樹と陽子(ようこ)と一緒に、ごろごろするー! 夏休みがほしいのだぁぁぁ!!」
 へべれけになった父ちゃんは、全然格好よくない。
 抱きついてくるし、酒臭いけど、がまん、がまん。
 これがきっと、大人の付き合いってやつなのだ。やれやれなのだ。
「さぁ! もう一杯注ぐのだっ、我が息子っ!!」
「飲み過ぎはよくないから、これで最後だぞ」
「くぅっ! キビシー! 光樹ぃ、お前は小さい時の、陽子によく似てるよなぁ~」
「それ、聞き飽きたってば。ミミタコなのだ」
「俺はなんどでも言うぞー! こーきはぁ! まだ女学生でぇ! かていきょーしの俺にぃ! 頬を染めてた陽子のぉ! あ、の、こ、ろ、にぃ! よくにてるぅぅぅぅぅ!!」
「うるさいってば。聞こえたら、雷落とされちゃうぞ」
 父ちゃんは酔うと、母ちゃんのことを呼び捨てにする。
「ただ、陽子みたいに捻くれてないところがいいな。うん。そこは俺に似たのかもしれん。うははははっ!」
 口調も態度も別人になる。むしろこっちが、父ちゃんの正体かもって思ったりするんだけどなー。
「こーき、耳触らせれ~~」
「やめれ」
 酔っぱらった父ちゃんは、頭の上に生えた、本当の耳を触ってこようとする。
 その度に俺は、正義の味方となって、素早く立ち上がるのだ。
「きつねちょっぷ!」
「くぅっ! やりおるな、きつね仮面!」
「ふふんっ! 悪の怪人、へべれけ魔人なんぞに、負けはせぬのだ!」
「よかろう! ならば飲み比べで勝負だ!」
「おー!」
 父ちゃんはビールの瓶を片手に、俺は一緒に持ってきた、カルピスの原液瓶を片手に「せーの!」で口をつける。大抵、勝つのは俺だ。
 父ちゃんは口をつけて三秒後に、降参するのだ。
「……うおー、まいった~。や~ら~れ~た~!」
「正義は勝つ!」
「ぐふぅ……あ、やべぇ。吐きそう。マジ吐きそう」
 父ちゃんが口元を抑えて、ふらふら立ち上がる。そして、その背後から、
「こんの……アホ親子があああああああぁぁぁッ!!」
「ごふっ!?」
 真・きつねちょっぷが、脳天直撃。父ちゃん撃沈。
 風呂あがりで、バスタオル一枚だけを身につけた母ちゃんが、近づいてくる。
 俺の頭にも、真・きつねちょっぷ。撃沈。
「光樹! 明日は学校にいく日でしょっ! 早く寝なさいッッ!」
「はいっ!」
 俺は急いで立ち上がる。カルピスとビールを冷蔵庫にしまって、大急ぎで居間をでた。
 後ろから、青白い光が「ばしーん!」って光る。母ちゃんの雷が炸裂したのだ。
 やばいなぁ、本気で怒ってるなぁ。
「……狐火まで、でてるのだ……」
 青白い炎の塊が、ぼぅ、ぼぅ、ぼぅ。
 なんでか知らないけど、母ちゃんの逆鱗に触れたみたいだ。
「もう一度言ってみなさいよっ! どこの誰が捻くれてたってっ!? そりゃあんたのことでしょーがっ!!」
 母ちゃん、怒るのそこかよ。
 心の中で突っ込んでおく。自分の部屋に一時撤退。ささっと襖の扉に手を置いた時、
「すいません、調子乗りました。許して――――ちょ、ごめ、や……―――――!!」
 耳を、ぺたん。
 なんにも聞こえませーん。
 明日になったら、ちょっとコゲてるんだろうな。父ちゃん。南無南無。
「……まぁいいや、おやすみー」
 大急ぎで電気を消して、布団の中に潜り込む。
「そういえば、いつだっけかなー……」
 前に、父ちゃんが、酔っぱらった時に、言ったんだ。
 妖怪は、全部黒い「もやもや」にしか見えないのに、俺と母ちゃんの、耳と尻尾だけは、はっきり見える、その理由。
「光樹と陽子が、大好きだから。好きな物は、よく見えるんだよ」
 お酒臭い息を、ぷはーっと吐きこぼして、そのまま捕まえようとしてきた。
 正義の必殺技で、返り討ちにしたっけ。
 思いだすと、結構照れるし、やっぱ恥ずかしい。
 
 だけど。

 俺も母ちゃんも、父ちゃんと、ずっと一緒にはいられないのだ。
 約束があるから。ずっとずぅっと続いてきた、
「あやかしきつね」のご先祖様との、約束があるから。
 約束は、まだまだ先のこと。だけど、その日はいつか必ず、やってくる。
 どれだけ辛くても、悲しくても、守るんだ。
 子供は、口をだしちゃいけない、大切な約束なのだ。
 かっつんが、いつかこの町を引っ越してしまうように。
 俺も、いつか―――――ふあぁ、眠い。おやすみなさーい……。
 夏休みに一度ある、校内大掃除の一日がやってきた。
 早くすれば、早く終わるのは、皆わかってるはずなのに。
「あーあ、めんどうだよなー、夏休みに学校とか」
「だよなー、はやく帰りてー」
「……でさー、昨日ね」
「あはは、ほんとー?」
 男子も女子も、お喋りばっかり。終わらないじゃない。
「――――男子諸君! 注目するのだっ!」
 しかも、椅子の上に、仁王立ちするアホまでいるし。
 椅子、蹴っ飛ばしてやろうかしら。
「なんだよ、きつねー。どった?」
「このまま帰るなどと、実につまらぬことを言うでないっ!」
「またなんか、企んでるのかよ?」
「ふっふっふ、この掃除が終わったら、野球大会を開催するのだ! 参加する者は、このきつねのお面の下に、集まるがよい!!」
「おー、いいじゃん。けどさ、道具はあんのかよ?」
「案ずるな、ボールとバットは、俺とかっつんが家から持ってきた! グローブも二つだけならあるぞ!」
「おぉー、さすが、きつね仮面だな。手抜かりねーぜ!」
「チームどうするー!」
「グーと、パーで、決めようぜ!」
「俺も参加するするー!」
「よいぞ。家に帰っても、母ちゃんに宿題をやれと言われるのは、皆同じだろ?」
「そのとおりだ!」
「まったくだ!」
「おとなは、おーぼーだ!」
「夏休みぐらい自由にさせろぉ!」
(――まったく、もう……)
 きつねのアホを中心に、男子が盛り上がってる。
 まったく、うちのクラスは、相変わらずなんだから。
 むしろ夏休みのせいで、歯止めが効かなくなってる気もする。
「よーし、野球大会、やるぞー!」
「おおおおおぉぉー!」
 きつねが腕を振り上げて、それにアホ男子一同が、賛同する。
 ほんっと、やかましいんだから。
 いい加減に、椅子を蹴り飛ばしてやろう。そうしよう。
「――――おい、お前等。サボってんじゃねーよ」
「わふっ!?」
 あ、先手を打たれちゃった。
 ほうきのトゲトゲが、きつねの頭の上に、ずばん。 
「おのれ、かっつん! 不意打ちとはヒキョウな!」
「やかましい。遊ぶんだったら、さっさと掃除を終わらせろ。それから、俺をアホの一員に含めるな。こっちはな、宿題なんぞ、最初の一週間で終わらせてるんだよ」
「な、なんだって……?」
「う、嘘だろ……っ!」
「ばかな、ありえん……!」
「おそろしや、戸田勝也……!」
「……アホばっかりか、このクラスは」
 戸田が、ふーって溜息をこぼして、やれやれって首を振る。おおげさな仕草だけど、ちょっと似合うのよね。顔も悪くないし、女子からも人気あるし。
「なんだとぅ、アホとはシツレイなっ!」
「聞き捨てならーん!」
「皆の衆、せいばいじゃー!」
「やっちまえー!」
「まぁまぁ、待てよ。これが目に入らないか?」
 戸田が、にやりって笑う。それもまた、結構様になっている。
 そして手に持っているのは「夏休みの友(四年生)」だ。
「残念だったな。今なら百円で、宿題写させてやるんだが」
『写させてえええぇぇぇぇーーーーー!!』
「……」 
 このクラスの男子、ダメ過ぎ。
 大変なんだろうな、お母さんたち。

