Neetel Inside 文芸新都
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フロッピー・パーソナリティー
高瀬直太編 第2話「ほつれた日常」

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  水曜日

 俺は茅の告白に対する答えを明確に出せないまま、登校路をとぼとぼ歩いていた。
 情けないことに、一晩考えたところで、結論が出ないものは出ないのである。
 茅と付き合うってのはわるい話じゃない気がする。仮にも相手は校内一、二位を争うほどの美少女だ。実際、茅に告白したけどフられた、という男は俺が知るだけでも三人はいる。実際はもっと多いだろう。
 そんな彼女が俺を狙って……、って言うと変だが、俺を選んだというのだから嫌な気はしないし、むしろ単純に嬉しい。でも何故だ。どういうわけか、簡単に承諾することに躊躇いを感じてしまう。据え膳食わぬは何とやらだが、そう簡単に割り切れるものではない。
 逆に、だ。逆に俺の中に茅と付き合えない理由があるのかと自問をしてみたが、これといったものが見付からないから不思議だ。既に他の女と付き合っているわけじゃなければ、誰か好きな相手がいるわけでもない。部活動もやっていないし、まだ受験勉強が忙しいわけでもない。
 自分でも何がしたいのか分からずに首を捻ってしまう。そもそも、茅はこんな俺のどこがいいと思ったんだ? その辺りを聞きそびれたな。
 第一、付き合うってのはどうすりゃいいんだ? ひょっとして俺が重く考えているだけなのか? 清く正しい男女交際の方法論は、みんなどうやって仕入れているんだ?
 そんなことで悶々としているうちに、もう学校へ着いてしまった。……なんか、急に足が重くなってきた。


 茅には呆れられるのを覚悟の上で、答えを出す締め切りを延ばしてもらおう。自分の優柔不断さにうんざりしながら、教室の戸を開ける。
 しかし教室内の風景は、俺が見慣れたものと少しだけ違っていた。いつもは俺が登校するより、必ず先に教室にいた茅の姿が、今日に限って見当たらない。鞄が無いから、ちょっと席を外しているだけのようには思えない。欠席なのか? 風邪でも引いたのかな? 何はともあれ、これで返事を先延ばしに出来てラッキー。……なんて不謹慎なことを考えている場合じゃない。
 さらに教室の入り口近くには数人の女子が集まっていて、その中心では小向が席に座って縮こまっている。周りにいる人間が口々に「ホヨ、どうしたの?」とか「ねえホヨ、何があったの?」とか言っているのが聞こえてきた。
 ちなみに「ホヨ」というのは小向のあだ名だ。「保世」の字の片方を音読みするとそうなる。「なんか雰囲気がほよほよしてるから」というよく分からない理由で付いたものでもあるらしい。
 それはそれとして、状況が掴めないのは周りの女子たちも同じようで、とにかく小向のことをなだめている。ただ事ではなさそうだな。
「小向? 大丈夫か?」
 何だかよく分からんが、放っておくわけにもいかない。俺も近付いて声をかけた。
「ひっ! た、高瀬、うっ、くん……」
 肩をすくめて俺を見上げる小向の様子は、明らかに異常だ。さっきから、こうして俺と顔を合わせている間も、ずっと手が震えている。それを抑えようとして自分の袖を掴んでいるようなのだが、殆ど効果が無いらしい。確かに小向はいつでもおどおどした動きや喋り方をしてはいたが、それはこいつの癖みたいなものだ。でも今日のは違う。何に対してかは分からないが、本気で怯えているようにしか見えない。
「うっ、わた、わたし……。ひっう、み、美月、ちゃん……。うっく、あ、あ、頭、ひっ、から、ち、いっ、血が……」
 頼りない唇から漏れるしゃっくり混じりの言葉から辛うじて分かったことは、小向の怯えと茅の欠席に関連があるらしいということだけだ。しかも頭から血がどうとか、どう聞いても内容が穏やかじゃない。この直後に担任の先生が教室へ入ってきて、そのままホームルームになったので小向から話を直接聞くことは出来なくなった。
 しかし少なくとも、茅が学校を休んだ理由については、先生の口から明らかにされた。
「クラス委員長の茅さんが昇降口近くの階段で転落しました。昨日の放課後のことです。その際頭を打って気絶し、怪我をしたので、そのまま病院に搬送されました」
 途端に教室内全体がざわめき立つ。俺も例外ではなく、反射的に事態を否定する言葉を呟いてしまった。振り向いて小向の様子を窺うと、こいつは相変わらず俯いたまま震えている。
「落ち着いてください、茅さんは大丈夫です。命に別状は無く、念のため検査入院をしているとのことです。皆さんも充分に気をつけてください」
 その後、先生は放課後の活動に関する諸注意をしてからホームルームを切り上げた。
 昨日あんなに元気だった茅が今、病院にいるということ自体がにわかには信じられず、俺はただ呆然とするしか出来なかった。


