Neetel Inside 文芸新都
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フロッピー・パーソナリティー
高瀬直太編 第12話「流星プラシーボ」

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  月曜日

 俺には時間が無い。体調不良で欠席する旨を学校に電話した後で、そう思った。
 今朝、血を吐いた。不思議と痛みは無かった。
 昨日はあまり眠れなかった。何度も途中で目が覚め、一晩明けても全身の気だるさが抜けず、食欲も殆ど無い。冷蔵庫の中にあった牛乳はなんとか喉を通ったが、やはり美味しくない。固体の物はどれも食べられる気がしない。ヨーグルトならもしかしたらと試したが、飲み込むと胃が暴れた。胃液が浅黒く濁っていたのだ。
 何か考え事をしようとすると、決まって頭痛がする。おまけに時折どういうわけか、身体を流れる血が泥水であるかのような、妄想とも錯覚ともつかない観念に捉われる。左腕が妙にむず痒い。
 これら原因不明の症状は重くなるばかりだ。じっと休んでいれば治るかもしれないし、治らないかもしれない。だがどちらにせよ、熱こそ無いが、この状態で歩き回ったり授業を受けたりするのは無理そうだ。また明日と言ってくれた三人には申し訳ないが、今はこの身体を休めることが最優先だろう。
 俺が焦燥感を覚えるのには、以上の体力的な理由もさることながら、経済的な問題もある。財布の中に残っているのは一万円弱。しかし小向の預金通帳は未だに見付かっていない。あるとすれば、机の錠付き引き出しの中か? よしんば見付けていたとしても、暗証番号を知らないから使えない。
 さて、これからどうするか。
 いや、どうしようもないか。病院へ行こうにも保険証が未発見だ。ちゃんと携帯しとけよ、小向。……とにかく、身体を横にしよう。どうせ寝るなら部屋に戻った方がいいのは明らかだが、階段を登るのも億劫だ。
 ひとまずリビングのソファに身を預け……ようとした矢先だ。
「だ、誰か、そこにいるのか?」
 素っ頓狂な声が自分の口から飛び出した。昨日の人混みで感じた、ねばつくような視線が近くにある。さっき、カーテンが揺れなかったか? 窓は開けてないから、風が入ったわけじゃないよな?
 しかしもちろん返事は無い。俺は重たい足で身体を支え、気力を振り絞って窓に近付いた。……誰もいない。それもそうか。こんな狭いところに人が隠れてるなんて、あるはずがない。
「気のせい、だよな?」
 半ば自分へ言い聞かせるように、半ば小向へ問いかけるように、呟く。そしてもう一度ソファに座ろうとして、また同じ視線を感じた。今度はドアの方からだ。どうして、さっきの視線の主がそっちにいるんだ? 瞬間移動か?
「……っ!」
 ドア向こうの廊下に目をやると、そこに人影を見つけた。それだけでも鳥肌ものだが、さらに恐ろしいことに、そこにいたのは利一だった。奴がこちらをじっと見つめている。俺は思わず後ずさり、テーブルに足を引っ掛け、尻もちをついた。肺が縮む。
 ……いや、待て。落ち着け、俺。俺、落ち着け。ここは小向の家だ。ひいては利一の家でもある。いくら奴でも、自分の家で、物陰から妹を凝視するなんてのはおかしいだろう。真夜中に堂々と忍び込んでくるような男だぞ。あんなふうにこそこそしているのはかえって不自然だ。
 深呼吸をし、改めてドアを見やる。そこに奴の姿は無かった。試しに開けてみても、台所まで探してみても、利一はいない。
 いない……よな? うん、いない。
 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、また別の疑念がもたげてきた。
「あれ、おかしくないか?」
 何故、いないはずのものが見える? どうして、あるはずのない視線を感じる? 見間違いや錯覚で片付けるには生々し過ぎるぞ。
 ダメだ、脳みそが熱い。
 俺は逃げるようにソファへ倒れ込んだ。未だに視線は消えないが、もはや抵抗する力も無い。目を閉じ、身体を丸め、ひたすら時間が過ぎるのを待つしか出来なかった。
 ……なあ、小向。お前、まさかとは思うけど、変なクスリとか、やってないよな……?


