Neetel Inside 文芸新都
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「一枚絵文章化企画」会場
きっとだいじょうぶ  Winterfall 2009/12/29

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きっとだいじょうぶ




 私、朔矢桜は自分の中のその気持ちがなんなのか表現する事が出来なかった。
 怒っている、と言えばそんな気もするし。
 悲しい、と言われればそうかもしれない。
 嬉しい、と聞かれたら、それにうん、と頷く事は出来ないけれど、そうしたほうがいいのかもしれないとも思う。
 だって私はママの事嫌いじゃないし、好きだから。
 だけど、私はやっぱりパパの事も好きだから、やっぱりこの苛立ちはどうしようもないのだと思う。


「お母さんね、お付き合いしてる人がいるの」
 そう言われたのは私が高校三年生になったばかりの穏やかな春のある日だった。その時、私はママとテーブルに向かい合って座り、なんとなくいつもより豪勢な気がする夕食が終わって、二人で紅茶を飲みながらテレビを見ていた。人生にはいいタイミングと悪いタイミングがあると思う。多分、ママはこの時がいいタイミングだと思ったんだろう。そして多分私にとってはそんなものにいいタイミングが訪れる事なんて永遠にないような気がした。
「え?」
 テレビを見ていたからと言って聞き取れなかった訳ではないけれど、私はそうやって馬鹿みたいな返事をしていた。ゆっくりとテレビからママへと視線を移すと、そこには真剣な眼差しがあり、その目は私の事を叱る時にも似ていたけれどやっぱりそれとも違って、そんな顔をしているママを見るのは私は初めてだった。
 いつも私がする、罪悪感から顔を逸らしてしまうという行為を、その日したのはママで、ママは私を見ずにもう砂糖もミルクも入れ終わった紅茶を意味もなくスプーンでかき混ぜながらもう一度さっきと同じ言葉を口にし、そして言い終わってから私の顔を見る。この年になると私の身長もママとあまり変わらなくなっていて、殆ど同じ高さで重なり合うその視線に、だけど私は押し潰されそうだった。
「いつから?」
「桜が高一になって、その秋頃から」
「……へ、へぇ、そうなんだ」
 そう言うのが精一杯だった。そんな前からママに恋人がいたと言う事にまずショックを受け、それに全く気がつかなかった間抜けな自分と、いままでそれをひた隠してきた事に腹立ちを覚え、そして、それを今言う理由を考えて憂鬱になる。
「今まで黙っててごめんね。あのね、桜」
 その言葉を聞くまで、もっとなにか話したような気がするけれど、今どんなに思い出そうとしても、私の言った事も、ママの言った事も、思い出す事は全然出来ない。ただ、その言葉だけは忘れようとしても、全然忘れる事は出来そうにもなかった。
「お母さん、再婚しようと思うの」
「パパの事、忘れちゃったの?」
 沈黙がやってきて、私はそれ以上胸の中で蟠る思いを言葉として形にする事が出来ず「私、困る」とだけ言うと、半分ほど残ってとっくに冷めてしまった紅茶を置き去りにして自分の部屋へと向かった。


