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週刊!へーちょ主義
スキヤキにおけるシラタキの政治的立場

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 わたくし常々、シラタキには疑問を持っていた。スキヤキと見れば入り込む奴の態度に、釈然としないものを感じていた。マロニーや春雨といった同類もそうである。
 釈然としない理由ははっきりしている。
 わたしにはシラタキをスキヤキに入れるメリットがわからないのだ。
 そんなに美味しくないでしょう、あれ。
 こういうことを言うと、
「いやいやスキヤキには付き物だから……」
 とか、
「シラタキがないとスキヤキって感じがしなくて」
 などと言った反論を受ける。しかしこれらは全て、消極的賛成とでも言うべきもので、わたくしはシラタキが大好物でむしろ肉とか白菜とかいらないのでシラタキだけ食べていたいのですよ! というような意見はまず聞かれない。
 しかも、である。
 シラタキは肉が固くなるので、肉と隣接させて煮てはいけない、という作法は誰もが知っている。
 知っていながら尚シラタキを入れたがる。
 ここでわたしのシラタキに対する疑念は最高潮に達する。
 奴らはメリットがないどころか、デメリットですらある。肉から離して入れてね、ほらそこくっついちゃってるよほらほらとかなんとかそんな配慮をするくらいなら、最初から入れなければいいではないか! そうじゃありませんか!? え!? そこんとこどうお考えなんですか鍋奉行殿! バーンバーン!(机を叩く音)はぁはぁ……つい、興奮してしまったがわたしは強くそう思うんである。


 ここまで来て、ようやくシラタキ肯定論者から具体的な反論が現れ始める。曰く、
「食感にアクセントを加えるために重要である」
 しかし、である。シラタキの食感とはズルズルの食感である。
 しかるに昨今のスキヤキは、締めにうどんの投入が図られる場合が多い。
 そうなると食感はひたすらズルズルである。いわば大ズルズル時代の到来である。その大ズルズル時代の訪れを予見しながら、なおシラタキなどという小ズルズルに固執するのは形式主義というものではないのですか鍋奉行殿! バーンバーン!
 こうしたわたしの追及に耐えかねて、鍋奉行殿は他の参加者に救いを求める。すると不思議なことに彼らは、一様にわたしの方へ非難の目を向けるのである。
 鍋物とは政治的である。一つの公共物としての鍋を調理しつつ取り分けるという性質上、合議、とか共和、とかそういった言葉を念頭に置く必要がある。だから用意される具材も、多数意見を尊重して決定される。
 スキヤキにはちくわが欠かせませんな! などという人が一人いたとて、彼の意見が採用されることはありえないのである。逆もまた真。わたしのシラタキ不要論は、数の暴力によって潰されてしまう。
 この時わたしは宗教改革を強硬に主張したルター氏に思いをはせずにはいられなかった。カトリック教会の形式主義的な儀礼に反発したルター氏と同様、わたしの意見もまた、旧来の因習に固執する形式主義的スキヤキストに黙殺されてしまったのである。
 なんたる屈辱。
 なんたる無念。
 わたしは込み上げる涙を堪えながら、スキヤキの鍋をつつくのである。
 だがしかし、わたしの主張は、この後百八十度転換することになるのである。
 それは野菜が種切れを起こし、二度目の投下が計られた鍋に箸を伸ばしたときのことである。そのときわたしは電撃のようにシラタキがスキヤキ鍋内で持つ政治的立場に気づいたのである。


 先述の通り、その時鍋は二度目の野菜投下が計られたばかりで、白菜やネギや春菊はまだ煮えていなかった。キノコ類は、同席したうちの一人が部類のキノコ好きで、もはや種切れしてしまっていた。そうなると、箸をつけるべきは肉以外にないように思える。
 しかしながら読者諸氏もご存知のように、鍋物は不断の利害調整を余儀なくされ続ける駆け引きと交渉の場である。誰がどの具材に手をつけたか、皆それとなく監視しているのである。
 その中にあってわたしは、実はすでに三度も連続して肉に箸をつけてしまっていた。もし四度も連続して肉に箸をつけたら、こいつもしやもう肉以外とらないつもりなんじゃねっぺな!? と青森弁で罵られかねない。それどころか他の参加者が結託して、わたしを鍋にぶち込んで謀殺する可能性すらないとはいえない。もう、肉は取れない。しかし、他の具材はまだ煮えていない。八方塞であるようにも見えた。
 その時、わたしの視界に、あの半透明のシラタキが燦然と姿を現したのである! シラタキ氏は白菜の下に半分隠れつつ、かすかに、しかし確かにその存在を主張していた。
 そうか、いたかシラタキ。いてくれたか。わたしは安堵した。のみならず愛情をすら覚えた。先ほどまでのシラタキに対する義憤はどこへやら、颯爽とシラタキに箸をつけた。
 シラタキのぷりぷりした食感をかみ締めつつ、わたしは考えた。
 他の具材が次々と姿を消し交代していく中で、なぜシラタキはそこにいたのか。問題はそこである。
 先に述べた通り、シラタキ好きでたまらないという人はまずいない。それにシラタキは煮崩れないから、豆腐なんかのように不可抗力的に取り分けられるようなこともない。結果として一度煮えたシラタキは、長々と鍋に残留することとなる。
 ここにわたしはシラタキの政治的立場を見た。
 彼は邪魔者などではなかった。利害のぶつかり合いの緩衝材としての役割を、立派に果たしていたのだった。
 確かに誰も彼を喜び勇んで取り上げたりはしない。仕方がなく、箸をつけられる。


 しかし、それでいいのである。それが彼の仕事なのである。
 人間の世界にも、なんとなく面倒を押し付けられたりしてしまう人がいる。あいつにはあれくらいの仕事が適任だから、と人々は言い、決して大っぴらに褒められたりすることはない。しかしやがて彼がいなくなってみて初めて人々は、彼がいかに重大な役割を果たしていたかを知るのである。
 翻ってシラタキ。シラタキがスキヤキから突然姿を消したらどうなるか。わたしはそこに、修羅場の予感を見た。人々はひたすら肉を取り合い野菜を押し付け合い、のみならず罵りあい奪い合い、やがて激昂して煮立った鍋をぶっかけ合う世紀末的世界観が目に浮かぶ。
 でもシラタキがいてくれるおかげでスキヤキはそんなモヒカンヒャッハー的空間にならずに済んでいる。ありがとう、シラタキ。いてくれてありがとう。
 わたしの感謝をしってかしらずか、シラタキ氏はそ知らぬ顔で鍋の隅、割り下にまみれて艶々と光っていた。

       

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