 授業中にも俺は、何度か小向の方を振り返って様子を見た。すっかり塞ぎ込んでいる。途中で何度か思いつめた顔でトイレに立ち、二十分近く戻ってこないこともあった。
 

 昼休みになって間もなく、七後は唐草模様の風呂敷を抱えてうちのクラスに来るなり、脇目も振らずに小向の元へ寄った。そして近くの席を借り、小向と正面から向かい合う形に座って風呂敷を開いて中の弁当箱を開けた。いつもならこれに茅も加わって三角形が出来るのだが、今日はそうならない。茅がどうでもいい話を始めて、小向が大袈裟に相槌を打って、七後が的確にまとめる。それが俺の知っている三人組の会話パターンだったのに、だ。
 七後は怯えている小向を慰めはしなかった。無理に立ち直らせようとはせず、ただ無言のまま弁当を頬張っていた。それが逆に親友を落ち着かせる結果になったのか、やがて小向はおそらく七後にしか聞き取れないほど小さな声でぽつりぽつりと呟いた。俺には小向の唇がわずかに動いていることしか分からない。七後はずっと、頷くことだけで返していた。
 七後が弁当を仕舞った後でも、小向は切れぎれに喋っていた。その口から出る言葉は、この世で七後だけが聞くことを許されているかのように思えて仕方がなかった。
 頭を打って入院している茅。それに関して気を病んでいる小向。俺はこいつらに何が出来る?
 ……気が付いたら昼休み終了の予鈴が鳴っていた。
 七後が自分の教室へ戻ったのと入れ替わりに、俺は小向に近付いていった。
「なあ小向。俺で良かったら、いつでも話は聞くぜ。七後には及ばんかもしれんが、俺だってお前の友達なんだからな」
 確かに小向の心情は、七後にしか打ち明けられないことかもしれない。だからといって俺が協力を惜しむ理由にはならないはずだ。やっぱり目の前で苦しんでいる人がいるのに、何もしないのは気分が悪い。
「……あ、あり、がとう。高瀬くん。でも、もう、だ、大丈夫、だから……」
 小向は俺の言葉を聞いていたのか、いなかったのか。数秒間無言で俺の目を見つめた後で、取り繕うように言った。昨日とは逆に、肯定する態度が否定を表す、そんな感じだ。 どうにも無力感を覚える。俺の接し方が下手なだけか?


 放課後になると七後は、昼休み時と同じくすぐにうちのクラスにやって来た。教室の入り口で細い目を首ごときょろきょろ動かすと、今度は俺に近寄ってきた。
「高瀬。……保世は?」
 言われて後ろを振り返ってみると、確かに小向の姿が無くなっている。近くにいたクラスメイトに確認したところ、既に荷物をまとめて出て行ったとのことだ。
「……だそうだぜ。追い駆けて呼び戻すか?」
「いや、保世がそうしたいのなら仕方がない。ある程度は予想していた。そこで高瀬、ものは相談」
「相談?」
「美月のお見舞いをしようかと思っている。私一人で行っても良いのだけど、やはりお見舞いは複数人が望ましい」
「そうだな。俺でよければ一緒に行くぜ。俺だって茅のことは心配だからな」
「高瀬なら快諾すると思っていた。あなたの言動は予測が簡単で助かる」
 それは……、褒め言葉として受け取っていいのか?
「行動を読まれ易いということは、そのまま他人から信用を得易いことの証。美徳」
 小バカにされているような気がしないでもないが、そこには目をつぶっておこう。とにかく職員室で茅の入院先を聞いてから、二人で昇降口へ向かった。


