Neetel Inside 文芸新都
表紙

フロッピー・パーソナリティー
小向保世編 第2片「高瀬くん」

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 《一冊目 414ページ》
 わたしが「こむかいやすよ」を名乗るようになってから、ちょうど一年が経ちました。今のところは順調です。
 今日、由花ちゃんの家へ遊びに行って、便利そうな物をもらいました。赤くて大きなバレッタです。由花ちゃんのおじいさんは手先が器用で、ヒマなときによく仕掛け小物を作るそうです。そのうちの一個をゆずってもらいました。飾りの部分が二つに分かれて、中に小さな物を入れることが出来ます。外からは、とてもそんな細工があるようには見えません。
 わたしはこの中に、引き出しの鍵を隠して、毎日着け歩くことに決めました。鍵だけだったらはずみで無くしてしまうかもしれないけれど、これならいつでも肌身はなさずにいられるからです。もしバレッタをどこかに落としても、これだけ目立つ物なら、誰かが拾ってくれる望みもあります。

 《一冊目 503ページ》
 図書館へ行く途中で、一匹の猫を見ました。全身白毛で、短く丸い尻尾。きれいな青い目をした猫です。電信柱のかげから、わたしの方をじっと見詰めていました。でも近付くと、逃げていってしまいました。また、会えないかな?

 《二冊目 30ページ》
 今日はお兄ちゃんの、高校入試の合格発表の日です。お兄ちゃんは無事に、志望校に合格しました。とても入るのが難しい高校と聞いていましたが、お兄ちゃんは勉強が出来るので、特に苦労はしなかったそうです。
 この春からお兄ちゃんは、となりの市まで電車通学することになります。そうなれば通学時間も長くなりますから、お兄ちゃんがわたしに接する時間はへることになります。
 不思議です。塩田くんにあそこまでしたお兄ちゃんが、夜明け前にわたしの部屋へ勝手に入るようなお兄ちゃんが、どうしてわざわざ遠くの高校を選んだのでしょうか。いえ、普通ならレベルの高い高校へ行こうとするのは当たり前のことです。それにわたしも、そこまで自分が「兄に愛されている妹」だと言いたいわけではありません。だけどお兄ちゃんは、あのお兄ちゃんなのです。あの、胸が痛くなるような冷たい目をする、小向利一なのです。
 考えれば考えるほど、不思議です。それとも、わたしが気にし過ぎているだけなのでしょうか?

 《二冊目 52ページ》
 今日は中学校の入学式でした。小学校は私服だったので、これから毎日制服を着るのかと思うとおかしな気持ちです。
 クラスの人たちは知らない人が多くて、同じ小学校だった人は半分もいませんでしたが、由花ちゃんが同じクラスなので安心しました。由花ちゃんと言えば、彼女のスカート姿を見たのは始めてだったのでなんだか新鮮でした。
 でも同時に、どうしてわたしが他の女の子に苦手意識を持つのか、どうして由花ちゃんにだけはそれを感じないのか、知りたくなかった感情に気付いてしまいました。わたしは、女の子が持つ女らしさが嫌いだったのだと思います。
(きれいな服を着ている私はきれいでしょう?)
(かわいい物を持っている私はかわいいでしょう?)
 女の子たちの自然な振る舞いの中に、そんな、言葉にならないメッセージがうっすら見えてしまうのが、苦手だったのです。その点、由花ちゃんは違っていました。由花ちゃんは今までズボンしかはいていなかったし、男の子が黒いランドセル、女の子が赤いランドセルの中、由花ちゃんだけは茶色いランドセルを使っていました。揺るがない自分らしさを持っている由花ちゃんに、わたしはあこがれたのだと思います。
 その由花ちゃんが、スカートという女の子の記号を身に着けていたので、素直にかわいいと感じる気持ちと、やり場の無い拒否感とが一緒に出てきてしまったのです。
 そして今日、一番嫌だったのは、わたしにはこんな偉そうな意見を言う資格など無いこと。結局は自分もまた、自分の嫌いな女の一人に過ぎない事実に気付いてしまったことです。

 《二冊目 224ページ》
 図書館からの帰りに、同じ年頃の男の子が、荷物を道にバラまけてしまったおじいさんを助けているのを見ました。始めは分からなかったけど、よく見ると同じクラスの人でした。名前はたしか、竹田くんだったか高田くんだったと思います。よく憶えていません。向こうもわたしのことは殆ど知らないでしょう。

 《二冊目 225ページ》
 昨日見かけた男の子に、学校で話しかけられました。どうやら向こうもわたしに気付いていたみたいです。「小向もあの辺りによく来るのか?」とかそんなことを聞かれました。学校では席も離れていたし、あまり喋ったこともなかったので、彼がわたしの名字をいきなり呼び捨てにしてきたのには少なからずびっくりしました。聞かれたことに、少ない言葉で答えるのが精一杯でした。突き放したような話し方をしてしまったかもしれません。
 いえ、むしろこれでいいのです。こんなことを書くと自意識過剰だと思われるかもしれませんが、万が一にも、彼がわたしのことを好きになってはいけないのです。わたしに関わる全ての人間を、お兄ちゃんに傷付けさせない。それが塩田くんへの償いなのですから。
 あと、この男の子の名前は、高瀬くんでした。

