Neetel Inside 文芸新都
表紙

フロッピー・パーソナリティー
タカオ編 最終幕「フロッピー・パーソナリティー」

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 ……。
 …………。
 ………………。
 スイッチが押された。それだけだ。
 火も起こらなければ轟音伴う爆発もしない。無反応。
「…………?」
 利一は首をかしげた。何故だか理由が分からないのだろう。俺も同じくだった。
 しかし小向たちにとっては絶好のチャンスだ。七後と、唯一無傷な茅が同時に飛びかかった。それをきっかけにスローモーションが解除され、反動でもつけたような勢いで状況再生される。続いて小向、高瀬直太とダンゴ状態にタックルが連携し、総がかりで利一を押し倒した。衝撃で壁掛けのフライパンが落ち、冷蔵庫が揺れた。戸棚が開いて調味料の瓶が散乱した。
 下敷きになった利一は頭を打ち、今度こそ気を失い、ピクリとも動かなくなった。
 近付いてきた救急車のサイレンが。事の段落を告げる。



  後日談 

 とある休日の昼下がりに、小向は一人で市立中央病院を訪れていた。手には赤いネットに包まれたLサイズみかん。慣れた足取りでリノリウムを進み、病室の戸を開ける。
「お兄ちゃん、調子はどう?」
「やあ、保世。身体の方は順調だよ」
 四人部屋の隅、窓際のベッドで半身だけを起こしていた利一は入り口へ顔を向けた。しかしその視線は微妙に外れており、肝心の見舞い客とは目を合わせていない。ぼんやりと虚空を眺めているような仕草だった。それでも構わず小向は利一の脇に腰を下ろした。
「みかん、持ってきたよ」
 小向はネットを破り、一つを手に取って差し出した。利一はそれを掴もうとするが、その手はあらぬ方向へ伸びて宙を切る。小向は兄の手首を引いてみかんへ誘導した。直に渡された利一は相変わらず視線を泳がせたまま、手の内でころころとみかんを回し、向きを調整してから皮を割った。
「だ、大丈夫?」
「確かに不便だよ。だけど今まで見えていたものが、やっと見えなくなったんだ。……分かるだろう?」
「うん。分かるよ、お兄ちゃん」
 一房を口に運び、淡々と語る利一。心安く目尻を下げる小向。傍から見れば何の確執も無い、ごく普通の兄妹に映る。

 ……あれからのことを、順不同になるかもしれないが、少しだけ思い出していこう。
 まず、どうしてガス爆発が起こらず、みんなが無事でいられたのか。
 後で知ったことなのだが、あんなふうにガス管が大きく損傷した場合、安全装置が働いてガスの供給が断たれるようになっているらしい。今にして思い返せば、あのときはガス漏れの音などしていなかった。つまり、あれ自体は奇跡でもなんでもなかったわけだ。……とは言え、それを知らなかったからこそ、俺はがむしゃらになって舞台へ上がろうとした。そして利一に直接触れることが出来た。そう考えると、茅があのタイミングで小向邸に到着したのは奇跡的だったかもしれない。
 それよりも語るべきは、利一の身に起きたことだ。怪我については医者も驚くほどの勢いで完治した。骨も肉も常識外れの治癒力を見せたそうだ。しかし、不可解な症状が残った。
 光刺激に対する視神経反応の鈍化。要は、目が見えなくなったのだ。眼球や角膜には全く異常が無いのに――催涙ガスの後遺症などであるはずもなく――どういうわけか視覚が働かない。医学的には説明が付かない。もし……もし俺が勢い任せに放った言葉が実現したのであれば、奴に与えたものは断罪なのか、それとも救済なのか。
 俺の決断が絶対に正しいとはもちろん言えない。だけど想いの強さによって引き起こされた「あり得ない」ことを奇跡と呼ぶのなら、やはりこれもまた奇跡なのだろう。

