Neetel Inside 文芸新都
表紙

フロッピー・パーソナリティー
タカオ編 第5幕「復活」

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 暗転。
 小向の部屋に戻った。雨音をアラーム代わりにして、全身を覚醒状態へ引っ張り上げる。金縛りなんかくそ食らえだ。
 今度は身体が動く。足を引け。上体を起こせ。腰に力を入れろ。高瀬直太には、利一を止める実力が無い。俺には、利一を止める言葉が無い。だが、たった三十秒ちょいならやってみせるぞ!
「ああぁあぁぁあ!」
 雄叫びと共に床を蹴り、利一へ直進する。体当たりで吹き飛ばそうとする試みだったが、こっちは小柄な女子で、相手は長身の男だ。わずかに体勢を崩すだけに留まった。
「ぐぁ!」
 直後、高瀬直太が小さな呻き声を上げた。振り下ろされたバールの先端が、その左肩に食い込んでいる。手遅れだったか? いや、まだ大丈夫だ。俺が体当たりをしなければ、この一撃は間違いなく脳天を直撃していた。それを回避出来ただけでも無駄ではない。
「……っ!」
 振り向いた利一と目が合った。その瞬間、反射的に「ごめんなさい」という言葉が出そうになったが、呑み込んだ。心と身体は相互作用している。これは俺の経験則だ。だからここで俺が屈したら、身体がそれを憶えて、小向の枷が余計に重くなる。それだけは避けなければならない。
「保世、危ないよ」
 またあの、梟の眼だ。何故それを俺に向ける? 最初この眼を見たとき、ここにはいない獲物を狙っていると思っていた。頭の悪い二人組や、高瀬直太を捉えようとしているのだと思っていた。だが、本当にそうなのか? 違うのか? どうなんだ?
 そんな奇妙な疑問が頭をよぎった刹那のうちに、利一の手の平が、俺の胸の真ん中にそっと当てられていた。しまったと思う間もなく突き押される。本人は軽くやっているつもりなのだろうが、結構な力だった。
 しかも、俺がもう再び利一へ接近するよりも、奴が体勢を整える方が早かった。正確に高瀬直太の右目を狙い、突きが繰り出された。
 ……なんとかこれは、高瀬直太が自力で避けてくれた。
 ホラー映画とかだとこういう場合、敵の武器が壁に突き刺さって、抜こうと苦心している隙に逃げるのが定番だが、利一にはそれが通用しない。奴の攻撃は必要最小限の動きでなされていて、高瀬直太に避けられてもバールの先端が壁にぶつかることなく切り返された。
 俺はその、二撃目を振るう右手を妨害するように掴みかかった。ほんの少しでもいい。軌道を逸らせて、致命的な一撃を防げさえすればいい。
 曲げられた一撃で、壁に穴が開いた。これで利一が、バールを抜くのにちょっとでも手間取ってくれれば儲けものなのだが、たかだか工具が壁に深く突き刺さるほど鋭利に作られているはずもなく、その期待は裏切られた。
 利一がバールを構える。次の瞬間、鈍い音がした。
 最悪の事態を想像したが違ってくれた。右腕を折られ、左肩を壊された高瀬直太が、頭突きを以て応戦したのだ。
「わるいな。つい、頭が出ちまった」
 さすがにこれは効いたのか、顎を打たれた利一はよろめいた。しかし判断力と反応力は鈍っていないらしく、この期に及んで申し訳なさそうな顔をする高瀬直太の額に、すかさずバールの柄でカウンターを見舞う。
 高瀬直太は呻き声すら上げず、仰向けでベッドに倒れ込んだ。
「きみは、実にしぶといね」
 利一は高瀬直太に詰め寄りながら、バールを高々と掲げた。