 いつもは、だらだらしてる男子だけど、一度団結した時の行動力は、やっぱりすごい。
「どいたどいたぁ! 雑巾がけのお通りだぁ!」
「はーい、机が通りますよー。道をあけてくださーい」
「バケツの新しい水一丁、おまちっ!」
「窓ふき~、窓ふきはいらんかえ~」
「……男は黙って、黒板消し……」
 その様子を、見回りしてた学年主任の先生が、褒めてくれた。そしたら男子は、サルみたいに勢いを増して、あっという間に綺麗になった。
 まったくもう。やれるなら、最初からやればいいのに。
 
 掃除が終わって解散した後も、あたしは学校の図書室に残ってた。今日は掃除だけで、授業があるわけじゃない。けど、ちゃんと筆記用具と、教科書と、ノートを持ってきた。 
「まる、まる、まる、まる……ぜんぶまるっ!」
 全問正解してるのを確かめて、おっきな花丸を書く。
「ふふん。やっぱりあたしってば、偉いっ!」
 学校の図書室は、静かだった。さっきまで先生が一人いたんだけど、用事を思いだしたみたいで、部屋をでたところ。
 だからあたしは、扇風機を、遠慮なく一人占め。
 今日は八月にしては、曇り空で涼しいし、扇風機の風を浴びてるだけで、充分快適だ。
「―――ストライークッ! バッターアウッ!」
 残念だけど、外から聞こえてくる熱声は、暑苦しいんだけどねー。
「ツーアウッ、三塁! チャンスはまだ残ってんぞー!」
「次のバッタァー、だれー!?」
 四階の図書室まで、騒がしい声が聞こえてくる。
 男子って、ホント元気で、バカなんだから。
 今日は涼しい方だけど、八月なんだからね。もうすぐお昼も近いし、どんどん暑くなっていくんだから。そしたら、汗だくだくになって、へとへとになって、日射病になっちゃうかもしれないんだから。
「だから、あたしは賢いのよ。勝ち組よ、勝ち組」
 気晴らしに、負け組を見下してやろうかと思ったけど、やーめた。
 せっかく涼しい扇風機、独り占めしてるんだもん。わざわざ、陽の当たる窓際まで行って、アホ男子たちの野球なんて、見る必要、
「次のバッター、きつねかぁ! 打てよー!」
「頼んだぞ、四番ー!」
「みんな、下がれ下がれー! 大バカは、でかいの打ってくるぞ!」
 ページをめくっていた手が、とまる。
 窓の方を見た。気がつけば、席を立っていた。小走りで近寄って、窓枠をつかんだ。
 まぁ、たまには悪くないよね。野球観戦も。
 
 校舎を見下ろした。
 足で砂を削って、上から水を撒いただけの、野球場。
 グローブはピッチャーとキャッチャーの二人分しかなくて、ボールとバットも一つだけ。
「……なにやってんの、あのバカ」
 バッターボックスに、きつねが立っている。予告ホームランのつもりなんだろうか、雲に隠れた太陽めがけて、バットを突き出している。その格好のまま、動かない。
「バカめ! スキありっ!」
 ピッチャーの男子が、すかさず第一球を投げる。きつねはそれでも動かず。
 ボールはまっすぐ、通り過ぎていく。
「ワンストラーイク!」
「なにやってんだよ、きつねっ!?」
「もったいねー! どまんなかじゃーか!」
「おろかものめっ! 早々に勝負を決めてもつまらんだろう、ふははははっ!」
「…………なによ、それ」
 腕を組んで、得意気に高笑いをするきつねを見てるだけで、溜息がこぼれた。期待を裏ぎってくれないバカっぷりに、なんかもう、一気に面倒くさくなった。
「言ってくれるじゃねーか! いくぞ第二球……おりゃー!」
 ピッチャー、第二球、投げました。
「うりゃー!」
 四番バッター、きつね。きれいな空振りです。
「ツーストラーイク!!」
「どまんなかじゃねーかぁぁ! ヘタクソーーーーっ!」
「タ、タイムッ! お面つけてたら、前が、よくみえぬっ!!」
「アホーーーーーッ!!」
「…………バカ」
 今だけは、男子とおんなじ気分。
 駄目だもう。見てらんない。
「……勉強しよ」
 そう思ったんだけど。でもせめて。
 あと一球だけ、見届けたいかな、なんて。
 期待なんて、全然してないけど。

 きぃーーーーん。

 白いボールが、青空のなかを、高く、高く、飛んでった。
 みんな、顔を見上げてる。
 一人だけ、バットを投げて、駆けだしている、バカが一匹。
 きつねが走ってる。とっても速い。
 水で書かれた一塁ベースを蹴った時、横顔が見えた。歯をむき出しにして、すごく嬉しそうな顔してる。
「……ずるい」
 胸がどきどきする。やっぱり、きつねは、ずるい。
「に……じゃなくて三……えぇい、バックホームっ! 急げ外野っ!!」
 焦る声なんて物ともせずに。
 きつねが、走る、走る、走る。
 一人が帰って、一点追加。その時、きつねはもう、二塁ベースを蹴っていた。
「同点だぁー!」
「急げ急げー! まだ間に合うぞーっ!!」
「おせーよっ! 間に合うもんか!!」 
 男子たちが、夏の熱さに負けないぐらい、ぎゃーぎゃー叫んでる。
 あたしの心も、熱くなる。
 窓枠に置いた手が、震えてる。
「……がんばれっ!」
 きつねってば、本当に足がはやい。
 三塁に着いた時、ちょっと勢いを落として、後ろを振り返った。
 ボールはやっと、二塁の側にいた、外野手の男子まで戻ってきたところ。
「きつねー! 戻ってこい、間に合うぞー!」
「わぁってる!!」
 迷わず、前へと進む。ランニングホームランまで、あと少し。
 きつねに投げられる声援が、どんどん、どんどん、大きくなっていく。
「きたきたきたぁ! 逆転だぁーーーっ!」
「……やったぁ!」
 これはもう、絶対間に合ったよね。そう思った時、
「――――キャッチャー! しっかり構えてろっ!!」
 空気をつんざくような、鋭い声がした。
 その声。きつねの親友、戸田勝也。
 弓を引き絞るみたいに、投げ放つ。
 ボールがまっすぐ、弾丸みたいな勢いで、飛んでった。

 ずばぁぁんっ!