「何も見えなくなって……何も無くなった」
 幻覚から解放された利一は、同時にアイデンティティと生きる目的をも失っていた。
「でも、お兄ちゃんならきっとやり直せるよ」
 同じ苦しみに苛まれていた小向にはそれをよく分かっている。
「月並みな言い方しか出来ないけれど、わたしたちには未来があるから。いつまでも過去に縛られていては前に進めないもの。何も無くなったってことは、これから何かを掴めるってことだよ」
「そうか。そうなのかもしれない」
「あと、わたしに勇気をくれた人が言っていたんだけど……生きていていいの。わたしもお兄ちゃんも、どんなに愚かしい道を歩いてきたとしても、この世界にいていいんだって」
「それは面白い意見だね。僕は菩薩様から、この世でさ迷い続けろとお達しを受けたよ」
「なにそれ、変なの」
「今となっては、夢か現かはっきりしないけれどね」
 ふとした沈黙の後、兄妹はクスリと笑い合った。……どちらも俺の言葉なんだがな。
「さて……」
 みかんを半分だけ食べた利一は、残りを近くの台に置いた。
 その手で、枕元に置いてあった折りたたみ式の白杖を掴む。
「もう食べないの?」
「うん。この暗闇にも大分慣れてきたからね。頃合いかと思うんだ」
「え……何が?」
 小向の表情が固まった。言葉の繋がりが読めない。しかし利一は意に介さず続け、アルミサッシに手をかけた。
「保世がさっき言っていたことは、まさにその通りだよ。僕は、僕たちは新しい生き方をしなければいけない。今日がその門出だ」
「お、お兄ちゃん? 危ないよ?」
 利一は窓を開け放ち、流暢な動きで外へ身を乗り出す。もちろんその先は空中だ。
「危険は承知さ。でもね、僕にはこれくらいが丁度いい」
「お兄ちゃん、どうして……?」
「僕は自分の意思で保世から離れる。何故ならば、僕はお前のことが大嫌いだからね」
 相変わらず利一は、前提条件の確認を後回しにして結論を放り投げてくる。
「お前も僕のことは嫌いだろう?」
 問われた小向はしばし逡巡した後、決意を込めた瞳で大きく頷き、はっきりと答えた。
「うん。大嫌い」
「そういうことだよ。その言葉が聞きたかった。じゃあ、さようなら。さようなら、保世」
 そして鳥が羽ばたくような――背中から翼が生えてそのまま飛んでいったと言われても信じてしまいそうな――軽やかさで、奴は躊躇いなく跳んだ。他の入院患者が慌ててナースコールをし、病院内が騒然とする中を、光を失った利一が着の身着のままで悠然と立ち去っていく。おそらくは音と経験と巧みな杖さばきでもって状況判断をし、速やかに横断歩道を渡り切り、建物の陰に消えていった。
 それが俺の記憶にある、小向利一の最後の姿だった。
 いくら利一といえど、暗闇の世界を、頼るべき縁も無しに生きるのは並大抵の苦労ではないだろう。想像するだに恐ろしい。それでも奴は茨の道を選んだ。
 お互いを嫌悪し袂を分かった兄妹。これほど爽やかな噛み合いを見るのは初めてだ。二人の言葉がどこまで真意か、俺は七後みたいに万能じゃないから分からない。いずれにせよ、きっと理由が必要だったのだ。


 ぼんやりとした様子で帰り道を歩く小向を、急に後ろから抱き締める女がいた。ボストンバッグを背負ったそいつは頬を合わせんばかりに密着し、さも人肌で暖を取っているようにも見える。
「ホヨ~、捕まえたぁ! いま帰り? 一緒に行こ!」
「きゃっ! み、美月ちゃん、びっくりさせないでよお」
「あっはは。テンション上がっちゃって、つい……って、あれ? ホヨって髪伸びた、よね?」
 ケラケラと笑い続ける茅は、肩を越す長さまでになった小向の髪を、さらっと撫でた。
「うん。最近、バタバタしてて切る暇なかったから伸ばしっ放しになっちゃった……美月ちゃん、ありがとう」

 自分の意識を取り戻した小向は、学校で倒れる前日から台風の日までの記憶が無かった。まあ、その間は俺が小向として動いていたわけだから、仕方ない。
 小向は、自分が「やすよ」ではなく「ほよ」であることを明らかにした。重大な嘘を吐いて入学していたわけだから退学になってもおかしくない話だったが、小向がいわゆる「成績優秀で素行のいい生徒」だったことが幸いして、十日間の停学で済んだ。それについて小向を悪く言う先生や生徒もいたにはいたが、委員長で求心力と発言力のある茅が「ホヨの本名がホヨだったんでしょ? なんか問題あるのぉ? ないじゃん」と言い切ったため、大した問題にはならなかった。七後と高瀬直太が、学校側の確認不足を指摘したのも重要だ。ちなみに七後だけは相変わらず「やすよ」と呼んでいる。「私くらいはあだ名で呼んでも罰は当たらないはず」とのことだ。
 結果としてその停学期間は、心身共に休ませる上で有効だったと思う。