 病院への道すがら、通りかかったファストフード店から漂ってくる甘い匂いに刺激されて、俺の腹が鳴った。
「七後、昨日の飴持ってないか?」
「世界征服の夢なら諦めることを勧める」
「違うって。あんなの冗談だし」
「ならば友情価格で百八十円」
「金取るのかよ!」
「これは商売。二個目をロハで提供するわけがない」
 こいつは厳しいことをしれっと言うんだよな。とはいえ、俺が金出すより先に商品を渡してくれるところに若干の信頼を感じる。
「おもい飴を気に入ってくれたのなら6打入りの箱、送料税込み一万とんで八百円を着払いで送る。バラで買うより断然お得」
 商魂たくましい女だな。6ダースって、72個?
「そんなにはいらん。今日は昼飯食ってないんだ。昨日の飴は腹持ちがよかったから、晩飯までのつなぎにと思ってな」
「男のダイエットは見苦しい」
「俺はそんなヤワなことしねえよ。ただ……」
 昼休みでの小向と七後の姿を思い出しながら、俺は飴を口に入れた。
「茅は大丈夫かとか、小向を元気づけられないかとか、七後は聞き上手だなとか、三人組が早くいつもの調子に戻らないかなとか、そんなことばっかり考えてたら購買に行き損ねたんだよ」
 すると七後は俺の正面に廻って立ち止まり、普段より爪の先ほどは大きく開いた目で俺を真っ直ぐ見つめてきた。
「おっと、わるいわるい。まだ金払ってなかったな。二十円おつりあるか?」
 しかし俺が財布を出そうとポケットに手を入れると、七後は目を閉じて首を横に振った。
「代金はいらない。気持ちだけで充分」
「いいのか? 商売じゃなかったのかよ」
「商売とは信頼」
 そうか。どんな心境の変化か知らないが、タダで貰えるのなら貰っておこう。
「……高瀬になら、話しておきたい」
 立ち位置を俺の横へと戻した七後は、またアスファルトの上を歩きながら、ぽそっと呟いた。
「何を?」
「今日の昼休み、保世が私に話してくれたこと」
 一瞬、自分でも予期せず心臓が跳ねた。
「いい、のか?」
 七後は首を一回縦に落としてから、口を開いた。
「保世の口から聞いたことを要約して話す。昨日の放課後、美月が階段で足を滑らせて、頭を強打した。これ自体は高瀬も知っていると思う」
 ここまではホームルームで聞いた通りの話だ。
「実はその現場に、保世も居合わせていた。二人で一緒に帰ろうとしている最中のことだったらしい」
 ああ、昨日は茅と小向がショッピングに行く約束をしていたんだったよな。あり得る話だ。
「目の前で美月が意識を失ったこと。美月の頭から血が流れ出ていたこと。そして何より、自分が隣にいながら転落事故を防げなかったことが心に重くのしかかっている」
 それは……、確かにトラウマものだな。
「いや、待てよ。その場にいたってことは、いち早く先生とか救急車とかを呼びに行けたってことだろ? 逆に考えれば、小向のおかげで最悪の状況は避けられたってことにならないか? 命に別状は無いって聞いてるし」
「もちろんそうとも言える。でも簡単に割り切れるものでもない。……高瀬は中学時代の保世を憶えている?」
 いきなり昔のことを振られてもなあ。
「……あれ? あんまり印象に残ってないぞ。何故だ? これといったエピソードが出てこない……」
 確か、一年と三年のときは同じクラスだったんだよな。ん? 二年のときもそうだったか? よく本を読んでいるイメージはあったが……。友達のことをよく憶えていないって、俺、やばくないか?
「高瀬、罪悪感を覚える必要は無い」
 七後にあっさり考えていることを見透かされた。うう、俺、今どんな顔していたんだろう。
「当時の保世は努めて目立たないように振舞っていた。友人も私以外には殆どいなかった。記憶に薄いというのなら、それは彼女の願った通りだったということ。実際に私が見る限り、保世と高瀬は高校に入ってからの方がよく喋っている」
「それも……、そうだな。でもなんで?」
「詳しくは知らない。ただ保世がふとしたときに漏らした言葉によれば、目立つのが怖いとのこと」
 その割に、小向がブラコンだってことは俺でもちゃんと憶えているんだよな。これってかなり目立つ発言だと思うんだが、矛盾してないか?
「いずれにせよ保世がより社交的になれたのは、つまり自分の感情と言葉を発露することへの躊躇が弱まったのは、美月の存在によるところが大きい。彼女のおかげで保世の交友関係が広まったという点はほぼ確実」
「それは同感だ。茅は顔が広いからな」
「だからこそ保世は、美月が怪我したことに必要以上の責任を感じているし、万が一のことがありはしないかと恐れている」
 なるほど。ようやく今日一日の、小向の怯えた様子の意味が理解出来た。
「だったら、なおさら見舞いに誘えたら良かったな。茅の元気な姿を見たら小向の心配も晴れるのに」
「しかし、保世が一人になりたいのならそっとしておきたい」
 小向にとって一番の親友であり、聞き上手な七後がそう言うのなら、同意せざるを得ない。
「それもそうか」
 顔を上げると市立中央病院が見えてきた。