 あと、もうちょっと。だったのに。
「うひ~! 手が痺れたぁ!」
 ボールが戻ってくる方が、はやかった。
「うっそだろっ!?」
「残念だったな、きつね仮面っ! ちぇすとおおおーーーっ!」
「……わわわわわっ!!」
 きつねの足が、たたらを踏む。ばたばた慌てて、必死に踵を返す。
「おそいわっ もらったぁぁっ!」
 ボールを持った手が、背中に迫る。もうダメ。追いつかれちゃう。
 でも、その時。きつねの右手が、お面に伸びた。
「――――あ」
 お祭りの夜を思いだす。
 きつねが、凄く怒った声で叫んで、それで、風が舞い飛んだ。あの夜を。
 誰にも言わないで。約束して。お母さんに怒られるから。
 ちょっと泣きそうな顔になって、耳と尻尾をしょんぼりさせて、そう言った。
 「妖怪」っていうおばけが見える、あたしだけが知ってる秘密。
 いつも「きつねのおめん」を被ってる、日野光樹の正体は、妖怪「あやかしきつね」。
 頭の上から生えた、茶色の耳。半ズボンから零れたしっぽが、ハッキリ見えた。
「とぅっ!」
 きつねが、後ろ向きに宙返り。振り向きざまだったのに、綺麗に飛びあがる。
「よっ!」
 ボールを持ってた男子の両肩に、手を乗せる。そのままくるんって回る。飛び越えた。
 信じられない。ヒトの背中に翼が生えて、空を飛んでるみたいだ。
「はぁっ!」 
 体操の選手みたいに、びしっと両手を伸ばして、着地する。その場所は、水でひかれたホームベースの真上。
「……んなっ!?」
 あれだけ騒いでた男子の声が、その一瞬、綺麗に静まりかえってた。きっと、ぽかーんって、口が半分空いてるに違いない。
 四階からでも、男子達の気持ちがわかっちゃう。今みたのが、軽く想像を超えていて、呆気にとられて、言葉がでないんだ。
 あたしも、気づいたら、一緒になって叫んでた。
「なにそれーーーー!?」
「なんじゃそりゃああああああああぁぁぁーーー!?」
 重なった大きな声の中で、きつねが、お面を外した。
 お陽さまみたいに、腕を組んで、眩しく笑う。
「ふははははははっ! 見たか!! これがきつね仮面の力なのだーっ!!」
「ありえねーよ! お前、今、飛んでたぞっ!?」
「このやろー、俺を踏み台にしやがってー!」
「はーっはっはっはっ! きつね仮面に、敗北の二文字はないのだーっ!!」
 超得意げに、大笑いしてる。
 それを見て、悔しいって思った。あんなの、あたしには真似できないもん。
「……けど」
 すごい、すごい、すごいっ!
 あれが、あやかしきつね、なんだ。
 ちょっと、本当にちょっとだけ、格好良いかもしれない。
(う~~~!)
 胸が、もやもやする。
 いっつもそうだ。きつねの事を考えてたら、なんか、苦しくなる。
 これが、そういうことなのかなって、考えたことはある。でも格好いいところと、格好悪いところを数えていくと、圧倒的に格好悪いところの方が多いわけで。
「……だから、違うんだもん」
 うん、やっぱり嫌い。きつねなんて、ただのアホ。
「――――ふー」
 大きく深呼吸して、運動場から目を逸らす。さて、勉強に戻らなくっちゃ。そう思って振り返った。それでもまだ、胸がどきどきしてた。
 
 別の意味で。胸がどきどきする。
 なんか、いるんだけど。

『やれやれだね。またおめんの力を、無駄に使ったね』
『……母上様、報告……』
『そうだね』
『こぅしゃま、また、ははさまに、おこられる、のー?』
『約束を破ったのは、若様だからね。こればっかりは、仕方ないね』
『かみなりー、ぴかー?』
『かもね』
『こうしゃまー、かぁいそー』
『……南無三』
 廊下に、なんか、いるんだけど。
 いつもの黒いもやもやは、ほとんどなくって、随分はっきり見えていた。
「なによあいつら……イタチのおばけ?」 
 山に遠足に行った時、偶然見かけたイタチに、似てる気がする。でも、目の前にいる奴みたいに、窓枠に手を添えて、二本の脚で立ってたり、ヒトの言葉を喋ってたりは、しなかった。当たり前だけど。
『カタナの言う通りだね。若様はいい加減にね、ご自身の立場を弁えてもらわないとね』
 小さいのと、ノッポと。ふとっちょ。
 全部で三匹。どのイタチの腰元にも、紐で、小さなツボが括りつけてある。どきどきしながらその会話を盗み聞きしてたら、不意に、ふとっちょが、こっちを向いた。
『……姉者』
『ふにゅー?』
『……子供……』
『ほぇー?』  
 ふとっちょが、あたしを見て、指さした。
 それに続いて、小さいのと、背の高いのが、あたしを見る。
「……!」
 慌てて後ろを振り返ったけど、図書室には、あたし以外に誰もいない。この階の教室にいた生徒も、みんな帰っちゃったみたいで、し~んとした空気が流れてる。
『みえてぅのー?』
『……』
 ふとっちょが、頷いた。
『ヒトの子なのにね。僕達が見えるのですね』
 ノッポが、肩に小さいのを乗せて、ゆらゆら、近付いてくる。
 ちょっと、やだ、どうしよう――――助けて、きつね。
「なんだよあれ。反則だろ」
「えへへへへっ、残念だったなー、かっつん」
 そう言ったけど、実は、ちょっと後ろめたかった。
 絶対間に合うと思ったから、だから悔しくって、つい変身してしまったのだ。
 あやかしきつねになると、体がすっごく軽くなって、力が沸いてくる。それから、風の流れを自分で操れるようになる。その力を使えば、宙返りするぐらい、朝飯前なのだ。
 ヒトの時にはできなかったことも、あやかしきつねになったらできる。
 でもやっぱり、皆と一緒に遊ぶ時には、反則だよなぁって思うから、いつもは使わない。それに、絶体絶命のピンチじゃない時にお面を使っちゃうと、母ちゃんに怒られるし。
 げんこつで済めばいいんだけど、昨日の父ちゃんみたいに、雷落とされたり、青白い狐火に囲まれたり、おっかないのだ。
 お祭りの夜も、やっぱり後で怒られた。
 女子を助けるために、仕方がなかったって説明したら、一応わかってもらえたんだけど、げんこつはしっかり、降ってきた。
(……さっきのも、バレたかなー。家から結構離れてるし、どーだろ)
 母ちゃんの近くで、お面の力を使ったり、ずーっとお面の力を使って変身し続けてたら、必ずバレる。だけど、さっきは、ほんのちょっと使っただけだったし、大丈夫かな。
「どしたんだ、きつね。あんまり嬉しくなさそうだけど」
「えっ……そ、そんなことないのだっ!」
 かっつんは、やっぱり鋭い。
 妖怪は見えないんだけど、なんていうか、人が考えてることなんかを、ずばっとあててくるのだ。
「宙返りしたせいで、今さら、気分悪くなったとか言うなよ?」
「大丈夫っ!」
「それならいいんだけどさ。けど、今の格好良かったし、俺も練習してみるかな」
「うむ、修行あるのみなのだっ!」
 やっぱり、かっつんはすげーなぁ。かっつんなら、いつか普通にできそう。
 でも、俺の本当の耳としっぽは、これからも先、ずっと見えないんだろうなって思う。
 見えないヒトには、どうしたって見えない、きつねの耳としっぽ。
 あやかしきつねの耳としっぽが見えるヒトは、父ちゃんだけ。そう思ってた。でも最近、そうじゃなくなった。
「水原がなぁ……」
「ん? 水原がどうかしたのか?」
「な、なんでもないっ!」
「なんだよ、お前等、また喧嘩したのか?」
「ちげーよ。なんでもないって言っただろー!」
「へぇ、あやしいなぁ」
 かっつんの、にやり。
 むむむ、我が親友ながら、本当に鋭い男なのだ。
 でも、かっつんは相手が秘密にしてることを、無理に聞きだそうとしたりしない。
 そういうとこが、いいとこなんだよなー。とか思ってた時だ。
「――――なにすんのよ、あんた達ーーーっ!!」
『きゅーーーーー!?』
 学校の校舎から、女子の悲鳴が聞こえてきた。
 聞いた覚えがするなぁって思うのと一緒に、すぐに、一人の女子の顔が浮かんだ。
「なんだ、今の声、水原か?」
「……た、たぶん」
 俺たちは、声がした上の方――たぶん、図書室のところを、見上げた。
 やばい。今の変身が見られてたら、すっげーやばい。きっと水原は、
「変身したの、あんたのお母さんに、言いつけてやるからね!」
 そう言ってくるに違いないのだ。
 得意気な様子で、黙ってて欲しかったら、耳とかしっぽとか触らせなさいって、そう言ってくるに違いないのだぁっ!
「……水原っ、恐ろしい女子……!」
「お前らって、簡単そうで、割と複雑だよな」
「えっ、どういうこと?」
 かっつんが、またもや、にやりって笑う。
「わからなかったら、聞き流せ。そっちの方が、個人的に面白いから。それにしても水原の奴、あんなとこで、なに騒いでんだ?」
「……さぁ?」
 本当、一体どうしたんだろ。
「三匹なら勝てるとか、甘くみてるんじゃないわよーーーっ!!」
『やれやれだね。困ったね』
『……強敵……っ!』
『あーん、こーしゃまぁー!』
 あれ、なんか聞いたことのある声がしたような。
(カマイタチ……? 山を降りてきたのか……?)
 どたどた、ばたばた。どがしゃん、がっしゃん。ばごーーんっ!
『あーん、やめてぇ~!』
『敵わないね。姉者、カタナ、撤退ですね』
『……無念……っ!』
 他の皆には、水原一人の声しか、聞こえてない。だけど俺にはしっかり、三匹の妖怪の声も、聞こえてた。
 水原も、普段は黒い「もやもや」がぼんやり見えるだけで、はっきりとは見えてないはずなんだけど。
「どしたんだ、水原のやつ」
「ゴキブリでも、でたんじゃねーの」
「げぇ~、三匹もかよっ!?」
「―――三匹まとめて! 全部で九枚おろしにしてやるっ!!」
『たべちゃだめーーっ!!』
 開いた図書室の窓から、三匹の妖怪「カマイタチ」の姿が見えた。
 少し遅れて、窓から顔をだした水原も。
『こーしゃまー!!』
 三匹の妖怪が、上手に風に乗って、落ちてくる。
 木の葉が落ちてくるみたいに、ふわふわ揺れて、それでもしっかり、一番小さなカマイタチが、俺の肩に乗っかった。
『こーしゃま、あいたかったのー!!』
「ナギ、久し振りなのだ」
『えへー!』
 それから、ノッポのカマイタチと、ちょっと太ったカマイタチ。
 俺の足元近くに着地する。
 皆にバレないように、小声でこっそり、
「タチ、カタナ、久しぶりなのだ」
『若様、お久し振りですね。さきほどはね、あぶないところでしたね』
『……危機、回避……』
 カマイタチの三匹は、俺が小学生にあがった頃から知ってる、仲の良い妖怪だ。
 俺や母ちゃんが従えてるわけじゃないんだけど、時々こうやって、遊びにきてくれる。
「―――きつねっ! なんなのよ、そいつらっ!」
 でも今は、懐かしいなって思う暇がない。
「きつねっ! そいつらと一緒に、じっとしてなさいよっ!!」
 言って、水原が、ずだだだだーっと廊下を走っていくのが見えた。
 いつもは、男子に廊下を走るなって言ってる癖に、ずるい。
 皆の眼が一斉に、俺んとこに集まった。
「なになに、どったの、きつね?」
「水原、なんで怒ってるんだ?」
「お前、またなんかやらかしたのかー?」
「えーと……なんのことか、ぜんぜんわからないのだ」
「嘘つけよ」
「ウソだなー」
「お前、わかりやすー」
 うーん、困ったのだ。
 嘘はよくないって思うけど、こういう時、上手に嘘がつけたらなーって、ちょっと思う。

