Neetel Inside 文芸新都
表紙

フロッピー・パーソナリティー
タカオ編 第6幕「オセロ」

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 最後の方は、息も途切れ途切れになっていた。しかしそれは、普段の小向が喋っていたような吃音ではない。怯えによって絞られた弱々しさは無い。むしろ逆に、力強さの発露だ。小向の小さな喉と口では制御出来ないほど、胸の内から、腹の底から噴き出す言葉と感情が大きいことの証だ。
 肺の空気を余すことなく吐き出した小向は、握っていたガラス片を首から離し、床に叩きつける。さて、小向は言うべきことを言った。利一がどう反応するか、それが問題だ。
「……それは、本当なのかい?」
 奴は小向を真っ直ぐに見詰めた。
「誰かに言わされているわけではなくて、それが保世の、本当の気持ちなのかい?」
「こんなこと、こんなときに、冗談で言えるわけがないでしょ!」
 肩で息をしていた小向は、再び胸に息を溜めて一喝した。対して利一は両腕を力無く垂らす。
「……そうだったのか。それじゃあつまり……」
 奴は首をわずかに回し、また誰もいない空間を見詰めた。
「保世も、僕と同じだったということかな?」
 同じ? 何が同じなんだ? こいつは一体、何を言いたいんだ?
 ……まさか、まさかとは思うが、そういうことなのか?

 昔から保世は引っ込み思案で、僕に甘えてばかりだった。
 お兄ちゃんがああなってしまったのは、きっとわたしの甘えのせいです。
 どうしてわざわざ遠くの高校を選んだのでしょうか。
 いつでも、どこでも、お兄ちゃんがわたしを見張っているような気がします。
 わたしはもう、お兄ちゃんの考えていることが分かりません。
 わたしにとって笑顔とは、仮面なのです。
 もしお兄ちゃんとわたしが本当の兄妹じゃなかったら、そのときは何の気兼ねもなく、あの人を嫌いになれるのに。
 所詮わたしは、小向利一の妹なのです。
 小向の兄貴って、本当に俺を見てたのかなって気がしてさ。
 保世のお兄さんが、精神にある種の異常を抱えているのはほぼ確実。
 あれもまた、どこにでもいる血の通った人間の一人。

