Neetel Inside ニートノベル
表紙

何某の日常
トイレット危機

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雨降り。
教室はじめじめした空気を携えている。
「この等式についてだが…」
そして、教卓には、数学教師で担任の鳴海先生が、余剰定理について語っていた。
窓の外を眺めて、俺は思う。
早く止んでくれないかな。
雨の日が好きなら話は違うが、こういう日は、気分が沈むものだ。
そして、その気分に追い討ちをかけるかのように、

腹、痛い。

トイレ、行きたい。

今、俺は痛みをどうにか和らげようと、机の上でもだえている。

ある意味、人生最大級のピンチ、と俺は思っている。

事の発端は俺が寝坊したことから始まった。
朝、トイレに行く習慣だった俺は、バナナと牛乳でさっさと朝食を済ましてしまい、トイレにも行かずにそのままカバンを持って学校へ駆け出した。
泣き出しそうな空模様だったのにも関わらず、傘を持っていかなかったために、
家を出て2分もしないうちに土砂降りに遭い、
15分間の間冷水シャワーを浴び続け、
体中、びしょ濡れ。
それだけでもクラス中から弄られたのに、不幸は続く。
二時間目開始のチャイムが鳴り終わるのと同時に、下腹部に激痛が走った。
俺は、このまま授業中にトイレに行くということが出来ない人間。
耐えるしかない。
そう思い、今に至る。
始めのうちは気力があり、それほど気になる物でもなかった。
しかし…

授業開始16分経過。
時計の針がゆっくり過ぎていく。
1,2,3,4,5……
秒針を数えるたびに、憂鬱になっていく。
冷や汗が滴り落ちる。
11,12,13,14……
あああああ!!
だめだ、気が落ち込むだけだ。
『すいません、トイレ行っていいですか』
と一言言えば済むものの、言った後の気まずい空気も、嫌なのだ。
「もしかして、大の方か!」
などと言われるのも嫌なのだ。
どうする事も出来ないまま、耐え凌ぐしかなかった。
28分経過。
相変わらず秒針はその鈍い動きのまま。
「オイ、沢辺」
鳴海先生がこちらを睨んだ。
もしや、悟られたか……?
「こういう式の割り算ってのは、大変だよなぁ」
「……はぃ」
「だったら、こういうのもあるんだぜ」
そう言って、黒板に文字を書きつけた。
『筆算』
そう書いてあった。
「筆算!! これを、文字でも使えるんだよな、これが」
今の俺には、どうでもいい。
集中を途切れさせると、身が出てしまう。
マズイ。それだけはマズイ。
そんな俺にかまわず先生は言う。
「この式をこういう風に書いていくとだなー」
黒板に書き付けられる、カッカッカッという音。
ここはどうだとか、あそこはあーだとか、そういう講義が続く。
もう既に平静を装うだけの気力はほとんど残っていなかった。

……37分経過。
俺は既に、沈黙していた。
たかが10分弱のことだったが、
その間に、自分の座っているところが便器の上であるかの様な幻覚を3回見たし、
ひときわ強い痛みの波が5回押し寄せてきたし、
それに、死んだ工具店の爺さんが一回だけ見えた。
隣の人は、そんな俺の様子を見て、心配そうに、気味悪そうに俺を凝視していた。
……そんな目で俺を見ないでくれ。
そんなまなざしを向けると、変な感じで目が合った。
何故か目をそらせなかった。
授業終了まで、そんな気まずい空間を維持したままだった。
ようやく、授業が終了し、そこでよろよろと立ち上がる。
……が、
「おーい、沢辺ーっ!」
浅田が道を阻む。
「これ見てくれよ! 新発売のシャーペン!! かっこいいだろ!?」
どうでもいい。
激しくどうでもいい。
「そ……そうだな……」
俺はなけなしの気力を振り絞って、出来るだけ静かに言った。
「だろ? お前は」
「ホラ、アタシも買った!!」
浅田の言葉を切り、中島が飛び出してきた。
「あれ、こんな色あったっけ?」
「人気でどこ行っても売り切れだったのよ、4店目でようやく見つけたんだ」
どうでもいい。
果てしなくどうでもいい。
「……僕も買ったよ」
今度は渡辺が入ってきた。
「俺と同じ色だ! 良かったな!」
そう言って、浅田が身を乗り出す。
「なんだ、みんな買ってたんだ」
そういうと、俺の方を向いた。
「沢辺は、買った?」
どうでもいい、と思う元気も、
問いに答える元気も、残ってなかった。
俺が黙っていると、浅田ははっとした顔をした。
「お前、さては……」
買ってないから、さっさとトイレに行かせてくれぇ……
と念じる俺。
わずかな沈黙の後、浅田が口を開いた。
「…ウンコだな」
……なぜ、分かったし。

     


どうにかトイレへ行くことが出来る。
ここまで長かった……。
ような気がした。
そんな軽い安堵感を抱きながらトイレに行く。
個室の扉を見る。
……そして絶望した。
個室が全部埋まっているのだった。
一瞬、浅田が少し憎くなった。
仕方なく、下の階へ出向く。
この時点で相当腹に痛みが押し寄せている。
トイレに入る。
…絶望。
今度は個室に、人が並んでいて、ちょっとした列になっていた。
いや、なんで並んでんだよ。
そんなことを思ったが、俺には、どうでもいい事だった。
また仕方なく今度は1階へ降りる。
下腹部の痛みは、更なる高みへと登っている。
またどうせ並んでいるんだろう、と思ったが、
そうではなかった。
それどころか、二つある個室の、両方とも開いていた。
それを確認して、俺は、長かった……と心の中でつぶやき、
痛みからの解放へと向かっていった。