 夢を見た。高瀬直太なのか小向保世なのかは分からないが、自分の身体が暗い海の中を沈んでいく。水は冷たくも温かくもなく、もがいても、足掻いても、何の手応えも感じられない。
 そのうち手足を動かすことにも疲れ、ただただ沈むに任せると、自分の肌と水との境目があやふやになってきた。手足の先から順に身体が溶けて消えていく。胸の辺りまで溶けたところでもう一度危機感を覚え、最後の希望を託し、上だと思う方向へ力の限り腕を伸ばした。


 目を覚ましたときには、まるで溺れていたのを引き上げられたような心地だった。つまり、息をするので精一杯。心臓が速く脈打っている。気持ちが悪い。……寝ても覚めても嫌な気分だ。
 そこでふと、自分の右手が誰かに固く握り締められているのを感じた。そいつの顔を確認しようとしても、蛍光灯が逆光になっていて、すぐには分からない。一人ではなさそうだ。二人いる。……少し目が慣れてきた。
 茅と七後だ。茅は俺への心配と、俺が目を覚ましたことへの安心とがない交ぜになったような顔をしている。七後は、何故かポーカーフェイス。
「ホヨ、だいじょぶ? なんかうなされてたよぉ?」
「疲れているのは分かるけど、鍵もかけずに寝るとは無用心。それに、こんなところで布団もかけずに寝たら、余計に身体を悪くする」
 七後だったら、鍵を閉めてあってもどうにかして開けそうだけどな。でも何にせよ、ここに二人がいるということは、俺はインターフォンの音にも気付かないほど深く眠っていたらしい。ひょっとしたら二人が来てくれなければ、最後に伸ばした手を掴んでくれなければ、夢の通りに俺の意識は消えて無くなっていたかもしれない。本気でそう考えてしまうほど、思い返せばさっきの夢は真に迫っていた。
 連鎖的に、こうも思う。まさか小向はそうやって消えたのだろうか。重く苦しい身体の異変に耐えようとして、それを誰にも悟られまいとして、いつしか心にも大きな負担となって……そしてとうとう擦り切れてしまったのだろうか。
 もしそうだとしたら、俺もいずれそうなる危険性は高い。やはり無理をしてでも病院へ行くべきだったか。
「保世。お菓子を焼いてきたけど、食べられそう?」
 七後は、一言も発していなかった俺の目の前で手を振った。俺はテーブルに置かれている風呂敷包みに目をやる。菓子か……。朝よりは大分調子が戻ったとは思うが、どうかな。せっかく持ってきてくれたんだから、試してみるか。
「ちょ、ちょっとだけ、なら」
 しかし七後が風呂敷を開いたのを見て脱力した。普通、女子高生が「お菓子を焼いてきた」と言ったら、中身はケーキかクッキーのどちらかだと思うだろう。だがそこは七後と言うべきか。
 塩せんべい。しかもパッと見で三十枚以上はある。
 俺は手渡された一枚を一口、恐るおそるかじってみた。昨日に比べて味はしっかり感じ取れるが、それでも顎に力が入らず、飲み下すのが辛かった。
「ま、まだ、硬いものは、難しい、みたい」
「それでは、台所を拝借」
 七後は一度頷いてから風呂敷を掴み、塩せんべいの束を持ってリビングから出て行った。必然的に、茅と二人きりになる。珍しくあまり喋らない茅に、俺から話しかけてみた。
「美月、ちゃん。昨日、電話で、何を言おうとしてたか、思い出した?」
「え? あ、うん。そうそう。今日はそのこともあって来たんだ。由花も、ホヨになんか話あるみたいだったし」
 茅はどことなく緊張しているように見えた。何故そう見えたのかは分からない。……女の勘? とにかく茅の発言から確実なのは、二人がここに来た目的は俺の看病だけではないということだ。
「ど、どんな、話?」
「ん~、あとで言うよぉ。それよりホヨは、食べて元気出さなきゃ。でしょ?」
 茅まで質問を逸らすようになったか。今は時期を待つしかなさそうだ。相変わらず、後手に回らざるを得ない。
 俺がまた途方に暮れていると、七後が土鍋を持って戻ってきた。テーブルに置かれた土鍋はドロドロと白濁したもので満たされている。決してきれいな見た目ではないが、ほのかに甘くて香ばしい匂いが胃を程よく刺激した。
「せんべい粥。塩せんべいを細かく砕いて、水と牛乳を加えて火にかけた。冷めないうちに」
 そして七後は適量を茶碗に盛って渡してくれた。
「あ、ありがとう」
 食べ難かったせんべいが、ちょっと手を加えるだけでこうも身体に入っていくようになるとは驚きだ。七後が淹れた緑茶も喉に馴染む。美味しいというより、心地良い。
 俺が充足感に浸っている間、茅と七後は残りの塩せんべいをばりばり食べていた。
「ねぇ由花。なんか甘い物ないの?」
 せんべいに飽きたのか、茅はこんなことまで言い出す始末だ。対して七後は「こちらは私の手作りではないけど」と前置きして、自分の鞄から細長い包みを取り出した。