「ど~ういたしまして。あ、じゃあさ、じゃあさ、今度その髪いじらせてよぅ。やっぱ誰かのじゃないと練習になんないんだよねぇ」
 茅はひょいっと身を離し、親指と人差し指をカメラフレームに見立てて小向を捉えた。
「どうしよっか。ツインテって感じじゃないと思うし、ここは大胆にポニテ? それとも、ゆるウェーブかけてみるぅ?」
「お任せします」
「お任せされちゃいました……っと? きゃーん、かっわいい~!」
 頬を緩ませたままカメラフレームを解いた茅は、電信柱の陰で縮こまっている野良猫を見つけるや否や、目を輝かせて狂喜乱舞した。少しでも触れてみたいとダッシュを仕掛けるが、身の危険を感じた猫は民家の垣根をくぐって姿を隠してしまった。
「あ~ん、逃げられちゃったぁ。でもホヨ、見た、見た? かわいかったよねぇ~」
「あ、あの猫……」
「なに、知ってる猫?」
「ううん、初めて見る子。だけど、多分……子供だよ」
「そうだよねぇ。すっごく小さかったもん。きっとまだ仔猫だよ。あぁん、ナデナデしてみたかったぁ」
 一人で身悶える茅をよそに、小向は胸を張って顔を上げる。わずかの間だけ顔を見せていた仔猫の毛並みは鯖虎、尻尾は箒を思わせるほどに立派。日記に書かれていた猫と印象は異なるが、瞳は空のように青かった。


 二人は談笑しながら歩を進め、一つの和風平屋へ辿り着いた。表札の名は「七後」。家の離れには小さな飴工場らしき建物もある。
「ただいま、由花ちゃん」
「おっじゃましま~す」
「おかえり。いらっしゃい。保世、お兄さんの様子はどう? リハビリも進んできているようだし、私の予想としては、そろそろ退院の話題が出てもいい頃だと思っているのだけど」
「うん。それがね、さっき窓から跳んで勝手に退院しちゃった。携帯も繋がらないの」
「それは予想外」
 驚きはしても、心配はしていないような素振りだ。案じたところでどうにかなる奴でもないからな。
「ところで美月、ちゃんと用意はしてきた?」
「もっちろん! ハサミにヘアカラ、ファンデにマニキュア、これでホヨ改造計画はいつでもオッケー。ついでに歯ブラシとパジャマも持ってきたから、今日こそ朝まで……」
 指をわきわきさせる茅。そのいやらしそうな手つきはなんだ?
「主旨を違えている」
 もちろん、七後からバッサリと切り捨てられるわけだが。
「うそうそ、じょーだん、じょーだん。そんな怒らないでよぉ、由花」
「私は呆れている」
「美月ちゃん、飛ばし過ぎ」
 茅はバッグを開け、中から教科書、辞書、参考書類、パジャマ――は本当に持ってきていたらしい――を覗かせた。万年赤点保持者が一人と、優等生が二人。来年度は受験生というこの時期にやることは決まっている。
「いや、でもさぁ、進級できるかどうかの崖っぷちだもん。三学期は成績上げないとマジやばいんだって。先生が、苦笑いしながら説教してきたもん。だからさぁ、ちょっとくらい夢見させてよぉ」
「だからこそ、だと思うよ。美月ちゃん」
「あぅ、正論言われちゃうと厳しい」
「今更だけど、その成績で学級委員長になれたことが著しく疑問」
「にゃはは、あんときはノリと勢いで決まっちゃったからねぇ」
 三人は畳の部屋へ移動した。炬燵を囲んで勉強会を早速始めようとした矢先、小向が壁掛け時計を一瞥して腰を上げた。
「あ、ごめんね。ちょっと待ってて」
 台所へ行った小向はコップに水を汲み、戸棚にある白いプラスチックケースから、仕分けされているいくつかの錠剤を取り出した。

 七後に言わせれば、心の病はそう簡単に完治するものではないらしい。一時の勢いで治った気になるのはとても危険で、再発を防ぐために時間をかけて臨むべきなのだそうだ。……利一は別格として。だから小向は七後に勧められて病院の心療内科へ通い、定期的に投薬治療とカウンセリング、念のための血液検査を受けている。ちなみにいま手にしているのは精神安定剤と幻覚止め――他に適当な呼び方を知らないので俺はこう呼ぶ――だ。夜には睡眠導入剤とやらも飲む。
 薬と言うと、何か悪いイメージがあるかもしれない。まるで現実からの逃避手段のように思えるかもしれない。だけど違う。小向はむしろ、逃げることなく世界と向かい続けるために、二度と妄想と幻覚に取り憑かれて現実を見失わないために、戦っている。その補助だ。なんらやましいことはない。
 何故その薬が七後宅の戸棚に収まっているのかと言えば、それは、小向がここに住んでいるからに他ならない。小向は居候――この言葉を小向が口に出すと七後はいい顔をしない。二人の間に上下関係や、妙な気遣いが生まれるのを懸念しているのだろう――生活に踏み切ったのだ。小向邸に独りでいる時間が長ければ、それだけぶり返しが起こりやすいのだという。とにかく今は、信頼出来る相手と過ごす時間を多くする方針のようだ。悪夢にうなされ目を覚ましたとき、隣に心安い相手がいるというのは大きい。
 小向の父親から「仕事で大きなトラブルがあったので、いつ日本に帰れるか分からない」といった旨の連絡が来たことも一因としてある。とりあえず、両親がまだ生きているようで安心したのは記憶に新しい。