 空いたパズルのピースが埋まるように、利一の発言に整合性を持たせる情報がフラッシュバックしてきた。
 小向保世は、小向利一の妹。
 逆に言えば、小向利一は小向保世の兄。
「お兄ちゃん……それ、どういう意味?」
 当然の疑問を、小向が口にした。利一の顔には若干の険しさが浮かんで見える。
「僕も本当のことを言うよ。僕には、見えるんだ。そこにも、保世の姿が……。ああ、どこから話したらいいのかな? 父さんと母さんが仕事で家を空けて、僕が保世の面倒を見ることが多かったよね? あの頃は保世も、僕にべったりだった。僕は『良いお兄さん』であろうと努めた」
 再び小向に目を移した利一の答えは果たして、俺の想像を裏付けるものだった。
「でも、それがだんだん嫌になっていったんだ。保世のことを気にかけたり、世話をしたりするのが、負担になっていった。僕にだって、家のことを放って遊びたいと思うことがあった。いっそ、突き放してしまいたかった。だけど、何の疑いもなく僕を頼ってくる小さな妹を見る度に、僕がしっかりしなくちゃいけないと思った。同時に、一瞬でも可愛い妹を見捨てようとしたことが情けなくって、申し訳なくって、自分が浅ましい人間だと思うようになったんだ。それが……毎日、毎日、繰り返されていた」
 即ち、止め処なく増殖していく罪悪感。利一がそれに蝕まれていたとしたら……。
「僕が中学校に上がって、保世とは学校も離れて、ようやく自由になれたと思った。少なくとも、学校にいる間は保世のことを忘れられると。でも、そんな悪いことを考えていたから、罰が当たったんだろうね。……中学校でも、保世の影がちらちらと見えるようになったんだ。もちろん、そこに小学生の保世がいるはずないのは分かっていた。だけど、怖くなった。それは媚びるような、助けを求めるような目で訴えかけてきた。『良いお兄さん』としての務めを逃れたいと思っている僕の心が見透かされて、行動の一つひとつを見張られている感覚が、肌にへばり付いて離れなくなった」
 妄想、幻覚、思い込み。普通だったら、一週間も前の俺だったら、そんなものは頭のおかしい奴の戯言だと一蹴していたかもしれない。
「塩田君、だったかな? 彼のことは、保世をいじめるような人間じゃないことは分かっていたよ。それどころか、彼が僕の代わりに保世を支えてくれるのなら、その方が楽でいいとさえ思っていた。なのに……どうしてだろう。保世の幻に見詰められると、耳鳴りがして、何もしないでいることが怖くなるんだ自分の行いが度を越していると自覚していてもね」
 小向は塩田の一件以来、利一に対する拒否感を抱くようになった。だが、それを態度に表さなかったことが悲劇を加速させていく。
「保世は、塩田君にあそこまで大怪我させた僕を、大好きだと言っていたね。普通だったらあり得ないよね? そのときから僕にはもう、保世が何を考えているのか分からなくなった。恐ろしくなったんだ。だから高校は遠くへ行ったし、大学へ進む際には家も出た。だけどそれは失敗だったのかもしれない。保世のいないところでは頻繁に幻覚が現れたから。保世のことを、まるで冥府魔道へ誘う魔物みたいに感じる日もあった。気にしないでいられれば良かったのだろうけど、それも出来なかった。保世は、僕の妹だから。……この際だからはっきり言うよ。もし本当の兄妹じゃなかったら、僕は、保世のことを嫌いになっていたかもしれない」
 なんてことだ。この兄妹はまるで、互いの尾を呑み合う二匹の蛇だ。堂々巡りの苦しめ合い。二人はずっと、相手の幻に脅かされて、正常な判断力を失って、肝心の現実と向き合うことが出来なかった。小向の身にとり憑いた強い罪悪感と、それに伴う肉体的な症状。もしそれが心の病だと言っていいのなら、利一もまた同じ病に蝕まれていたということになる。
「お兄さん……」
 膝立ちになり、いつでも跳びかかれる体勢に直った七後が口を開いた。
「ここで第三者が口を挟むのは無粋であると承知の上で、訊きたい」
「なんだい、由花さん?」
「あなたはどうして、そこまで『良いお兄さん』であることに拘るのか。あなたの罪悪感を膨らませたそもそもの原因」
「ああ、そんなことか……それはね、大事なものを捨てられたからだよ」
 利一は、ふっと息を漏らした。
「父さんと母さんは、保世の世話を殆ど僕に押し付けていた。忙しいのか面倒なのか知らないけれど、たった三つしか違わない子供にね。……今にして思えば、あの二人は僕たち以上に歪んでいるのかもしれない」
 左手でバールをくるくる弄びながら続ける。
