Neetel Inside 文芸新都
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フロッピー・パーソナリティー
高瀬直太編 第5話「フラグ」

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  金曜日

 朝は非常に慌ただしかった。
 昨日はあれからずっと、家宅捜索まがいのことを続けた。そこでノートやら本やらから、俺が小向を演じるための小さな情報はある程度集まりはした。小さい頃のアルバムなんかがあればもっとよかったのだろうが、残念ながらそういった小向史を紐解くための資料は見当たらなかった。
 そして肝心の、小向の人格の所在については、これといった大きな情報が得られないまま深夜に突入した。
 特に気になったのは、小向の机の引き出しの一つが錠付きだったことか。小向邸の中で探索の手が出ないのはそこだけだ。そこに何かしらの重要なものが隠されていると予想されるが、対応する鍵は家中どこを探しても見付からないのだった。
 夜も更け、途中で眠気が押してきたので本能に身を任せ、着替えもせずに寝てしまった次第である。
 朝になっても誰も起こしてはくれないので、目が覚めた頃にはもう明らかに一時限目の授業が始まっている時間だった。
 こんな状態でろくに身支度をしっかり出来るはずもなく、朝食も作れず――俺に作れるかどうかも疑問だが――に急いで家を出た。出たら出たで、慣れない登校路を半パニック状態で走るものだからあっさり道に迷う。どうにかこうにか学校へ着いたときには四時限目の世界史で、先生がルターの宗教改革について解説している最中だった。
「ぜひ、はひ、す、すいませ、はあ、は、遅れ、ました……」
「そ、そうか……。早く席着け」
「はひ」
 大遅刻。なんという重役登校。クラス中からの生暖かい視線が辛い。それにしても、小向の身体はスタミナ不足だな。走っていると途中で何度か休憩が必要になった。膝もガクガクだ。
 一晩寝れば何もかも元通り、などという都合のいい一抹の期待も外れたし、昨日の夜から何も食べていないし、どっと疲れた。初日からこれでは先が思いやられるな。気合を入れねば。


 昼休みに入るなり、高瀬直太が俺に話しかけてきた。まあ、こいつの考えていることはそれこそ手に取るように分かるから、予想通りの行動だ。
「小向、お前がこんなに遅刻するなんて珍しいな。まあ、昨日よりはずっと元気そうだからいいんだけどよ」
「う、うん。ちょっと、いろいろあって、疲れが溜まってたのかな? うっかり眠り過ぎちゃった」
「そっか。明日明後日のうちに、しっかり休んどけよ」
「そ、そうする」
「…………?」
「ど、どうしたの? 高瀬、くん」
 急に高瀬直太が俺の顔をじっと見て眉間にしわ寄せ、何かをいぶかしむような表情を浮かべた。
「……今日のお前、何かいつもと違わないか?」
「え?」
 一瞬、心臓が掴まれたかと思うほど縮んだ。これが漫画だったら、大きく「ギクッ」なんて擬態語が表記されるに違いない。まさか、俺が小向じゃないってことを見透かされたか? 高瀬直太にそれだけの洞察力があるとも思えないが……。
「保世、今日は珍しい」
 いつの間にか接近していたのは、一昨日と同じく風呂敷を抱えた七後だ。七後は近くの机を動かして俺と向かい合う。茅はまだ入院しているからここにいないのも一昨日と同じ。
「今朝は、うっかり寝過ごしちゃって……」
 俺はとりあえず七後に対しても遅刻の言い訳をしたが、七後は少し眉を上げただけで話を別方向へ逸らした。
「保世が遅刻をしたとは初耳。私が言っているのは、保世がメガネも髪留めもしていないのは珍しいということ」
「「あっ!」」
 俺と高瀬直太が同時に声を上げた。さっき七後が挙げた二つは確かにどちらも、昨日寝るときに外してそのままだ。続いて高瀬直太だけが納得したように大きく頷いた。
「ああ、なるほど。道理で違和感があると思ったんだよ。そうかそうか。今日はトレードマークが無いからな。……頭の赤い奴はともかく、メガネは無くて大丈夫なのか?」
「大丈夫。こ、これでもちゃんと見えるし、あのメガネ、あんまり、度は強くないから」
「そうだったのか? あれ、結構きつそうな感じだったけどな」
 昨日に引き続き、高瀬直太の様子はとても自然だ。小向のメガネが伊達だったとは全く気付いてないらしい。演技だとしても、俺本人を騙せるほどのものが簡単に出来るか? 俺がこうして小向を演じるのだって内心は冷や汗ものだのに。改めて、こいつの中身が小向だとは思い難い。
「んじゃ、とりあえず俺は昼飯買ってくるわ」
 そんな俺の悩みを余所に、高瀬直太は昼飯の確保に赴こうとする。そこで俺も自分の空腹を思い出した。ここで何か腹に入れておかないと、気合の入れようがない。
「あ、高瀬、くん」
 俺は高瀬直太を呼び止めながら財布を取り出す。
「お弁当、用意するの、忘れちゃって。購買に行くんだったら、わたしの分も、お願い、していいかな?」
「おう、いいぜ。何がいい?」
 高瀬直太は快諾した。まさか自分をパシリにする日が来ようとは。
「昔ながらのソース焼きそばパンとキーマカレーパン。あと、小倉クリームあんパンにフレンチトースト。飲み物はコーヒー牛乳がいいな」
 あの瓶入りが旨いんだ。
「お前、意外と食うのな」
「……保世、購買部のメニューに詳しいのは何故?」
 七後と高瀬直太の双方からツッコミを入れられた。……しまった。普段購買に行かない小向が具体的な商品名をすらすらと口に出したら不自然か? 頭に栄養が足りないとポカミスをやらかしてしまう。だが、この程度なら挽回可能だ。
「た、高瀬くんが、よく食べてるの、見てたから。美味しそうだなって……」
「そう」
 七後は箸で玉子焼きをつまんだ。納得してくれたのか?
「小向、買ってくるのはそれだけでいいのか?」
「おう、……あ、うん」
 不意に話しかけられると素が出そうになる。これも気を付けないといかんな。


