不意に腕が掴まれラダの身体はピタリと止まった。
「行きすぎだ」
全力で走っていたのに凄い力だと想いながら腕を掴む声の主の顔を見る。
「お……女!」
浅黒い肌に大きな瞳。
長い髪を二つに結っている。
「女は女でも、坊やの知ってる女とは違うんだ」
紅のひとつもひいていない唇で女がニヤと笑う。
何故かラダはドキドキして身を縮めた。
女はラダから手を離すと足元に置いてあった布袋の口紐を解き、ぐるりと周囲に撒く。
「貸しにしておく!」
霧に向かって言い放つ。
「あんた……誰?」
「良く見ておきな。飯の種にするんだろう?」
ハンダルと自分の会話を知っていることに驚いたが尋ねる暇はない。
女が撒いたものが原因か、それとも他に何かあったのか、自分たちの周りから霧は逃げるように遠のいて行き、広場の中央に向かっている。
いや、向かっているだけではない、何かに襲いかかるような勢いと嫌な気配に満ちている。
やがて霧を突っ切って、霧より黒い塊が中央に躍り出た。
「……ハ…ハンダル?」
瞬きも出来ずにラダが見据える。
傍らの女も同様だった。
マントを脱いでラダを餌にしたハンダルは斜め反対の方向に走る。
魔物の好む呪符をマントに貼り付けてある為、霧魔はそちらを追うはずだ。
ラダは叫びながら走っているが、後をつけてきたあのクソ忌々しい盗賊の手下が何とかするだろう。
それを計算にいれてのことだ。
霧魔がラダに向かうのを確認してから中央に方向転換する。
(もう少しだ)
抜き身の短剣を本当の鞘に戻し、大きな空の鞘を抜き取る。
山頂に突き立てられた剣。
それが宝であり、契約の証であり、世界を滅ぼすものだった。
「占い婆、あんたの言った通り、お宝は剣だったぜ」
誰にともなくそう呟いた時「貸しにしておく!」という声が響いてきた。
ハンダルに笑みがのる。
ラダの身が確保されたのだろう。
鞘を置き、剣の柄に手をかける。
と、総毛立つほどの強い気が剣から立ち上り、霧がハンダルにまとわりつくように集まってきた。
(どちらが早いか、どちらが我慢強いか)
力を込めて剣を引き抜こうとする。
しかし剣は根が生えているかのようにびくともしない。
黒い霧がハンダルと包む。
包んで皮膚を圧迫してくる。
「良い女に抱き締められるなら……いいんだがなぁ」
ジワジワと押し潰されるような感覚が続く。
呼吸が苦しくなり全身が痺れてくる。
「邪魔を……するな! お前は……待っていたろう?」
語る言葉は途切れがちだ。
だがそれに反応したのか霧の圧迫感が緩む。
「俺は……お前の……望みを叶える……者。占い婆に言われた。黒の魔女と言われたあの婆に……な」
黒い霧がハンダルから離れる。
その瞬間、ハンダルは渾身の力を込めた。
「抜けろ! 俺に従え! 俺に従え!」
剣がゆらと揺れる。
「よし! 来い!」
剣がハンダルの言葉に応えて抜けた時、取り巻く黒い霧の中に銀色の閃光が幾つも走りバリバリと空気を裂く音が響いた。
剣を手にしたハンダルが霧を睨む。
その眼は赤く、魔物のように光っている。
「望みを叶えてやる」
剣を振るう。
一閃。
二閃。
更に激しい音をたてて閃光が縦横無尽に走り、その幾つかはハンダルの身体に突き刺さった。
ゴウ、と獣のような咆哮がハンダルの口から漏れる。
その様子をラダは震えながら見つめていた。