 紅白色の千歳飴。……何故?
「少子化の煽り。七五三の余り物。在庫処理」
「ぅわ、切実ぅ」
 茅は苦笑しながらも、遠慮なく千歳飴を頬張る。
「そういや飴で思い出したんだけどさ、由花。こないだの飴、ありがとねぇ。あれ舐めて頭の傷が治っちゃったんだもん。ほんとビックリだよ」
 そう言って茅は自分の後頭部を七後に向けた。たかが飴玉一粒が医療の限界を超えたことをまだ信じきれない俺は、七後に疑問をぶつけてみた。
「で、でも、本当に、おもい飴のおかげ、なのかな? 想いが叶うって、ただの、触れ込み、だよね?」
「おもい飴が願いを叶える要因は二種類ある。一つは流れ星」
「流れ星ぃ? それ、どゆ意味?」
 七後の回答の意味を、俺はすぐには理解出来なかった。茅も同じらしい。
「流れ星が現れてから消えるまでに、願い事を三回口に出せばその願いは成就すると言われている。もちろん、宇宙を漂っているだけのただの石塊が人の願望を満たすわけはない。だけど、この通説はある意味で事実」
 やはりよく分からない。
「えっと、由花? 結局、流れ星は願いを叶えてくれるの? くれないの?」
「くれない。しかし、願いは高確率で叶う」
 ますます分からない。
「願いを叶えるのはあくまで自分の力。いつ現れるともしれない流れ星が、姿を現すほんの一瞬に、願い事を決めて唱えるのは至難の業。それが出来る人間は、己の目標を常に定め持ち、大願成就に必要な信念と継続力、そして計画性と実行力を具え合わせた人間に限られる」
 そこで七後は一口、お茶を飲んだ。
「つまるところ、おもい飴も同様。あれを舐めきるまでの長時間、一つのことを想い続けられるのならば、その人にはそれを実現させるだけの資質があるということ。飴が無くても夢は叶う。……ちなみに高瀬は先日、世界征服とやらに挑戦したけど、ものの十九秒で失敗していた。曖昧で具体性に欠ける願いなら当然の結果」
 余計なお世話だ……っていうか、誰のせいだよ。
「そ、それは、いきなりスカートをめくられたら、誰だって……」
「え、スカート? なにそれ、直太くんってそんな趣味あったのぉ!」
 話に俄然食いつく茅。俺がスカートを穿いていたと思ったのか、それとも俺がスカートめくりをしたと思ったのか、いずれにせよ喜ばしくない誤解をされている!
「ち、違う、よ。由花ちゃんが、私のを、高瀬くんの目の前で……」
「え~、ずるい~。あたしも見たかったよぅ!」
「もう一つは、プラシーボ効果」
 やけにテンションを上げる茅を放置して、七後は続けた。
「詳しく説明すると時間がかかるから簡潔に述べる。プラシーボとは偽薬の意味。本来は薬でないものを、薬と偽って飲ませることで薬効があると思い込ませること。広義で言えば、思い込みが身体に与える影響」
「え、でもでも、あたしはほんとに傷治ったんだよ? 思い込みなんかじゃないもぉん」
「美月の解釈は誤解。この場合、傷が完治したという思い込みをしているのではなく……。思い込みという言葉に語弊があるのかもしれない。おもい飴を溶かしきった際、傷を治したいという想いの強さが肉体に作用して、実際に傷が治ったということ。これもまた、どれだけものを信じ抜けるか、本人の素養が大事」
 つまり、おもい飴はただの飴玉ということか?
「ところで保世、身体の調子は戻った?」
 飴の件は一段落したと思ったのか七後は、せんべい粥のおかわりをしている俺に顔を向けてきた。……確かに、気持ち悪さは随分薄れた。だが、簡単に全快するわけでもない。
「う、うん。でもまだ、少し、くらくらする」
「夜はしっかりと寝ている?」
「ね、寝てる、よ」
 寝ていると言うよりは、強制的に眠りに落とされている感覚だが。……あ、でも昨日はなかなか寝付けなかったな。
「最近、変な物を食べたことは?」
「わ、分からない」
「具体的にはどんな症状?」
「は、吐き気、とか、目眩とか。あと、胸が痛くなったり、身体が、急に重く、なったり……」
 七後の詰問が、まるで医者みたいになってきた。俺も患者らしく答える。
「生理はちゃんと来ている?」
「ぶふっ。ちょ、な、由花ちゃん。なんで、そんな……」
 お粥でむせた。いきなり何を言い出すんだこいつは、と思ったのが、当の七後はその細い目で真っ直ぐ俺を見据えている。茅はこんなときに限って口を挟んでこない。
「私は真面目に訊ねている」
 俺は気圧されて固唾を呑んだ。これは真剣な問題だったんだ。でも、それに気付いても、俺は正しい答えを知らない。適当に言うしか道が無い。
「……ある、よ。大丈夫」
「それを聞いていくらか安心した」
 本当かどうか分からない答えで、七後は安堵した。俺はいつまで、嘘を吐き続けなければいけないんだろうか。