 それが振り下ろされる刹那、何かが砕ける音が響いた。そちらへ目を向けると、窓ガラスをぶち破った勢いに乗って部屋へ突入する、小柄な人影が映った。そいつが利一の胸板めがけて放った跳び蹴りは、体重の差を突進力で埋め、標的を後ろにある勉強机にまで吹き飛ばす。
 自らもバランスを崩して倒れるが、額に伝う雨水を拭うことなく立ち上がり、そのまま背を正して戦闘体勢を整えた人物は、言わずもがな。
「な、七後?」
 満身創痍で起き上がれそうもない高瀬直太が、首だけ動かして呟く。そう、待ちに待った七後だ。人生で最も長い三十四秒だった。
「ごめん、二秒遅れた」
 訂正。三十六秒だ。っていうか、玄関に鍵かかってるからって、直接こっちに来るとは恐れ入る。
「やあ由花さん。女性はもう少し、おしとやかな方がいいよ。それに、靴を履いたまま部屋に上がるのは感心しないなあ」
「お兄さん。女には、ときに見てくれを無視してでも成し遂げなければいけないことがある」
 背中を机の角に強打してもなお利一は、わずかに背をさする仕草をしただけですぐに立ち上がった。対する七後は、高瀬直太を後ろに控えて一歩も退かない。
「そこをどいてくれるかな?」
「断固として、拒否」
 七後の固い意志を前に、利一は二、三度瞬きをした。
「……まあ、いいや」
 そしてそう呟くなり、奴は高瀬直太への突進を開始した。七後は瞬時に反応し、みぞおちに正拳を叩き込む。
 次の光景はこれまた異常だった。人体の急所を正確に突かれたにも関わらず、利一の動きはコンマ数秒止まったに過ぎなかった。ゼンマイ仕掛けロボットの如く、その歩みを止めない。七後がいてもいなくても「まあ、いい」ということか。
 しかし七後も怯みはしなかった。自分を無視して横を過ぎようとする利一の腕を取り、身体を捻って真下に投げ落とす。体育の授業で見た覚えがある。体落としという名前の技だったか。七後はいささかの躊躇いも無く、そのまま床に這いつくばらせ、右腕を掴んだまま背に乗った。警察官の犯人制圧映像並みに鮮やかな動作だ。もし利一が暴れようとすれば、間違いなくその腕を折るだろう。
「保世、もう何も心配はいらない。だから、目を覚まして」
 七後は俺に目をくれた。俺は大きく頷き、交代の合図を、魔法の呪文を呟いた。