……不覚にも快感を覚えた。
痛みに耐えた後の幸福ほど、美味しいものはない。
そう確信できるほどだった。
ようやく呪縛から開放され、俺の心は幸せに満ちていた。
そして、その幸せは、俺が視線を移して手を伸ばそうとした瞬間、
見事なまでに砕け散った。

……紙がない。
なぜ2階で、列が出来ていたのか、その理由が、分かった気がした。

     

どうしようもない現実を突きつけられた。
そんな気分だった。
人っ子一人いないこのトイレ、ましてや、知り合いが入ってくることは、クラスが3階にあることを考えると、まずない。
紙がない。
もう一度、心の中で確認した。
なぜ2階が行列だったか、その理由が示すであろう事実は、この階には紙の「か」の字もない、と言うことだろう。
なぜ、確認しなかったんだろう。
後悔先に立たず、だ。
しかし、ここからどうにかして、危機を切り抜けなければ、本当にどうしようもない。
俺は考えた。
ティッシュがあるんじゃないか。
ポケットを漁るが、何も出てこなかった。
……。
さらに俺は考えた。が、
しかし、これはと思える妙案など、ろくに本も読まず、勉強も出来ないような俺に、浮かぶはずもなかった。
運に頼るしか、ないのか。
そう思いかけたが、すぐに思いを打ち消した。
考えろ、考えろ……
確か、トイレットペーパーはどこにあったのか……
皆目見当も付かない。訳でもない。
掃除用具入れのロッカーの中……だったような気がする。
単純な話、取りに行けばいい。
……という考えは、すぐに打ち消された。
いやいや、人が入ってくるかもしれないのに、どうして取りにいける?
むしろ、入ってきたら、その人に頼めばいい。
どうしようもない焦燥に駆られて、気持ちだけが焦っていた。
そこに、一人の人が入ってくる音がした。
「ふぅ~っ」
そういう声がした。
聞き覚えはない。
しかし、知り合いでないからといって何も言わないのは、
ただ、身を滅ぼすだけだ。
「おーい、そこの人」
自分でもびっくりするほど、よく通る声が響いた。
相手は、なんだこいつ、と言う空気をかもし出していた。
「はい?」
相手が聞く。
「紙がないんだけど、取ってくれないか?」
「あ、あぁ」
間の抜けた声を響かせ、相手は個室の扉の向こうでごそごそと言う音を出した。
「こいつか。よかったな、最後の一個だったぞ」
ほっ。
なかったらどうしようかと思ったが、どうにかあったようだ。
「じゃ、そっちに投げるからな」
相手は、それっ、と短い声を上げた。
瞬間、影が俺の頭上を通過し、そのまま俺の手に収まる。
と思いきや俺の手のさらに上を通過し、
そのまま便器の中へ。
ポチャン。
という音が響く。
あああああああああ!!
何でだ。何でこうなった。
というか、春の宿題といいこのトイレットペーパーといい、何でこんな超現象が立て続けに起こるんだ。
神様の馬鹿。
とすっかりブルーになっている俺の背後で、間の抜けた声が聞こえる。
「やっちまったなぁ」
どうしようもない現実。人生には必ず潜む、この突き放されたような感覚。
国語の授業でそんなことをのたまう先生がいたが、その感覚を、体で覚えることになった。
「こういう時、どうしたらいいと思う」
気づけば、扉の向こうの、名も分からない人に、声をかけていた。
「出来るけど、やりたくないことをするかな。こういう時はどーしようもないし」
適当な声が返ってきた。だが、声の中身は違った。
「例えばさ、普通ならそんなこと、絶対無理みたいなこととか……まぁ、がんばってよ。俺今から移動教室あるし」
そんなのんきな声を残して、誰かさんは去っていった。
また一人になって、考え始めた。
出来るけど、やりたくないことか……
そもそも、授業中に一声上げればどうにかなったかもしれないのに、
それをやりたくないで済ませて、このざまだ。
それを考えれば、仕方のないことかもしれない。
でもなぁ……本当にやってもいいのか?
いやでも……やらないとどうしようもないし、でもこれはどう考えても俺の許容範囲超えてるし……
『こういう時はどーしようもないし』
その時、その言葉が、俺の脳裏によみがえった。

その後のことは、思い出したくない。
俺の中で一生封印されることになるだろう。
あんな汚い思いは、もうこりごりだ。
二度としない。


またとある日の授業中。
女英語教師の柳先生が、長文の物語の概要について語っている時、
「先生」
「ん、何?」
俺は軽く息を吸い込んで、言った。
「――ちょっとトイレ行ってきていいすか」

     



人生は全て次の二つから成り立っている。 したいけど、できない。できるけど、したくない。
――ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ


したくないことやった後は次の二つから成り立つと思う。
人生の黒歴史になるか、人生の転機になるか。多分。
――沢辺直人

       

表紙

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Neetsha