Neetel Inside 文芸新都
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「一枚絵文章化企画」会場
「追憶の少女」(作:ロリ童貞 12/11 11:27)

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・追憶の少女   作:ロリ童貞



『私たち結婚しました』

 ――知ってるよ。

 薄曇りの一月一日。宛名が僕の名前に挿(す)げ替えられただけの、大量生産の官製葉書。炬燵(こたつ)の天板に散らばった厚紙達の中から寄り分けた、一枚の年賀状。手にしたそれに印字された報告文をまじまじと見つめながら僕は、まるで人と会話をしているかのように自然に呟(つぶや)いていた。写真プリント専用に特殊な処理を施した印刷面を贅沢に駆使して、見知った二人の笑顔が寄り添っている。日に焼けたガサツな肌にはまるで似合わぬクリーム色のタキシードを着用した、僕の親友。その隣には、僕の想い人――だった女性。割高な紙へ焼き付けるのに相応しいそこそこ煌(きら)びやかな純白のサマーウェディングドレス姿で彼女は、追憶の中の少年に微笑みかける。南国から遥々旅してやって来たにしては、この葉書はそこはかとなく冷たい。東京の冬将軍は、あらゆるものから根こそぎ体温を奪ってゆくのだ。


 僕たち三人は沖縄で生まれた。よく遊び、よく寝、よく喧嘩しながら、本当の兄弟姉妹のように仲睦まじく育った。皆同い年だが親友も僕も、彼女のことを「お姉ちゃん」と呼ばされていた。生まれ月が二か月早いからというだけの理由で、その呼称を強制されたのだ。親友のほうは素直に従っていたが、僕は少々反発したことを覚えている。確かそれは就学前のことだったと思う。長じて後に、本意を尋ねてみたことがある。曰く、弟が欲しかったのだそうだ。大家族の末娘だった彼女は周囲の世話になるばかりで、それはそれで甘えられて楽なのだけれど、たまには誰かの面倒を見てみたくなったのだ、と。そんな一時の気まぐれが定着してしまい、以来ずっと、彼女は僕の「お姉ちゃん」のままだった。
 幼少時より家族同然に過ごしてきた僕たちの間に、親愛の情の範疇には収まりきらない目新しい感情が顔を覗かせ始めたのは、高校に入学してからの事だった。否、自覚したのがその頃だっただけで、もっと前から存在はしていたのかもしれない。それに多分、その感情を抱いていたのは三人のうちで僕一人。僕は、彼女を一人の異性として好きになってしまった。好意という感情の芽は、湿潤な亜熱帯の太陽に当てられて生長し、彼女と僕との何気ない日常生活の土壌に根を張りながら、恋という極彩色の花を咲かせる。美しいその花はしかしながら、おぞましい毒気を放ってもいた。僕は、親友と彼女との仲を疑うようになったのだ。
 無論、疑うというのは筋違いだ。彼らが恋仲になろうがどうしようが何処にも不正義はない。それでも盲(めし)いた当時の僕は徐々に、自らの毒に侵されていった。三人の中で交わされる今まで通りの会話の端々に、彼らの間の実在しない恋愛感情の幻影を見出し、怯え、逃げ、そして、消耗した。何も考えず楽しく暮らしていたはずの毎日が、ひどく疎ましいものに変容した。楽園の永続性が、翻(ひるがえ)って地獄の責苦となった。恋焦がれる心というものは、崇高で輝かしいものではなかったのか。彼女を想う気持ちが、彼女を奪われまいとする気持ちに負けてしまう。彼女を欲する情熱が、その対象たる彼女自身への不信と化す。僕は、保障が欲しかった。彼女には僕とだけ仲良くして欲しいと理不尽に、身勝手にそう思った。僕は告白を決意した。
 その日も元日だった。沖縄とはいえ真冬は流石に長袖でないと少々冷える。初詣が済んで着物からシンプルなパーカーに着替えた彼女を連れ出し、僕は米軍基地脇の小道を歩いていた。途中の緩やかなカーブでは打ち捨てられた戦車が一台、百年一日の如(ごと)く海鳥と共に潮風に涼んでいる。湿った空気は、火照った僕には心地良い。和服は重かっただの暑かっただの文句を垂れていたから、彼女にとっても今の状態は快適なのだろう。僕たちは、お互いが初めて出会って一緒に遊んだ児童公園に向かって歩いていた。その思い出の場所で、高校を卒業して離れ離れになる前に、僕の想いを全て伝えたいと思ったからだ。今にも口をついて出そうな彼女への熱い想いを抑えながら僕は、すたすたと先を歩く彼女の後ろ姿を追っている。彼女の足元に目をやると、左足だけ靴下がずり落ちていて。

「私が二人のうちどっちかを選ぶなんて、本気で思ってる?」

 ふいに立ち止まり振り返った彼女が、そう言った。僕が驚いて顔を上げると、近寄らねば分からない程ほんの僅か俯(うつむ)き加減で優しく目を瞑(つむ)り、演技がかったポーズで佇(たたず)んでいる彼女がいた。左手をポケットにつっこんで若干偉ぶり、右手は数字の二を表す形に親指と人差し指を九十度開いて肩の上の高さまで挙げていた。一陣の風が通り過ぎて、彼女の短く艶やかな黒髪が一瞬乱れ、すぐに戻る。なんのことはない、僕の心の内など、「お姉ちゃん」はとうにお見通しだったのだ――


