Neetel Inside 文芸新都
表紙

滴草春子の正しい死に方
もしかすると最後の一冊

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 それから。健人に菜美という友人がいる事を知った春子は、それまで以上に足しげく健人の元を訪れるようになった。それこそ、雨の日も風の日も。月曜日から金曜日まで、一日も欠かさなかった週もある。明雄の手術が無事に終わり、とっとと退院してしまった後も、今度は堂々と健人のお見舞いとして病室に足を運んだ。
 その間、菜美と顔を合わせる事はあまり無かった。そこは流石に北高の受験生なのか、あまり時間が取れないのだろうと春子は解釈し、勝ち誇った。自分の方がより健人の事を想っている、健人に会うためだけにより多くの労力をかけられる。健人と知り合うのが遅かった分、それが春子の誇りとなった。
 やがて夏が過ぎ、秋が来た。夏の時と比べると自転車での移動もいくらか楽になり、それまでに増して意気揚々と馳せ参じるようになった春子に反し、それでもほとんど見掛ける事の無い菜美に対して、春子は優越感を通り越して軽い軽蔑の念すら抱くようになっていた。
(そりゃ、受験勉強が忙しいのは分かるけどさ。薄情な奴)
 春子はというと、一応道内の国公立大学に向けての勉強を始めていた。元々、勉学に関して言えばそこそこの成績は取っていた春子なので、特に拘らなければ基本的に問題は無いだろうと担任からも有り難いお言葉を頂いていた。
 ただ、空気を読んでか参考書を片手に健人の元を訪れるような事は絶対にしなかった。受験勉強をしたくてもできない人もいるのだから。すぐ傍に。
 明雄の使っていたベッドには新しい人が来て、健人よりも早く病院を出ていった。ひとり、ふたりと、その度に寂しそうな笑顔で退院を祝う健人の姿は、幾らなんでも目に毒だった。
 十一月。早くも雪は積もり始め、かつ、流石に受験を直前に控え春子も健人の元を訪れる機会は少なくなっていた。
 第三週の金曜日、この日春子は一週間振りに病室を訪れた。
「久し振り」
 健人はいつもと変わらず、笑顔で春子を出迎えた。閉じられた窓の外では粉雪が降っている。
 いつもと変わらぬ、他愛無い会話。それでも二人は楽しそうに笑う。――とは言え時折、どうしてもこの日持ってきた紙袋の中身が気になって、その笑顔が嘘臭くなってしまう事もあった。
「あ、あの……浅川くん。これ、頼まれた本なんだけど……」
 暫くして、春子は紙袋を健人に手渡した。
「ああ、ありがとう」
 健人は右手でそれを受け取ると、今すぐには封を開けずにベッドの傍に置いた。
「あの、それ……」
 春子は目を伏せ、言葉を詰まらせた。
「うん。逆に気を遣わせちゃったかな。ごめんね」
 健人が頼んだのは『死ぬまで生きたい』という感動系の恋愛小説だった。読めば必ず泣けると評判で、若い女性を中心に人気を博している。
「春子、今まで僕に気を遣ってこういう感じの本は絶対持ってこないようにしてたよね」
 こういう感じ。オブラートに包んだ表現が、逆に春子の涙腺を緩ませた。
「ありがとう。その気遣いが本当に嬉しかったよ。でも、どうしても読みたくなってさ。父さん達にはもっと頼みづらかったし」
 そう言って健人は気さくに笑った。右手で口元を隠して。
「……どうして?」
 春子は聞いた。健人は、その質問がある程度は予測がついていたかのように、少し間を置いただけで口を開いた。
「春子。僕はねえ、もうすぐ死ぬんだよ」
 月並みな表現かもしれないが、その言葉は春子の胸に深く突き刺さった。それでも、考えもしていなかった事ではない。春子は驚いたり表情を歪ませる訳ではなく、真剣な顔つきで後に続いた言葉に耳を傾けた。
「来週、退院だってさ」
 健人は呟くように言った。
「この意味が分かる? いわゆる、最後の瞬間は自宅でってやつだと僕は考えてるんだけどね。僕の病気がこんなに急に治る訳ないもん」
 返す言葉なんて、春子には無かった。
「だから……まあ、死ぬ前にはこういう話も読んでおこうと思って。家に帰ってからじゃ、何日生きてられるか分からないからね」
 一言一句。冗談の様に飄々と話す健人のトーンが、逆に真実味を帯びていた。
「春子もこれからは受験勉強に集中してね。今までお見舞いに来てくれて本当にありがとう。楽しかった」
 逐一春子の反応を待ったりせずに、健人は最後まで自分のペースを貫き通した。返す言葉の無い春子を、健人はその屈託の無い笑顔で見つめる。
 暫く。春子の主観で数十分にも感じられる数秒間の後、春子は口を開いた。
「怖い?」
「……あんまり。来るべき時が来たって感じ」
 春子は顔を下げていたので、両膝に乗せた拳に力が入っている事に自分で気が付いた。
「……もしかしたら、本当に完治したって事も……」
 こんな事を言えば健人を傷つける事になるかもしれないとは思いつつ、春子は言わずにはいられなかった。そして、初めて健人は言葉を詰まらせた。
「春子」
 春子は顔を上げた。
「……よく、漫画や小説なんかで『自分の体の事は自分が一番よく分かる』って言うでしょ」
 健人の話の意図が分からずに、春子は黙って耳を傾けた。
「あれは……、嘘だ」
 寒空に吹く風が、窓を叩いた。
「……自分の体が、今どうなっているのか分からない。春子の言う通り回復に向かっているのか、やっぱり限界が近いのか」
 途切れ途切れに。健人は少しずつ言葉を繋げた。
「分からない……。分からないんだ」
 春子の頬をゆっくりと、水滴が伝った。
「それが……、少しだけ怖い」
 外は大雪だった。

 ○

 ――春子が病室を出て行ってすぐ。再び扉が開いた。
「………………」
 中に入ってきたのは菜美だった。ゆっくりと健人の元に近付いてきて、傍の椅子に腰掛けた。
「また春子が帰るまで待ってたの?」
 菜美はこくりと頷いた。
「あの子……、好きじゃないもの」
「だからって。折角来てくれてるのに、こんな時間までただボーッと待ってるのも勿体無いのに」
 外はもう真っ暗だった。
「……あの子と三人でいるよりは良いよ」
 菜美は、初めて春子に会ったあの日以降もかなりの頻度で健人の元を訪れていた。春子が先に来ていた時は、帰るまで待つ。菜美が先に着いた時は、窓から外を眺めて春子が来たら帰る。春子が帰るのを待っていたら、面会時間が終わってしまった事も何度もあった。
「……毎回、こんな時間になっちゃってさ。勉強、良いの?」
 健人は申し訳無さそうに尋ねた。
「別に。……今は、どうでもいいの」
 菜美は前後に椅子を揺らしたりしながら、恥ずかしそうに目線を逸らした。
 幾らなんでも、『もうすぐ死ぬ』なんて言えやしなかった。

       

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