 あぶらかだぶら、すったもんだのとっぴんしゃん。


    *


 暗転。主役交代。
 俺は今、小向が眠っていた毛布を膝にかけ、ベンチに座っている。舞台の上にいるのは、利一と高瀬直太、七後と、そして小向。ちなみに茅はどこにもいない。
 舞台はさっきの無味乾燥で何も無い空間とは違い、小向の部屋の中を再現した形になっていた。再現というよりは、現実の光景がそのまま浮かび上がっていると表現するべきか。俺はそれを、やや遠巻きに見ている。小向が言うところの、もう一人の小向にでもなった気分だ。
 それはさておき、正直に言って俺にはまだ、利一が話の通じる相手かどうか分からない。だがもし、万が一、単純な力に頼らず利一を止めて無害な人間に治す方法があるとしたら、それが出来るのは小向しかいないだろう。
 ……本当に可能なのか?
 いや、信じよう。小向が俺たちを信じて助けを求めたのだから、俺も小向を信じよう。やるだけやったはずだ。
「お、お兄、ちゃん?」
 だから今まさに利一が、七後の関節技から無理に逃れようとし、骨の折れる鈍い音を雨音に混じらせたとしても、どう動くかは小向次第だ。
 まさか利一がここまでやるとは予想外だったのか、さすがの七後にもわずかな戸惑いが浮かんだ。その瞬間に利一は強引なまでの力で立ち上がる。背中の七後が振り落とされ、握力を失った右手からバールが抜け落ちた。
 ……改めて思う。こいつは化け物か?
「や、やめてよ。お兄ちゃん」
 それでも小向は恐怖に打ち克とうと拳を固め、制止の言葉を投げた。
 しかし、奴は小向へ意識を移さない。左手でバールを拾い上げた利一の視線は、利一の視線は……どこに定まっているんだ? ずっと高瀬直太だけを見ているのかと思ったが、違う。だからと言って、小向や七後に目を向けているわけでもない。割れた窓の辺り、誰もいないはずの中空を眺めている。
「お兄ちゃん? ねえ、聞こえてる? ……お兄ちゃん?」
 多分、聞こえていない。微動だにしていない。話を聞く体勢としての不動ではなく、傍目にはいつ爆発するか分からない時限爆弾としての静まりだ。
 だからこのとき小向は、苛立ちと焦りと怒りと使命感とが膨れ上がり、遂には恐怖を上回って溢れ出したのだろう。利一が改めて高瀬直太への距離を詰めようとしたときには、既に次の行動を起こしていた。
「お兄ちゃん、聞こえてるの? 聞こえてないの? どっちなの? 返事をしてよ、この****! わたしは真剣なんだよ!」
 俺は我が目を疑った。それはおそらく七後と高瀬直太も同じ気持ちだっただろう。何故なら小向は今、大きくて鋭いガラス片を拾って逆手に握り締め、自分の首筋に当てているからだ。奇行とも言えるこの行動を、七後は声を上げて止めようとするが、小向本人にはそれを気に留める余裕も無いようだ。
 そして利一はここでようやく妹の訴えに気付き、その必死の形相――七後が言うところの、見てくれを無視してでも成し遂げようとする姿――を認めた。利一の眼が、心優しい青年のものへ戻ったように見えた。
「保世、何をしているんだい? そんなことをしたら危ないじゃないか」
「近寄らないで!」
 小向は声を一層荒げ、ガラス片を突き立てた。あとわずかでも力を入れれば、鋭利な先端はその柔肌をぷつりと裂いて血を滴らせるだろう。
「……お兄ちゃん。話を、聞いて。ずっと……訊きたかったことがあるの。どうしてお兄ちゃんは、わたしに付きまとうの? どうして、そんな簡単に人を傷付けられるの?」
「僕はただ、保世を守ろうとして」
「わたしは、そんなこと、望んでない!」
 利一の言葉を遮り、小向は喉を枯らすほどに激情を吐き出した。