「桜はロマンティストなのよ」
 クラスメイトにそう言われて、それはきっと母親譲りなのだ、と思い、溜め息を吐いた。
 彼女はいつもは明るいはずの私が、ある日を境に――それは当然ママと話した日からなのだけど――どんよりとまるで一人だけ一足先に梅雨入りしたかのような暗くてじめじめとした様子に心配したようで、どうしたのかと尋ねられた。私はママの事を言う気にはなれず「色々あるのよ」とだけ言うと、そう言われてしまった。
「さくらさくや」
「さくや、さくら」
 私は彼女が抑揚のない声で言ったそれに、ちょっとムッとしながら答えた。
 さくや、さくら。
 自分でも語感が悪い名前だと思う。もっともパパもママも娘がこういう状況になるなんて事はまさか想像もしていなかっただろう。その名前のおかげで、中学生の頃にもたまにからかわれたりした事もあった。今でこそこうやって笑い話になるけれど、それより更に小さかった頃の私は――色々お互いの家族の間で事情があったらしいけど私は詳しくは知らない――突然苗字が変わった事にどう反応すればいいのか分からず大いに戸惑っていた。
 パパが交通事故で私とママの前から唐突に姿を消してしまったのは、私が小学五年生の時だった。その日のママと私はいつもと変わらない様子で仕事から帰ってくるであろうパパの事を待っていた。だけどその日、いつもの時間になってもパパは帰ってこなかった。残業かしら? とママが首を傾げ、私は「パパまだー?」とテーブルに座って口を尖らせていた。その内ママは携帯電話でパパに電話をかけたが、それも繋がらなかった。でも、この時もまだまさかそんな事になっているなんて、私達は想像もしていなかった。ママのエプロンについていた水滴が乾く頃、先にご飯食べちゃおうよ、と私は駄々をこねた。しょうがないわねぇ、と言いながらママもエプロンを椅子にかけると二人で先に食べる事にし、そして食べ終わった頃に、電話がなった。
 ママが「誰からかしら?」とディスプレイを見てから「もしもし」と答えて、そしてしばらくの沈黙の後、ママの体がぐにゃりと捻じ曲がり、なのに、まるで身体の重みが全てなくなってしまったかのようにふわりとその場に崩れ落ちた。
 私は目を見開いて、状況が理解出来ないまま、それでもなにか大変な事が起こってしまったのだと思ったけれど、どうしたらいいのか分からなかった。ただ、ママが椅子から崩れ落ちて、その弾みにテーブルに置かれてあったグラスが倒れ、そこから溢れ出した水がエプロンをぐちゃぐちゃに濡らしていた。
 私は陰鬱な気持ちを忘れようと一度深呼吸する。
「ねぇ、桜ってすぐに散っちゃうよね」
 私が窓の外をぼんやりと見ながらそう言うと、彼女は「え? あぁ、そうね、綺麗なのにね」と頷く。
 桜の樹齢を思えば、それはとても長生きと言ってもいいのかもしれない。だけど私は春が来るたびに咲き誇り、そして夏が来るまでに散ってしまうそれこそが生と死の表れではないだろうかとも思う。桜は春が来るたびにその生命を息吹かせて、そしてほんの短い間だけ美しくこの世に生を育んで、そして間もなく死を迎える。そしてまた来年の春にまた生まれ変わり、この世に産声をあげるのではないだろうか。
 そんな事をなんとなく伝えてみると想像したとおり「ロマンティックね」と言われ、私は机に突っ伏した。


