Neetel Inside 文芸新都
表紙

「一枚絵文章化企画」会場
「崩れる夢」作:つばき(12/6 17:30)

見開き   最大化      


「崩れる夢」(作:つばき)

 
 ある夜、奇妙な夢を見た。
 
 気がつくと、目の前には少年が居た。
「このままだと、空が溶けて落ちてくるよ」
 少年が無表情に呟く。彼の整った顔立ちと肩まで伸びた金色の髪は明らかに現実離れしていて、その夢の「夢らしさ」を一層強めていた。
「空が溶けて落ちる?」
 私が問うと、少年はそっと腕を上げて遠くを指差した。その先では、辺り一面を金色に染める夕日が、今まさに山の向こうに沈もうとしていた。その強烈な色彩に私は思わず見とれる。こんなに鮮やかな夕焼けを今まで見たことがない。
「太陽が沈む。夜がやって来る。それが正しい世界の秩序。でも今、その秩序が乱されようとしている。このままだとやがてやって来るのは夜ではなく、無だ。空そのものを食いつぶす闇の塊だ」
「闇の塊?」
「そう。それは夜とは違う。もっと絶対的で不変のもの。致命的で取り返しのつかないもの。空が光を失うだけじゃない。それは空だけではなく、この世界全部を溶かしつくし、失わせてしまう。言っている意味はわかる?」
 少年が余りにも真剣な口調で私に問いかけるので、私は勢いに押されて頷いてしまう。でも実のところよく意味はわからない。夜とは違う闇の塊?世界を失わせる?
「それで、どうすればいいの?世界が失われないようにするには」
 一応というか、場の空気的に必要な気がして、私は訊ねる。
 少年は小さく首を振った。
「わからない。わかるのは、それが起こってはいけないことだというだけ」


 裏手の通用口から店に入る。
 狭い廊下にある更衣室のドアを開けると、中で着替えていた人物が驚いたようにこちらを見て、すぐに俯いた。
(…ああそうか、今日はシフトが一緒なんだっけ)
 私は何も言わずに自分のロッカーを開け、着替え始める。そして彼女の方をちらりと盗み見た。ただ後ろで縛っただけの真っ黒い髪。化粧っ気のない顔に、目尻の垂れた情けない一重まぶた。胸は大きいのだけれど、体つきが全体にずんぐりとしていて、くびれというものがない。腕も足もがっしりと太い。おおよそ、年頃の女子に備わっているはずの色気というものに欠けた容姿だった。
 何より気に食わないのはその態度だ。いつも声が小さくおどおどしていて、一緒に居ると気詰まりになる。なんでも一生懸命にやるのだが、よくわからないところで下らないミスをする。同じシフトの日はいつも尻拭いをしてやる羽目になるのが憂鬱だった。
 実際にその日も彼女は、単純なレジ打ちを何度も間違え、おでんはケースに入れようとして床にこぼし、商品棚の値札をつけ間違えてクレームをつけられ、掃除をしようとしてバケツ一杯の汚水を店内にぶちまけた。その度に真っ青な顔でスミマセンスミマセンとくぐもった声で謝り、パニックに陥ってうろうろする。その様子が堪らなく見苦しく腹立たしい。私だけではなく、客の方もそんな表情をしていた。彼女の態度にはどこかしら、人の神経を奇妙に刺激して暴力的な気分にさせるものがあるのだ。
 いったいこの人は生きていて何かひとつでもいいことがあるのだろうか。
 私は思わず考えてしまう。ランクの低い女子大に通っていると聞いたけれど、そこでもきっと同じように何かを間違えてはパニックになりうろたえ、周りから冷たい目で見られているのだろう。私ならそんな人生には耐えられない。
 それでも蓼食う虫も好き好きというか物好きもいるもので、彼女がこのコンビニの店長と不倫関係にあることを、バイト仲間の内で知らない者はいなかった。
 あの禿親父も、なんでわざわざこんなみっともない子を相手にするのだろうか。店長はもう五十代も後半で、SM好きの変態らしいともっぱらの噂だ。あるいは惨めな相手であればあるほど、加虐心が掻き立てられるのかもしれない。
 不倫というのだから、当然セックスだってしているはずだ。
 私は隣で居心地悪そうに突っ立っている彼女の、むくんだ体つきを眺めた。
 こんな女でも触られれば濡れるし、喘いだりもするのだろうし(ちっとも想像できないが)、中で出されて受精すれば妊娠だってするのだ。
 そのことを思うと奇妙な吐き気を覚えた。
 グロテスク過ぎる。


「ほら、空が剥がれ始めた」
 また私は夢を見ていて、目の前には見事な夕焼け空と金髪の少年がいた。以前と少し違うのは、その夕焼け空の端が、奇妙な青色に唐突に染まっていることだけだ。
「単に夜が来てるんじゃない?」
 私はクールに答える。また同じような夢を見ていることに驚いたけれど、シチュエーションには慣れてしまった。2つの夢は続いているのだろうか?
 少年は私の言葉に首を振る。
「夜とは違う。あれは夜の暗さじゃない。空そのものが欠けている」
「確かのこの間は『剥がれ落ちる』じゃなくて、『溶けて落ちる』って言ってなかった?」
「どちらでも同じ。無がやって来ている」
 どうやら夢は続いている、という設定らしい。でもどちらも私の脳味噌から発生したものなら、続いていたってさして不思議ではないのかもしれない。珍しいことではあるが。
「でもどうすれば止められるのかはわからないのよね」
「そう。わからない」
「でもどのみち、夢なんだから、そんなに心配しなくてもいいわよ」
 私は鼻先で笑った。けれど少年は真剣な様子を崩さない。
「確かにこれは夢の話。でも君達の世界では、夢に関してまだ何もわかってない」