 
 水原につれられて、体育館の水飲み場までつれてこられた。
 野球の続きをやってる運動場は、最後の九回表に入ったところ。試合は、とっても盛り上がってる。
「戸田ぁー、打てよー!」
 最初のバッターは、かっつんだ。
 かっつんは親友なんだけど、俺の生涯の手強いライバルでもある。
 点差は、一点。かっつんなら、打つだろうなぁ。

 かきーん!

 とか思ってたら、やっぱりなのだ。
 第一球を、いきなり狙い撃ち。ボールが、空の中を、すっげぇ勢いで飛んでいく。
 外野は充分に下がってたんだけど、それでも届かなくて、大急ぎでボールを追いかける。俺が打ったときよりも、ずっと遠くに飛ばしてる。むむむー、悔しいけど、さすがなのだ。
「すげー! やっぱお前すげーな、戸田!」
「こりゃー、一点もらったなー!」
 かっつんは、ジョギングでもするような感じで、ゆっくりホームベースを踏みつける。せっかく逆転してたのに、また、あっという間に同点だ。
「おのれ~! 俺が守ってたら、絶対にホームまで戻さなかったのだ~!」
 まだ、九回の裏がある。
 今すぐにでも戻って、三人抑えて、今度は俺が、かっつんもびっくりするぐらいの、大ホームランを打ってやりたいー!
「はいはい、こっち、ちゅうもーく」
「わふっ!? いたたたたっ!!」
 運動場の方ばっかり見てたら、水原に頭の上の耳を引っ張られた。妖怪が見えてない人なら、頭の上の耳とか、しっぽとか、触られてもなんともないんだけどなー。
「ひっぱることないだろー……」
 水原の方を、振り返る。
 きっとまた、怒った顔して、睨まれるんだろうなって、思ったんだけど。
「ねぇ、きつね」
 違った。なんか、すっごく楽しそうな顔で、にっこり笑って、こっちを見てた。
 普段、怒ってる顔ばっかりだから、逆に、笑った顔が妙に怖いのだ。
 背中が、ぞくぞくする。
「ほら、白状しなさいよ。そこの三匹のこと」
「……えーと」
 水原が俺の肩に乗ってるナギ、それから左右の足下にいる、タチとカタナを指差した。
「やっぱ、見えてんの?」
「うん。腰に小さな壷を縛りつけてる、イタチみたいなのが、三匹でしょ」
「……えっ? 黒いもやもやじゃなくって? はっきり見えちゃってんの?」
「うん、ばっちりよ」
 水原が頷いた。
 俺と母ちゃん以外で、妖怪を見えるやつって、初めてだ。ちょっと、どきどきする。
 今までは、妖怪の姿が見えるヒトを、父ちゃんしか知らなかった。その父ちゃんも、俺と母ちゃんの耳としっぽは見えてるんだけど、ほかの妖怪になると、やっぱり黒いもやもやの煙にしか、見えてない。
 だから、水原が初めてだった。
 初めて、ヒトと一緒に、同じ妖怪の姿を見ていた。
「そこの三匹、妖怪なんでしょ?」
「えーっと……」
 うんって言おうとしたんだけど、ちょっと困った。母ちゃんから、妖怪が見えることは、言っちゃダメって、釘を刺されてるのだ。
 約束を破ったら怒られる。だけど水原は、もう見えちゃってるしなぁ。
『若様』
 悩んでたら、左足のとこにいた、ノッポのタチが言った。
『今更ね、隠す事もないでしょうね。素直に言ってもね、よろしいと思いますね』
「そうよ。また嘘ついたら、許さないんだから」
「水原、タチの声も、聞こえてんの?」
「一字一句、筒抜けよ」
「おぉー」
 水原のやつ、本当に、妖怪が見えてんだ。
 今まで母ちゃん以外に、妖怪のことで、話をしたことなんてなかった。
 妖怪が見えることは、絶対秘密。でも、秘密じゃなくしたところで、誰にも信じてもらえない。それは、ちょっと、寂しい。
「そっかー、嬉しいなー」
「えっ?」
「妖怪のこと。ヒトで見える奴って、水原以外に、いなかったのだ」
「……そうなの?」
「うん、俺の母ちゃんは見えるんだけどさ、母ちゃんは俺とおんなじで、普通のヒトじゃないしなー」
「あやかしきつね、なのよね」
「うん」
 頷いた時だった。
『……こーしゃま。それも、おはなし、しちゃったのー?』
 肩に乗ってたナギが、黒い瞳をちょっと細めて、こっちを見てる。
 しまった、余計なこと、言っちゃった。
「ち、違うのだ! 一番の秘密は、言ってないのだ……!」
「一番の秘密? なによそれ、あんた、まだなにか隠してるの?」
「ち、ち、ち、違うのだぞ!? 正義の味方に、隠し事なんてないのだぞ!?」
『……こーしゃま……』 
 一人と三匹。
 全部で八つの黒い目が、俺のことをじーっと睨んでくる。冷や汗だらだら。
『こーしゃま、うそにがてなのー』
『相変わらずね、若様はね。墓穴を掘るのが上手ですね』
『……不変』
 もふーって、三匹の溜息が重なった。
「あんたってば、妖怪にもアホ扱いされてるのねー」
「むぅ……」
 ちょっと悔しいけど、言い返せないのだ。
 また母ちゃんに怒られるなぁ、おやつ抜きは嫌だなぁ。しょんぼりしてたら、水原もちょっと困った顔をした。
「べ、べつに、無理に秘密を聞いたりしないからっ! あたしだって、一番の秘密は言えないもん!」
 なんでかしらないけど、今日の水原は、とっても機嫌がいいみたいだ。
 笑ったり、怒ったり、赤くなったり、忙しそう。
「そ、そろそろ、自己紹介してもいいかしら? あたしは、水原幸っていうの。背の高いのはさっき聞いたから。反対側の足にいるふとっちょと、肩に乗ってるちびっちゃいのは、なんて名前?」
『……太……違』
『ナギ、ちびじゃないー! おねえさんー!』
「あー、はいはい。あんたはナギっていうのね。無口の太っちょは?」
『……刀』
「ナギに、タチに、カタナか。よろしくねっ!」