 襤褸(ぼろ)アパートの室内を蹂躙する隙間風に吹き付けられて、僕は現在に引き戻された。矢張り東京の寒さは身体に応える。温(ぬる)くなった甘い紅茶を啜(すす)り、手の中の一通の年賀状に再び視線を落とす。あの頃と何も変わらない彼女は、写真の中からこちらを見てはいるのだけれども、その伸びやかで清々(すがすが)しくて故郷(ふるさと)の気候のように温暖な笑みは、もう僕には投げかけられていない。それは新郎と、そして、少々思い上がらせてもらえるのならば、幼馴染だった少年時代の僕、男性としてではない弟としての僕に対して向けられているものだった。
 土地柄ずっと身近だったにも拘(かか)わらず基地だの戦争だのといったものが嫌で、僕は高校卒業後に東京の商社に就職した。新郎の格好をしている親友は、何人かの友人達と一緒に、地元で自衛官になった。家事手伝いとして、新婦もまた沖縄に残った。住む場所が離れていても僕たちの心は常に一緒だと、そう信じていた。けれども、学生時代という堅牢な防壁を失った天然温室育ちの信念は、現実社会の寒風に侵されて儚く溶けた。距離が離れれば情も離れ、近くにいれば心も寄り添う。人の気持ちは変わるもの。そういうものだと自分を納得させる一方でまた、あの日の彼女の言葉を思い返している僕がいる。あの日の彼女の姿をありありと思い浮かべている僕がいる。どっちかを選ぶなんてできない。そう彼女は言ったはずなのに。
 彼女が結婚したと母親から電話で聞いたのは、昨年の秋口だった。恋人同士になった日だったら、さらに遡(さかのぼ)るのだろう。離れて一年も経たない内に、僕の告白を遮ってから一年も経たない内に、彼女は、親友のほうを選んだ。
 嗚呼。もし僕が、沖縄を出ないで自衛官になっていたとしたならば。写真の中の新郎は、僕の顔をしていたのだろうか。僕ならもう少しましにこのタキシードを着こなす自信がある。些細な着想から広がった詮無い想像が僕を深みに誘(いざな)い、ベールを上げた彼女の素顔が浮かんでは、今度は自分の幼年期に逆戻りして思い出が再生され、延々と巡っては結局あの日の彼女のシーンに辿(たど)り着く。澄んだ青空の下、気持ち良さそうに風を受けて立つ彼女。一人だけなんて選べないと言った彼女。そして、僕を選ばなかった彼女。そう、彼女は、僕を選んではくれなかった……。

 ――彼女は本当に、どちらも選んでなどいなかったのかもしれない。

 戦闘機が飛び交い、キャタピラの跡が残る、沖縄のいつもの日常。気が付けば既にそこに存在していた僕たち。本土の人々にとっての異様な光景が、僕たちのありふれた生活世界だった。戦争、基地、反対、賛成、考えるまでもなく、選ぶまでもなく、僕たちはそれらに囲まれて暮らしていた。みんな直接間接に軍事に携わり、みんな若くして結婚する。身の回りのあらゆる事物が当たり前で、何かを自分で選べる権利など最初から無かったし、そもそもそれを不満に思ったことも、自覚したことすらも無かった。粘り付く歴史や伝統は若者にとって頸木(くびき)であると同時に、僕たちを温かく包み込んでくれる共同体の毛布でもあった。体の触れ合い。心の繋がり合い。その、不可知の自明性。それは、この地域に脈々と受け継がれている正しい在り方そのものだった。たまたま僕が、はみ出しただけなのだ。
 東京では、親指と人差し指を九十度に開いたジェスチャーは数字の二ではなく、何かを指し示す動作に映る事が多いらしい。もしくは、ピストルを象(かたど)っているか。あの時の彼女は果たして、どんな意味を右手に込めていたのだろう。僕と同じ土地で生まれ育った彼女が形作ったのだから数字の二であるはずなのだけれども、今の僕にはわからない。彼女が変わったからではない。僕たちが生まれる前からそこに在ったという路傍の戦車のように、彼女もただ、そこに在り続けた。ずっとそうだったように今でも変わらずあの場所にいて、ずっとそうだったように今でも変わらず傍らに僕の親友がいる。そして、これから先も、永遠に。
 彼女のことがわからないのは、きっと、僕が変わってしまったせいなのだ。そう、変わったのは、僕。僕、だけ。慕情に取り憑かれ、魘(うな)され、慣れ親しんだ故郷から逃げ出した先には、寒々とした孤独な己が有るだけだった。彼女にはもう、僕の凍えた手は届かない。彼女はもう、悴(かじか)んだ僕の手に入ることはない。目の前に突き付けられたカラー写真が無邪気な残酷さを纏(まと)って宣告する、冷厳な事実。花嫁に似た追憶の中の少女がゆっくりと右肘を伸ばし、そこだけ余熱を帯びた僕の額に銃口を向ける。優しく細めた目を上げて、普段着の笑顔を湛(たた)えたまま。決してピリオドを撃つ事の出来ない、引き金の無い拳銃――

 すっかり冷めて不味くなった紅茶を僕は、我慢して飲み込んだ。ローマ字で高校名の入ったカップの底から、こびりついたように固まった黒砂糖の小塊が覗いている。綺麗に溶けきらせるには、量が多過ぎたのか、それとも、湯が冷え過ぎたのか。どちらでも、僕はよかった。

       

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