 受付で茅の病室を聞いているところで、隣にいた七後が、これから帰ろうとしている一組の夫婦と挨拶を交わしていた。さらにその後ろから来た中学生らしき少年とも一言二言話していた。気になったので廊下で訊ねてみる。
「七後、さっきの人たちは知り合いか?」
「あれは美月の両親と弟」
 道理で、三人とも俺を値踏みするような視線を浴びせてきたわけだ。でもまあ、親御さんはそこまで深刻そうな顔してなかったし、この分だと茅も大丈夫そうだな。
 実際に茅は、俺たちの心配を返せと言いたくなるくらいにくつろいでいた。二人部屋を一人で使って、上半身を起こしたままファッション雑誌片手に映画観賞をしている。テレビはともかく、まさかそのDVDプレーヤーは家から持ち込んできたのか? なんたる用意の良さ。
「由花ぁ、お見舞いに来てくれたんだ。直太くんも。うっれしいなぁもう」
 俺たちに気付いた茅は少しだけ姿勢を直し、満面の笑みで手を振ってきた。それに対して七後は安堵半分、呆れ半分の声で呟く。
「心配して来たけど、その必要も無かった?」
「あ、由花ったらひどいなぁ」
「まあ七後のは軽口にしても、重傷じゃなさそうで良かったぜ。血が出たって聞いてたからよ」
「うん、頭の後ろを五針縫ったんだ。恥ずかしいから見せらんないけどねぇ。あたしとしたことが足スベらせちゃうなんて、いやはや」
 茅はおそらく傷口があるであろう部分に手を回して、にかっと笑った。
 痛々しく巻かれた包帯に隠れて、見えない傷の大きさを想像してみる。五針って……、結構大きくないか? もしかして茅は、俺たちを心配させまいとして無理に笑っているんじゃないだろうか。
「直太くん? そーんな顔しないでよぉ。まるで直太くんの方が病人みたいじゃない。本当に大したことないんだよ。傷が残るかもとは言われたけど、せいぜい国民的アイドルになれなくなっちゃうくらいのことだしねぇ」
「え、え?」
 見舞った相手に心配された。また考えていることが顔に出たらしい。なんか恥ずかしくなってきた。
「高瀬の思考は読み取るのが容易」
 おまけに七後からもツッコミを入れられるし。
「それにお医者さんが言ってたんだけど、CTスキャンだっけ? それでも異常なかったって。二、三日もすれば退院できちゃうのです。だいたい、入院なんてのもおおげさなんだよね。うちのお父さん心配性だから」
「二、三日か……。意外と短いんだな」
「なになにぃ? ひょっとしてひょっとすると直太くんは、あたしがずっと入院してた方が都合いいのかなぁ?」
 茅はからかうような上目遣いで俺を見つめてきた。
「ち、違うちがう! ただ、あれだよ。小向がお前のことをかなり気にしてたから、もっと重くて長引くかもって思ってたんだ。そうだ、早くあいつにも元気な姿を見せてやれよ」
「……う、うん」
 何だ? 茅の顔が一瞬曇ったような気がしたけど、気のせいか?
「そっかぁ……。ホヨには心配かけちゃったね」
「そりゃあな。目の前で友達が転んで気絶したら、ショック以外の何ものでもないぜ」
「その……、ホヨはお見舞いに来てないの?」
 来てない、とここで正直に言うのは簡単だ。だがそれだとまるで、小向が薄情者みたいな印象を与えやしないだろうか?
「保世には心の安静が必要。万が一、美月が意識不明等の重体になっていた場合には刺激が強過ぎる」
 俺が答えに躊躇していると、七後が絶妙なタイミングでフォローを入れてくれた。こいつはこういうとき頼りになる。
「まっ、そうだよね。それじゃ直太くん。明日にでもホヨに、あたしは元気だから安心してって伝えといてくれるかな?」
「おう、任せとけ」
「あと、服選びはまた今度ねって」
「それは自分の口から言ってやれよ」
「そうだね。あ、二人とも座って」
「私は手洗いに行ってくる」
 背もたれの無い病院の椅子を勧められる。俺が腰かけると、七後は部屋から出て行った。
「そうだ。忘れないうちに、これ。今日の分のノートコピーしといたから。俺の字が汚いのは勘弁な」