 そう言って、もう一度笑う。
 いつもそんな顔してたら、かわいいのになぁって、ちょっと思った。
「それで、この三匹って、なんていう妖怪なの?」
「カマイタチっていうのだ。知ってる?」
「本で見たことあるかも。確か、転ばせて、斬って、薬塗って、治すんでしょ?」
「妖怪の本に書いてあるのは、そうなんだけど。こいつらは、ちょっと違うのだ」
『そーなのー!』
 肩にいるナギが、二つの足で立ちあがる。水原みたいに両腕を組んで、えっへんって、威張ってみせた。
『ナギたちー! せーぎのよーかいー!』
『僕たちはね、鎌は薬草を取る時しかね、使いませんね』
『……我等、薬師……』
「お薬屋さん?」
「うん。三匹とも、薬を扱ってるのだ」
『得意の分野は違いますけどね。捻挫とかね、打ち身とかのお薬はね、僕に任せてくださいですね』
『ナギのおくすりー、おはだ、しゅべしゅべー!』
『……切傷、火傷、水膨れ……』
「便利で、人畜無害な妖怪か……ねぇ、きつね、ちょっと相談があるんだけど」
 水原が、とっても楽しそうな笑顔のまま、聞いてくる。
 なんか、その相談って、絶対に断れない気がするんだけど。
「どれか一匹、ちょっと貸して♪」
「……え?」
「あたし、マンションだから、ペット禁止なのよ。でも妖怪なら誰にも見えないでしょ。だからお願い、一日だけ」
「そ、そ、そ、そんなこと言われても……困るのだ……っ!」
「ふ~ん、でも貸してくれなかったら、もっと困るかもしれないわよ?」
「な、なんで?」
 怖いのだ。水原の笑顔が、とっても怖いのだ。
 これならまだ、普通に怒ってた方が、いいかもしんない。
「あんたのお母さんに、ぜ~んぶ、言っちゃおうかな?」
「……!!」
 鬼だ。鬼がいるのだ。
 尖った角が頭のてっぺんに生えてるのを、隠してるに違いないのだっ!
「ほらほら、どうすんのよ?」
「うー……」
 俺は、母ちゃんにバレたらマズそうなことを、頭のなかで並べてた。
 野球の試合の時に、きつねのお面をつけたこと。
 この前のお祭りで、妖怪の耳としっぽが、水原にバレちゃったこと。
 それからもう一つ、一番大事な秘密を、言いそうになったこと。
 一度に全部バレたら、雷程度じゃすまない。
 お菓子を一ヶ月禁止、いや、一年間禁止令が、発動するかもしれないっ!
「お、俺は……! お菓子を食べなくては、生きていけないのだ……っ!」
「大袈裟ねー。ほら、どの子を貸すか、決めちゃって」
「うぅ……っ!」
 どうしよう。本当に困って、足下のタチとカタナをみた途端、顔を逸らされてしまう。
『お断りですね』
『……拒否』
 絶対絶命のピンチ!
 残るは、肩に乗ってるナギだけど。
「……わかったのだ。ここは潔く、母ちゃんに怒られるのだ……」
「えーっ?」
 水原が顔をしかめる。怒った顔もやっぱり怖いけど、仕方ない。
「正義の味方は、仲間を裏切らないのだっ!」
「なによ、それ。あたしが悪者みたいじゃない」
「えっ……悪者じゃないの――――いたい、いたい、いたいのだー!」
 耳を、むぎゅーって引っ張られる。
 なんとか水原の手を外そうとした時、
『けんか、めー!』
「……いたっ!」
 ナギが、水原の手の甲に、噛みついた。
 しっぽをふりふりして、威嚇する。
『ナギが、いきましゅ。だから、けんかしちゃ、めー!』
「よくもやってくれたわねっ! ちっちゃいのっ!」
『ちっちゃくないもんー!』
 おぉっ、なんか、火花が散ってる。
『さちしゃん。なぎがいくから、こーさまいじめちゃ、めー』
「仕方ないわねー」
『でもぅ、さんまいおろしー、は、いやですよー』
「おとなしくしてたら、そんなことしないわよ」
『じゃ、いくですー』
「ま、待つのだっ!」
『姉様!』
 俺と残りの二匹が、慌ててナギを止めにかかる。
「やめるのだ! ナギ! 行ったら丸焼きにされちゃうぞっ!」
『姉様、この女子はね、なんかさらっとね、凄いことをやっちゃいそうですよね』
『……危険、危険、危険……!』
「うるっさいわね、あんたたち! あたしの家に来てもらう以上、お客様なんだから! そんなことしないわよっ!」
『そーでしゅ。しんぱいすること、ないです、のー』 
 ナギが、水原の肩に飛び移る。
 すりすり頬を寄せると、水原の怒ってた顔が、緩んだ。くすぐったそうな顔で、笑う。
「あはっ、かわいー」
 ナギが頭を撫でられて、気持ち良さそうに、目を閉じる。
「それじゃ、一日だけ、遊びに来てくれる?」
『はーい』
 なんでかしらないけど、ナギは、水原のことを気に入ったみたいだった。その証拠に、しっぽがゆらゆら、嬉しそうに揺れてるのがわかる。
『嗚呼、姉様……今生のね、別れにね、なるかもしれませんね……』
『……哀……』
「水原、ぜったい食べちゃダメだぞ」
「あんたと一緒にしないでってば。食べないわよ」
「本当に?」
「本当だってば。あんた、あたしをなんだと思ってんのよ」
『こーしゃま、だいじょーぶー。たべられそーになったら、にげましゅー』
 ナギが決めちゃっなら、仕方ない。
 ちょうど、運動場の方からも「ゲームセット!」って声が聞こえてきた。喜んでるチームの顔を見る限り、俺のチームは、負けちゃったみたいなのだ。
「じゃあ、きつね。明日の一時に、学校の正門前に来れる?」
「わかったのだ。お昼ごはん食べたら、迎えにいくのだ」
「うん。それじゃ、また明日ね」
 それから、水原はナギを肩に乗せて、帰っていった。そういえば、水原と「また明日」って言ったのは、初めてだったかもしんないなー。