 《二冊目 231ページ》
 この前図書館で適当に借りた小説が、意外と面白かったです。内容は、高校生の男の子と女の子が、心と身体が入れ替わってドタバタするラブコメディー。設定はありきたりだけど、こういうのは嫌いじゃありません。
 読み終わってから考えたのですが、心って何でしょう? どこにあるんでしょう? ものを考えたり憶えたりするのは頭。もっと言えば、脳です。もしこの小説みたいに心が別人の身体に移ったら、その人は他人の脳でものを考えているってことになります。そうなったら、どうなるんでしょう? 記憶がごっちゃになったりしないのかな? 考え方が混ざったりしないのかな? 例えば自転車にも乗れないBさんの心が、運動神経バツグンなAくんの身体に入ったら、自転車には乗れるのでしょうか? 牛乳アレルギーのAくんの心が、牛乳大好きなBさんの身体に入ったらどうなるんでしょうか?
 Aくんの足が強くても、Bさんの足が大ケガをしていたらうまく走れないのは明らか。だったら、脳に大きな障害を持っているAくんの身体に、Bさんの健康な心が入ったら?

 《二冊目 268ページ》
 最近、気になる男の子がいます。ひと月くらい前ここに書いた、高瀬くんです。気になるといっても、好きだとか何とか、そういうことではありません。ただ、気になるのです。
 あれから高瀬くんがわたしの目に留まることが度々あるのですが、いつ見ても高瀬くんは、誰かのために何かをしているように見えます。具体的には、とても小さなことだけど、休んでいる人のためにノートを取ったり、掃除の時間に手が空くと他の人を手伝ったり。誰でも出来ることだけど、誰もやらないようなことを進んでしているのです。
 どうして高瀬くんは、そこまで出来るのでしょうか? ちょっと気になります。

 《二冊目 288ページ》
 夕飯が、いつもより美味しく作れました。ご飯も上手にふっくらと炊けました。えっへん。
 ご飯/みそ汁/筑前煮/焼き鮭/ゴマ和え

 《二冊目 399ページ》
 ――このページには、いくつもの棒線と数式と図が乱雑に書かれている――
 今日の昼休みに、由花ちゃんからゲームを教えてもらいました。十三本の鉛筆を用意して、交代で鉛筆を取り合って、最後の一本を取った人が負けです。一回に取れるのは一本から三本まで。簡単なゲームですが、何度やっても由花ちゃんには勝てませんでした。
 こうして家でゆっくり考えて整理してみると、よく分かります。由花ちゃんはわたしに「保世の先攻でいい」と言っていましたが、このゲームは、先攻を取ると必ず負けるようになっているのです。
 十三を取れば負けということは、十二を取れば勝ちということと同じです。後攻の由花ちゃんは、必ず四の倍数になるように鉛筆を取っていました。わたしが一本取れば、由花ちゃんは三本。二本なら、二本。三本なら、一本。片方の人間が取れる最小の数と、最大の数の和は四です。後攻は常に四、八、十二、十六…というように、四の倍数を取ることができるのです。
 つまりこのゲームは、設定数字が4n+1のとき、後攻が必ず勝てるようになっているのです。試しに、同じルールで設定数字を五にしてみれば簡単に気付けます。

 《二冊目 511ページ》
 体育の時間、バレーボールの授業のとき、顔面にボールを思い切りぶつけてしまいました。それ自体は、もともと運動は苦手なので仕方ないことでした。メガネのフレームが大きく歪んでしまいましたが、下校中にメガネ屋へ行ったので、もう直ってはいます。
 問題はその間でした。二時間目の体育が終わってから学校が終わるまで、ずっと、他人の視線がまとわり付いて感じられました。「メガネが無くて大丈夫?」と心配してくれる人もいましたが、それ以外も多くありました。わたしの素顔に対する好奇の目。男の子からの、欲望と好意に満ちた目。女の子からの、羨望と敵意に満ちた目。教室にいても、廊下を歩いていても、人々が振り返ってわたしに向ける視線が重たく肌をなぞっていきます。学校だけでなく、帰り道の途中までも、人とすれ違う度に緊張を強いられます。
 ただそれが、その人とわたしの関係だけに留まるのであればそれでもいいのです。しかしわたしが悲しむのはもちろん、必要以上に喜んでも、わたしの心には必ずお兄ちゃんの影がチラつきます。だからわたしは、悲しむことを許されません。喜びを抑える義務があります。小向保世としての宿命です。
 一方で、全員がメガネをかけていないわたしを特別視するわけではありません。由花ちゃんはいつもと変わらず接してくれましたし、高瀬くんもそうでした。だからもしかしたら、慣れていないわたしが過敏に反応しているだけかもしれません。全部わたしの被害妄想かもしれません。
 わたしは魔性の女ですか? それとも、自意識過剰の嫌な女ですか?