「それにしても……」
 高瀬直太が教室から去ったのを確認した後で、今度は七後が口を開いた。
「メガネはともかくあの髪留めを忘れるとは、今日の保世は随分慌てていたと見える」
「うん。ちょ、ちょっとね」
 適当に相槌を打ったが、今の七後の発言には引っかかるところがあった。どうもこれだと、小向にとってはメガネよりも髪留めの方が大切のような口ぶりだ。確かに伊達メガネが大事とは思えないが、じゃあ髪留めにはどんな意味があるんだろう。思い返せば、あれは中学時代から着けていたよな。
 …………? そうだ……。
 小向の髪留めを特に意識したことなかったから今まで忘れていたけど、ふと思い出した。
 俺たちがまだ一年生の頃の話だ。夏休み明けの全校集会の後に服装検査が行われて、小向の赤い髪留めは「校則で禁止されている、過度に派手な装飾品に該当する」とか何とかでチェックされたんだ。結構鮮やかな色で少しキラキラしているし、ウェハース菓子並みに分厚くて大きいから、教師陣の言うことも分からなくはない。
 でも頭ごなしに没収はやり過ぎだっただろう。教室に戻った小向は落ち着きが無くて、震えていて……。今にして思えば、丁度一昨日の、茅が病院に運ばれたことを俺が知った日と同じような状態だった。
 それで……。一年前の小向は昼休みに職員室へ駆け込んで、髪留めを返してもらうように直訴したんだ。普通だったら「反省したのなら返してやるから、二度と持ってくるな」などと言われて終わるものだが、小向にはそこで、頑として譲れないものがあったらしい。俺は現場にいなかったので後から聞いた話だが、小向は涙目で、嗚咽を漏らしながらその髪留めを着け続けることを主張していたそうだ。
 しかも小向はその直訴を、一日やってダメなら二日、三日と続けた。そこに当時からクラスの中心だった茅が味方をし、校則の服装規制緩和を求める運動を始め、ついには全校生徒を巻き込む議論にまで発展。俺も茅に引っ張られる形で署名活動の手伝いをした記憶がある。最終的には生徒会を動かして学校側を根負けさせた。
 こうして簡単に思い返しただけでも、どれだけあいつが赤い髪留めを大事にしていたのかが窺える。これはもう愛着と言うより執着に近い。何故だ? パッと思いついた推測は「お兄ちゃん」からのプレゼントか何かというところだが……。
「うわひゃっ」
 突然首筋に冷たい物が当てられ、俺は間抜けな悲鳴を小さく上げてしまった。振り向くと、高瀬直太が瓶のコーヒー牛乳を片手に立っている。
「な、何、するの!」
「呼んでも反応が無かったから、ちょっとな。お前にそういう気難しい顔は似合わないぜ」
 考え事を始めるとつい没頭してしまう、考えていることが顔に表れてしまう、そんな俺の癖は小向の身体でも健在のようだ。
 それにしても高瀬直太め。人の気も知らないで呑気なものだ。ここで立ち上がってこいつの胸ぐらを掴み「俺はお前だ!」なんて言えたらどんなに気持ちいいだろうか。やらないけど。
「ところで似合う似合わないの話だけどさ。前々から思ってたことなんだが、俺個人としては、小向はやっぱりメガネかけてない方が似合ってるぜ。こうして見るとかわいいし。無い方が似合ってるってのも変な言い方だけどな」
 俺にパンと飲み物を渡しながら、高瀬直太はさらりと小向を褒める台詞を言ってのけた。このタイミングで何ということを言い出すんだこいつは。しかも地味系の女の子がメガネを外したら実は美人で、なんてこれじゃあまるで使い古されたボーイミーツガールだ。この場合、あれか? ボーイは高瀬直太で、ガールは小向? それとも俺か? ……気色悪い。なんで自分相手の恋愛フラグが立たなきゃならんのだ!
「……保世、顔が赤い」
 既に弁当の八割方を食べ終えた七後から指摘を受ける。図らずも興奮が表情に出たようだ。しかも状況からして、悪い方に誤解されたらしい文脈。
「ち、違う。違う、から!」
「安心していい。誰もあなたのお兄さんに告げ口などしない」
「だ、誰も『お兄ちゃん』の話なんか、してないっ!」
「私も、保世の顔が赤いと言っただけ。何が『違う』?」
「うう……」
 そう返されると言葉に詰まる。あらゆる面において、七後には勝てる気がしない。こいつが俺について詮索してこないことを祈るばかりだ。
 その一方で、俺と七後のこのやり取りが別方向にも誤解を与えてやいないかと高瀬直太を窺い見たが、こいつは俺たちには目もくれずにパンを貪ることに没頭していた。全く、俺の気も知らずに呑気なものだ。ひょっとしたら俺と高瀬直太が逆の立場だったかもしれないのに。
 まあ、逆だったら逆だったで高瀬直太が今の俺と同じことを考えているんだろうが。それでいて俺は俺のことを便宜上「俺」と呼んでいるが、俺も本来は高瀬直太なわけで……。いや、頭が痛くなりそうだ。こんな不毛なことを考えるのはよそう。