 あたしは、お母さんと住んでるマンションに戻ってきた。
『ここー、さちしゃんのおうちー?』
 肩に乗ってるカマイタチが、こっちを見上げてくる。帰る途中、何人かとすれ違ったけど、誰もこの子に気がついた様子はなかった。
 ナギっていう妖怪は、やっぱりあたしと、きつねにしか、見えてないみたい。
『ひの、ふの、みー。よん、かいー!』
「言っとくけど、全部あたしの家じゃないわよ。このなかの、一部屋だけだからね」
 ナギが、どれぐらいヒトのことを知っているかわかんない。けど、今の様子だと、家を大豪邸と勘違いしているみたいだから、一応釘をさしておく。
『じゃあ、みんなの、おうちー?』
「そういうこと」
 間違ってはいないので、一応、それで良しにする。
「えーと、鍵は……っと」 
 学校の鞄から、家の鍵をとりだした。
 今日は月曜日。時間は、お昼を少し回ったところ。朝ごはんを食べてから、なにも口にしてないから、お腹空いたなぁ。
(お母さんも今頃、職場で、お昼ごはん食べてるのかな)
 それでも、もしかしたら。
 毎日、心のどこかで、期待してる。
 先にお母さんが、家に帰ってるかもしれないって。
 この玄関の扉を開けたら、廊下を歩く音が近づいてきて、
「おかえり、幸」
 そう言ってくれるかもしれない。だから。
 家に帰って、玄関を開けた時、あたしは、必ず言うんだ。
「ただいまー……」
 でもやっぱり、返事はなくて。
 こんな時間に、お母さんが家に帰ってないってことぐらい、わかってる。
 わかってるって思って、ちょっと寂しくなる。
「……」
 夏休みなんて、いらない。
 一人でいる時間が増えるだけじゃない。
『おかえりなしゃーい!』
「……え?」
 あたしの肩から、ナギが、飛び跳ねた。
 玄関の靴入れの上に降りる。木彫りの熊の横に置かれた、小さな妖怪イタチ。
 こっちを見てる。しっぽを振って、笑ってた。
『ここー、さちしゃんのおうち、ねー?』
「う、うん」
『じゃあ、おかえりー!』
 胸が熱くなる。この前の、お祭りの「もやもや」は、怖いだけだったのに。
 優しい妖怪も、いるんだなぁ。
 体が、ぽかぽかしてくる。なんだか嬉しいな。こういうの。
「――ただいま、ナギ」
 今までずっと、おばけっていうだけで、見ないフリをしてきた。でも、きつねっていう男子のせいで、少しずつ、心が変わっていった。
 今のあたしは、妖怪のことを、もっと知りたいって想ってる。
 まだちょっと怖いけどね。それでもね。
 妖怪と、仲良くなれたらいいな。

 家に帰ってから、持っていた手提げ鞄を部屋に置いて、流しの前に立つ。エプロンをつけて振りかえると、テーブルの上で辺りを見回してる、ナギが目に留まった。
「ナギ、ごはん作るけど、食べる?」
『たべましゅー!』
 大きな黒い瞳を輝かせて、びしっ! と右手をあげる。
 何気なく時計を見ると、もうすぐ一時だ。
 油断してると、お腹の音が鳴っちゃいそうで困る。今日は学校の給食がなかったから、もうお腹ペコペコ。まぁ、朝礼と掃除しかなかったから、仕方ない。図書室に居残ってたり、きつね達の野球を見ていて、帰りが遅くなったせいだ。
「うーん……」
『すずしー!』
 冷蔵庫を開けて、中をじーっと見てたら、いつのまにか足元に、ナギがいる。
 そういえば、妖怪って、なに食べるんだろ。
「ナギってさ、食べられないものとか、ある?」
『たべられない、ものー?』
「普通のイタチなら肉食だと思うけど……チーズとかは、無理?」
『ちーず?』
「これなんだけど」
 真っ先に目についた、スライスチーズ。
 封を切って、机の上に置く。
『……きゅー?』
 ナギが、床から机の上に、ひとっ飛び。机の上に置いたチーズを、小さな鼻を動かして「ふんふんふん……」って様子を見てる。なんか、普通の動物っぽい。あっ、食べた。
『はうーっ!?』
「ど、どうしたの?」
『はぐはぐはぐーっ!!』
 急に大きな声をだすから慌てたのに。
 ナギは、夢中になって、チーズを食べ始めた。気に入ったみたいだ。小さな頭を撫でてあげると、嬉しそうに、鼻を寄せてくれる。
『さちしゃーん! これ、おい、しー!』
「乳製品は、大丈夫なんだね。他に、食べられないもの、ない?」
『たべられない、ものー?』
「なにかあるなら、先に言ってね。って言っても、お母さんがいない時は、火を使った料理をするのはダメだから。たいした物は作れないけどね」
『そうなんでしゅかー?』
「うん、お母さんとの約束だから。というわけで、朝の残りのお味噌汁と、野菜炒め、レンジで温めるぐらいになっちゃうけど、それでいい?」
『たべられないものー、たべられないものー?』
 ナギが、随分唸ってる。気軽に聞いただけなんだけど。
 頭を撫でて待ってたら、突然思いだしたように、顔をあげた。
『さちしゃん、なぎー、たべられないの、ありまちたー!』
「なに?」
『ひとー!』
「……安心して、誰も食べないから。食べちゃいけないから」
『ねー!』
 ナギが両手をあげて、万歳してる。こういうことを、冗談で言ってないところは、やっぱり妖怪なんだなって思う。そういえば、きつねも繰り返し、ナギのこと食べちゃダメだって言ってたし。
「まったく、もう。妖怪ってば、食いしんぼうばっかりねっ!」
 
 ナギとご飯を食べてから、一休み。そうしたら、次は晩御飯の準備だ。
 一人の時に、火を使うのはダメなんだけど、包丁を使うのは、去年やっと許してもらえた。野菜を洗って、盛り合わせた器を二人分用意して、冷蔵庫に入れる。それからニンジンとタマネギを細かく砕いて、タッパーに詰めておく。後はお米を研いで、お母さんが帰ってくる時間に合わせておけば、おしまい。
『さちしゃん、まいにち、ごはんつくってる、のー?』
「うん。お母さんお仕事で疲れてるから。あたしができることは、あたしがやらないとね」
『えらいでしゅねー』
「そんなことないわよ。それに……」
 あたしのお母さんは、心配性なんだ。
 忘れたことなんてない。こうして台所に立っていれば、思いだせる。