「きっかけは些細なことさ。保世を泣かせた。泣き止まなかった。父さんは罰として、僕のお気に入りだった石を捨てた。近所の公園で拾った、格好いい形の石だったんだ。……絵本を読んでとせがむ保世に僕は、面倒だから嫌だと言った。母さんは罰として、僕の大好きだった玩具を捨てた。当時の男の子だったら誰もが観ていた、アニメのロボットさ。いやらしいことに、僕自身に手を出すことは決してしなかったよ」
 幼い頃――おそらくは小学校低学年くらいだろう――の利一がまともな趣味の持ち主であったことに意外さを感じた。生まれつき狂っていたわけではないことに少しだけ安心する。
 連鎖的に奴の部屋を思い出す。あの荷物の少なさは、そういうことだったのか。家を離れるから持ち出したのではなく、最初から持たざる者だったのだ。
 不意に、ドンッと音が響いた。利一が壁に穴を開けていた。
「保世と遊ぶ約束を破り、同じクラスの友達と遊んだ。父さんは罰として、その友達を捨てさせた。気の合う男だったのに、二度と仲良くするなと言われた。さもなくば彼の家が路頭に迷うともね。実際にゴロツキを雇って、仕事場にけしかけたみたいだね。お金と権力があれば何をしても許されるそうだよ。塩田君を骨が折れるまで殴り倒したときも、僕自身には何のお咎めも無かったし。……馬鹿げているよね。どんな理由があっても、罪が消えるはずもないのに」
 再び、壁に穴が開けられる。
「僕にだって人並みに、好きな女の子がいた。母さんは罰として、彼女を無理やり転校させた。保世よりも大事な人間を作るなとね。はにかんだ顔が素敵な、かわいい子だったのに……。探偵まがいを使って、彼女の家の後ろ暗い部分を、重箱の隅をつつくように探して脅したんだと聞かされたよ。自分の無力さと迂闊さを呪ったものだ」
 他人の秘密を暴くというくだりが語られたとき、七後が一度だけ身を震わせたような気がした。
「物も、人も、次々と捨てられた。例外と言えばオセロくらいだね。あれは保世と二人で遊ぶものだったから」
 オセロと言えば、白と黒。表裏一体。利一と保世。
「保世はさっき僕に、外で友達と遊んだり彼女を作ったりしないのかと訊いたね? 無理なんだ。無理だったんだよ。僕は『良いお兄さん』としてお前を守らなければならなかった。それは、皆を守ることと同義だったんだ」
 俺の力及ばないことだと思いつつも、どうしてこうなってしまったのか、と考えずにはいられない。血の繋がりが無くても、深い愛を受けて屈託なく育った茅のような人間がいる。その一方で、自らの過失で両親と離れることを余儀なくされた七後のような人間もいる。そして、親のエゴによって狂わされた小向兄妹……。単に家庭の事情として片付けるには深過ぎる。
「だったら!」
 それまで沈黙を保っていた高瀬直太が、途端に声を荒げた。
「俺がお前の友達になってやる。小向の兄貴よ。趣味に合うかは分からんが、少なくとも俺は、誰かに横槍入れられたくらいで、はいそうですかと引き下がって友達を辞めるような男じゃねえぞ」
 そうだ。高瀬直太はこういう馬鹿な男だ。
「ありがとう。でも断るよ。今更、そんなものを欲しいとは微塵も思わないんだ。同情も救いもいらない。僕には邪魔なだけだよ」
 しかし利一はバールを握り直す。
「……全て、所詮は昔の話だからね」
 奴は、また至って日常的な、穏やかで優しい表情に戻って言った。
 昔の話?
 じゃあ……今は?
「辛かった。保世に近付くのも、離れるのも、どちらも凄く苦しくて、いつしか耐えられなくなった。いくら努めていても、どこかで緩みが、綻びが生まれて幻覚に捉われる。悩みに悩み抜いて、一つの結論に達した。罪悪感から逃げられないのは、僕の半端さのせいだ。迷いがあるからだ。……保世、だから僕はもう、悩むのを止めた」
 小向が息を呑んだ。
「そして決めたんだ。誰かが保世に近付くことで、僕の気持ちが煩わされるのなら、それを排除するのに容赦はしない。目の前に保世が現れて、助けを求めてきたら、それが嘘っぱちの幻覚だと分かっていても、疑わない。心乱されない。だって、僕は保世の『お兄ちゃん』なんだから」
 利一の笑顔は変わらない。初めて俺が利一に会ったときと同じ顔。そう、同じだ。小向と利一が同じ症状に侵されていたのは間違いない。小向や、俺が体験した痛みを、こいつも抱えていたはずだ。
 ただ、違うのは、利一の方がずっと先に限界を迎えていたということ。小向は塩田が害されたという決定的な出来事がきっかけとなったのに対し、利一は真綿で首を絞められるように崩れていったということ。そして決定的なのは、そうして心が折れた際の落ち方が真逆だったということ。