 薬を飲み終えたところで、チャイムが鳴った。玄関近くの小向が戸を開ける。
「い、いらっしゃい、高瀬くん。今日も稽古?」
「まあな」
「大変だね。お疲れ様」
「またいつか、いざってときがあるかもしれんからな。それに備えてだ」
 訪れた高瀬直太と、自然に微笑み合った。
「つ、辛くない?」
「辛いって言うか、凄いな。あの爺さんのどこにあんな力があるのか謎は深まるばかりだ。全力でかかっても、あっという間にひねられる」
「由花ちゃんのお爺さんって、武術の達人なんだって」
「駄菓子屋じゃなかったのかよ」
「一流の、マジシャンでもあるって、聞いたよ。あ、あと、囲碁の日本代表だって」
「囲碁のアメリカ代表がいるのか? わけが分からん。マジで現代に生きる忍者じゃないだろうな?」
「あはは。高瀬くん、それは、言い過ぎ、だよ」
 高瀬直太と面しているときだけは、吃音癖がちょっとだけ出てしまうようだ。見ていて心温まる。

 怪我を治した高瀬直太は、暇があるごとに七後邸へ通いつめるようになった。ただし理由は勉強会ではなく、美少女と仲良くするためでもない。三人娘が揃って高瀬直太の見舞いへ行ったとき、七後が「あなたの身体能力は並程度。正義感を振りかざすのなら、もっと肉体的な強さを身に付ける必要がある」とたしなめたことに端を発して、七後の爺さんから柔道を習う約束をしたのがその理由だ。……二階の窓をぶち破って跳び蹴りするような技は、柔道には無いと思うのだが。それとも第二、第三の成長ステップが用意されているのか?
 ちなみに、高瀬直太と茅と小向の三角関係は未だに決着が付いていない。まあ、少々もどかしいが、どうしようもない。俺の関知するところじゃない。色恋沙汰は守備範囲外だ。
 本当ならば、もっと思い出して語りたいこともあるのだが、残念ながらそれは無理な話。小向の症状が安定するにつれ、俺の記憶が途切れがちになってきているからだ。小向が元に戻った以上、今度こそ俺の出る幕は無いということか。
 俺はこれからどうなるのか、誰にも分からない。分かるはずもない。あれ以来俺が表に出たことはないから、タカオとして七後に質問することも出来なかった。したところで、七後の意見も憶測の域を出ない。

 ① 消えて無くなる。
 ② 高瀬直太の身体に戻る。
 ③ 小向の身体に留まる。

 自分なりに予想してみたが、どれだろう? 案外どれでもなかったりしてな。だがどうなっても、それは俺の選んだ結果だ。後悔はしない。小向が自分の足で、現実を踏み締めて立てるようになったのなら、それでいい。何故なら俺は小向保世ではなく、高瀬直太でもなく、タカオなんだから。俺は俺の役割を果たせたと思う。
 小向は強くなった。でもそれは、前よりも硬い鋼の精神を身につけたとかそういうことじゃない。むしろ逆だ。今までのあいつは、全てを真正面から受け止めようとしていたから、耐え切れなくなって折れたんだろう。
 辛いときはちょっとだけ受け流せ。
 痛いときはちょっとだけ愚痴をこぼせ。
 弱いことは罪じゃない。
 そしていつか、誰かの辛さや痛みを、ちょっとだけ受け入れてやれ。そのときはあまり重たくせず、包み込むようにな。
 柔軟な心、柔らかい人格。それが強いってことなんじゃないか?

 ……。
 …………。
 ………………。
 ああ、そうか。そうだよな。俺がこの先どうなるかは別にして、まずは「閉め」ってものが必要だよな。
 ゆっくりと、しかし確実に、舞台の天辺から暗幕が下りてきていた。客席にいる俺と、舞台にいる小向たちとが、隔絶される。視界がにじむ。
 小向には小向の人生が、これから先も続いていく。だけどその隣には俺がいなくてもいい。

「由花ちゃん、美月ちゃん、お待たせっ!」

 彼女の声が、遠くに聞こえた。
 こんなときにどうすべきか。決まっている。俺はその場に直立し、舞台へ向けて拍手を送った。手が痛くなるくらいに叩いた。目からこぼれた水滴が頬を伝うが、拭いはしない。溢れる想いを隠す必要なんてないんだからな。


 そうだろう?


       

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Neetsha