「おかーさん、さちもねー、おてつだい、するー!」
 小学生になった時、もうお父さんと呼べる人はいなかった。あたしは一年生だったけど、その時のお母さんが、どれぐらい大変なのか、わかってた。わかってたから、手伝えることは、なんでも手伝ってあげたかった。
「ありがと、さっちゃん」
 そう言ってくれる顔が、嬉しくて。
 でも一年生の時、まだお料理することに慣れてなくて、背も今よりもっと小さかったから、流しからこぼれてきた熱湯が、腕にかかって、火傷しちゃったことがある。
「――――幸っ!」
 お母さんが、あたしの腕を強く掴んだその時。熱くてヒリヒリすることよりも、怒られちゃうって思った。怖くて、ぎゅっと目を瞑った。それなのに、
「ごめん、ごめんね……っ!」
 涙を浮かべながら、あたしを抱き上げて、それから水道の蛇口を捻って、ずーっと、あたしの腕を水に浸してくれた。その時、思ったんだ。
「……心配、かけたくないから、だから、頑張らなきゃ」
 あたしは、お母さんが、大好き。
 お母さんみたいに、なんでも一人で、できるんだから。
 そうしたらきっと。お母さん、安心してくれる。
『さちしゃんー、やさしい、におい、ですー』
 肩に乗ってくる小さな妖怪。
 ナギが、ほっぺを、ぺろって舐めた。くすぐったい。
『こーしゃまの、おかーしゃまも、そんなにおい、なのー』
「……そうなの?」
『はいー!』
 きつねのお母さん。一度見たら忘れられそうにない、とっても綺麗な――妖怪。
「――――内緒にしておいて、頂戴ね」
 参観日の日に、頭の上とお尻に、黒いもやもやが見えた時、そう言われた。優しく微笑んでくれたその顔は、本当に綺麗で、思いだしただけで、ちょっと顔が熱くなる。
『さちしゃん、こーしゃまの、おかーしゃまと、あったこと、ありますかー?』
「うん、お話したことは、ないけどね」
 そう言うと、幸が小さく頷いた。
 どうしたんだろ。
『さちしゃん』
「なに?
『こーしゃまの、およめしゃまに、なりません?』 
「………………は?」
 えーと、今、あたし、なに言われ……………………。

 ぷしゅ~!


 夏の空でも、八時を回れば暗くなる。
 一人で居間の椅子に座っていたら、玄関の方から、鍵が差し込まれた音が聞こえてきた。
 読んでいた本を閉じて、席を立つ。
「おかえり、お母さん」
「ただいまぁ、さっちゃん! おかーさん、もうだめぇ!」
「お腹空いてる?」
「うん! とってもすいてるぅ! ぐ~きゅるるるるぅっ!!」
「じゃあ、火使っていい? 切った食材とご飯で、チャーハン作っちゃうから。冷蔵庫にサラダと、朝のお味噌汁があるからね。よかったら、出来あがるまで摘まんでて」
「あ~ん! なんていい子なのっ! おかーさん、全力で応援してるからねっ! ふれー、ふれー、さっちゃんっ!」
「うん、頑張って作るね」
 それから、ちゃっちゃとチャーハンを作った。
 食卓について、お母さんと一緒に、手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
『いただきましゅー!』
 昼間、失礼な発言をした妖怪が、ちゃっかり机の上にいる。さりげなく、べしっと払いのけて、
『あ~~~ん!』
 下に、落としておく。まぁ、すぐに戻ってくるんだけど。
『さちしゃ~ん! なぎも、おなか、すいた、のー!』
 大きな黒い瞳をきらきらさせて、あたしを見上げてくる。
「……まったく、もう」
 お母さんにバレないように、お皿の端を、スプーンでこつこつ叩く。そうしたら、すすすっと寄ってきて、小さな口で、作りたてのチャーハンを食べていく。
『おいしー!』
 もう、かわいいなぁ。
 この妖怪、ずるい。
「どうしたのー、さっちゃん。ご機嫌じゃない」
「えっ! あっ、うん、今日は上手にご飯ができたから。えへへ」
「ほんとよー! もう、えっくせれんとだわっ! あんびりーばぼー! ビバビバ~!」
「ありがとう、お母さん。ほっぺに、ご飯粒ついてるよ」
「いやん」
 恥ずかしそうに、ほっぺのご飯粒を取るお母さん。
 それから、食器を置いて、あたしを見た。
「さっちゃん、重大発表があります」
「はい、なんでしょう」
「おかーさん! 明日の朝一番で、出張に……いきたくありませんっ!」
「えっ?」
「こんなにかわいい一人娘がいるのに……あの、バーコードハゲがぁぁッッ!」
 お母さん、仁王立ち。
 なにもないところに、しゅっしゅって、パンチを繰りだしてる。
『な、なんですのー!?』
 ナギが、びっくりして、四つん這いになってる。
 お母さんの豹変ぶりに、警戒態勢だ。しっぽをブンブン振りまわす。
「お母さん、落ち着いて」
「うん、大丈夫! お母さん、いつでも、おーるぐりーんっ!」
「お母さん、深呼吸して」
「すー、はー、すー、はー……フゥーーーーーッ!」
「お母さん、はい、お水」
「くわーーーーーーーっ!!」
 だだぁん!
 ガラスコップに入った水を一気に飲み干して、それを勢いよく机に叩きつけた。
「明日五時に起きて、朝一の新幹線に乗らないといけないとか。もうもうもうっ! ふざけんな畜生ーーー! もぉーーーーーーーっ!!」
「お母さん落ち着いて……どうどうどうっ」
「さっちゃんと離れたくないーーーっ! なにかあったら、やだーーーっ!」
 涙で、うるうるしてる。
 大変だ。お母さんの心配症が、最高潮に達してる。
 あたし、また、心配させちゃってる。
「さっちゃん! 二人でズル休みしようっ!!」
「お母さん、ダメだよ。お仕事でしょ」
「……はうぅ……」
「あたしなら平気だよ。もう一人で、なんでもできるよ」
 ぎゅうって、胸が苦しくなった。
 あたしは、嘘ついてない。嘘ついてないけど、一人は、嫌だ。
 夜になっても、誰も帰ってこない家の中は、冷たくて、寂しくて。
「……幸、おかーさん、お仕事いってきても、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちゃんと夜は戸じまりするし、火も使わないよ。明日は晴れるから、お布団干して、それから部屋の掃除もしちゃうね。ご飯だけど、一日だけなら、スーパーのお惣菜とお弁当、レンジで温めて食べてもいいよね?」
「……さっちゃんっ!!」
 お母さんが席を立つ。ぎゅーって抱きしめられた。
「絶対、お嫁さんには行かせないわよーーーっ!!」
 ぎゅーってされると、ちょっと照れ臭いし、恥ずかしい。だけど、それ以上に嬉しかったから、そのまま、ぎゅーってされてた。
 寂しいけど、辛いけど、一人の夜は怖いけど。
 たった一日だけだもん。仕方がないよね。お母さん、お仕事なんだから。
 