「高瀬くんは、わたしをいじめたりなんかしないよ! ……いつだって高瀬くんは人に優しくて、他人のためだったら自分がどうなったって構わないって思ってるほどいい人で、ちょっと鈍感で肝心なことに気付かない困ったところもあるけど、わたしは、高瀬くんにはすごく助けられたんだよ。それなのに、どうして高瀬くんが酷いことをするなんて思えるの? 高瀬くんだけじゃない。塩田くんのときもそうだった。塩田くんは人見知りだったわたしに、初めて優しく声をかけてくれた男の子だった。男の子と喋るのが怖くて仕方がなかったわたしに、そんなことはないって教えてくれたのが塩田くんだったんだよ。ちょっとがさつで強引なところもあったけど、わたしはそんな塩田くんが好きだった! それなのに、それなのに、それなのにお兄ちゃんは塩田くんを! 六年前の夏祭りのこと……お兄ちゃんは憶えてる? わたしは一日も忘れたことはなかったよ。わたしはあのとき、無理やり迫られて嫌がってたわけじゃなかった。ただ、初めてのことで緊張して、縮こまってただけなの。それより、怖かったのはお兄ちゃんの方だよ。どうしてあそこまで簡単に、黙々と人を殴れるの? わたしはあのとき、本当にお兄ちゃんが怖かった。怖くて、足がすくんで、声が出なかった。あのときわたしは、こう言いたかったんだよ。『やめてよ、お兄ちゃん。塩田くんを殴らないで。塩田くんはわたしに酷いことはしないよ』って。でも出来なかった。それで塩田くんは大怪我をしてしまった。それはわたしのせい。だからわたしは償いも込めて、今日ははっきり言うよ。百倍の勇気をもらったから。高瀬くんをこれ以上、塩田くんみたいにさせたくないから。……もうやめてよ、お兄ちゃん。その手に持ってる物を捨てて、高瀬くんを殴らないで。高瀬くんは、わたしに酷いことをするはずない! だからお兄ちゃんは、首を突っ込んでこないでよお! ……はあ、はあ、あは、ようやく言えた。これで、ちょっとは許してくれるかな、塩田くん? えへへ……高瀬くん、ごめんね。こうなる前に、もっと早く言えてたら、そんな怪我しなくてすんだのに、ごめんなさい。…………。……それとも、違うのかな? お兄ちゃんは、塩田くんや高瀬くんが、わたしをいじめる悪い人じゃないってことを分かった上で、やってたのかな? ああ、そうかも。そうだよね。お兄ちゃんは、わたしを独り占めしたかったんでしょ? わたしが他の男の子と仲良くするのが嫌だったんでしょ? わたしに近付く男の子が許せなかったんでしょ? でも、もしそうだったとしたら、それって本当に酷くて……気持ち悪いよ。真夜中に部屋へ入って来てメールを覗き見るのも、なにかにつけて一緒にお風呂に入ろうとか言い出すのも、気持ち悪過ぎる。わたしだって、わたしだって……年頃の女の子なんだよ! 自分の部屋には誰にも見られたくない物だって置いてあるし、高校生にもなってお兄ちゃんとお風呂になんか入りたくないの! シャンプーが目に入るからって、お兄ちゃんに洗ってもらってた幼い頃のわたしとは違う。電球の切れた暗い階段を上るのが怖いからって、泣きついて手を引っ張ってもらってた幼稚園児とは違うのよ! 歯磨きは朝晩二回欠かさないし、朝早く起きてお弁当の用意だって出来るわ。掃除はフローリングを傷めない磨き方を分かってるし、洗濯も色落ちや型崩れしない方法を知ってる。一人じゃなんにも出来なかった昔と同じだなんて思わないで! それにね、休みの日に着る服や、下着も、ちゃんと自分で選んで買ってるの。たまに可愛いアクセサリーを見かけたら、それを着けて鏡の前に立ってる姿を想像して、頬を弛ませたりするの。でも、だけど、そこにいるはずがないって分かっていても、お兄ちゃんの視線を感じるの。可愛い服を見て、わたしにも似合うかなって思うと、すぐ後ろにお兄ちゃんがいるような気がするの。『保世、そんな人目を引くような格好をして、何をするつもりなんだい?』って言われているような気がして、怖いのよ! ううん、分かってる。それはわたしの心が見せる幻だよね。本当に後を尾いてきてたことがあるかもしれないけど、半分くらいはわたしの幻覚だよね。でもそれが拭えないの。いるはずのない場所や、暗がりの中に、お兄ちゃんの姿が見えるんだよ。どうしてお兄ちゃんは、いつまでもわたしにこだわるの? 外で友達と遊んだり、彼女を作ったりしないの? お兄ちゃんだったらそれくらい簡単でしょ? ねえ、もう、わたしを解放してよ。お兄ちゃん……わたしを守るとか、もうそんなことを言わないで。重た過ぎるの。お兄ちゃんの影がまとわり付いて、気持ち悪いの。酷いときには、生きているのも嫌になるの。もういや、そんなのいや。わたしは、自分がたった一人で生きていけるほど強い人間だとは思わないよ。だけど、お兄ちゃんだけに守られて、支えられているほど……弱くもない! 今のわたしには、孤独を和らげてくれる友達が、一緒に水着を選んで海へ行く友達がいるの。わたしは幻覚なんかに捉われないで、心の底から笑ったり、泣いたりしたいの! 好きな男の子の、傍にいることに、後ろめたさを覚えたくないの! だから、お兄ちゃん、わたしに、構わないで! わたし、を、自由にして! わたしは、もう! 泣き虫で、甘えんぼで、独り、ぼっちの、保世じゃあ、な、い!」

       

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