 破壊と自虐。同じベクトルの対称方向。
「……なに、それ……」
 小向は強く唇を噛み、汚らわしいものを払うように腕を大きく振り、そして再び口を開いた。
「そんなの、わたしの気持ちなんか、ちっとも考えてないじゃない! お兄ちゃんは、ずるい。卑怯。わたしの名前を使って、責任逃れをしようとしているだけだよ。わたしのためだと言えば、何をしても許されるなんて思わないで!」
「確かに保世の言う通りだね」
 対して利一は、まるで風を受ける柳だ。
「でも、それがどうかしたのかい?」
「……っ!」
 顔を引きつらせる小向。それを利一はどう感じたのか、調子を変えずに話し続ける。
「保世? 僕は別に、誰に許されようとも思っていないんだ。自分が異常な人間であることは知っているし、してきたことの重大さも分かっているつもりだよ」
「分かってるんなら、どうして酷いことをするの……」
「そうせずにはいられなかっただけさ。高瀬君を嫌いなわけでも憎んでいるわけでもない。彼を殴りたいと考えたことは一度も無いんだ」
「でも、殴ったじゃない!」
「うん、邪魔だったからね」
「止めて! そんなの、私は嫌!」
「そうかい? 保世のそういう意見は、今日初めて聞いたよ」
「それ、は……」
 小向は目を大きく見開いてはすぐに伏せ、力無く俯いてしまった。
「そう、だよね……わたし、言ってなかったもんね。打ち明けてたら、違ってたかも。……うん、そうだよ。ずっと、本音を隠してた。それは、わたしの責任。お兄ちゃんが、こんなになっちゃったのは、わたしのせい……」
 小向の背が丸まっていく。また罪悪感に支配されつつある。まずい。非常にまずい。
 しかしよろけた小向は、あわや倒れ込みそうになったところで、床を強く踏みつけた。上体を持ち直す勢いで、握った拳を後ろに振り、力の限りタンスに叩きつけた。その衝撃は、上に乗っていたぬいぐるみが揺れ落ちたほどだ。
 肩を大きく動かし、顔を上げ、利一の目を真正面から捉えている。
「はあ、はあ、はあ……だけど、だけどね、お兄ちゃん?」
 前に一歩を踏み出す。まるで足首に見えない蔦が絡み付いていて、それを引き千切りながら剥がすような動き。慎重でありながら、力強い意志に満ちている。
 今の小向は強い。あの日記に遺されていたような、被害妄想と加害妄想に取り憑かれて、自らを苛むだけだった内向的な少女の影は無い。
「さっきの台詞を、そのまま返すよ。わたしのせい? それがどうかしたの? 昔の話だよ! お兄ちゃんがそんなふうに考えていたなんて、わたしは、今日初めて知ったもの! 言ってくれなきゃ分かんない! それにね、幻はただの幻でしょ? わたしは、ここにいるの! わたしの言葉を聞いて、お兄ちゃんが今どう感じるか、これからどうするか、大事なのはそこじゃないの!」
 小向の一言一言に、俺の胸は熱くなる。
「昔の話……今、僕がどう感じるか……」
 利一には、どう響いたのだろう。奴はしばらく小向の台詞を反芻していた。
「そうか……そうだね」
「そうだよ。今ならまだやり直せるから、ちゃんと話し合って、お互いが納得できる道を探そうよ」
 いくら実の妹である小向と言えど、利一の仕出かした全てを簡単に許せるわけではないはずだ。
 それでも、手を差し伸べた。兄妹二人で前へ進むために。
「もう保世は、僕がいなくても大丈夫なんだね。……もう、僕が守らなくても平気なんだね」
 そして利一は何かを得たように頷き、微笑んだ。
「お兄ちゃんの人生は、お兄ちゃんのものだよ。誰にも縛られちゃいけないの」
「それと同じく、僕がお前の人生を縛ってもいけない」
 心なしか、雨足が弱まったような気がする。
 とても美しい情景だと思った。
 こんなときに言うのもなんだが、俺はハッピーエンドが好きだ。例えば同じ桃太郎でも、鬼を退治してお宝を取り返すだけの結末より、鬼を改心させて村人とも和解させる結末の方が好きだ。ちょっとくらいご都合主義に走っても、皆が手と手を取り合い笑って終わるのが好きだ。
 それを望んでもいいだろう? 七後が言ったように俺の出現が奇跡の始まりなら、そういう奇跡的な終わり方を期待してもいいだろう?
 
 突然鳴った風切り音が、俺の感慨をかき消した。
 その直後、生々しい打撃音が室内に響いた。
 まだ嵐は止まない。

       

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Neetsha