 お母さんと一緒に、お皿の後片付けをして、ちょっとだけテレビを見た。
 それから、一人でお風呂に入って、着替えて、自分の部屋で一人、布団に潜った。
 扉がトントンってノックされる。
「おやすみ、幸」
「おやすみ、お母さん」
 返事をして、暗闇の中で、目を閉じる。
 すぅ、と一つ息を零した時だった。
『ふわふわー!』
 布団の隅っこが、もぞもぞ動いた。肌に触れて、ちょっと背中がぞくってする。
「ナギ、くすぐったいから、あんまり動かないで」
『さちしゃん、おかーさんのこと、だいすきなんでしゅね』 
「……え? あ、うん。あたしには、お母さんしかいないから」
『おとーさんは?』
「いないよ。前はいたみたいなんだけど、覚えてないや」
『そうでしゅか』
「うん」
 それから、ナギは、あたしのほっぺを少し舐めてくれた。
 気を使ってくれたのかな。妖怪なのに。
「ありがと」
 元々は、あんなに怖かった、おばけの妖怪。
 しっかり目を凝らせば見えたかもしれない「もやもや」を、怖いからって理由で、ずっと避けてきた。でも、今は違う。違うから、きっと、こうして見えている。
『さちしゃん。おひるにね、いったこと、おぼえてるー?』
「……お嫁さんの話なら、しらないわよ」
 言ったら、ナギが首を傾げて「きゅ?」って鼻を動かした。
『さちしゃん、こーさまのこと、すきじゃないんでしゅか?』
 言われて、顔が真っ赤になる。
 ぎゅうって、胸がしめつけられていく。
「あ、あのねっ、ナギっ! ……そーいうことは、気軽に言っちゃダメなのっ!』
『そうなんでしゅか? すきって、きいちゃ、だめー?』
「……ダメじゃ、ないけど……でもね。お嫁さんになるのは別問題っ!」
『そうなの~?』
『す、すきなだけじゃ、ダメなんだからねっ! ほ、ほかにも沢山、必要なものがあって……っ! そもそもっ、あたしもきつねも子供だから、今すぐには決められないっていうか……」
 あたし、なに言ってるんだろ。
 もう、ごちゃごちゃ言葉が混ざっちゃって、わけわかんない。
『そうなんでしゅかー』 
 撃沈しちゃったあたしに向かって、ナギは、なんでかしらないけど、得意気だ。
『それなら、こーさまのおよめさんー、やっぱり、なぎなのー!』
「……え?」
『なぎー、こーしゃまの、いいなづけ、なのですー!』
 布団からでて、むふんっ! と腕組みをしてみせる。
 あたしの目の前ににいるのは、イタチの妖怪。推定身長は、十センチ弱。 
「…………かわいー」
『きゅー!』
 よしよしって、頭をなでたら、ほっぺを舐めてくれるところも、かわいい。
「あのね、ナギはかわいいんだけど、きつね――光樹のお嫁さんになるのは、ちょっと無理だと思うわ」
『どうしてー?』
「だって、一応アイツって、ヒトの姿してるじゃない。これからどんどん大人になっていくし、ナギは、ヒトにはなれないでしょ」
『うーん……』
 ナギが、しょぼんって落ち込む。あたし、今、すごく嫌なこと、言ったかも。
「あ、あのね……っ!」
 慌てて布団からでる。
 なんか、さっき、きつねが……取られちゃうって思ったら、トゲトゲした言葉が、いっぱいでてきた。最低だ。
『ねぇ、さちしゃん』
「うん、ごめ――――」
『わたくしが、ヒトの姿だったら、コウ様のお嫁に、相応しいとおっしゃるのですね?』
「……ん?」
 黒くて大きな瞳が、見つめてくる。
 含むような、微笑み。
 吸い込まれそう。
「ナギ?」
『これより童の姿は、ヒトにも見える姿に変わりまする。けっして、驚かれてはなりませんよ。貴女のお母様に、見咎められたくはないでしょう」
「…………えっ?」 
 ナギが、くるんって、宙返りした。
 うっすらと、部屋の中に白い霧が立ちこめた。
 甘い香りが広がっていく。
 そして、内緒話をするような、囁く小さな声が。
 耳に、届いた。
「――――改めて、ご挨拶をさせて頂きます。わたくし、霊峰石鎚山より参りました、凪と申します」
 少し茶色の、細くて長い髪の毛。
 柔らかくって、微かに触れたところが、気持ちいい。
 日に焼けた肌。淡い桃色の着物が似合ってる、かわいい女の子。。
 やんわり、微笑んだ。
「妖怪ゆえに、字はありませぬが、天より神通力を承り、次代の、あやかしきつねのご当主であらせられる、光樹様の許嫁を命じられております―――以後、お見知りおきを」
 綺麗な着物をきて、ぴしりと正座をして、頭を下げられる。
 それを見て、パジャマ着てぽかんとしてる自分が、なんか恥ずかしくって。
「え……えぇと、こ、こちらこそっ!」
 なんて、同じように、慌てて正座して、頭を下げる。
「…………えーっと」
「うふふふふー」
 口元を、着物の裾で隠した、含んだ笑い声。
「幸様。驚かれました?」
「……驚いたっていうか、詐欺だわ」
「うふふ。それは褒め言葉ですわ。相手を騙し、驚かし、その慌てる姿を見て喜ばしいと思うのは、女と妖怪の、専売特許ですもの」
 ナギがまた笑う。なんか、すごく楽しそうなんですけど。
「それにしても、残念ですわ。幸様が、身を引かれるとは、想いませんでしたから」
「……え?」
「せっかく、良い競争相手が見つかったと想いましたのに。これではわたくし、遠慮なくコウ様を頂いてしまうしかありませんわ。なにせ、許嫁ですからね」
「……!」
 ナギの見た目は、あたしやきつねと、そんなに変わらなく見える。
 同じ小学校の子だったら、あたしは六年生相手にだって、物怖じなんてしたことなかったのに、今は、気圧されちゃってる。
「幸様」
「な、なによぅ!」
 陽に焼けた、二つの腕が伸びてくる。
 抱くように、顔を包まれる。
 ナギの顔と、笑う唇が、すぐ目の前にある。
「もう一度、よくお考えになって。時間は悠久に見えて、その実、限りなく乏しいもの。まだ子供だからと想って、お心を決めていなければ、一生分の後悔をされてしまうかもしれませんわよ?」
 透き通るぐらいに、きれいな黒い瞳に、あたしが映ってる。
 真っ赤な顔して、頭から湯気を「ぷしゅー」ってこぼしてる。
「べ、べつに……ナギが許嫁なら、それで、いいじゃないの!」
「いいえ。許嫁とはいっても、単なる形式上のものですわ。最後の決め手となるのは、コウ様のお心一つだけですよ。ですからね、幸様……」
 紅い唇が、耳元で、息を吹きかけてくる。
 くすぐったくて、どきどきする。
「もし、貴女が本心を告げてくださるのなら、わたくしは、コウ様の秘密を、貴女に伝えましょう」
「……その秘密って、学校できつねが、うっかり口を滑らしかけたやつ?」
「はい」
「どうして、知ってるの?」
「コウ様は、一番の秘密とおっしゃっていますが、霊峰、石鎚山に住む妖ならば、知らぬ者はおりませんので」
 ナギが、にっこり笑う。
 なんだか、胸がすごく、すごく、痛い。
「…………」
 あぁ、やだなぁ。
 ヒトが大事にしてる秘密を、聞くなんて。
 そんなの、あたし、大っ嫌いなのに。
 でも、目の前の「女の子」が知ってる秘密を、あたしが知らないことの方が、すごく嫌。そう思っちゃう自分も嫌で、苦しくて。
「……聞きたい、ですか?」
「うん……」
 きつねは、どう思うかな。あたしが、そんなこと考えたって思ったら。
 嫌われちゃうって思ったら、怖くなった。でも、それ以上に、知りたかった。

「それでは、お話致しましょう。しかしその前に、一つお聞かせ願えますわね」
「……なにを?
「幸様、コウ様のこと、好きですか?」
 黒い、二つの眼が、あたしをじっと見てる。逸らさない、逸らせない。
 顔が、あつくなる。心臓が苦しい。膝に乗せた手を、強く握りしめる。
「うん」




 


 
sage