「……七年、かぁ」
 学校から帰宅する途中ポツリと呟く。
 もうそんなに経ったのか、と思いもしたし、まだたったの七年だ、とも思う。
 パパがこの世からいなくなってしまったのはパパが三十五歳で、同い年のママはもう四十を超えている。年齢の割に若く見られる事が多いママはその顔に似合わず私を育てるためにとても苦労してきた事を私は知っているし、当然感謝もしていた。だけどふと、そうやってママが老け込む事無く、若々しい見た目でいられたのは、私の知らない男のおかげなのだろうか、と思い、そんな事を考えた自分がひどく矮小で、汚らわしい奴だと思えて、私はげんなりとしてしまった。けど、それはしばらく私の頭にカビみたいに張り付いてなかなか消えてくれない。
「……パパの事、どうするのよ」
 もう一度、呟く。
 私はパパの事が大好きだった。
 小さい頃私はいつも胡坐をかいているパパの間に座っていた。その時パパは私の頭を撫でてくれて、そうされる事が私は大好きで、ママにいいかげんにしなさい、と言われるくらいいつもそうしていた。
 私にとってパパはいつも私がピンチの時に助けに訪れてくれるヒーローみたいだった。運動会のリレーで私がこけた時には、周りの視線なんて気にしないで「大丈夫だ! 桜! 頑張れ!」と持っていたビデオがその手から飛んでいってしまうんじゃないかと思うくらいに叫んでいて、泣きそうになっていた私はそれを見て笑ってしまった。そんなエピソードは探し出せば幾らでも思い出せるし、それらは今でも霞む事なんてなかった。そして私が今でも鮮明に覚えているのは、パパとママと私の三人で見た桜の事で、家からそう遠くない場所にある川原に連なる桜を見る為に私達は毎年そこへ訪れていて、ママの手作りのお弁当を食べながら、はしゃぐ私をパパは抱き上げてくれて、その高さから見る川原の向こうの桜を見つめているとパパは「綺麗だろ? あんなふうに誰かに安らぎを与えられるようになってほしくて、お前に桜って名前つけたんだ」とある年に言った。
 パパがいなくなって、ママは新しい春がやってきても、あの桜を見に行こうとはしなかった。きっと忙しかった事もあるし、パパの事を思い出して辛くなるからかもしれない。なので私はママには内緒で毎年一人で行く事にしている。
「いこっかな」
 普段は休日に訪れていたのだけど、なんだか家に帰るのが億劫で、私は見えてきた自宅をそのまま素通りした。歩いてもそう遠い距離ではなかったので、途中自販機でドリンクを買い、それを飲み終える頃、私は辿り着いて例年通り「うわぁ」と声をあげた。そこにはどこまでも、どこまでも桜が続いていて、穏やかに風に揺れると、まるで隣り合う桜同士が寄り添っているようでもあり、私はいつも自分もその中に加わりたいと思う。
「綺麗」
 そう呟いた時だった。
「うん、本当に」
 そう頷かれた。私はまさか返事が返ってくる事なんて想像していなかったし、それどころか私以外に人がいる事すら気がついていなかったので、思わず悲鳴を上げてしまいそうになったが、なんとかそれをこらえて、勢いよく後ろを振り返った。
「どうしたの?」
「……え、えっと、ちょっと、びっくりして」
 彼は、そう言うと「あぁ」と苦笑しながら「ごめんごめん」と言ってきた。私は自分の呟きが恥ずかしくてまともに相手の顔を見てられなかったのだが、その言葉と、彼がちょうど鼻の高さ辺りまで手をあげた姿を見て私は「あれ?」と思い、そしてその手の向こうの顔を見た時、その思いは更に強くなった。
「いや、君の後ろから見てたんだけど、本当に桜が好きなんだと思って」
「まぁ、好きだけど」
 妙に馴れ馴れしい彼に私はたじろぐものの、人見知りしがちな私にしては珍しく、彼が隣にすっと並んでも、そこから離れようという気にはならなかった。私と同じくらいの年齢だと思える、その少年は無言でその場に胡坐をかいて座り込むと、私を見て地面に指を向けた。「座れば?」と言っているようで、私は素直に従う。
 そうして彼の横顔をしばらく見つめる。そうしていると彼が「なに?」と首を傾げたので私は慌てて「なんでもない」と赤面しながら目を逸らす。
「あの……君って近所に住んでるの?」
「え、うん。こっから歩いてこれるくらい」
 そう彼は言うけれど、私の記憶の限り彼を見かけた事は今までなかったように思う。最も幾ら狭い街だからと言って全員の顔を把握する事なんて出来る訳もないけれど。
「私も近所なんだ」
「へぇ、じゃあ、結構ここに来るんだ」
「うん、好きなんだ。ここさ、私の思い出の場所だから」
「思い出?」
「うん。昔よく家族でここ来てたんだ。桜を見に。私さ、桜って言うんだけど、パパはあの桜みたいに私に育ってほしくてそう名付けたんだって」
「へぇ、いいな、それ。俺もその内子供出来て女の子だったら、桜って名前にしたいと思うよ」
「ホント?」
「ホント。俺もさ、ここから見る桜が大好きなんだよ。俺もガキの時からずっとこの桜見て育ってきたからさ」
 彼はそう言って微笑んだ。私はなんだか酷く時間の流れがゆっくりになったような奇妙な感覚に包まれたような気がして、だけどそれは不快ではなくて、うとうとしてしまいそうになるようなとても穏やかなものだ。
「ねぇ、君は?」
「ん?」
「名前、なんて言うの?」
「あぁ、名前? 大志」
「……苗字は?」
「苗字? 本多」