 放課後、不確かな記憶を頼りにどうにか小向邸へ帰った。来週からはもっとスムーズに登下校したいものだ。小向が帰宅部なのは、不要な人物との接触が少ないから助かる。
 さて、今朝分かったことだが、俺は小向保世として生活するより先に、一人暮らしの人間として生活する術を身に付けなければならない。ちゃんと目覚ましをかけて早起きしないと、とてもじゃないが弁当の用意なんて出来そうにない。風呂も自分で沸かさなければならないし、洗濯もそうか? ああ、面倒くせえ。
 とりあえず晩飯とやらを作ってみよう。冷蔵庫を開ける。豆腐、大根、山芋、もやし、タラの切り身……。なんだか色の白いものばっかりだな。いくら食材や調味料を眺めても、完成した献立のビジョンが欠片も浮かんでこない。料理センスの無さを痛感する。
 いろいろ試した。いろいろ失った。流し台には、本来であれば人の口に入るべき諸々が、もはや宇宙生物の苗床と化している。どうしてこんなことになったのか、正確に伝えようとすれば原稿用紙がいくらあっても足りない。
 結論。餅は餅屋、飯は飯屋。外食産業が発達した日本なら、自炊が出来なくてもそうそう餓死することはあるまい。コンビニも近くにあるしな。今日のところはハンバーガー屋で済ませるとするか。素晴らしきかな、アメリカ資本。
 慣れないスカートで膝を風に晒しながら、日が沈んでめっきり冷え込んだ街中を歩く。よくもまあ女というのは、こんな防寒性の低い衣服で我慢していられるものだ。逆に尊敬する。そんなことを考えながら店に到着し、小向の身体に良くないと思いつつも、こてこてのジャンクフードを注文してしまう俺。
「……孤独だ」
 一階の窓際席で、外の通行人の波を眺めながらため息を吐いた。正直、二日目にしてはや行き詰まりを感じつつある。このまま小向として生活するにも、俺がこうして小向の身体に入ってしまった原因を探るにも、そして小向の人格がどうなったかを究明するにも、不安要素が多過ぎるんだ。一人では出来ることが少ない。誰かに相談するにはリスクが大きい。
 ふと窓ガラスに映った自分の、つまり小向の顔と目が合う。
 ……まあ、高瀬直太が「かわいい」などと言ったのも分からなくはない。以前から小向のメガネが似合わないと思っていたのは事実だしな。こうしてまじまじとメガネ無し小向の顔を見るのは二度目だ。昨日の保健室では、ショックの方が大きくてそれどころではなかった。だから、うん。やっぱり小向は、どちらかと言えばかわいい方に入るよな。……って、見とれている場合じゃない。帰りに適当なパンでも買って、早く風呂に入ろう。気分が滅入るのも疲れが一因に違いない。
「ねえねえ、そこの彼女ー」
 店を出て少し歩くと、見るからにチャラチャラした若者――俺と年はあまり変わらないだろうが――の二人組に声をかけられた。雰囲気と喋っている内容からして、道を訊ねたりキャッチセールスをしたりの類ではない。
「な、何、ですか?」
「オレら今からカラオケ行くんだけど、付き合わない? もちろんおごりだし」
「ってか、マジオレら歌上手いから。マジ、損させねえから」
 案の定、ナンパだ。それも化石みたいな体当たりスタイル。別にこういう輩を否定はしないが、俺に関わってほしくないとは思う。まして小向をどうこうする目的で俺に話しかけているのかと思うと、生理的嫌悪すら覚える。
「あ、あの、困り、ます」
「いいじゃんかよ。何もしねえから」