 俺は鞄から数枚の紙切れを取り出して、茅に渡した。
「わぁ、ありがとぉ! さっすが直太くん、やさしいねぇ! だいじょぶだいじょぶ。あたしのよりきれいだよ」
 茅は感謝の言葉と共に笑顔を見せたかと思うと、そのまま今度は真顔になった。
「ねぇ、ところで直太くん? 昨日あたしが言ったことなんだけど……」
 今、この病室は俺と茅の二人きり。そして茅は昨日のことについて話を振ってきた。昨日と言えば……。しまった!
 今日までに返事しなけりゃいけないことも、その返事期限を延ばしてもらおうという情けないことをしようとしていたことも、今の今まで忘れていた。茅の見舞いに来たらこんな状況になるのは充分に予想出来たことなのに、すっかり失念していた。俺はバカか? うつけか?
「あれ……、やっぱり返事は急がなくていいから。いつでもいいから。……悩ませたみたいだったら、ごめんね」
 眉尻を下げて力なく呟く茅。
 意外だ。今すぐここで腹を決めろとでも言われるのかと思ったのに。どういうわけだ?
「うん。あたしもはしゃぎ過ぎたかなって、ちょっと反省してる」
「妙にしおらしいな。らしくないぞ?」
「ん、あたしもよく分かんないんだけど、そのこと思い出そうとすると魚の小骨が引っかかったみたいな感じがしてねぇ。ま、あたしもたまには自分の行いを省みちゃったりなんかしちゃったりするわけですよ。でも、も・ち・ろ・ん……」
 おそらく俺は、また心配顔になったのだろう。それを見た茅はニマッと口の端を上げて、神妙な面持ちから蠱惑的な笑みにシフトチェンジした。加えて入院着の襟に指をかけ、鎖骨を見せるように肩の上を滑らせる。
「直太くんの方から、あたしを欲しくて堪らないってのなら話は別だけどぉ?」
 いきなりの色仕掛けに驚かされ、俺はバランスを崩して椅子ごと倒れそうになった。
「お、お前、全然反省してねえだろ!」
「あっはっは、ざーんねん。でも、そういう純情なところもポイント高いぞ」
「男の純情を弄ぶなよ……」
「いいじゃん別に。だれかれ構わず迫ってるわけじゃないんだしぃ」
 茅はいつもの調子に戻っていた。うん、やっぱりこの方が茅らしい。……なんて安心しつつも、結局告白への答えは出せていないわけだし、俺がヘタレだという事実も変わってないんだよな。
「高瀬に悩んでいる顔は似合わない」
「おい七後、今のはどういう意味だ?」
 いつの間にか後ろに戻ってきていた七後は俺の質問を無視し、茅に手を差し出すよう促した。
 何が始まるのか興味津々の茅に、七後は無言のままハンカチを広げて表裏を返して見せる。俺から見る限り、特に変わったところはない。
 七後はそのハンカチを茅の掌に被せた。
「ここで呪文をひとつ。あぶらかだぶら、すったもんだのとっぴんしゃん。……深い意味を求めてはいけない」
 無意味な言葉を淡々と唱えられてもリアクションに困る。
 そして七後は指をパチンと鳴らしてから、ハンカチを取り除いた。すると茅の掌の上にはどこから出てきたのか、もうお馴染みのおもい飴がちょこんと乗っている。
 茅は自分が患者だというのに、しかもここが病室だというのに大興奮した。
「すっごーい! 由花ったら、こんなマジックもできるんだね! いつ出てきたのか全然分からなかった! ねぇ直太くん、これスゴくない?」
「ああ、確かに凄い。凄いけど……、七後ならこのくらいやって当然な気がして、驚くタイミングを逃しちまった」
 ちらっと七後に目を向けると、こいつは珍しく満足げな顔をしている。……さては、さっきトイレに行っていたのはネタを仕込むためだな?
 それから、七後は茅にせがまれるままに見事なマジックをいくつも披露してみせた。そしてその度に茅が廊下に響くほどの大声でリアクションするものだから、すぐに看護師がやってきて、俺と七後は病院から追い出されることになった。
 ……茅、お前はやっぱりはしゃぎ過ぎだ。あと七後、特殊技能を使うときはTPOをわきまえろ。


