Neetel Inside 文芸新都
表紙

滴草春子の正しい死に方
最後の感情

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 春子の視線の先には、菜美宛ての封筒がある。
「………………」
 ばつが悪そうに、春子は視線を逸らした。
(小林、来ないのかな)
 春子は立ち上がり、窓の傍に行き外を眺めた。菜美の姿は見えない。後ろを振り返っても、病室にも誰もいない。
 ベッドに腰掛けたり、また立ち上がり窓の外を眺めたり、そんな事ばかりを暫く繰り返す。その間、菜美宛ての封筒は左手に握られたままだった。
 ため息をついた。
 もう一度だけ立ち上がり、外を見た。
 両手で封筒を持ち、息を呑んだ。
「………………」
 春子宛てのそれもそうだったが、単に手紙が封筒の中に入っているというだけで糊付けはされていない。だから、もし誰かが先に読んだとしても、痕跡なんて残らないだろう。
 春子は封筒を開くと、ゆっくりと中の手紙を取り出した。
 今度頬を伝ったそれは、涙ではない。自然と息を潜め、震える手で手紙を開く。
『菜美へ』
 春子は視線を下へ移動させた。
『今まで本当にありがとう。菜美がいてくれたお陰で、菜美と二人でいる事で、僕は自分の人生を本当に楽しく過ごす事が出来ました。本当に、心からお礼を言いたい気分です。ありがとう。』
 読み進める中で、春子は心臓の鼓動が激しくなってゆくのを自分で感じていた。
『菜美が向かいのベッドに入って来て、僕にとって初めての友達が出来ました。だから、あの時菜美が病気になってくれて良かったなと、時々そう考えてしまう事があります。こんな事を言うのは流石に自分でもどうかと思いましたが、最後なのでどうか許して下さい。』
 一言一句、健人の書き残した言葉から、彼の優しさが伝わってくる。春子は、泣きそうになるのをどうにか必死で堪えていた。
『もし菜美に出会って無かったら、僕は恋というものを知らずに死』
 瞬間、春子の中で時間が止まる。
 零れそうだった涙は一瞬で引き、心の芯がひやりと冷える。
 春子は一度視線を逸らした。だが、ここまで来て読むのを止めるという選択は春子の中には存在し得ず、結局またすぐに視線を戻した。
『もし菜美に出会って無かったら、僕は恋というものを知らずに死んでいったのだろうかと思うと、菜美に出会えた事は僕の人生の最大の幸運です。今まで、生きてる内にはどうしても言い出せなかったけれど、僕は菜美の事がずっと好きでした。もしもそんな事を言って、菜美が二度と会いに来てくれなくなったらと思うと、どうしても勇気が出ませんでした。最後まで自分の気持ちを伝える事が出来なかったのは残念ですが、せめて死んでしまった今なら、正直に自分の気持ちを知ってもらう事ができます。菜美の事がずっと好』
 春子の中のどす黒い感情が、それ以上先を読み進める事を許さなかった。
 涙は枯れ、心臓の鼓動も驚くほど穏やかだ。
 ただただ冷ややかな感情だけが、今の春子をなんとか支えている。
 自分の方が健人の事を愛していたのに。見舞いにも来ないような奴になんか、負けてる筈が無いのに。
 手紙を持つ両腕に力が入った。
 両手の親指と人差し指で手紙の上端をつまみ、それを交錯させるようにして上下させれば――。
(本当に?)
 本当に、自分はそれをやってしまうのだろうか。健人が菜美に残した最後の手紙を。
 微かに残る理性など、今の春子の前には無意味だった。

 シンプルな便箋に、亀裂が入った。

「…………!」
 一度指が動き出すと、その後は一気だった。
 一つだった手紙は二つになり、四つになり、八つになり、十六になり――。
 春子は、一心不乱に手紙を破った。原型を留めぬまで、どれ程その行為を繰り返したか分からない。
 暫くした後には、紙屑だけが両手の中に残る。
「う、うわあっ!!」
 一瞬、冷静を取り戻すと自分のした事が途端に怖くなり、投げ捨てるようにしてその紙屑をごみ箱の中へと放り入れた。
 息は乱れ、大量の冷や汗が額に溜まる。
 その時、後ろで物音がしたのを感じて扉の方を振り返ると、そこには小林菜美が立っていた。

       

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