 それを聞いて、私は、あぁ、そっか。と内心で呟き、彼が見つめている桜を私も見つめた。彼はずっとずっとこの桜を見て育ってきたんだ。それは一人だったり誰かと一緒だったりのかもしれないけれど、今こうやって私が辛い時、ここにやってくるように、私と歳の近い彼もただ桜を眺めるためだけじゃなく、その光景そのものに、救いのようなものを求めたりしているのだろうか。
 本多大志。
 忘れられないその名前を、どこか見た事のあるような顔を持つ彼はちらりと私を見た。
「なんか悩んでる?」
「うん、まぁ、ちょっとね」
「そっか。俺も今悩んでる」
「なにに?」
「失恋したんだよね、俺」
「へぇ、別れたの?」
「いや、付き合ってもいないよ。片思い。中学校の時の奴なんだけど、高校は別でさ、そっちで恋人見つけたんだってさ」
「告白しなかったの?」
「出来なかったんだよなぁ、びびっちまってさ」
「うわ、ださ」
 思わずそう言うと、彼は本当にショックだったようで、胡坐をかいている足に頭をこつこつとくっつけて「うー」と唸るような声を出した。
 あぁ、そうだ。いつも困るとそうしていた。
 私はなんだか笑いたくなり、そして泣きたくなる。
 ねぇ、その癖、ずっと昔からなんだね。
 彼はやがてその身を起こすとはぁ、と一つ吐息を零した。
「マジで好きだったんだよなぁ」
 そう言う彼に私はなんて声をかけるべきかしばらく悩んだものの、結局「うまくいかない事もあるよね」と無難な返事を返す事しか出来なかった。彼は「まぁ、そうなんだけどさ」と全然すっきりしていないながらもそう答え、
「で、桜はなにに悩んでんだ?」
 と問われ、私は口ごもった。
 彼はそんな私に「俺だけ言わせるのはずるい」と言ってくるのだけど、彼にその事を言うのはなんだか酷く辛い事のような気がしたんだけど、でもよく考えれば少年の彼にそれを話しても、分かりはしないだろうと思えた。
「私さ、パパがいないんだ。あの……事故にあって、それでママと二人だけになっちゃったの」
「そうなんだ、桜も大変なんだな」
 彼はなんだか随分簡単に私の名前を呼ぶ。私は「うん、でも、大丈夫」と言ってあげたくなる。
「ママ、再婚したいんだって」
「嫌なの?」
「うん」
 私ははっきりとした口調で頷く。
「でもさ、桜。お前の母さんもお前の事考えてると……」
「分かってるわよ!!」
 やめてよ!!
 私は思わず叫んでいた。彼が言いたい事は痛いほど分かる。ママが私の事を考えてない訳なんてきっとないんだ。そんなの分かってる。でも、あなたは分かってない。本当に他人事なら、私だってあなたと似たような事を言っていたのかもしれない。
 でも、ダメなんだ。ねぇ、あなたがそれを言ったらダメなんだ。
 本当にいいの? ねぇ、それでいいの?
「パパの事、忘れちゃって、いいの?」
「なんで、そうなるんだよ」
「だって、そうじゃない! 他の奴とくっつくってそういう事じゃん! パパよりもそいつを選んだって事じゃん!」
「落ち着けよ」
 気がつくと、彼の手が伸びて私の頭を撫でていた。彼の大きな手は私の頭をすっぽりと包んでしまって、彼はそうしながら「いいんだよ、それで」と私の目を見つめた。
「だって」
「お前の親父は、その事で恨んだりしねーよ。絶対そうだよ。だってさ、幸せになってほしいじゃん。生きてるんならさ。死んだ俺の事にずっと囚われてなんていなくていいんだよ、それでいいんだ。お前らが幸せだったらそれでいいんだよ」
「な」と言って、彼は私の頭をぽんと叩き、にこりと笑った。その懐かしい微笑みを見て、私は自分でも気付かない内にぼろぼろと涙を流していた。彼はそんな私に「しょうがねーなぁ」と言いながら、私が泣き止むまでずっと頭を撫でていてくれた。
 ねぇ、それは私に言ってるの?
 それとも目の前にいるただの女の子に言ってるの?
 どっちかなんて、聞く必要がない気がした。
「ごめん」
「いいよ、落ち着いた?」
「うん、なんとか」
「そっか」
 随分水分を含んだハンカチを私は鞄にしまい、ふぅ、と深呼吸をする。彼はしばらく沈黙が続いたためか「あーあ」と空を見上げて溜め息を零し、私は告白出来ずに終わってしまった恋を嘆いているのだろうかと思う。
「そんなに好きだったの? その人」
「好きだったよ。メチャクチャ好きだったよ。もう金輪際あんなに誰かを好きになる事ないってくらい好きだったよ」
「そんなに好きなら……」
 言おうか、言わないでおこうか。
 なんか、ずるい気がした。でも、きっと彼は「その時」その恋を諦める事にしたんだろう。きっと一人で、この川原で桜を眺め、そして一人で胸に痛みを抱えたまま、その恋を忘れようとしたのだろうか。
「え?」
 もし、私が今そう言う事で、彼がその恋に再び手を伸ばした場合、私はどうなってしまうのだろう。もしも、彼の恋がなんらかの原因でうまくいく事になって、その付き合いがずっと続いたりしたら、私とママはどうなるのだろう。
 そもそも、意味などないのかもしれない。これは残響なのだから。その残滓が例え本来の道筋から外れたとしてもそれは只それだけの事かもしれない。でももし、そうじゃなかったら?
 彼が、違う一歩を踏み出したなら?
「…………」
「なんだよ?」
「そんなに好きなら……」
 ごめんね、ママ。
「告白すればいいじゃない」
「なに言ってんだよ」
「いいじゃない、そんなに好きなのに、黙ったまんまでこのまま終わっていいの?」
 私は彼にそう言った。
 そうする事でもしかすると、私は消えてしまうのかもしれない。存在すらなかった事になるのかもしれない。誰の記憶からも取り除かれて誰も私の事を思い出すことすらなくなるのかもしれない。