 家に帰るなり、お袋は俺の顔を見て「うちは男の子で良かったわ」と意味の分からないことを言い出した。問いただしてみると、どうやらこの界隈で、夜道を一人で歩いている若い女性が乱暴されるという事件が既に二、三起こっているとのこと。犯人は捕まっておらず、主婦間の井戸端会議ではこの話題が持ちきりらしい。
 お袋が言っている「男の子で良かった」というのは、「うちの子はそんな被害に遭う心配が無いから良かった」という意味だろう。そこで安心を覚えるのは、母親としてきっと正しい。
 だが一方で、仮に俺が、その事件現場に遭遇してしまったとする。そうなると俺は男として、今にも犯されそうになっているその女性を助けなければならない義務が、いや、義理が? 義務でも義理でも言葉としてしっくりこないな。……宿命?
 そう、男に生まれたからには、本当に困っている人間を見かけたら助けなければならない宿命がある。例え自分に命の危険があろうとも、だ。……それだけの気概があって、どうして茅に対して男としてビシッと返事が出来ないのかと自問すると、これまた答えに詰まるわけだが。
「母さん……。男は男でいろいろ大変なんだよ。それより、腹減った」
 多分、それとこれとは別問題だろう。


 夕飯を済ませた後は、湯船に浸かりながら考えを巡らせる。
 茅の怪我はまあまあ軽くて、早く退院出来るらしい。告白についても、ゆっくり考えればよさそうだ。小向には、今日の病院でのことを明日会ったときに話して安心させてやればいいだろう。七後……、あいつに関しては特に考えることは無かったはずだ。
 昨日と今日で大事件が起こったような気がしていたが、こうして落ち着いてみると大したことはなかったな。茅が退院さえすればまたいつもの生活に元通りだ。
 のぼせる寸前で風呂から上がり、タオルで髪を拭きながら自分の部屋に戻ってくると、ベッドの上で俺の携帯がチカチカ光っている。
 着信があったみたいだが……、見知らぬ番号。
 誰だ?
 ……いや、そんなに悩むことでもないな。どうせ間違いとか、怪しいワン切りとかだろう。大事な用なら、また向こうからかかってくるはずだ。

       

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Neetsha