「今日は帰る予定は無い」
 他愛も無いことを喋くって時間を過ごしてから、俺が二人に、家の人が心配していないかと訊ねたことに対する返答がこれだった。テレビではゴールデンタイムのニュースが、季節遅れの台風が明日には上陸するだろうことを報せていた。
「え、と、泊まるの?」
「最初からそのつもり」
「ホヨ~。徹底討論、今夜は朝までナマ女子高生だよ! たまには女の子三人で夜を徹して語り合おうよぉ」
「美月。その場合、私は途中で寝る。明日も学校はあるから。……あと、『朝までナマ女子高生』というフレーズは卑猥な響きがするから慎んだ方がいい」
「あぁん、由花ったらクール!」
 驚きを隠せない俺の前で、茅と七後の微笑ましいかけ合いが続いた。気が付いたら茅もいつもの調子に戻っている。それはいいことだが、いや、今はそれどころじゃなくて、どうしよう。確かに今のところ、茅からも七後からも、肝心な話とやらを聞いていない。長い話になるのだろうか。朝までナマ女子高生? いやいや、それこそどうでもいい。
 などと実の無いことを考えているうちにも時間は進む。無理に追い返すのも無理そうなのでそれは諦め、俺は七後が沸かしてくれた――小向の家なのに――風呂に入ってさっぱりすることに決めた。


 温かい湯に肩まで浸かって一息。いつの間にか、朝から続いていた身体の異常は大分弱まっていた。その原因には昼寝をしたこととせんべい粥を食べたこともあるだろう。だがやはり、心身共に衰弱していたこの状況下で、あの二人がわざわざ来て一緒にいてくれたこと自体が大きいと思う。
 それでもこうして独りになると、また陰鬱とした考えが染み出してくるのを止められない。俺は水面をぼんやりと眺めた。
 この身体は小向だが、俺は小向じゃない。茅と七後が身を案じている小向はこの身体の中にはいない。……いない? いや、違う。いるかいないかも分からないんだ。だが少なくとも、俺は小向保世じゃない。こんな当たり前のことを何度思い返しただろう。
 茅の底抜けた明るさには癒される。七後の親身な優しさには助けられる。だがそうされる度に、自分の取っている態度が、あいつらの厚意への裏切りであるかのように感じてしまう。俺は小向じゃないから。高瀬直太は昨日、力になると言った。悩みは誰かに相談しろとも言った。分かっている。何を? 分かっていない。誰が? ああ、頭がおかしくなりそうだ。
「ねぇホヨ、一緒に入ってい~い?」
 そのとき、茅の能天気な声と共に、風呂場の戸が急に開いた。

       

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