 『君達の世界では、夢に関してまだ何もわかってない』?
 翌朝目が覚めても、まだその台詞が頭に残っていた。
 猿の脳から夢を見るための部位を切除すると、やがて猿は発狂すると聞いたことがある。理由は不明。そう、確かに私たちはまだ夢についてはまだ何も知らないのだ。
 妙にリアルな夢を見るのは精神的に不安定な証拠だと、何かで読んだことがあった気がする。でもはっきりとは思い出せない。
 そこまで考えて、はっと気がつく。
 …馬鹿馬鹿しい。夢のことをこんなに気にする必要なんかない。
 着替えて化粧をして、大学に向かう。講義も休み時間も、友達と適当に喋りながら時間を潰す。日が暮れる頃にバイトに行く。なぜかまたあの女と同じシフトだ。憂鬱になる。
 今日もまた彼女は下らないミスを連発して、謝りうろたえ続けていた。
 そしていつも通り私たちの間には会話はない。
 けれどそのにきびの痕がのこる肌を見ているうちに、ふとそういう気分になった。
「ねぇ、鈴原さん」
 客の居ないときを見計らって声をかける。相手はびくりと身体を震わせた。痰を切るように何度も喉を鳴らす。
「な、なんですか」
 くぐもって掠れた、小さな声だった。妙に平板でトーンが高い。
「鈴原さんって、彼氏とかいないの」
「え、それは、あ、あの、」
 うろたえて早口になる。その口調に苛立つけれど、顔には出さないように努めた。
「いない、いないですね」
「そうなの?」
「いるわけないです、そんなの」
 嘘吐き。あるいは、不倫相手のことを「彼氏」とは呼ばないのか。
 ねぇ、普段は店長とどんなことしてるの?SMって気持ちいい?もちろんマゾの方だよね?
 色々と意地悪な質問が思い浮かぶけれど、さすがにそれは口には出さない。
「いるわけないとか、なんでよ。なんでそんなに自分を卑下するの」
 全く思ってないことを口にして、ハハハと笑ってみる。相手はまっすぐ床を見つめたまま、硬い口調で小さく呟いた。
「だって、そんな、誰かの時間を奪ったりするなんて、そんな権利、私にないですから」
 
 帰り道に携帯が鳴る。画面を見ると、父親からの電話だった。無視しようとする。でも携帯は執拗に鳴り続ける。結局私は携帯を開いて、通話ボタンを押してしまう。電話に出たくなんかないのに、なぜかそうしないわけにはいかない。
「もしもし」と声を出すと、低い声が少し遠くから聞こえてきた。
「なあ、里佳。なんで家を出てったんだよ。いつまで意地を張ってるんだ。わかってるんだよ、本当は帰って来たいんだろ」
「黙ってよ」
 私はなんとかその声を遮ろうとする。でも相手は黙らない。
「お父さんは里佳を許しただろ?それなら里佳だって同じようにお父さんを許すべきだよ。それが家族じゃないか。お前の住んでいるところだってもうわかってるんだ。迎えに来てもらいたいのかな?それならいつだって行くよ。その代わり約束しなさい。もう門限を破らないって。お父さんとの決まりをちゃんと守るって。わかるだろう里佳、それがお前のためなんだよ」
 そこまで聴いていて耐えられなくなって、私は電話を切った。
 頭が痛い。吐き気がする。泣きそうだ。苛々して頭が張り裂けそう。叫び出したいのを懸命にこらえなければいけなかった。
 私はあの男を絶対に許さない。あの男がしたことを、絶対に絶対に許さない。
 深い憎しみが私の内部に潜んでいる。それは少しずつ内側から身体を破壊していくウイルスみたいに、時間が経てば経つほど私自身を蝕んでいく。私の向かう先はもう破滅しかない。それも全てあの男のせいだ。どんなに忘れようとしても、忘れたように過ごしていても、いつもそれは目の前に立ちふさがってくる。
 私は訳のわからない焦燥感に駆られて、夜の道を走り出した。どこかで誰かに見られているような気がした。それは父親だろうか。それとも醜いバイト先の女だろうか。わからないけれど、捕まってはいけない。
 世界は醜い。
 悪意が埃のように空気中に舞っている。呼吸するたびにそれが肺を刺す。
 とてもじゃないけど生きていける気がしない。
 苦しい。


 その夜の夢では、とうとう青い闇が夕空に滴り始めていた。
「ほら。始まる」
 金髪の少年が呟いた。彼は無表情でそれを眺めている。
 この世界の崩壊が止められないことが、私にはもうわかっていた。
 だってこうなることは随分と前から決まっていたのだから。
 私たちは2人で、見事な黄金色が爛れていく様子をいつまでも眺めていた。

       

表紙
Tweet

Neetsha