 《二冊目 513ページ》
 その結果が偶然なのか、必然なのか、わたしには分かりません。でもそんなことはどうでもいいのだと思います。六組の男の子が突然、わたしのことを好きだと言ってきました。ろくに喋ったこともない男の子です。どうしてわたしなのかと訊ねてみると、つい一昨日、一目惚れしたのだそうです。わたしが中学校に入ってから数えても今日で427日、この日記も461ページ目に入ったというのに、です。
 結果から言えば、わたしの選んだ手段は有効だったということでしょう。わざと可愛くもない伊達メガネをかけ続けていたことは、男の子たちがわたしに興味を持つことを未然に防ぐ目的を充分に果たしていました。言ってみれば、あのメガネは川の氾濫を止める堤防の役目を担っていたのです。
 でもそれだけ、決壊したときの影響は大きいようでした。メガネをかけていなかった間に感じた不安はおそらくこれです。堤防が決壊すれば町は川の水に呑まれ、逆に川の水は泥土にまみれて汚れていきます。わたしと、周りの人間も同じだと思います。近寄ってはいけません。近寄らせてもいけません。好意にしろ、敵意にしろ、同じことです。それをせき止めていたのが、わたしが毎日かけていたメガネだったのです。
 堤防が直っても、汚れた水はそこに留まります。メガネが直っても、わたしの周りで徐々に変化しつつある、もしくは変化してしまった、人間の感情や関係は元には戻りません。うかうかしていたら、汚れた水を無理に排出するために、より大きくて深い穴が開けられてしまいます。誰も、その穴を修復することは出来ないでしょう。
 だから、告白を受け入れてお付き合いをするのなんて論外です。もちろんお断りしました。問題は、断り方です。ただ断るだけなら、それは汚れた水から一時的に遠ざかっただけです。彼一人から逃れても、また別の男の子が同じように来る可能性はあります。また、その男の子を好きな女の子や友達から、筋違いな恨みを買う恐れも無いとは言い切れません。
 そう、わたしがどうにかして食い止めなければいけませんでした。水をこれ以上汚さないために。
『ごめんね。わたしが好きなのはお兄ちゃんなの。わたし、お兄ちゃん以外の男の人には、魅力を感じない人なの』
 これがわたしの答えです。わたしに対する好意や敵意を一切無にしながら、お兄ちゃんから周りの皆を守れる、最善の答案だと思います。
 もし誰か、他に答えがあると言うのなら、教えてください。

 《二冊目 522ページ》
 いつもは近付くだけで逃げてしまう青い目の猫が、今日はわたしが傍を通り過ぎてもじっとしていました。もしかしたら触らせてくれるかもと思い、手を伸ばしてみましたが、牙を剥かれました。ちょっと悲しかったです。

 《二冊目 556ページ》
 駅前で大人の男の人が二人、ケンカをしていました。原因は分かりません。最初のうちはただの言い合いだったのだと思います。でもわたしが気付いたときにはもう、殴り合いが始まっていました。
 いいえ、違います。正確には殴り合っていたわけではありません。身体の大きな方が、小さな方を一方的に殴りつけているのです。わたしが見る限り、その大きい方の人は、日曜の昼間から酔っぱらっているみたいでした。もしかしたら、何か変な薬でもやっていたのかもしれません。とにかく、正常ではなさそうでした。誰もが遠巻きに見ているだけで、止めようとはしませんでした。わたしもその一人でした。止めることなど、出来るはずがありません。
 怖いから? 自分にも危害が及ぶことが嫌だから? それもあります。でも一番の理由は、あの光景を思い出して、胸が潰されるように痛むからです。息が止まって、手も足も震えるからです。もう三年近くも前の出来事なのに、今でもこの身体に刻まれた記憶が、暴力をスイッチにして呼び起こされるのです。
 わたしが身体の痛みと重さに耐え切れなくなる直前に、誰かが危険を省みず、その身を張って二人の間に割って入っていきました。警察や駅員などではありません。
 高瀬くんでした。
 でも高瀬くんは、決して身体が大きいわけではなく、お世辞にもケンカが強そうにも見えません。実際に、この男の人を取り押さえることまでは出来ていませんでした。それどころか、逆に殴られてさえいました。
 でも高瀬くんは確実に、警察が来るまでの間、小さい方の人を守り抜いていたのです。誰もが出来たはずなのに、それを実行したのは高瀬くん一人だけです。
 そして今、これを書きながら思い出したことがあります。いつもなら、あの発作が起こると一時間は続いていたのですが、今日はすぐに治っていました。きっと、高瀬くんです。彼がケンカを止めに入ったことが、わたしの痛みを取り除いてくれたのでしょう。

       

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