 嘘をつけ。何もしないつもりの奴が道端で見知らぬ女に声をかけるものかよ。しかも俺が頑なに拒んでいると、頭の悪そうな二人組の内の特に悪そうな奴が言うには、
「ってか、マジ意味分かんねえし。お前の方からオレらのこと誘ってきたんじゃん」
「はぁ!」
 思わず裏返った声が漏れる。俺が? いつ? お前を誘ったというのだ!
「わ、わたし、そんなこと、してません!」
「でもなあ」
「マジ、さっきの店でオレらのこと見てたから」
 どうにも話を聞く限りでは、俺が窓に映った小向の顔に見入っていたのを、外にいたこいつらは自分たちに熱い視線を送っているものと勘違いしたらしい。
「ち、違い、ます。そんなこと、ありません、から」
「今さらそんなつれないこと言うなよ」
「ってか、マジ焦らし上手じゃね? この子」
 埒が明かない。いくら否定しても話が通じない。徐々に俺も苛立ちが募ってきた。こいつら、どうしてくれようか。……よく考えたら相手は赤の他人だし、周りに知り合いもいない。別に俺、ここでずっと小向の振りしている必要は無い、よな?
 だったら逆に話は早いか。
  ガゴンッ
 俺は丁度近くにあった標識を力一杯に蹴りつけた。その音で相手を怯ませた後、俺本来の喋り方に切り替える。
「だから、さっきから違うって言ってんだろーが! 何回言わせれば分かるんだよお前らは。俺は男と付き合う気なんか更々ねーんだ! 大体、目が合ったらそれが誘ってる証拠になるのか? ならねーだろ! なんでも自分の都合がいいように考えるな! 少しは常識でものを計れ!」
 二人組は目を丸くしている。それもそうだ。気弱そうな女子高生をナンパしたら、いきなり男言葉で凄まれるわけだからな。だからといって、同情する気にもならないが。
「訳が分からない、みたいな顔するな! 俺だって何が起こってるのか分からねえ! 本当だったら俺がこうしていることもなかったし、小向がこんなところで飯食うなんてこともなかった! なんで俺がこんなことにならなきゃいけないのかも分からない! お前らに付き合ってる余裕なんかねえんだよ!」
 半ば、というかむしろ完全に八つ当たりな感情の吐露。実に情けないことだが、もう抑えが効かない。
「とにかく、俺に構うな! これ以上俺に面倒事を持ってくるんじゃねえ!」
 やり場の無い怒りを撒き散らした後、俺は周囲の視線を跳ね返すように大股で歩き出した。


 幸い、頭の悪そうな二人組は諦めてくれたらしい。いつの間にか俺は小向邸の前に着いていた。あ、コンビニ行き損ねた。
 しかも気が付いたら、目から涙が零れている。いくら俺が感情を表に出しやすい人間だからって、これほど簡単に涙を流すなんてことはなかったけどなあ。男より女の方が泣きやすいというのは本当だったのか? まあどちらでもいいことだ。妙なナンパ野郎のおかげと言っては何だが、少しは腹の中でくすぶっているものを吐き出せた。たまにはこうして俺の素を出した方が精神衛生上良いのかもしれない。
「……あれ? 俺、鍵閉め忘れたか?」
 玄関の扉に手をかけると、すんなり開いた。廊下の奥からは明かりが漏れている。足元には、俺が家を出るときには無かったはずの革靴が一足。
 俺の背を一瞬、悪寒が駆け上った。

       

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Neetsha