 だけど、言う。


 パパならそう言った筈だから。
 私は、パパの子だから。


「ダメだよ」
 だけど彼がそう言ったのは否定で、私は尚も言い募るけど、彼は頑なに首を横に振った。
「いいんだよ、これで」
「なんで?」
「もう彼氏いるんだぜ? あいつも幸せらしいって友達が言ってたし。しょうがねーんだよ」
「いいの?」
「うん」
「いいの? 忘れちゃっていいの? 忘れちゃうの? そういう誰かを愛してた事、忘れちゃうの? その失恋の傷も、いつかは忘れちゃうんだよ?」
「忘れるんじゃねーよ」
「え?」
 彼は、ほら、と桜を指差した。
「いつかさ、あの桜みたいに綺麗な思い出になるんだよ。好きだった事も、辛かった事も、忘れずに、ずっとこの胸に残ってんだよ。でもちゃんと、思い出になって、そしてまた新しい花を咲かせるんだよ」
「悲しくないの? 思い出になっちゃう事」
「それは嬉しい事だよ。誰かの胸に俺がいる場所があるって事は」
「……私のパパも、ずっと消えずにいるの?」
「いるよ、お前の母さんの中にも」
 私は、もうなにも言えなくなった。彼は「ちょっと話しすぎたな」と言うと立ち上がった。一体どこに彼は行くのだろう、と思うと同時にもう会えないのだろう、とも思う。私はほんの少しそれに胸の痛みを覚え、そして少し、怒っていた。
「ねぇ」
「あん?」
「幽霊って信じる?」
「いきなりだな」
「いいから」
「いるんじゃね?」
「あのさ、幽霊ってその人が一番輝いてた姿で出てくるらしいよ」
「はぁ? ホントかよ、それ」
「うん」
「まぁ、確かに死んだ時の姿だったら、全員じじいとかばばあばっかだわな」
「ママには内緒にしてあげるから」
「は? なにを?」
「こっちの話」
 彼は訳が分からない、と言ったようでしきりに首を傾げていたが私は「いいからいいから」と曖昧に誤魔化しながら「じゃ、行くね」と彼に背を向けた。
 そっか、彼はあの頃が一番輝いていたのか。私はなんかなぁ、とちょっと愚痴りたくなる。私やママがちょっと可哀相だ。でもしょうがないかな、とも思う。だって愛していたんだから。それでも、彼はまた自分の中に桜を咲かせて、そしてママと出会い、私を生んで、桜と名付けた。そこにもきっと愛は存在していたんだから。
「おい、ちょっと待てよ」
「しつこーい」
「だってよぉ」
 ふと、私は違和感を感じる。
「しょうがねーんだよ」
 少し、彼の声が低くなっているように感じる。先程までの瑞々しい響きに、少し濁りが混じったような、そして聞きなれた声。
「お前も、同い年くらいの方が話しやすいだろ?」
「え?」
「ママと仲良くしろよ。新しい家族が出来たら、お前もうまくいけるよう頑張れよ。俺の事はたまに思い出してくれたらいいぞ」
「……パパ?」
 私ははっとして振り向いた。
 そこにいたのは、先程の少年ではなく、しかし確かに先程の少年で、だけどそこにいるのは、少年ではない彼だった。
 彼は彼を見つめている私の目を、微笑みながら見つめ返すと「幸せになれよ」と言い手を上げた。
「きっと大丈夫だ」


「うん」


 瞬きをすると彼の姿はもう消えていた。私は彼がいたはずの場所の向こうに見える桜をしばらく見つめてから、足元に転がっていた鞄を拾い上げ家路へと向かう事にする。
 その帰り道の途中、私はどうやらロマンティストなのはママだけじゃなくてパパもそうだったらしいと思い、全く両方がそうなんだから、私がそうなるのもしょうがない、と訳もなく苦笑する。
 そして、ママに会ったらなにを話そうかと考える。
 私達は幸せになれるだろうか? それは私達次第なんだろう。花を育てる事が出来るのは。
「さくや、さくら。桜、咲くや、かぁ」
 出来るなら、もう少し語感のいい苗字の人だったらいいなぁ、と私は願う事にした。
「きっと大丈夫だよね」
 それを肯定するように川原の向こうから、風に乗ってこちら側へとやってきた桜の花びらが私の頭上でふわりと踊った。

       

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